彼女たちは、まるで綺羅星のような煌めきを纏っていた。
それぞれが放つ輝きが集まって放たれた光芒が、再び散り散りになって、ステージと観客席を余すところなく照らし続けていた。
世界の外側で、土埃まみれになった俺でさえも、その光は呑み込んだ──まるで、握った手を離さないというように。
俺はその景色と感動を、ずっと覚えていられる自信があった。
♬
「……ば、わかば」
「若葉」
「んが……」
深層に埋まり込んでいた意識が、揺さぶられた身体の異変を感じ取ってゆっくりと浮上する。
不完全な覚醒がぼやかした濃霧のような視界でも、柑子色の鮮やかさがくっきり映った。
「珍しいね。いつもは真面目にやってるのに」
「まあ、あれだけ仕事すればな……」
四限は自習だった。数学教師はそれを告げて早々に職員室へ舞い戻ったため、質問もすることができず、手持ち無沙汰となった俺を眠気が襲ったのだ。
花咲川高校の文化祭が明けて翌週、そんなことには些かも目をくれず我が校は試験期間に突入していた。
相変わらず理数系に余裕のない俺だったが、今日は体力に余裕がなかった。
「お前だって
「まあ、仕事だからしょうがないよ」
大きく伸びをしてから、ベーカリーで亘史さんが持たせてくれたパンを片手に「よっこらせ」と立ち上がる。老人のような挙動だと自覚しているが、北沢は苦笑いしていた。
疲れが取れないのは仕方のないことだ。風紀委員の風上にもおけない廊下の全力疾走もさることながら、事故寸前の現場に遭遇したのだから。
ふと、その瞬間の光景を思い出した。
「……あの子、大丈夫だったか」
屋上へ続く階段に足を踏み出しながらそう訊くと、北沢は何やらにやけ顔で振り返る。顔が整っているので許される表情だ。
「何だよ」
「いや、何でも……保健室の先生に引き継いで、目を覚ました後に報告したよ。怪我もなくて体調もしっかりしていたから、その場で氷川さんが少し注意してクラスに戻らせたんだ」
「そうか、なら良かった」
当時の氷川さんの様子からして、少しの注意では済まされないだろうという予感があった。普通に睨んでくるのが恐すぎるんだよなあの人。
関わり方次第で、周囲の人々すべてにあの冷気が及んでいるとなると、つい交友関係を心配してしまう──いや、流石にこのお節介は気持ち悪いか。
唯一救いがあるとすれば、きっとあの子は善意から動いただけなのだろうということだ。氷川さんも、その辺りは考慮してくれるはず。
「でもさ、本当によかったの? あの子に名前教えなくて」
侵入防止の鎖がついた扉に手を掛けて、北沢が言う。おそらく、そこに先程のにやけ顔の理由があるのだろう。
「まあ、むやみに恩を売るような真似をするのもな」
「そんな卑屈にならなくても……」
あの場から抜け出すとき、氷川さんが助けたことにしてほしいと願い出たのだが、「嘘をつくわけにもいきません」と一蹴されてしまった。公明正大というか、バカ正直を絵に描いたような人だなと思った──もちろんいい意味で。
実際、嘘をつくのは後々で面倒なことになる。ただ、そういう文脈で考えても放った言葉の通りで、気を遣わせるのも本意ではなかった。
「あの子、可愛い子だったじゃん。僕ならもったいないなぁって思っちゃうかも」
「まあ、それはそうかも知れないけど……」
大人しそうな見た目に反して、恵はこういうところがある。普段から端正な顔立ちと流れるような髪のおかげで女子どころか男子からも人気が高いやつだったが、そういう仲まで至ったことはないそうだ。
かく言う俺はコイツと比べるまでもないと思っているので、その点では諦めというか、欲が薄くなってしまう。というよりは──
「仕事に私情を挟むべきじゃない」
「ほんと、そういうところは氷川さんとお似合いだよ……」
北沢の向ける呆れ顔の向こう側に、綿雲混じりの群青が見える。
不穏な言葉を聞き流して踏み出した足の先、俺は颯々と吹いた夏風に身を委ねたのだった。
☆
屋上は一般生徒の立ち入り禁止区域である。そこで過ごすことが想定されていない以上、ベンチなどあるはずもないのだが、天文部の活動が行われることがあるので、彼らが持ち込んだ椅子を拝借している。
そこに腰掛けて一息ついていると、紙パックにストローを刺しながら恵が問いかけてきた。
「そういえばさ、バイトの方はどうなの?」
