次のお話も出来上がりつつありますので、投稿頻度上げられるように頑張ります。
『おねーちゃんって、ちょっと変わったよね』
七夕のお祭りの日に、日菜はそんな感想を会話の間隙にこぼした。それを聞いた私は、努めて感情を表に出さないように──ある種の動揺を悟られないように──あくまでも彼女の主観にすぎないと受け流したものだった。
実際、日菜のいう私の変化とまったく同じでなくとも、その言葉だけをとらえれば、私が変わったこと、あるいは自意識の上で変わろうとしていることは事実だったのだ。
彼女の言い分としては、私は以前よりも雄弁になったそうで──それは喜ぶべきか悩ましいところだけれど。
ともかく、そんな私の変化があの日を日菜と過ごすきっかけを与えたのだとして、それを探って記憶を遡ることで行きつくのは、ある人の言葉だった。
『劣等感から始まってもいいんです。努力を続けたことそのものが、意味を成すときがきっとくる──だから、自分を認めてあげてくれませんか』
その言葉を裏付けるだけの重みが、のちに語られた彼と家族の体験によって与えられた。それを知ったことで自分を恥じることもあったが、結果的にそれが変化のきっかけになったといえる。
ただ、その時は現在の彼の境遇にしか意識を向けられていなかったことに、私は今になって気が付くのだった。
☆
「若葉さん?」
断りなくメンバーの白金さんとの過去を問うたことについての謝罪が、口を衝いて出た。しかし、それに対する若葉さんの反応はなく、静まった夜の空気に浅い息遣いのような声が漏れたと思えば、それっきりだった。
私は思わず、隣に座る彼に視線を向ける。
「……っ!」
彼の表情が月明りに映し出された瞬間、私は縁側に投げ出していた両脚を戻して、傍に寄った。
晩夏にはまるで溶け込まない表情の冷たさに、何も読み取ることができず──それでも、ただならぬ気配だけが伝わってくる。思わず二、三度、彼に呼びかけて肩を揺らしたところ、その顔にようやく色が戻ったようだった。
「ひ、氷川さん。……すみません」
「こちらこそ。応えがないので焦ってしまい、つい声が──大丈夫ですか?」
「はい。さっきは少し……昔を思い出していて」
過去の記憶に触れるだけで、あんな表情をするだろうか。これまでも彼の見せる無機質な表情を鉄仮面だとか色のないそれと喩えたことはあったけれど、とても先ほどのそれと同類のものとは思えない。
無色透明──血の気が引くような、と言い換えてもよい、それほどまでに何かを思い詰めた結果のようなものであると、根拠なき想像の先に結論づけた。
「……」
彼の過去が強い衝迫を想起させるようなものであることは確かだろう。ひょっとしたら、古い傷跡に触れるような何かだったのかもしれない。
遠く、暗い海の向こうから冷たさをはらんだ微風が届く。彼が小さく身を震わせたのが分かって、思わず、視線がその目に引き寄せられた。
(何か、懐かしいものを見るような目)
感傷的とでもいうのだろうか。あいにく、そんな易しい表現が私の語彙を以ての限界だ──ただ、彼や癒しや慰めを求めているわけではないような気がしてならなかった。
互いに交わす言葉はない。けれど、そのことが言葉の代わりとなって、もう一歩を踏み込もうとする私の声を奪い去っていく。そのまま、いくばくかの沈黙が漂った後、絞り出したように彼は言った。
「……気を遣わせてしまい、申し訳ないです」
反射的に、「いえ」と口を衝いて出たが、それだけだった。乾き切った声色は自分のものとは思えないくらいで、それまでに流れた時間の密度を映していた。
「あれだけ偉そうな口を利いておきながら……思ったよりも昔のことを引き摺っていたみたいです」
「先ほども言った通り、勝手な詮索をしたのはこちらです。気にしないでください」
そう返すように、これ以上踏み込む真似は控えたほうがよいとは分かっている。しかしながら同時に、真逆の心がどこかで存在していることも確かで、私は未練がましくも続きを口にしてしまう。
「ただ、そのことで貴方が抱えているものがあるのだとしたら──それを打ち明ける人間が必要なのだとしたら、いつかその一人に加えてください」
確か、前にも似たようなことを口にしたはずだ。
私たちは
つまるところ、私はその再現を求めているのだろうと、他人事のように自分を眺めていた。
「……はい。いつか、必ず」
時間をおいて、俯きながらも彼はそう呟いた。視線の先には、水たまりに映る月影が風に滲んでいる。
『抱えているもの』と口にしたものの、それが何なのか、実在するかどうかすら私にはわからなかった。
それ以上、私たちは言葉を交わすことはなかった。
気づけばどちらからともなく飲み干したコップを手に立ち上がり、それぞれの寝室へ戻っていく。
