この音を届けたい。
凪紗がそう願ったのは、至極自然のことだった。考えることになんの疑問もない、というように。
だけど、つい小半年前までの灰色の中学校の記憶を振り返ると、自分でも心境の変化に驚いて──もはやそれを通り越して、苦笑すら浮かべてしまうかもしれなかった。
ステージから俯瞰する客席には、大勢の人々が詰めかけていた。
見れば、先程のメイドコスプレに身を包んだ明日香が(恥ずかしそうに)こちらを覗いていて、一方では沙綾の家族──純と沙南を連れた千紘が、ビデオカメラを構えながら片手を振っている。
有咲が勝手に慌てているところを見ると、
期待に満ち溢れた笑顔が、自分たちを出迎えている。そして、自分たちが奏でる音を待ち望んでいる。
──そう、彼も、きっと。
「ちょっと、音出します」
たえが言いながら、みんなが続いてチューニングや楽器の調整を済ませていく。
ひとりそれらを早く済ませた凪紗は、彼が来るはずのギャラリーを眺めみるも、そこには気配のない空所が広がるだけだった。
不安そうに見つめるメンバーの視線に虚勢で『大丈夫だから』と応えて、集中力を研ぎ澄ませる。
《Poppin’ Party》が演奏する一曲目は、クライブで披露した曲だった。それを告げるべく、前に進み出てマイクを掴んだ。
「自己紹介は、一曲目のあとで。聞いてください」
絶対に、兄さんは来る。
祈るように、言い聞かせるようにピックを振りおろした。
♬
「北沢、お前……!」
律夏は、差し伸べられた掌が恵のものであったことに、驚きを隠せないでいた。
「大騒ぎになってて、僕たちの方にも連絡が来たんだよ。上原先輩も一緒」
ほら、と彼が指差す方向を紗夜と一緒になって向くと、息を切らして走ってくるひかりの姿が見えた。
「はあっ、はあ……! 置いてかないで、速すぎだよ……!」
「……」
息も絶え絶えの状態でひかりは言うが、ぜえはあ、となんだかコミカルさが先に浮かんできてしまう。
一気に緊張感のなくなった現場に、紗夜は嘆息した──それは、同時に腕の中に抱える女の子の規則正しい息遣いが聞こえてきたことも幸いしたのかもしれない。
すでに彼女の回復は近いということが分かり、周囲へも危機は去ったことが伝えられていく。
「若葉」
移り変わっていく状況に対応しきれないでいると、恵が声を掛けた。
「ほら、もう行かなきゃ。凪紗ちゃん、待ってるから」
「あ、ああ……」
紗夜が手配していたのだろうか、同じ風紀委員の生徒によって担架が運ばれてくる。受け入れの準備を指示していたようだ。
女子生徒をそれに乗せたところで、三人が自分を捉える視線に気付く。
「──改めて、ありがとうございました。一大事にならなかったのも、若葉さんのおかげです」
「そうそう。若葉くん、すっごくかっこよかったよ!」
「いえ……」
誰かがやらなければならないことだ。それが、偶然自分だったというだけで。
今はそれよりも、急がなくてはならないことがある。
「風紀委員ですが、今は貴方の行動を止めません。ただし、安全には気をつけてください」
「はい」
「そうだね。妹ちゃんのことになると前が見えなくなっちゃうから」
苦笑するひかりの言葉に「それはお互い様でしょう」と返す。
「……さあ、急いで!」
恵に頷いて、土埃のついた制服を手で払ってから駆け出していく。
凪紗の番号に発信した携帯を耳に当てて、体育館までの長い道のりを、律夏は風のように走り抜けていった。
♬
「──ありがとうございました!」
『私の心はチョココロネ』を
クライブとは比にならない、圧倒的な臨場感に、普段は感じない腕や足の震えを押し殺しながらの演奏だったが、そんなプレッシャーも、今だけは凪紗を揺るがせない。
「文化祭、盛り上がってますかー!」
隣の香澄はオーディエンスにそう呼びかけて、さらなる熱狂を生み出していく。
視線がぶつかると、彼女は熱に浮かされたような、どこか夢見心地の表情で──それでも、笑顔を向けてきた。その瞳は、出会ったときよりもっと輝いていて──煌めいていた、と言い換えてもいいくらいのものだった。
「自己紹介、させてください! ギターボーカルは私たち、戸山香澄と──」
「若葉凪紗です」
言葉に合わせて、たえが用意したフレーズを弾いてくれる。やっぱり腕前は自分たちよりも頭一つ抜けていて、観客がどよめいた。
