「――では、戸山さん」
「はい!」
ふと、先程まで聞いていた声――元気のよい返事が思考を途切れさせる。これは香澄のものだろう。
「戸山香澄です!私がこの学校に来たのは楽しそうだったからです!中学は地元の学校だったんですけど、妹がここに通ってて、文化祭に来てみたら、みんな楽しそうでキラキラしてて、ここしかないって決めました!」
「――だから今、すっごくドキドキしてます!」
純粋にそう思っているということが伝わってくる。その瞳、仕草すべてに期待――彼女風に言えば、ワクワクが詰まっていて、見ているこちらまでつい頬が緩んでしまいそうになった。
女子の関係がすべて、暗くてどろどろしているとは言わないけれど、そういった人間関係の煩わしさがばかばかしくなるような眩しさがきれいで、凪紗はそれを羨ましく思った。
――みんなが、こうなってくれたらいいのに。
ところが、現実はそう上手くいかない。例えば、自分に憧れたのか、告白してくる男子を下手に断ってしまえば、その後のクラスの女子との関係は冷え切ったものになる。
凪紗はあまり思い出したくなかった。膨れ上がる嫉妬を目の当たりにしているから。劣等感が人間を醜く変えてしまうことを知っているから。
凪紗は少し、臆病になっていることを自覚した。
だから、香澄が羨ましくなったのかも知れない。
輝きをたたえた彼女の瞳を、凪紗は目を細めて見つめていた。
「私、小さいころ『星の鼓動』を聞いたことがあって……キラキラ、ドキドキって、そういうのを見つけたいです!」
瞬間、驚きが凪紗を襲う。吹き込む冷風に靡いた髪も、気にならなくなるくらいの衝撃。
この子も、なにかを探しにきている――私と、おんなじ。
「星の鼓動って?」
「えっと、星がキラキラってして…ドキドキってする感じ?」
「ふふっ、かわいい」
「戸山さんって面白いね」
彼女の感性は独特なものなのだろう。クラスメイトの多くはそれを幼さとして捉えていたようだ。
凪紗は笑いと拍手に包まれるその中で、照れたようにはにかんだ香澄から目線が外せなくなった。
実際、その気持ちを言語化するということに失敗しているのだから、語彙という意味では彼女の発言は高校生にとっては
それでも、もしかしたら――。
彼女にしか見えない何かが、体験できない感情があるのだとしたら――。
香澄の目には、世界がどう映っているのだろうか。 凪紗は、どうしてもそれを知りたくなった。
♬
「それにしても、まさか凪紗が学年主席だったなんて」
入学式の終わった帰路で、沙綾はそうやって回想していた。
香澄は、「新入生代表のあいさつ、かっこよかったなぁ」と夢見心地だ。
「いやぁ、照れるなあ」
「すっごい真顔だけど……」
まだ寒さの残滓が居座る廊下は、それでも人の往来が多いせいかそれを気にさせなかった。
ツッコミを入れた沙綾に、凪紗は冷静に答える。
「本当は内部生で去年の成績上位者がやる予定だったんだけど、休みだったんだって」
「へぇ……あっ、それって市ヶ谷さんかな」
「うーん、名前は聞かなかったけど」
あまり良い話でもないので入試の経緯は話さないことに決めた凪紗は、話題を少しだけ逸らす。
「……ま、勉強は得意だよ。二人は?」
「うーん、悪いってことはないと思うんだけど……中の上くらい?」
「私は苦手っ!特に数学っ」
「正直でよろしい」
謙遜する沙綾と対照的に、自らの弱点を前面に押し出してくる香澄。
凪紗はその星型ヘアーを撫でつつ、「そういえば、部活見学ってどうする?」とさらなる話題転換を試みた。
「明日からだったよね?みんなで一緒に行かない!?」
「おー、それいいね。沙綾はどう?」
「あー、ごめん。部活は……放課後はうちの手伝いがあるから」
凪紗は香澄の観察も踏まえて快諾したが、沙綾までついてくる訳ではないようだ。
クラス発表の後で話していた内容から推察すれば、手伝いというのはきっとベーカリーのことだろう。
眉尻を下げて申し訳なさそうにする沙綾。気遣いの鬼なので誘いを受けられないことに申し訳なく思っているのだろうが、それにしては少々落ち込みすぎではないだろうか。
「そっかあ……」
肩を落とす香澄。相変わらず反応が実直である。
凪紗はそんな雰囲気を、あえて意に介さないように、努めて明るく振舞う――沙綾へ、先程のお礼とばかりに。
