一寸先も見通せない闇の中を、あの子は進んでいた。
胸の中に抱いていた輝きはいつしか掻き消えて、
『香澄……香澄!!』
私はその後を追いかけ、追い縋る。それでも、伸ばした手が背中に触れることはなく。
吸い込まれるような闇の中に、あの子は立ち消えていくのだった。
「……っ!!」
朝が来た。
薄暗い部屋で一人、ゆっくりと息を吐く。窓の向こうは相変わらずの土砂降りで、気分を落としてしまう。
「あんま、寝れなかったな……」
独り言を漏らして、壁の時計を見やる。六時半──いつもよりちょっぴり早い時間だけど、二度寝はできそうになかった。
──明日香ちゃんにオーディションの日の香澄の行動を教えてもらって、なんとなくだけど見当がついた。それでも、まだあの子の不調の理由に私が関わっているのではないか、という疑いは、心のどこかで巣くっていて。
「……支度しなくちゃ」
それを振り払って、私は部屋の明かりを点けた。
☆
「おはよ」
「おう、おはよう」
リビングでは、すでに起きていた兄さんが朝食の準備を進めていた。献立は……えっと、小さいおにぎりにスナップエンドウと一緒に炒めたポークソテー、トマトスープにベリーのヨーグルト、飲み物はハーブティ……めっちゃ気合入ってるな。
「顔洗ってきな」
「うん。……なんか今日、特別なことあったっけ?」
「バイトないから、たまには米と触れあいたくて。……ちょっとやりすぎた」
お昼ごはんのお弁当にも同じものを入れてるって言ってたけど、それにしたってすごい。
最近は氷川先輩たち生徒会の活動で、夜もパソコンで作業をしたりと忙しいようだ。今日はないらしいけど、バイトだってちゃんとある。
──それに比べて、私は……。
眠気で朦朧と──それは言い過ぎかもしれないけど、ぼんやりした頭で考え事をしようとすると、どうにも支度が進まない。
顔を洗ってもそれは変わらなくて、漠然とした憂鬱だけが残ったまま、テーブルに着いた。
「今日はいつもより早いな。急ぎなのか?」
「……んーん」
返事が上手にできない。香澄みたいになったわけじゃないけど、声に力が入らない。
そんな私の様子を眺めていた兄さんは、「まあ、とにかく食べろよ」と促した。
小さく頷いて、ゆるゆる、もそもそと朝ごはんに手を付ける。
「あー……なんでこんなに美味しいんだろ……」
スープはあったかくて、おにぎりの大きさがちょうどよくて、ソテーはたくさんの野菜と一緒に、落ち込んだ気分を彩ってくれる。
どれも、私のために作ってくれたんだと──たとえ偶然でも、そう思えてきちゃって。
「いつも美味しいだろ? ……って、お前」
感情の抑えが効かなくなってしまったのか、熱いものがこみあげて、流れおちる感触があった。
兄さんから見ればそうとう奇怪だろう。「ごめ、いや、あの」とかしどろもどろになってる様子もあわせると、相当。
それにもかかわらず、兄さんは何かを察したのか、
「……まあ、そう思ってくれてるならいいか」
それだけを言って、タオルを差し出したのだった。
♬
「そんなことが……」
香澄と私たちの話を聞いて、兄さんは傘ごしに深刻さを滲ませながら呟いた。
流石の兄さんも雨の日は電車通いだから、通学路の途中まで付き合ってもらって、どうしても話を聞いてほしかった。
けっこう変な乗り継ぎになっちゃうだろうけど、それも承知で──思い切って頼んだら二つ返事でOKしてくれたのは頼もしかったし、やっぱり嬉しかった。
「私、やっぱり香澄にとって──」
「中学時代の心配があるのは分かるけど、それは違うだろ。バンドにとって演奏能力の高いメンバーがいるのは悪いことじゃないし、なにより練習しなきゃならないのは凪紗とは関係ない課題のはずだ」
「……そうだよね」
「何より、香澄ちゃんは楽器経験者じゃないから、そのことは分かってると思うぞ」
兄さんは、過去に香澄以外のメンバーが楽器に触れたことがある、ということを知っていた。そして、それを言われて、はじめて安心できた。私、香澄にとって負担じゃなかったんだ……。
