平日の午前、
先日、凪紗の友達の家が経営しているというやまぶきベーカリーのパンを食べたところ、律夏の
――なんだこれ。美味すぎるっ…!
デニッシュの層状に重ねられた生地は、しっかりとマーガリンが練り込まれているのが分かる。それでいてしつこくないというのだから、これは魔法かなにかだろうか。
柔らかい触感は、生地に使う乳製品にもこだわった結果だろう。触れていて、食べていて上品さが伝わってくるのだ。
家族経営だからといってもパンの製作には手を抜かないという覚悟があるのだろう。間違いなく名店である。
律夏は、美味しい料理に出会うとテンションが上がる。やまぶきベーカリーへの期待は、そんな経緯もあってか彼の中でうなぎのぼりになっていたのだ。
「えっと…地図だとこの辺りだな」
花咲川を横切るように進んで、商店街のアーケードをくぐっていく。この商店街を抜ければ凪紗の通う高校がある。
今日は
歩みを進めていくうちに、ベーカリーの看板が目に入る。イーゼルには焼きたてのパンの種類が書かれており、これは愛されるべき名店であると律夏は得心したのだった。
ふと、商店街の向こう側からエンジン音がする。赤い車体は郵政カブだ。
忙しいのだろうか、速度を上げながら、まだ人の少ない通りをこちら側に走っている。時を同じくして、ベーカリーの中から子どもたちの元気な騒ぎ声を、硝子越しに耳にした。
「はやく!はやく!」
「まってー!」
小さい男の子と女の子、一人ずつだった。少し歩調を早め、扉が開かれる前に、飛び出した彼らの行く手を塞ぐ。
「危ないよ」
横をすり抜けようとした男の子の手を引いて、自分の方へ引き寄せた。
大きな音を立てて、カブがその前を通り過ぎていく。
「大丈夫?」
「う、うん」
「もー。だからあぶないっていったのに」
「う、うっせ」
後からついてきた女の子は、男の子の妹だろうか。妹に注意されたとあっては、彼も立つ瀬がないだろう。
天才肌の妹をもつ兄からすれば、それは大いに理解できるところである。
「あ、あのっ」
「…?」
そんな二人の様子を微笑ましく思っていると、慌てた様子でレジから店員らしき女性が出てきた。
「どうもすみません……!危ないところを、ありがとうございました」
「ああ、いえいえ。向こうも気付いていたみたいですし」
恐らくこの人が二人の母親なのだろうと思った。しかし若い。
というより、そうであれば凪紗から聞いた同級生の友達というのは、この家の長姉ということだろうか。
抵抗する男の子の頭を思いっきり押し付けながら謝る彼女を制しつつ、そんな考察を胸の内に抱いていたのであった。
♬
「本当にいいんでしょうか」
「ええ。凪紗ちゃんにも沙綾がお世話になっているみたいだし、気にしないでね」
店内へ入って、パンを選んでレジまで持っていった際に、
越してきたばかりのことを告げると、彼女は色々とこの商店街のことを律夏に教え込んだ。どうやら、花女やその近くの高校である羽丘、そして少し離れるが志哲といった高校の生徒たちが多く住んでいて、同級生もいるかもしれない、ということだった。
律夏がそこで改めて凪紗の礼を言うと、こちらこそと彼女が返して、ついでに試作品のパンを彼に持たせたのだった。
「それでは、お言葉に甘えて。……美味しそうですね、やっぱり」
「ふふ。ありがとう。ちゃんと凪紗ちゃんの分も残しておいてね」
「全部食べてしまったら、また来ますね」
「あらあら、お上手ね……そうだ、純、紗南もお兄ちゃんにお礼言って」
「さっきはありがとう……ございました」
「じゅんをたすけてくれて、ありがとう!」
「うん。純くん、今度は
「……分かった」
しゃがみこんで、兄の方――純に目線を合わせる。その髪をひと撫でして笑みを向けると、純はこくりと頷いたのだった。
少し、かつての自分を重ねていたことは言わないでおく。
「それじゃあ、また来ます。沙綾さんに、凪紗とこれからも仲良くしてもらえると嬉しい、と伝えてもらえますか」
「もちろん。こちらこそ、あの子をよろしくね」
「ええ。凪紗にそう伝えておきます」
手を振ってくる沙南にこちらも振り返して店を出る。なんだか晴れやかな気分だった。
小麦のいい香りに名残惜しさを感じながら帰路へ就こうと思ったが、斜め向かいの店に目を奪われる。
「……コロッケか」
『揚げたてです!』の大きな文字がニクい。精肉店らしいが、近くに高校がいくつかあることを考えると、丁度自分のように商店街を歩きながら食べたいと思う高校生も多いのだろう。