「割とうまくいってる。朝は早いけど、そこまでキツくないし」
「へえ、何時くらい?」
「四……いや、五時くらいか」
「いやいやいや」
俺の言葉に被せるようにして、神妙な表情の前で手を折り曲げる。
「朝のシフトは毎日ってわけじゃないぞ」
「それでもだよ。何それ、四時とかもはや夜でしょ」
季節によっては四時台で日の出を迎えるので、北沢の言葉がそのまま正しいとは限らない──なんて意味で言ってるわけではないだろうな。
高一のころに染み付いた部畜根性は、俺の性格形成に少なからず(悪)影響を及ぼしていて、しかしそれがこうして役に立っているのでなんとも言えない。
「元はといえば俺が強引にお願いしてることだからな、これくらいは」
「いや……うん、まあ、若葉が良いなら良いのかな」
おっと、北沢が引いている……ドン引きしている。
自分の経験をただ口伝えするだけでは共感は得られない。ここは彼にもバイトに参加してもらうべきだろうか。
そんな見当違いなことを考えていると、ふと恵が真面目な顔つきになっていたことに、不思議に思った。
「……どうしたんだ」
「いや、ね。それもこれも、凪紗ちゃんのためなんだなって思って」
突然なんだと思っていると、立ち上がって見せる優しげな表情は、彼が妹を思うときのそれだということに気が付いた。
俺の行動が凪紗のためだと口にして、それを自分に置き換えて考えているのだろうか。
「今のところ、それしか俺にはできないから。お前も聞いたと思うけど、うちにも事情があってな」
「うん。春頃、進級してすぐに左門先生から聞いたよ」
「そのときから工作は始まってたんだな……」
用意周到すぎて頭を抱える。なに、俺はその頃から目をつけられたってことか?
「あはは。……でも、ごめん。聞いておきながら、そのことについて律夏と話せなくって」
目を伏せ、視界から俺の表情を取り除いた北沢。どこかに後ろめたさが見て取れた。
「生徒会に入って仕事をする以上、結局は俺が話すことになったと思う。こんな話聞かされても、誰だって困るよな」
俺は、特段この件に対して不満があることはなかった。恵が一人で思い悩んでいるのなら、それは俺の行動による責任だ。
決めてきた道で、俺は何をしてきたのだろうか。
鬱屈とした心の靄が、言葉を鈍らせるようだった。
「そうだね。でも……」
どう言えばいいものか、その淀みは北沢が浮かべた決意の表情によって霧消した。
「僕も、若葉の隣に立ちたいんだよ」
「は……?」
隣に立つ、とはどういう意味だろうか。
それがわからない俺は、魚のように口を開いたまま、ただ恵の言葉を待つしかなかった。
「僕は、なりたいんだ──周りの人を救えるような人に」
「……それが、俺ってことか?」
至って真剣な面持ちで、奴は首肯する。
分からない。
北沢にとって、俺がその言葉の通りの人間なのかどうか。俺に、果たしてそれだけの価値があるかどうか。
さっきとは違う意味で、言葉が見つからない。
「きっとキミは謙遜しちゃうだろうけど──少なくとも、僕にはそう映ってるよ」
「そうは思えない。だいいち、俺が誰を救ったんだ?」
「そうだね……凪紗ちゃんはもちろんだけど、氷川さん、山吹さんちのみんな、そして文化祭のあの子」
「救ったって──凪紗はともかく、そんな大げさな」
「そして、キミのお母さんだよ」
「っ……」
至って強く、恵は言外にそう伝えていた。
俺にはそう言い切る自信がどこにあるのか、とても見当がつくものではなかった。
「若葉って、家族が大好きでしょ」
「……」
「ふふっ、沈黙は肯定と捉えるよ。……それで、お父さんのことがあってから、キミは凪紗ちゃんとお母さんのことを絶対に守ろうとしたんだと思う。それを実現するうえで、たくさんの人に出会って──自分のような思いをしないようにって、手を差し伸べてきた」
恵はなおも続ける。
「転校してきた理由を知って驚いたけど……黙々と何かに取り組む姿とか、誰に対しても言葉を選んでいるところを見て、納得だなって思ったんだ」
「いや……」
俺は、そんな尊大な人間じゃない。
そう言いたかった。
決意は確かにあったけれど、絶対に成し遂げられるなんて自信もなかった。今だって、そんなものはない。憂いに震える矮小な自分を覆い隠そうと必死なのだ。
