『あなたがやりたいと思うことを、楽しんでほしいの』
母さんの言葉が、心の中で繰り返し響いている。
俺がやりたいと思うこと──それが今俺がやっていること、やろうとしていることとは違っているのだろうか。
夜闇に手を伸ばすけれど、何かを掴めるわけでもなく──見上げた月の輪郭がぼやけている。
自分のことすらも分からない有様だった。
母方の実家である
こっちに到着したのは夕暮れ時で、事前に連絡していたとはいえ当日の知らせに祖父母は驚き半分、嬉しさ半分という感じで──
『いつも暗くなる前に帰ってきていた律夏にしては、突拍子もないな』
と、子供のころの思い出話とともにそんな感想を漏らすのだった。
俺が本当に幼いころ──つまり、東京に引っ越す前まではここで暮らしていた。
両親は仕事で忙しく、また凪紗が生まれることもあって、この頃の記憶は専ら祖父母との思い出が大きく占めている。
潮風の匂いが風に運ばれてくると、当時の記憶がよみがえってくる。しかし、そのほとんどが夏のものだった。
浜荻家が夏ミカン農家なので、それが理由かもしれない。
畑中を走り回ったり、海に行ったときには一日中泳いだり。
祖父が日曜大工で作ってくれた、庭のブランコをめぐって凪紗と喧嘩したり。
縁側から花火を見て、スイカにかじりついた──ごくありふれた、それでも特別だった夏の思い出。
「……懐かしいな」
そんな言葉を思わず漏らしてしまうほどには、加茂川という土地に対する郷愁は深く、また美しいひと時であったことを実感する。
中学に上がってからは部活もあってこちらに来れていなかったから、気分は久しぶりの里帰りだった。
ノスタルジーに浸りながら歩みを進めているうちに、駅が近づいてくる。
田舎町特有のショッピングモールを横目に、背の高いヤシの木が存在感を放つロータリーをくるりと周って、バスの待合所に凪紗らしき姿を見つける。
しかし、その様子に違和感を覚えた。
(……誰かがいるのか?)
明らかに一人ではない。視線の方向に誰かがいて、会話をしているように見える。
柱で見えなかった人影が、近づくほどにはっきりと映ってきて──。
「……え?」
「あっ、兄さん」
「……」
そこにいた
「なぜ?」
「気持ちは分かるけど、言葉が足りてないよ兄さん」
あまりにも欠けすぎた問いを呆れ顔で指摘してくる凪紗。こっちだってそんなことは分かっているが、それしか出てこなかったのだから仕方ないだろ。
俺はただ、妹の説明を待っていることしかできなかった。
♬
「あらあら、それじゃあ凪紗を連れてきてくれたのね。ありがとうねぇ」
「いえ……。それで自分の行くところがないというのでは、本末転倒で」
「いいのよ。今日は泊まっていきなさい」
事情を話したところ、祖父母は快諾してくれた。というか順応性が高すぎる。
俺はといえば久しぶりの加茂川に氷川さんがいる──通常より畏まった様子で──という光景が未だに信じられなくて、茫然というか、なんだか口にしがたい気分だった。
「お腹空いてるでしょ。まずお夕飯にしましょう?」
言葉の通り、玄関には出汁のいい香りが漂っていてすきっ腹を刺激する。
俺たちが揃って腹の音を鳴らすと、祖父母は温かい笑みを向けるのだった。
☆
「それじゃあ、氷川さんは凪紗と館山にいたのね」
「はい。出会ったのは偶然なのですが──その後、部活の合宿で
「紗夜先輩、部活入ってたんですね」
「ええ。バンド活動の支障にならない程度ですが、弓道部を」
「すごいなぁ、でもそう言われてみると納得だな」
「ええ。氷川さん、とっても凛々しくてきれいだもの」
弓を引く姿を想像したら思わず見惚れちゃうわ、とばあちゃんのうっとりした表情に対して、氷川さんは、これまた珍しく頬を紅潮させている。
何となく、この類のことは言われ慣れているものだと思っていたのでちょっと意外だった。
いつかの勝手なイメージの延長線だろうか、俺はまた反省を繰り返した。
「ねえ、律夏もそう思うでしょう?」
「え?」
ちょっと、こっちに振るなばあちゃん。すごく返答に困るから。
「兄さん、紗夜先輩とは学校の生徒会でよく一緒に仕事してるんだよ」
「おいおい、そりゃあラッキーだな」
火に油──もはやガソリンを撒く勢いの凪紗とじいちゃん。
どう答えたらいいのか分からず、時間稼ぎに味噌汁を啜る俺だったが、いつ立ち直ったのか至極冷ややかな氷川さんの目線に、一刻も早く弁明したくなってしまう。
「律夏、ちゃんとお仕事しているのかしら?」
「はい。私の学校では、とても高校生とは思えぬ貫禄だと噂になっているくらいです」
「多分、っていうか確実に褒めてないですよねそれ」
花咲川ではそんなことになってるのか……。そういえば咲祭で通報されたことを思い出した。冤罪だと叫びたい。
ともかく、俺たちのやり取りにみんなが笑っていて、いつもより多い人数の食卓やばあちゃんの料理の味、そして隣の氷川さんなど、やっぱり異質な空間であることを再認識した。