それなら、私がやらなきゃいけないことは──
「香澄が『見えなくなったもの』、ってなんなんだろ」
「?」
「あっ、ゆり先輩にも相談したんだけどね。香澄が歌えなくなった原因は、何かが見えなくなったから、なんじゃないかって。それで、上手くいかなくなって……って、そんな感じ」
「そういうことか。それなら、香澄ちゃんの
「変化?」
雨粒の跳ねる音の中、その言葉が印象深く聞こえてきた。
もう少し詳しく尋ねてみると、声が出なくなる前後で、香澄の様子がどのように変わっていたか──それを理解する必要があるという。
「そりゃあ、出なくなったあとの方は、すっかり大人しくなっちゃったからびっくりしたよ。明日香ちゃんは、スランプになったと思うって言ってたけど」
「声が出なくなった原因がスランプだとするなら、そのきっかけをつくった出来事があるはずだ。凪紗たちメンバーが思い至らないなら、一人でいるときになにかあったんじゃないか」
「香澄一人──あっ」
それは、私が目をつけていたことと同じ。彼女が一人、夜のSPACEに行っていたという証言を思い出す。
なんだか、探偵みたいな兄さんは質問を続けた。
「そこで何かに影響を受けたとするんだったら、何になる?」
「……香澄がああなっちゃうくらい、強くて、芯のある言葉を向けられる人──たぶん、オーナーだと思う」
「オーディションの審査をしていた人か。その時に言われたことよりも、ずっと本人に刺さることだったんじゃないか。心当りはあるか?」
「……」
オーディションの後の練習を思い出す。
有咲が心配していたように、『楽しさ』の裏側にあるものと、香澄は戦っていて。指を切っても、痛みに怯むことなく──どこか、思いつめた様子だったことを思い出した。
「香澄はバンド活動の全部が『楽しい』って思えていたのかな。もしかしたら、少し前から迷いはじめてて……」
「ゆり先輩の言う『見えなくなっていた』ってことだな」
「オーナーにも、同じことを指摘されたんだと思う」
その
その中で見えなくなったものってなんだろう。
「香澄ちゃんの立場になって考えればいい。得意な部分も苦手な部分も、みんなと違うのはどんなところだと思う?」
「うーん、香澄といえば明るくて元気で、めっちゃポジティブなところだけど、やっぱりメンバーのみんなを集めてくれて、引っ張ってくれるところがいいところかな。逆に、突っ走るときもあるっていうか──」
自分でそれを言いながら、一つ気付いたことがあってハッとした。
オーディションの結果を踏まえて、演奏のレベルを高めようとしたのが練習のはじまりだったはず。
香澄は楽器未経験だったのもあって、きっと焦りがあったと思う。しかも、《Poppin’ Party》を作って、みんなを集めたんだから、その分上手くやらなきゃってプレッシャーもあるだろう。
香澄は確かに、一度決めたらどんどん先を行ってしまうところがあるかもしれない──それでも、バンドのことだったら、自分のためじゃなくても、どんなことだって全力で取り組んでる。
だからこそ、練習の中で『自分が出遅れてる』って気付いたら、『とにかく全力で演らなきゃ』って思うし、自分の演奏ばっかり気になってしまう。バンドとして演奏を重ねてるはずなのに、一人で演奏をしている気分──見えている世界が、どんどん狭くなって、周りが見えなくなっていく。
感じられていた『楽しい』が、信じられなっていく。
「……香澄が見えなくなったものは、バンドのことだったのかも。グリグリとか、Roseliaのライブを見たり、CHiSPAがオーディションに合格したって聞いて、ずっと個人の演奏を気にしてたから」
もっとも、これは私たちも同じことだ。
オーディションで、私たちは本当に納得いく演奏ができたか。ミスがあったとか、その回数も、本質的には関係ない。譜面通りには弾けた私に対するオーナーの態度がそれを示していた。