「次はベースとリードギター!」
「え、えっと、牛込りみです!」
「花園たえです」
今度は沙綾がドラムを叩いて盛り上げる。経験者だからか、ここ二週間くらいでの音合わせにもばっちりついてきた。
「最後はキーボードとドラムっ」
「市ヶ谷有咲……です」
「山吹沙綾です!」
凪紗も負けじと練習したフレーズをかき鳴らす。まだ上手くはないかも知れないが、ステージは十分に温まった。
後は、
香澄もそれを知っていて、マイクを持つ手を離し、立っていた場所を凪紗へ空けた。
きっとみんなが緊張しているのだろう。気がかりというか、こちらに配る気遣いが手に取るように分かる。
それをあえて無視して、この言葉で応えよう。
「──私たちは、この春からライブ活動を始めました。最初はこの二人だけで……いろんなことがあって、ようやく始まったんです」
演奏中は六人に分散していた視線がその言葉に引きつけられて、凪紗一人に突き刺さったのが分かる。
緊張するのは当たり前だ。だけど、まっすぐ話すことはできる。ここに来るのを待っている人がいるから。
思い返すのは、入学式の日の桜と、土砂降りの中で抱えたギター、蔵で奏でた音楽、冷たい夕焼け、そして星空。
どの光景も、凪紗にとってかけがえのないものであり、初めて自分から見てみたいと望んだものだった。
そう思えるようになったのは、香澄と見つけた夢のおかげ──それを叶えてくれた人たちと、ここに集まってくれたすべての人に届けたい気持ちがあった。
「この六人で、私たちの音楽が始まっていきます。そのことへの決意と、支えてくれた人へたくさんの感謝を込めて歌いたいって思います」
振り返ると、メンバーの準備は終わっていた。舞台右上側、目を配る──そこに彼の姿はない。
ステージへ集まる期待は最高潮を迎えていて、これ以上引き伸ばすことはできない。凪紗も、もはや伝える言葉が残っていなかった。
失意に震える指先。しかし、ふとそれを包みこむ感触があった。
「私たちには、どうしても届けたい人がいます」
それは、温かく、力強く握られた手のひらだった。
「私たちを導いてくれた人」
「私たちを繋いでくれた人」
香澄が紡いだ言葉に、沙綾までもが続いた。見開いた目に微笑みかけるような、何かを想うような表情で。
彼女たちもまた、彼を待ち続けていた。
瞳で伝え合い、視線を交わし合い、頷き合って前を向く。言葉は一つだった。
「心をこめて、歌います──」
「「聞いてくださいっ!」」
そう叫んだとき、強く扉が開かれたような、もの凄い音とともに衝撃がホール全体にこだました。
聴衆みんなが騒然とお互いを見合うなかで、凪紗たちは音のありかに目を向ける。
「あ……!」
人一倍目がいいたえが指をさす──目を凝らしてその先を見つめると、待ち望んだ人がそこにはいた。
あの音は扉を開けた途端、盛大に転んだせいなのだろうか、這いつくばりながらもこちらに手を振っている。
どれだけ急いできたのだろうかと、苦笑が漏れてしまう。それでも、嬉しさは隠しきれないのだろう。
「凪紗」
「うん」
隣の香澄が、「一緒に歌おう?」とスタンドマイクを握る。
凪紗は反対側から手を重ねて、戸惑う聴衆を言葉で引きつけるべく、下腹部に力を集中させて声を響かせた。
「みんなで作った歌です。星の鼓動──スタービート」
♬
全力疾走の律夏に、困惑の色を向ける周囲の目線が刺さる。
それもそうだろう。右腕には『実行委/警備』の黄色い腕章が留められていて、そんな男が屋外とはいえ校内を走り回っていたら奇怪にも思うはずだ。
しかしながら、もはや律夏には弁明する余裕などありはしない。
「約束……したからな」
思わず呟きが漏れる。
そう、約束があった。
「うお……っと!」
前ばかり向いて走っていると、ついつい足元が見えずに躓きそうになってしまう。
間一髪、木の根を飛び越えて、それに苦笑した律夏は、グラウンドから校舎を抜けた先の、凪紗が待つ場所を見据えるのだった。風に流されて聞こえてくるのは、いつか聞いた音楽──もう時間は残されていない。
誰もいない通路をひた走る。
仕事にあたって、紗夜が用意した避難経路のプリントが役に立つなんて思ってもいなかった。考えてみれば、急病者救護の方法や準備物についても、指示してすぐに動けるものではない。しっかりと予行練習と点検を行っていた成果が発揮されているのだから、彼女には未来が見えているのではないか。