夜風に乗って届くさざめきの中、彼の胸中を去来する遠い記憶に思いを馳せるのだった。
♬
明くる朝、私は早々に浜荻家を後にして合宿所に向かった。
結局起きてこなかった凪紗さんにお礼を言えないことが気がかりだったが、到着が遅れていることもありいち早く弓を取り、感覚を取り戻したいという思いが先行した。
(凪紗さん、休みはゆっくりしているのね)
起き抜けにぼんやりと眺めた彼女はすやすやと寝息を立てていて、思わずその様子に和んだものであったが、何となく
生来妹というものはこういうものなのかもしれないと、お礼の言伝を頼んだ
寝ぼけ眼の顧問から鍵を受け取り、着替えののち、道場の清掃や準備を手早く済ませる。
バンド活動を挟んだ後であることだけでなく、都会の喧騒を離れたこともあってか、場内は静謐に包まれているように感じられ、冷ややかで清澄な空気が肌を撫でると、頭上から足先までを貫く体芯が張り詰めた。
いつもの練習よりも多めの矢数で射位に進み、的前に出る。
矢筈を弦にかけ、的心を見据えたところで気息を整えると、風に揺れる木々のざわめきや、それに靡いた道着が体表をなぞる感触も気にならなくなった。
上半身の姿勢を整え、弓を構える。頭上に持ち上げたそれを引き絞るようにすると、全身の筋肉が張り詰めていく──その感覚を味わいながら息を止め、体の震えが収まるのを待つ。一刹那が、何倍もの長さに引き延ばされたように錯覚した。
声を消し、呼吸を消し、動きを消す──そうして残った感情をも消し去ろうとしたとき、密度の濃い時間の流れに対して抱いた既視感に気が付いてしまった。
『いつか、必ず』
「っ──」
私の手指を離れた甲矢は、静寂を引き裂いたように突き進んでゆく。直後、乾いた音とともに、わずかな衝撃の残滓が残響となって場内の空気に波紋を生む。
私は静止して、その広がりを感じ取っていた。
(的には
その軌跡に、わずかな揺らぎを見た。真っ直ぐ進むことを躊躇うような、軸がぶれた動き──残心の間、回想に浸りながら分かってきたのは、私の戸惑いが軌跡に表出していることだった。
「……自分のことながら、こんなにも動じやすいものなのね」
呟きの中に、短い嘆息が混じって冷たい空気に溶け出す。
あの月明りの下で、若葉さんと交わした言葉は少ない。その代わりに、彼が残した
きっかけを作ったのは間違いなく私の発言であり、より詳しく言えば凪紗さんや白金さんとの過去──それもピアノに関係する出来事──であった。
それがどのようなものであったか、彼は語りたがらなかった。しかしあの様子では、決して美しい思い出と呼ぶことはできないのだろう。
(それでも、私は──)
彼の思いに反する衝動が、次の矢、その次の矢を射るエネルギーになっていく。
結局、それらの立射において正中は一つも出ることがなかった。
♬
「全く……ほとんど進んでいないじゃないですか」
「うわーん! ご、ごめんなさい!」
8月も残り半分を切ったころ、私は弓道部の合宿から戻りRoseliaは合わせ練習を再開した──のだが、その障害が一つ。宇田川さんが学校の課題を終えていないというのだ。
ライブスタジオ併設のカフェに在って、テーブルに置かれた彼女の真っ白な問題集を見ていると、この夏何度目かのため息が漏れ出た。
「私が部活の合宿に行く期間を課題の消化に充てる、という話ではなかったかしら」
「そ、そうなんですけど~!」
「ま、毎年夏はNFOの限定イベントがあって……その期間に被ってしまったんです」
えぬえふおー、なるものの説明を白金さんに求めると、今度はえむえむおー、という未知の単語が引き出される。詳しく聞けばそれがネットゲームであることが分かって、つまりはなんの釈明にもならないことを理解した。
「……呆れからか、頭が痛くなります」
「まあまあ。っていうか、紗夜は部活もあったのに終わらせてたんだね」
「当然です。そもそも、合宿といえど個人の空き時間はあるのですから、課題や練習に費やす時間がなくなるわけではありません」
「すごいなぁ……アタシなんて昨日ギリギリまでやってたよ~。燐子は?」
「わ、私も……つい一昨日くらいまではかかってしまいました」
では、ネットゲームに興じていたとしても、下級生の宇田川さんは白金さんより早く終わらせられはずだったというわけね。
暗にそのことを睥睨に込めると、それを受けた彼女が気まずそうに視線を彷徨わせた。
「さ、紗夜さん! あこ、この問題がわからなくて……解き方教えてください!」
「話題の転換があからさまね……」
まだドリンクの氷のひとかけらも溶けていないくらいの取り組み具合で教えを乞うのはいかがなものだろうか。