そういえば、と今日の夕飯を何にするかまだ決めていないことを思い出し、どうせならそこで見繕っていこうとこじつけることにした。
――コロッケの買い食いは凪紗には黙っておこう。
内心でほくそ笑んで悪だくみをする。
先程の純のような少年心で歩いていくと、北沢精肉店の文字が目に入った。店番だろうか、夕焼け色をした髪の男の子が紺色の三角巾を巻きながら立っているのに気が付いた。
「……あれ?」
律夏は、その彼に見覚えがあった。
「もしかして、北沢って、あの北沢か」
「ん……お、若葉じゃん」
よっ、と小さく手を上げて応じたのは、志哲高校での同級生――北沢
端正で中性的な顔立ちに、中性的な名前をしているが、れっきとした男子である。そういう事情もあり、クラスでは人気者の部類に入る。
「まさかここで会うとはね。結構高校から遠いだろ」
「家がこの辺なんだよ。確かに偶然だな」
新学期が始まっても、彼とはまた同じクラスとなった。転校という事情柄、旧同級生で割とよく話す彼を新クラスに入れてくれたのはありがたかった。
「もうこっちには慣れた?」
「まあ、そんなに遠くから越してきた訳でもないし」
そっけなく、律夏の言葉に「そっか」とだけ返した恵。大きく伸びをするが、その体躯は律夏ほどもない。
「んで、今日はどうしたの?」
「ああ、そうだった。夕食の材料を見繕っておこうと思って」
「え、自分で作ってんの?すげぇ」
「慣れだな。中学のときはやってなかったから、毎日作って覚えた」
「へえー。親のひとは?共働き?」
「あー…まあ、そんなところだ」
実に答えづらい質問をしてくれるが、実情を話しているのは担任の教師くらいなもので、それを知らない恵にとっては何も不自然な話題ではないだろう。
――いつか、話す日が来るのだろうか。
律夏はその瞬間を想像する。彼の反応はわからない。
聞いてはいけないことを聞いたような、申し訳なさそうな表情かもしれない。あるいは、それをはっきりと謝罪で伝えてくるかもしれない。
確実に言えることは、彼にとってこの話題は益のあるものではないということだ。
「なるほどね。んじゃあゆっくり見ていってよ」
「……ああ」
とりもなおさず、会話を打ち切って陳列ケースに目を向けることにした。
「…はい、確かに。じゃあこれ、豚ロースとコロッケね」
「ありがとう」
夕飯は生姜焼きにすることにした。きっと凪紗も歓迎するだろう。
付け合わせのキャベツや諸々が冷蔵庫にあるもので用意できるかを考えていたところ、恵に声を掛けられた。
「偉いよね。自分でしっかり生活できる人って」
「俺の場合はたまたまそうしないといけない環境にあっただけで……北沢だって、店のこと色々あるんだろ?」
「環境、ね。確かにそうか」
顎を人差し指で支えるように、考え込む仕草をした恵が首肯した。細身の身体が相まって男であることを忘れそうになる。
「あと、うちには妹がいるから、手伝ってくれるときもある」
「そうなん?うちも妹、いるよ」
「へぇ。花女?」
「そうそう。今年入ったんだ」
「……一緒だな、それ」
話が進んでいくうちに、恵の妹が凪紗の同級生であることが分かった。
山吹家母に教えられたことが早速活きたので、世界は狭いものだと、律夏は一抹の驚きをもってその事実を受け止めた。
「にーちゃーん!店番代わるよぉ」
「おっ、そっか。それじゃあ、またね」
「ああ。凪紗のこと、妹さんによろしく」
「こちらこそ。はぐみをよろしくって伝えておいて」
去り際、恵の目線が店奥からやってくるであろう妹――はぐみに向けられる一瞬を、律夏は見逃さなかった。
ふわっと、弛緩するように優しい目つきに変わる。おそらく、家庭内での素なのだろう。
――もしかしたら、俺もああいう目をしているのかもな。
アーケードを抜けて、川辺を歩く。コロッケを齧りながら満開の桜並木を見られるのはなかなかに贅沢だが、もうじきに散ってしまうだろうから、目に焼き付けておこうと思った。
季節が着実に移ろいでいる。
凪紗は、これからあの少女たちと何を見つけ、どんな時間を共有するのだろうか。
高校生活は一度きり、なんてありきたりな言葉も、今はその通りだと頷くしかない。だから、彼女の思うように生きて欲しい。その過程を、少しでも支えてあげられたら。
商店街の方から追いかけてくる風は暖かい。律夏は、天に上っていくような桜の花弁を、眩しそうに見つめていた。