ふと、冷徹にも苛烈にも思えるあの視線、そしてあの夕焼けの中で見せた涙滴の輝きを思い出す。
理想の崇高さと、現実の残酷さの間で藻掻き苦しんだ彼女は、しかし足掻いてみせた──それすらしなかった自分よりも、ずっと気高く、果敢に。
彼女は変わっている。この短い間柄でもそれは確かに言える。周囲に目を向け、理解するために思考を続けてきた。
先を見据えているふりをして、周囲に期待するばかりでずっと動けなくなっていた自分が情けなくて、懐かしい。
二つ飛ばしで階段を昇っていく。
今を生きるのに必死で、その先が見えなくなることは確かに不安である。それでも、たとえ刹那的だと揶揄されても、懸命に日々を生きる彼女たちは輝いていた。
自分には到底たどり着くことのできない光輝だと思った。
専用通路に入って、息が切れていることを自覚する。随分と身体が鈍ったものだ。けれども、ここで諦めるわけにはいかない。
敗北と停滞の沼の中で、忘れていた記憶──そう、確かにそれを手にしたことがあったはずだ。彼女たちが立つ場所にいたはずだ。
体育館ホールはその空間のほとんどを暗闇が覆っていたが、そんな確信とともに迷いなく進んでいく。
「……導いてくれた人」
ふと、女の子の声が微かに聞こえてくる。
それは天真爛漫で、どこまでも輝いていた少女──凪紗を、まだ知らない世界へ連れて行ってくれた少女。
「私たちを繋いでくれた人」
その声は、誰よりも優しく、誰よりも他人の痛みを嫌った少女──凪紗に、手を差し伸べる覚悟と強さをくれた少女。
「心をこめて、歌います──」
勘違いも甚だしいかもしれないけれど。
もし、二人が言う人が自分なのだとしたら──自分が誰かを救えていたのだとしたら、まだ、立ち上がれる。
「──あった!」
事前準備で何度も確認した扉。その先に彼女たちがいると思うと、前のめりが止められない。
もう、形振り構っていられないというように、律夏はそこへ飛び込んだ。
「「聞いてくださいっ!」」
「──うおおっ!?」
そういえば、扉の先が一段低くなっていたな──転がりながら、律夏は紗夜の注意事項を思い出していた。
柵にぶつかった衝撃を振り払って目を凝らすと、その先には小さな舞台と楽器の群れ、それと彼女たちの姿。
「──っ!」
その中の一人、凪紗は驚愕の表情で──それも苦笑に変わったが──自分のどこまでも滑稽な姿を見据えるのだった。
☆
脈動が心を突くその感覚を、律夏は感慨深く、胸中で噛み締めていた。走り続けてきたせいか、刻みこまれた律動は一拍、また一拍とその速度を増していくが、不思議と不快感はない。
ふと、頬に伝う温かさに気付く。はじめはそれに驚いたものの、ステージ上の彼女たちを見ているうちに得心した。
マイクを掴んだその手が重ねられている。並び立って、微笑みを交わし合うことができる。
それを眺めているだけで、これまでの努力が報われる気がした。
「──ありがとうございました!」
演奏を終えた彼女たちに割れんばかりの拍手と声援が包み込んで、ライブは最高の終幕を迎える。
あっという間のステージだったが、それだけ濃密な時間が流れていたと言えるだろう。しばらく放心したように、肩で息をしながら客席を見つめていた彼女たちだったが、いち早くそれから脱した有咲に呼びかけられて、香澄が慌ててマイクを取った。
「改めて、自己紹介……私たち」
「「Poppin’ Partyです!」」
バンドとして名乗りを上げた彼女たちに、再び大きな拍手が返される。
「さっきも言ったんですけど……この春から始まって、ようやくこうして演奏することができました。まだまだ未熟だけど、たくさん練習して、もっとたくさんのキラキラドキドキを届けられるようになりたいです!」
「今日は本当にありがとう──ございました!」
一瞬の静寂の中、時が止まったような感覚があった。それはつまり、壇上の香澄の言葉にそれだけたくさんの会場の人々が惹きつけられていたということだろう。
自分もそのうちの一人であったことを自覚した律夏は、ある種のカリスマのようなものがあるのだろうか、と思った。