「まあしょうがないよ。その代わり、体験入部で運動したらパン買いに行こっ」
「!それいいかもっ」
「うん。ぜひとも寄ってってよ。いっぱいパン用意しておくから」
「やったー!」
一転して上機嫌になった香澄。彼女の顔色を窺っている訳ではないが、やっぱりこうしている方が彼女は可愛いし、一緒にいて楽しい。
ついつい頬を緩めてぴこぴこ揺れる星耳を眺めていると、沙綾の視線に気付く。
『ありがとね』
言外に、そう伝えているようだった。
『いいってことよ』
凪紗は、そんなふうにウインクを返す。
少しだけ、沙綾に近づけた気がした。
♬
「……ってわけ。結構いい滑り出しじゃない?」
「おお、うまくいってるようでよかった。その調子でな。……で、これは?」
迷うことなく帰路に就いた凪紗は、帰宅と同時に学校であったことを
「結局、帰り際に通ったから香澄と寄ってきちゃったんだけど……やまぶきベーカリーのパン。明日、朝ごはんにでもしようかと思って」
「おっ、それは助かる」
普段は家での食事は律夏が作る。天才肌の凪紗はそれを真似て一通りのものを作ることはできるが、不慣れなのと、どうしても律夏にしか出せない味があるらしく、仕方なくキッチンを明け渡したのだった。
「ねえ。やっぱり、大丈夫?」
「家事のことなら任せろ、バイトも頻度はかなり減ってるし、今のままなら全く問題ないよ」
「そっか。……無理しないでよ」
「おう。ありがとな」
大きい掌で頭を緩く撫でられる。髪型が崩れるけど、気にならないくらいに安心できた。
昔からの癖というか、多分そんなものが、自分たちの間にはあるのだろうと思っている。そうでなければ恥ずかしさが勝ってしまうのに、律夏はタイミングを間違えなかったからだ。
「……よし、できた。昼飯にしよう」
「ん」
タイマーが時間を知らせ、それと同時に彼の手指が離れていく。
――本当はもう少し、なんて思っていたのは内緒だ。
凪紗が食器を並べて、律夏が素早く盛り付けていく。
クリームパスタのいい匂いが空腹を刺激するもので、少しの間視線が固定されてしまった。
律夏は、そんな自分の様子を見て苦笑し、「多めに入れとくぞ」とトングを大きく広げたのだった。
二人の「いただきます」で食事が始まってしばらくした頃、律夏が凪紗に訊く。
「それで、当分は友達の体験入部についていくんだよな?」
「香澄ね。多分そうなるかな。すぐに授業始まるから、お昼は購買かお弁当になるかも」
「弁当なら問題ないけど、購買も気になるところだな。友達はどうするんだ?」
「あの二人と食べたいんだけど……あっ、そういや沙綾は自分の家のパンを持ってきてるって言ってた」
「そうなったらどこでも食べられるしな。とりあえず明日は弁当にしておくか」
「お願い。それにしても、パンばっかりになると栄養とか偏らないのかな」
「種類は多そうだけどな。その子の分、作っておくか?」
「いや、友達のお兄さんに弁当作ってもらうってどんな状況なのそれ」
思わず吹き出した凪紗がツッコミを入れながら笑う。至って真面目な律夏の様子を見て、しばしの間笑いが治まることはないと悟った。
「それにしても、中学のときはあんなに他人に無関心だったのにな。すごい成長じゃないか」
「成長っていうか、あれは向こう側に問題があっただけ。つまんないっていうか、人間性が浅いっていうか…」
「その子たちは浅くないのか」
「少なくとも興味が湧いた。だから知りたいって」
「……なんにしても、そう思えたのなら良いことだな」
「うむ。兄さんも頑張ってよ。ぼっち回避」
「いつもぼっちみたいに言わんでくれ。俺は先にこっちに居たし、必要最低限は用意できる」
「友達は備品か何かなの?」
相変わらず呆れさせられる物言いの律夏は、昨年の二学期頃から転入試験に合格し、すでに人間関係が確立しているようだった。
凪紗は、この兄にどんな友人がいるのか、加えてどんな会話を繰り広げているのか、せめて哲学者と呼ばれていないように祈るばかりなのであった。
温かいトマトスープを飲み干して、ほっと一息をつく。わずかに、白い空気塊が溶け出ていった。
♬
「うーん…」
「やっぱ決まんない?」
「なんか…キラキラドキドキしないっていうか…」
入学式から数日、凪紗は、放課後の部活体験を香澄とともに回っていた。どの活動にも目を輝かせながら取り組む香澄を、凪紗は好奇心と行動力の化身だと驚きをもって観察していた。