兄さんも同じことを考えていたようで──
「オーナーが一番課題だと思ったのは、そうやって意識が個人のレベルに落ちてしまったことなんじゃないか。それが演奏とか、ステージの上での態度に表れた、とか」
「確かにそうかも」
あのとき、私たちは前を向いて演奏できていただろうか。不安のあまり、手元から目が離せなくなって演奏がブレるなんてよくある話だ。
Roseliaのライブで、演奏ミスのあったベースの人を思い返す。涙を流す彼女に対して、オーナーは『演りきった』ことを認めた。
安くはないお金を払ってライブに来るお客さんに、少しでも楽しんで欲しい。演奏を聞いてほしい。その気持ちがあるから、それぞれの演奏が一つになっていくし、失敗したら悔しさでいっぱいになる。
それがRoseliaや経歴が先輩のバンドと私たちの間にある一番大きな差だ。
「……じゃあ、私たちは」
「今は演奏から離れて、香澄ちゃんを支えてあげるしかない、と思う。その行動を起こせるのは」
「私だけ……なんだよね」
兄さんは頷いた。
それはゆり先輩とも同じ結論で──たぶん、ギターボーカルとして香澄の隣に立ってきたことと、香澄に導かれながらも、二人でポピパを作ってきたことが理由にあるんだと思う。
だから私は、それを使命に代える。私だけにしかできない。私がやらなければならないこと──
傘を上げ、高架の首都高に沿う道路に出たことに気付く。
右に行けば東池袋駅の入口、左へ歩けば都電の駅と分かれ道だった。
「っと、もう着いちゃった。……あの、相談のってくれて、ありがと」
「おう。また、何かあったら聞かせてくれ。……頑張って、『やりきって』こい」
「うん。『やりきって』くる」
今なら言葉の意味が分かる。……その重みも。
少し笑いあって、私たちは、お互いに背を向けて歩き出した。
♬
「香澄が、来てない?」
「ええ。今日はお休みさせてもらうと、お昼ごろに戸山さん本人から連絡をもらいましたよ」
担任の中井先生はそう言うと、「何かあったんですか?」と訝しむ。……いや、あったはあったけどバンドのことだから説明しにくい。
たぶん、それくらいの顔に出ちゃってるんだと思う。私の表情筋はゆるゆるだ。
「いえ。今日は病院に行ってから登校するって聞いていたので」
「まあ、若葉さんはバンド仲間ですし、心配ですよね」
「そうですね。……教えていただき、ありがとうございました」
一礼して職員室を出たとき、ちょうど扉に手をかけていたりみ、そして有咲にかち合った。
「お……っと」
「あっ、ごめんね凪紗ちゃん! もしかして香澄ちゃん──」
「うん。五限からも来ないって」
「マジか……」
表情を曇らせる二人。香澄がいないままでは、メンバーにも大きな影響が出るのだ。六人の誰が欠けたってそうなるだろうけど、いつも中心にいるあの子だからこそ、その不在が結束を揺らがせてしまうのだとつくづく思う。
「おたえと沙綾は?」
「今日、日直だから。二人とも心配してたし、早く伝えてあげないと……」
ほどなくして、グループチャットアプリの通知音が鳴り、香澄を気遣うメッセージが送られてくる。
可愛らしいウサギのキャラクターが壁から片目をのぞかせていた。
「それも心配だし、次のオーディションのことを考えると、早く香澄に会わないと」
「でもさ、学校に来れないんじゃどうしようもなくないか?」
ぶっきらぼうな言い方をする有咲ではあるが、これはこれで体調を心配している……めっちゃしてる。
普段よりそわそわと髪をいじる回数が増えて、なにより不機嫌に見える。いつもは香澄が近くにいるから、調子狂うんだろうな。
とはいえバンドより体調第一なのは変わりない。それを確認するためにはどうすればいいだろうか。
「香澄、まだメッセージは見てないかな?」
「うん。診察中なのかな」
「そしたら、明日香ちゃんに聞いてみるよ。昼休みだから出てくれるはず」