バンドとしての実力はまだまだ、なんて評論家めいたことを言う気もないが、練習が必要なことは彼女たちが一番よく知っているだろう。
それでも、律夏は期待せずにはいられなかった──奥深い輝きを湛えた瞳と、思わず引き込まれるようなステージを見て。
──この子たちなら、本当に叶えてしまうかもしれない。
守り抜かなければならない家族と約束。
一人ではできないことが、彼女たちにならできるかもしれない。ならば、それを支えるのが役目だろう。
彼女たちが放った銀河のような煌めきは、一筋の希望を与えてくれる。それに助けられて、律夏は決意を改めることができた。
盛り上がったステージ雰囲気が伝播して、それにあてられた心が熱くなっていた。
♬
「──って感じで。ライブも成功したよ」
「それはよかったわね」
一連のことすべてが終わった夜、凪紗は母に電話を掛けようと思い立った。
病床の彼女はもちろん文化祭を見に来ることなどできないから、事後報告になってしまうものの、それでも伝えたいと思ったからだ。
「最近はバンドのお友達と仲良くやってるみたいだけど……もう中学校の頃のような思いはしていない?」
「うん。みんな優しいし、一緒にいて楽しいよ。……それに、私も少し変われた気がするから」
人のことよりまず自分の体調を心配してほしいお節介焼きの性格は、しっかりと
しかし、その気遣いに対して自信を持って返事ができることを、凪紗は自分のことながら嬉しく思っていた。
「あら、そうなの? ……それくらい、いいお友達ができたってことね。後で、お友達の写真を送って欲しいわ」
「うん、いいよ。あ、どうせならライブの映像も見て。兄さんに撮ってもらったから」
そう言うと、母は「それは楽しみね」と返事をした。心なしか声の調子が普段より高く聞こえて、喜んでくれていたらいいな、と素直に思った。
少し天然なところがある母は、凪紗にとって大切な存在だった。喧嘩もなく、これからも大好きで居続けるのだろう。
だからこそ、同じくらい大切だった父が死んだ時、悲しみに暮れるばかりで彼女に気を配ってこれなかったことを悔やむ。
あの時、ほんの少しでも良いから手伝っていれば。受験生だとはいえ、実力としては余裕があったはずだから。
そんな無念さが、確かに胸中にあった。
「母さん」
「うん?」
「体調、どう?」
「……」
僅かな沈黙が続いた。それが何を意味しているのか、凪紗にはわからなかった。
物語文を読み、文章全体を俯瞰して捉える現代文の授業とは違う。他人事なんて言えない、まるで主人公の気分。
それでも、携帯電話越しの彼女は言葉を選んでいるように感じられた。
「すぐに退院することは、なかなか厳しそうね。……それでも、お母さん、頑張るわ」
「……うん、待ってる」
その苦しみから立ち直ることが、どれだけ難しいか──そのことも、わからなかった。
自分自身、立ち直れたわけではない。それでも、香澄たちがいてくれるから。
それなら、彼女はどうだろうか。自分は、兄は支えになれているだろうか。
兄は、その現実にたった一人でどう立ち向かっているのか。
ふと、疑問が湧いた。それと時を同じくして、母が彼のことを口にした。
「そういえば、律夏は大丈夫かしら。あの子、また色々抱え込んで……お金のこと、心配ないって言っているのに」
「うん……」
沙綾のことは、まだ母に伝えていなかった。もちろん、彼女を引き入れるために律夏がしたことも。
母の心配は、凪紗にとっての心配でもあった。これ以上負担を掛けることがあってはならないし、そのせいで彼のたくさんのことを制約してきた自責があったからだ。
「私たちのバンドメンバーがさ、家のお店の手伝いをするために音楽を諦めた子だったんだけど……私の話を聞いて、兄さん、その子の代わりにお店を手伝ってくれたんだ」
「そうなの?」
「うん。だから、私、兄さんに迷惑かけてまで……もちろん、ずっと甘えっぱなしになるなんて思っていないけど、それでも、兄さんの時間を奪った責任は取らないとって思ってる」
痛みを堪らえようとするように、凪紗は途切れ途切れになりながら言った。瞑目して、ただ母の言葉を受け入れようとしていた。
もし認めてもらえなかったら、そのときは潔く諦めるつもりだった。
「……あの子が、そう決めたのよね」
「うん……でも、最後にお願いしたのは私」
「……」