「そりゃあ、歴史に名を残すような偉人みたいに、ってわけじゃないけど──僕は尊敬しているよ。『意外とこういうのって、身近な人になりやすい』んだから」
「っ、それって──」
その言葉は、いつかの再現だった。驚きに心を染める俺を弄ぶような悪戯めいた微笑みに、つい気を取られてしまう。
「黙っててごめんね?」
「別に気にしないけど……まさか、もうその頃から」
「事情を聞いたのは春のことだったけど、僕たちが出会ったのって去年からでしょ? その時から、僕はキミを知ってる。誰かのために頑張り続けてきたことを、知ってる」
北沢は、何かを大事そうに抱えるように目を瞑っていた。
胸中にあるそれが、俺に関わるモノ──記憶の断片や思い出のようなものであるのだろうか。彼がそう思ってくれるほどのことを、俺はできていただろうか、つい疑ってしまう。
「俺は、そんな」
「僕には真似できないなぁ。だって、誰かを助けるときのキミは、すごく必死で──痛みをこらえるような
心の深奥まで突き刺さるような真摯な視線を受けて、二の句を継げなくなった。
さっきから驚かされっぱなしだ。出会って半年の間、北沢は俺の言動から多くを感じ取っていたらしい。
それならば、俺が今までひた隠しにしてきたこの努力も、すべては見透かされてきたということになる。
「ねえ、
その言葉を聞いた途端、俺は言い表しようのない情動を味わうことになった──ついこの間経験したような、錆びついたものが無理やり動き出したような痛みと温かさ。
あの日、凪紗が俺に告げたこと──俺があいつを救ったことを否応なしに認めさせたそれを、また繰り返していたのだ。
俺を理解してくれる存在は、凪紗だけで良いと思っていた。たとえ周りが俺を認めないとしても、彼女が認められていればよいと。
凪紗は許さなかったが、俺はそれでも良かった。それ以上を求めることは傲慢だと割り切っていた。
俺はもう、一人の兄としてはいられないから。
そんな俺の一大決心だったが、北沢にそんなことを言われてしまえば、早速揺らいでしまっていた──誰だって、こんなに真っ直ぐな感情をぶつけられてしまえばそうなるだろ?
「……っ」
「ちょ、な、泣いてる?」
「泣いてない」
「ふふ……まあ、いいけどさ。で、どう?」
「ああ……」
早咲きの向日葵のように眩しく、北沢は──恵は、そう言って掌を差し出した。俺はそれを掴んで、引力に従うようにゆっくりと立ち上がる。
「これからも、よろしくね」
「こちらこそ」
よく見れば耳朶に赤みが差している。よくもまああれだけ
とはいえ、その気持ちは俺も同じなようで、吹き抜ける空気がやたらと涼しく感じる。
これも青春、と呼ぶのだろうか。
♬
思い出しても赤面モノの屋上での一件を終えて、放課後を迎えた俺は、駅近くの店へ寄った。
競合他店よりもちょっと高級だが、その分味は保証されているし、なによりポテトが
「こんにちは」
注文を済ませてから二階席へ上がってすぐに、明るい翡翠色が目についた。
どこかソワソワしたような様子がなんだか微笑ましいが、それは俺を待っているからではなく(実際にはそうなのだが)、運ばれてくる品を待っているというのだから俺の存在意義を疑ってしまう。
ともかく、背中越しの俺の挨拶に対して、彼女は振り返った。少し慌てたように見える。
「こ、こんにちは、若葉さん」
「すみません、少し遅れましたか」
「いえ……空いた時間はスコアを見ているので、構いません」
そう言って、何ともないように鞄からクリアファイルを取り出す。いやいや、めちゃくちゃ待ち遠しそうにしてただろ。
しかしそれを口にすると身の安全が脅かされるので、心に押し留めておく。
「ライブでもあるんですか?」
「ええ。直近だと、今月末ですね」
すっかり済ました表情で、氷川さんはこの頃のバンド──確か、Roseliaと言ったか──その近況を口にした。
「結構忙しいんですね」
「それほど苦にはなりません。現状、個々の演奏レベルではそこそこのものに仕上がっていますが、それをバンドとして合わせる練習はまだまだですから」
地道な努力の積み重ねであるから、練習というと苦い顔をするのはどこの高校生も同じだが、その点氷川さんはストイックなのだろう。少し行き過ぎなくらいには。
それを危なっかしく感じていたときとはまた違った表情で、彼女は情熱溢れる言葉を語るのだった。