──だけど、この空気がなんだか温かく、同時に懐かしいものであると、心のどこかで感じてしまうのだった。
「いやあ、今日は賑やかだな」
「そうねぇ、まだ律夏たちが小さかったころを思い出すわ」
どうやらかつての暮らしを思い出すのは俺だけじゃないらしい。
そんな二人の会話に、氷川さんが反応した。
「お二人が小さいころは、ここで生活されていたのですか?」
「ええ、そうよ。律夏が小学校に上がるまではここで育ったの」
「ついこの間までは、毎年の休みにはこっちに帰ってきていたな」
「あー、そうだったね、最近は──まあ、色々忙しくて戻ってこれてなかったけど」
凪紗がぼやかしたその
少し気まずそうな様子の彼女を見て、祖父母は悟ったのか、こちらに視線を寄せてきたのだった。
♬
「あの子に、
食後、ばあちゃんと一緒に皿洗いをしていたとき、そんな問いかけがあった。
やっぱり気付かれていたらしい──何か言われるかと思ったけど、恐る恐る覗いた表情は存外に柔和なものだった。
「うん。少し、悩みの相談に乗ってて。それで、話したくって」
「もしかしてあの子には、よくできた
「……すごいね、ばあちゃんは。何でもお見通しだ」
ふふふ、と微笑みに下がる目じりが母さんによく似ている。もっといえば、凪紗に。
俺は、誰にも言わないで欲しい、と前置きをして、彼女から受けた悩みの相談について語った。
「氷川さんは苦しそうだった。妹さんと比べられることに疲れて──逃げちゃいけないって言って、自分とずっと戦ってて」
「そうなのね。あの子、たまに昔の律夏とおんなじ顔をしていたから──ひょっとして、悩みもおんなじなのかって思ったのよ」
「昔の、俺……」
その言葉に回顧した、かつての記憶。
いつだったか、凪紗から牛込さんの勧誘について話を聞いた時、彼女が音楽活動から一歩引くことになった理由を、姉妹の間に存在する、比べ、比べられる関係に見出した。
『劣等感から始まってもいいんです。努力を続けたことそのものが、意味を成すときがきっとくる──だから、自分を認めてあげてくれませんか』
あの日、氷川さんに対して出過ぎた言葉を投げかけたのも、その記憶からくる感情だったことに気付く。
「律夏に悩みを打ち明けたのも、自分に近いところを見つけたからね」
「どうかな。相談と言っても、いいアドバイスができたなんて思えなくて」
「いいのよ。結局は自分が解決するしかないんだし、あの子はそれだけの強さがある」
「……なんで、そんな風に言えるの?」
まだ出会って数時間の彼女に、ばあちゃんは何を見たのだろうか。それを問うと、水栓をキュッと締めて、
「女の勘、かしらね?」
とだけ答える。
俺がぽかんとしていると、また微笑んで続けた。
「それに、きっとあの子も心強く思っているわ。お仕事でずっと一緒にいると気が付かないけど、同じ悩みを抱えてくれる人って、とても頼もしく思えるもの」
「そうかな。ばあちゃんもそういうこと、あった?」
「ええ。私にとってその人が、清さん」
清さん、というのはじいちゃんの名前。つまるところ、ばあちゃんには俺たちが
「……いや、そういうのじゃないよ?」
「今、ちょっと考えたわね?」
「考えてないよ……。そもそも、氷川さんはそんな風に考えてないと思う」
「まあ、そうね」
やっぱりそうだよな、安心した……っていうとなんか違うが、俺は俺で、この奇妙な関係に思うことがあって。
「──せっかく、信頼して相談してもらってるんだ。
「真面目ねぇ。でも、
「それはまあ……ね。誰にでも話すようなことじゃないし」
耳聡いばあちゃんはやっぱり笑っている。
俺だって、彼女の言葉がすべて言葉通りの冷たいものだとは思っていないし、彼女の交友関係の輪の中のひとりである自覚もある。かといって、それが一定以上の好意に結びつくものでもないように思えた。
「あの子もあなたも、気付いていないだけなのかもしれないわね」
「えっ?」
「何でもないわ。さあ、お風呂入ってきなさい。お手伝いありがとうね」
戸惑いを感じる暇もなく、背を押されるがままに風呂場へ。
「……本当に、大きくなったわ」
その言葉が意味するところも、俺にはまだ図りかねたのだった。
♬
「ふー……」
風呂上り、久しぶりに縁側へと足を運んだ。蚊よけが必須だが、面倒より思い出が勝ったのだ。
月明りに照らされた庭のブランコは、記憶の中のそれよりずっと小さく映って、それだけの時間が流れたのだと思わされてしまう。
「……ここにいたんですね」
「うおっ」
意想外に近くから聞こえてきた声に驚いて振り向くと、奥のふすまが開いているのが窺われる。
彼女はその部屋からやってきたのだろうと、少しだけ早まった心拍を感じながら理解した。
「驚きすぎではないですか?」