再びの沈黙が訪れる。それは長い時間のように思えて、しかしいつの間にか笑っていた彼女の声で気が付いた。
「ふふっ……やっぱり兄妹ね。よく似てるわ」
「え?」
「『責任取る』なんて、そっくりよ。
「……え?」
見開いた目を数回瞬きさせて、凪紗は続く言葉を待っていた。
☆
どうやら、色々な意味で先を越されていたらしい。
心配した彼女に対し、律夏は「兄としての責任を果たさないと」と言って憚らなかった。
それどころか、凪紗がどこか後ろめたい気持ちを抱くことを予想して、凪紗と家庭を支えつつも、志望していた大学とその後の進路へ問題なく進めるようにしたと聞いて、開いた口が塞がらないとはこのことだと思った。
「兄妹でお互いを想って、仲がいいのも嬉しいけれど、ちょっと行きすぎかしらね?」
「い、いやそんなことはないと思うけど……はぁ」
つくづくため息が出るほど考えこまれた彼の未来予想図は、今のところ揺らぐ気配はないという。
「うふふ。家族のために色々と動いてくれるところ、お父さんそっくりよ」
「うん。私もそう思う」
思い出す、いつだって活力に満ち溢れていた父の笑顔。たくさんの場所に連れて行ってくれた思い出と、背中や腕の中で感じた温かさ。
あの時まで、四人は家族だった。時間と空間、感情などいろんなものを共有していた。
兄は、それらを取り戻そうと努力している。あの時まであったものを再び手にして、みんなで笑えるように。
「……凪紗」
「?」
「あなたが感じている気持ち……私にもよく分かる。母として、あなた達のそばにいてあげられなくて、本当にごめんなさいね」
「それは仕方ないことだよ。それに、私だってあの時、少しもお母さんの助けになれなくてごめん」
「ううん、いいのよ。……だからね、凪紗。あなたは、あなたが望むように高校生活を楽しんでほしい。それを今は律夏が支えてくれるし、私も早くこの病気を直して、律夏とあなたを支えられるように頑張るから」
「……うん、分かった」
母の言葉に、少しだけ兄のしようとしていることと、その意図が分かってきた気がした。
彼は多分、居なくなった父の代わりになろうとしている──いや、その役目を果たそうとしている。きっと、その責任と一緒に。
母が戻ったとして、もしかしたらその後も──欠けた部分を埋めるように、それが当然だというように振る舞うのかもしれない。
「……あ、そろそろ診察が始まるみたい。凪紗、頑張ってね」
「うん。お母さんも」
そう言って途切れた会話の向こう、玄関の物音に彼が帰ってきたことを悟る。
「ただいま」
リビングの扉を開けたその声に、僅かな疲れが滲み出ているのが分かる。
今日は色んなことがあったはずだ。風紀委員の仕事も、その後の体育館での様子からしても、ステージからでも分かるくらいに急いで走ってきたことが分かった。そして、僅かに漂った小麦──パンの匂いに、先程までベーカリーの手伝いをしていたことに気付く。
「おかえり」
「……どうした?」
自分でもよくわからないけれど、右手の指が律夏の制服の袖を摘んでいる。
戸惑う彼の表情を見て、凪紗も同じように戸惑っていた。それでも、やがてその意味を理解する。
「……何でもない。今日は、ありがとうって……言いたかっただけだよ」
「……そうか」
凪紗よりずっと大きい律夏の身体から伸びた腕が、そっと碧い髪の上へ置かれる。その温もりを受けて、凪紗は彼の背へ手を回し、ぎゅっと引き寄せた。
言い表せないような感情が綯い交ぜになっていた。感謝、決意、痛み──それらを含んでいるような、どれでもないような感情。
ただ一つ言えることは、彼が家族を守るように、自分も彼を守れたらと願う気持ちがあったということだけ。
彼は隣に立つ仲間との出会いと、彼女たちと一つの思いを共有することの喜びをくれた。それに対して、私は何を返せるだろうか。答えはまだ見つからない。
それでも、もし彼が迷いと困難に悩んだ時、それを乗り越える力と勇気を与えられたらいいなと思う。
融け合うように律動を一つにした鼓動は、まるで晩夏の凪のように静かだった。
この後に補足を兼ねたエピローグを書いてますので、ぜひご覧ください。
ちなみに凪紗のイメージですが、こんな感じになってます。使用サイトはこちら(https://waifulabs.com/)。
【挿絵表示】