「……恵が──生徒会の北沢が言ってたんですが、少し変わりましたよね」
「私が、ですか?」
「ええ」
すまん、恵。お前を売ってしまった。
とはいえそのことは俺も同意できるところだ。彼女は、氷川さんは少しずつ変わり始めているような気がする。
それを言うと、考え込む仕草が鮮やかな翡翠を揺らした。
「……そう見えるのなら、やはりそうなのでしょうか」
「心境の変化、のような何かが?」
「そうですね──」
氷川さんが口を開いたその時ちょうど、「お待たせしました」と店員がやってきた。
「こちら、チーズバーガーとポテトのセットと、チキンバーガーとオニオンフライのセットになります!」
「ああ、どうも……」
折り悪く遮るような形になってしまったが、それは気にしていない氷川さん──っていうか、目が釘付けになってるんだよなぁ。
しばらく続きの言葉を失った彼女がはっと我に返ったのに苦笑して、俺は「先に食べてしまいましょうか」と言うしかなかった。
☆
「オニオンフライも、意外と美味しいですね」
「でしょう?」
サイドメニューが充実しているとどれも魅力的に映って迷うが、俺はこれが好きだ。氷川さんにも布教すると案の定ハマっていた。
真面目くさった表情でジャンクフード食べてるの、すごいギャップを感じる。
「こういう店、結構来るんですか?」
「い、いえ……時々、です」
十中八九、時々ではないだろうが「そうなんですね」と返しておく。まあ、妹さんの話など聞く限りストレスも溜まるだろう。
そういえば、その件はどうなっているのだろうか。
「話が戻りますけど、妹さんとのことも関わっているんですか?」
「……」
一気に能面みたいな表情へと変わる。分かりやすい……。
「……日菜とのことは、私が変わることで解決すると思っていたのですが」
「まだ、その変化が足りないということですか」
氷川さんは小さく頷いた。
日菜という妹さんとの確執は、どうやら長い根を抱える問題であるらしい。少しの意識の変化では解決できないほどに。
だからこそ、同じような立場にある俺を頼った──とまでは行かないが、どこまでも公正・清廉をゆく唯我独尊の彼女にとっても参考になるかもしれない、と映ったのだろう、
「それなら、やっぱり最近の変化も本当のことだったんですね」
「ええ。……分かるものなんでしょうか」
「まあ、少なくとも恵には」
「若葉さんには、どう映っているのですか?」
そう問われると、流石に彼を隠れ蓑にしておくのも限界を迎えてしまった。だから、自分の言葉で応えなければならない。彼女はどのように変わったかを。
ふと、それを考えようとして気付く。
「……変わること、って何でしょうか……?」
「は?」
怖い。
思うに、変化とは、必ず始点──従来の状態と、終点、つまり変化後の状態を観測してこそのものだ。だから現文の試験ではそれを書かないと減点されるし、それを怠った前回の中間試験では成績がイマイチだった。勉強しなければ……。
脳内の御託を片付けて、眼前の彼女について思い起こしてみる。初めて会ったのはいつだったか。──ああ、そうか、新生徒会が発足した頃だ。
「春、氷川さんに会ったときに感じたのは、すごい努力家なんだろうっていう印象でした。あんなに細かく生徒会のルールと仕事を教えるのって、ただ調べて暗記、みたいに簡単にできることではないですし」
「……それは、今はそうではないということですか」
まだ発言途中だったので、そういう意味に取られてしまったらしい。周りのものを凍てつかせるような睨みは未だ健在である。
「違います。そこは変わらないままで、変わったのはそういう努力のあり方、みたいなものだと思うんです」
「努力のあり方、ですか?」
俺の抽象的な物言いに首を傾げる氷川さん。そういうところは純粋というか、素が出るのだろうか。
「あくまでも、俺から見てそう感じただけですけど」
念の為、保険を掛けておこうとしたが、彼女はそんなことはもはやどうでもいいように頷く。冷たいコーヒーで唇を湿らせていた俺は吹き出しそうになった。
そう、あくまで人の感想なのである。ただの主観なのだから、間違っていれば糺せばいいし、放っておいてもいい。
大事なことは、他人が見た自分を意識の中に置くことだ。