「静かすぎて何も聞こえなかったんですよ」
「ああ……すり足、癖になっているんです。部活で」
「そういうことですか」
納得しつつ、向けられた視線に気が付く。
「……髪、ちゃんと乾かしていないでしょう。風邪を引きますよ」
「すぐに乾きますよ……へくしっ」
そう言いつつも、そよいできた夜風にくしゃみが響く。
「全く……」と氷川さんは呆れていた。
「海風でしょうか。都会のような熱のこもった空気は感じません」
「ええ。海のそばといっても小高い丘の上なので、そこまで暑くないんです」
そうは言いながら、喉の渇きを感じる。
麦茶とコップを、氷川さんの分も取ってきて渡すと、「どうも」と神妙な面持ちで受け取った。
「……」
氷川さんがコップを傾け、次は俺が一口──というように、お互いの沈黙がリレーのように続いていって、たまに夜風が吹き抜ける。
まだばあちゃんの言葉が残っていて、隣で足を抱えた氷川さんの姿を捉えることさえ、気恥ずかしい思いがしてできなかった。
「……若葉さんと」
そんな弛んだ空気が、氷川さんの一言で引き締まった。否応なく、意識が引きつけられた。
「こうして夜に会うというのは、七夕以来でしょうか」
「確か、そうですね。出店に買いに来ていた
「そうでしたね。……あれ、本当に偶然だったのですか?」
「偶然ですよ」
毎度のごとく薄睨みを身に受けつつ釈明するも、ぷいと顔を逸らした彼女。
月明りのもとに晒されて、降り注ぐ光芒の中で翡翠色の髪はきらめくようだった。
「……日菜は、どんな風に見えましたか?」
「そうですね……正直、想像よりもずっと明るいというか、天真爛漫というか、そんな印象です」
「私からは想像できないくらい、ということですか?」
「い、いえ。そういうことではなくて、ですね……感じさせる印象の色が違うというか」
「──ふふっ」
慌てる俺を眺めつつ、彼女は笑った。からかわれたのだ、ということに気付いて何とも言えない気持ちになる。
「すみません。若葉さんが焦っている様子は、あまり見ないので」
「……そういうのは、口下手が悪化するので控え目にしていただけると」
「ええ。次は、若葉さんが忘れたころにします」
「怖いって……」
俺の反応に、見世物になるような面白さがあるとは思えないが、彼女にとってはそうでもないらしい。
「今日のことは、色んな意味で忘れられなくなりそうです」
「ええ、お互いに」
我ながら粗雑な会話だなぁと思いつつ、主題は日菜さんの話へと舞い戻る。
「私と日菜が、見た目が似ていても性格が似ていない、というのはよく言われる話です。そこは自覚がありますし……若葉さんや、他の兄弟も一緒なのでは?」
「確かに、足りないものをお互いで持っている、ってよく言いますし、それなら似ていないのも納得ですね。
まあ、こっちにしてみれば足りないものだらけで苦労するんですけど」
「笑えない自虐ですが、同感です」
知る限り、この人との間でしか通用しないネタで苦笑し合う。そして一口、こくりと麦茶を流し込んで、また沈黙が訪れる。
視界の端、氷川さんが居住まいを正すようにこちらに向き直った。
「……そのことで、お聞きしたいことがありました」
「何ですか、改まって」
「今日、凪紗さんとメンバーが会話する中で、お互いに旧知の仲であることが分かったんです」
告げられたのは、一つの事実。さらに聞けば、凪紗が偶然にも出会った少女は、Roseliaの
「名前は、白金燐子さん。……凪紗さんと若葉さんにとって、幼馴染にあたる関係でした」
どくん、と脈を打つ心臓、その底で何かが湧きあがろうとしているのが分かった。
それは、一つの記憶──浸かっていた思い出が、彼女の名前をトリガーに急速に連鎖していく。
「その子は……凪紗と、どんな会話をしていたんですか」
「レッスン終わりに、よく遊びに行ったと。コンクールに出た経験も、少しお聞きしました。
……詮索をしてしまい、すみません」
「いえ……」
呼び起こされる記憶──スポットライトが照り付け、病的なほどの熱を帯びる身体と、臓器が張り裂けてしまいそうなほどの焦燥に浅くなる呼吸。
それらをひた隠して、座椅子へ腰を掛ける。
『次は、小学5年 若葉律夏くん。演奏曲は──』
アナウンスが遠のいて、鍵盤の白黒しか見えなくなる。指を運べば、勝手に動く身体。
旋律の刻むリズムが心拍と同期して、そのうちに、何も考えられなくなって──自分が奏でているはずの音しか聞こえなくなる。
夢心地といえば聞こえがいいが、それは悪夢──意識が檻に閉じ込められて、強迫観念に苛まれるような感覚。
そこからどんな風に抜け出したのか、演奏の後どうしたのかはもう、ほとんど思い出せなかった。
「……さん、若葉さん!」
「っ!」
肩を揺さぶられ、次第に意識がはっきりしてくる。氷川さんの姿が眼前にあった。
俺たちを照らしていたはずの月が、朧に霞んで見えていた。