最近はよく電話しているので、通話履歴のトップに位置する明日香ちゃんのアイコンをタップする。
数回のコールのうち、彼女は出てくれたようだ。
『もしもし、凪紗さんですか?』
「昼休み中にごめんね。今大丈夫?」
『全然大丈夫ですよ! どうかしましたか?』
口調はとても明るい。声からもう可愛い──って、そうじゃなくて。
ちょっと不自然かもしれない。だいたい明日香ちゃんと話すのは香澄のことだから、明るい話題じゃないかもしれないし、香澄が休むのであれば話の内容もわかっているはずで。
わずかな戸惑いを胸に、少し訊いてみる。
「香澄のことなんだけど……今日は休むって聞いて、体調大丈夫かな?」
『え? お姉ちゃん、お昼過ぎには家を出てますよ?』
その言葉に、さっと青ざめる。
「……ど、どういうこと?」
『今日は午前中診察があって、特に問題はなかったって、家族から連絡があって……もしかして、お姉ちゃん学校に来てないんですか?』
顔を覗き込む二人に、気丈に言葉を返してあげられる余裕は、もはや私にはなかった。
☆
「はっ、はっ……!」
土砂降りの中、息を切らして走る。傘も差さない私の奇行に周囲の視線が刺さるけれど、厭っている場合じゃない。
あの後、香澄のお母さんへ確認を取ってくれた明日香ちゃんによれば、確かに香澄は家を出ていたようだった。
電車に乗っていれば学校周辺だろうか。あてもなく、私は授業の終わった学校を飛び出した。
駅へ向かう道をくまなく探すが見つからない。そりゃあ当たり前か──
「っ!」
電話が鳴った。たえと一緒にいる有咲からだ。
「見つかった!?」
『いや。でも、蔵には来てたみたいなんだよ。ばあちゃんが会ったって……でも、しばらくして出ていったみたいで』
「そっか……」
『私たちも、家の近くから香澄が通りそうなところを探してみるよ』
「うん。見つかったら、グループチャットに連絡してね」
通話を切ると、そのチャットではベーカリーの近くでも見つからなかったと、沙綾とりみからの連絡があった。
「どこにいるの、香澄……!」
焦る気持ちを抑えながら、マップアプリを開く。
学校から都電の最寄り駅までの範囲で、花咲川より北を有咲たち、南の商店街を沙綾たちが探している。この範囲は私たちが使う通学路より東側になっている。探すとしたら西側になるか。
明日香ちゃんからの連絡がないあたり、家には帰ってないと仮定して、そっちに懸けるしかない。
学校まで逆戻りして、東西線の地下入口がある道路をひた走る。雨脚はさらに強まっていた。
辛い気持ちを、弱い自分を、どうして人は隠してしまうのだろう。口を開かなければ分からないし、ただ思うだけじゃ伝わらないというのに──
そんな問いがあるのなら、香澄の気持ちに近づけた今なら分かる。伝えたくても、伝えられないんだ。
手探りのバンド活動で分からないことだらけなのは私だけじゃない。香澄が迷っていたときに、一緒に悩んで、想いを寄せているんだってことを、私は伝えるべきだった──だから、香澄の気持ちを見失ってしまったんだ。
──私……香澄のことを信じているつもりで、支えられてはいなかったんだ。
『──もしそれが分かったら、香澄ちゃんを支えてあげてね』
ゆり先輩の言葉が思い返される。そして今朝、兄さんも同じ結論に辿り着いた。
容赦なく身体に叩きつけられる雨粒は、髪を伝い落ちて、視界をぐしゃぐしゃに歪める。冷たいはずなのに、何故か温かくて──分からなくなって、それでもただがむしゃらに走っていた。
大通りを左に逸れる。袖で目元を拭って見えてきたのは、大きな公園だった。
引き寄せられるように入口をくぐり、森が作る暗闇を抜けたころ、東屋に用意されたベンチに一人、少女が座っていた。
木々の隙間からわずかな光が差し込んで、俯いた彼女の表情を照らすようだった。
「……香澄」
その名を呼ぶ。
彼女は逃げも隠れもせず、ただ、こちらに向けた瞳をわずかに揺らして、ひどく疲れ果てたような、ぎこちない笑みを浮かべるだけだった。