「妹さんとのことがあって、氷川さんはずっとそれに悩んできて……追い抜かされないように努力を続けてきたんですよね。それは俺にも当てはまるところがあって、悩みながら努力することの辛さを、少しかも知れませんが理解できるつもりです」
氷川さんは何も言わなかった。俺だって、その複雑な心情を完璧に把握できる自信はない。多分、誰だってそうだ。
それでも、俺がかつて眺めていた景色と重なるところがあるはずだと思っている。
「その努力は、きっと孤独な努力です。誰にも言えなくて、誰にも褒めてもらえない努力──」
ガラスのような氷は、未だその冷気を内側に閉じ込めていた。梅雨時の温い空気を撥ねつけ拒絶するような、ひどく鋭利な輝きだった。
姉だから、兄だから、妹よりできていて当然——俺たちにとってなによりも残酷といえることが、言葉には出さなくても、期待となって苛み続ける。
誰も自分を見てくれない、理解してくれないという絶望の淵から見えるのは、ただ暗闇ばかり——俺はその気持ちを知っている。
「そういう気持ちのときって、周りが見えなくなってしまいます。周りの目を気にしなくていいこともあるけれど、手を差し伸べてくれる人や、支えてくれる人のことが見えなくなってしまう」
氷川さんの怜悧な瞳に、わずかな驚きが滲む。
「もちろん、苦しいのは自分です。——だけど、自分をよく知っている人ほど、苦しむもがく自分を見て心を痛めてしまう」
ずっと一人だと思っていた。でもきっとそうじゃない。そう言えるのは、温かくも鈍い痛みを知っているから。
「それを理解したのは、俺も最近になってからのことです。そのきっかけを、氷川さんは掴んでいる——俺が思う変化というのは、そのことだと考えています」
「……」
氷川さんは、やはり何も言わず、沈黙を貫いていた——そうかと思っていたら、ドリンクに口をつけると、止まっていたロボットが動き出したようにぽつりぽつりと語りだした。
「……まだ、私には分かりません。この息苦しさを本当にあの子と共有しているのか——そこまで周囲に意識を振り向ける余裕がない、と言えばいいのでしょうか」
俺は頷いて、「それでも」と応える。
「それに近づいているのは確かだと思います。生徒会のこと、バンドのことがあって、周りの人と話すことが増えたんじゃないですか」
「それだと、なんだか私が人嫌いのように聞こえるのですが……まあ、確かにそうかもしれません」
えっ、そうじゃないんですか。
こうやって話せていること自体が当時からしたら驚きだ。もしあの頃のままだったら、路傍の石かなにかのような粗雑な扱いを受けていたかもしれない。
バレたら氷漬けにされそうな考えを浮かべていると、氷川さんは呟く。
「……あの日、若葉さんと凪紗さんのことを聞いていなかったら、私は誤解したままでした。結果的に言えばそれがきっかけになったんだと思います——本当に、ありがとうございます」
「いえ……」
俺と出会っていなくても、それこそバンド活動で出逢った仲間が解決へ導いただろう。しかも俺は、直接的に何も彼女にできていない。かつて自分がいた状況とは違うのだと言い訳をして。
それでも、彼女は言ったのだ。
「私自身の変化に、貴方の言葉が活きていることは確かです。貴方は、それを否定するかもしれませんが——」
「文化祭の前、この店からの帰り道で貴方が聞いたことがありましたね。あの答えが、他ならない私の本心です」
まさか、一日で二回もこの温かさを感じることになるとは思わなかった。
また首を傾げる彼女に「なんでもない」と答えて、窓の外の夕日へと視線を逸らす。
何のために生きているのか——それが分からなくなった夜もあった。それでも、考えて、考え抜いてもがき続けてきたことが、確かに意味を成す瞬間が訪れる。
俺は誰かを救い、同時に救われてきたのだと、そのことを認めるのに、もう躊躇は要らなかった。
これにて第一章完結です。ほぼ一年(失踪期間含む)にわたって拙作を見ていただいて本当にありがとうございます。
一章の主役は沙綾であり、彼女と関わってきた兄妹の変化・成長がお話の根幹にあります。そして、凪紗と律夏の関係を間近にすることによって、紗夜が自分と日菜との関係を見つめ直すきっかけを得ました。
二章以降はさらに多くのキャラクターと触れ合うことによって、二人を中心とする人物の成長をもっと描いていきたいと思います。