その凪紗は凪紗で、卓越した運動能力や芸術センスを発揮して、ほぼ全ての部活で熱烈な歓迎を受けており、しかしながら強く興味を惹かれるということはなかった。
「妹さん、水泳部だったんだね」
「あっちゃん?」
「そうそう。可愛かったなぁ」
「でしょー?あっちゃんはねー……」
まるで自分のことのように誇らしげに語る香澄に苦笑する。
今日の最後に行った水泳部の体験では、中高一貫校らしく合同練習が行われていた。
あっちゃん、というのはそこで出会った、中等部三年生の戸山明日香――香澄の妹のことだった。
「あれじゃどっちが姉なのかわかんないなぁ」
「どういう意味!?」
「だって、キラキラドキドキって言われたらそりゃあみんな小学生のセリフかよ、ってツッコミ入れちゃうもん」
「うっ……でも、他になんて言ったらいいか分かんなくて」
落ち込むふりをする香澄は、その発言が幼さの原因になっていることを指摘されて、言葉に詰まっているようだった。
――でも、多分……考えていることは、同じなんだろうな。
凪紗はなにかを見つけようとする思いに共感した。だから、彼女のワードセンスも理解できた。
だから、気になる。特段秀でた才能の見えない彼女が、どうしてその目的を手にしたのか。
思い当る節が、一つだけあった。
「……自己紹介のときにさ、『星の鼓動』の話をしてたけど……あれが、『キラキラ』と『ドキドキ』の原点なの?」
「そう!子どもの頃、『星見の丘』っていうところにキャンプに行ったんだけど――」
凪紗の問いかけに、香澄は躊躇いなく頷いて、語り始める。
明日香とテントを抜け出して、森の中を探検したこと。
それを抜けた先に広がった星空が、宝石のようにきらきらと輝いていて、星がどきどきしていたこと――
「星が、ドキドキ?自分の心臓じゃないの?」
「そうかもしれないけど、星もドキドキしてたのっ」
すっかりエキサイトしてしまっている香澄。その光景を見たことがない凪紗は、しかし彼女の思い出が思い込みであるとは到底思えない。
彼女には才能がないなんてのは、大きな間違いだった。
十年以上もの間、香澄はその純粋な憧れと希望を抱き続けてきたということに、やはり彼女には予想もつかないような、なにか特別な感性があると結論付けざるをえなかった。
「どきどき、ってどんな気持ち?緊張した『ドキドキ』?」
「ううん。なんだろう…あっ、そうだ。凪紗と、それから沙綾に初めて会った時の、あの感じ!」
「初めて会った時……」
気付けば行動をずっとともにしてきたが、出会ったのはわずかに一週間ほど前。
あのとき、香澄はどんな感情を抱いていたのか。
「なにかが起こりそうな……始まりそうな予感?」
「星のときも?」
「うん。知らない世界の端っこを知った、みたいな」
「ふうん……」
水泳部での練習の疲れなどもろともせず、凪紗の頭脳がフル回転する。入試を終えた後でも、それが錆びつくことなく、彼女の経験と感情を言語化し、因果を孕んだ理論へと落とし込もうとする。
鼓動って、なんだろう?
ときめきとは違う――星が瞬くあの感じ?
新しい世界との出会い?それならどうして体験入部ではそう思わなかったの?
「うーん……だめだ。やっぱり、私も体験してみないと分からないかな」
「そっかあ」
「でも、それが感じられることを、香澄は高校でやってみたいんだよね?」
「うん!」
「気になるなぁ。香澄がキラキラドキドキすることって、何なんだろう」
解を見つけられない問いなどないと、かつての凪紗はそう信じた。だけど、それは今、簡単に打ち破られようとしている。
だから、凪紗は決意するのだ。
「……決めた」
「?なにを?」
「香澄がやりたいって思うこと、一緒に探そうよ。見つけられたら、私もやる」
「えっ、ほんと!?」
ぱっ、と光が灯るように、香澄が笑顔を作る。きらきら、というのはこういう状態なのかな、と凪紗は思った。
「うん。一緒に探しに行こう」
「やったぁ!」
弾かれたように飛び上がって大はしゃぎする香澄。確かに高校生にしては子どもっぽいかも知れない。
「よーし!それじゃあまた明日から頑張るぞーっ!」
「おーっ」
夕日に向かって吼える香澄。それに凪紗も続く。
振り上げた拳が二つ、その輝きに照らされるのだった。