苦笑する白金さんたちを横目に、「では、どんな問題か教えてください」と問題集のテキストに目を遣った。
「ええと、そう、ここの物語文なんですけど……」
宇田川さんが指をさしたのは、とある農場で住み込みの手伝いをしていた主人公が、東京での仕事を見つけ、独り立ちしようとしている場面だった。
「最後のシーンなんですけど、東京に向かう電車に乗り込んで、農場を経営している夫婦からもらったお弁当を食べた主人公が泣いちゃうんです。ここに傍線が引いてあって」
「問題は、このときの主人公の気持ちを50字以内で説明しなさい、というものですね」
「はい。なんとなく感動的? なことは分かるんですけど、説明しろって言われると書けなくなっちゃって」
なんとなく感動的、という感想が文章をよく読んでいないことの証左なのだが、ここは堪えて問題の解決を図ろうとしたとき、今井さんが腕を組んで頷いている。
「うんうん。そういう文章ってつい問題まで流し読みしちゃうから、答えのヒントに気づかないんだよね」
「同じ物語でも、ドラマとかアニメだったら分かりやすいんだけどなぁ」
「貴女もですか」と言おうとして、ふとそれらが映像作品であることに気が付く──言い換えれば、人物の表情や周囲の情景を、文字を通してではなく視覚的に直接描写できるものであるということだ。
一方で、文学は文字情報を紙面に敷き詰めているわけで、想像や理解さえできればその場面をいつでも描き出すことができる。物語文でいえば、答えのヒントは必ず描かれているのだから、答えが見つかるまでいくらでも読み返すことができる、ということだろうか。
「……宇田川さんや今井さんは、瞬間的な場面描写から、様々なことを感じ取る方が得意なのでしょうね」
「ど、どういうことですか??」
両目に疑問の渦を巻く宇田川さんを一瞥し、先ほど考えていたことを話す。
「台詞だけの小説はありません。この問題でも、主人公の感情だけでなく、ホームの喧騒や春風の冷たさが様々な描写を通して表現されています」
「確かに、ドラマだったら演出とか音響で表現できるけど、小説は全部文字で表現されてるよね」
「はい。宇田川さん、この場面で主人公の気持ちを描いている文章をすべて探してみてください」
「えっと……『誰かが自分のために作ってくれた弁当を食べるのなんて、いつぶりだろう』、『一口、一口を噛みしめる度にその気持ちが感じられて、涙があふれてきた』……ですか?」
その言葉に首肯する。回答用にまとめ上げれば、『夫妻が主人公に持たせてくれた弁当には、自分を思いやる気持ちが感じられ、感動するとともに感謝している』といったところだろう。
「わ、もう解けちゃった……」
「自分から回答を作るわけじゃなくて、ヒントになっている文章をまとめるのなら、ハードル低いかもね~」
「ええ。この方法なら時間の効率もよいはずです」
「ありがとうございますっ! あこ、次の問題一人でやってみます!」
そう言って黙々と問題に向き合い始めた宇田川さんを横目に、先ほどの思考に舞い戻る。
(情報の形式の違いからどちらが得意かは異なるにしても、映像であろうと文字であろうと、散りばめられた表現を拾い上げる作業は誰にとっても同じはずよね)
映像とはつまり、現実世界の感覚やコミュニケーションとほとんど同一である。
宇田川さんが見いだしたように、人物の所作や様子を捉えることができれば、その心情も推察できるかもしれない。
(だとすれば──あの時、あの場所で彼が見せた表情の意味は)
自問して、反射的に想起した情景の四隅までを眺め回すように思案する。
彼から汲み取れた表情からは、ただ記憶を回顧していたわけでないということが分かる。私が凪紗さんや白金さんから聞き取った過去のことを話したことに対する反応はただものではなかったからだ。
月影の中で見た彼の浅い呼吸、額に滲んだ汗、瞳や身体の震え──そのすべてが、見たことのなかった彼の動揺を裏打ちするように感じられてならなかった。
そこまで考えて、少し前までの自分を思う──他人の心情の機微になど興味を示さなかっただろう私が、今は強く惹かれているというのだから、我ながら変わったものだ。
そして、その原因となっていたのは──
(──きっと、私は彼を決めつけていたのね)
若葉さんとの邂逅ともいえるあの日から、私は彼のものの考え方に興味を抱く傍らで、思い込んでいたのだろう──それが
彼がそれを見せなかったのは、そう在るように自らを律していたからであって、私は、そんな理想に近づくための努力を、どこか当たり前のものと思い込んでいたのかもしれない。
自嘲思考の一方で、対照的な自然体を見せる今井さんや宇田川さんの様子に目を配る。いや、これらも彼女らがそう在ろうとする結果なのかもしれないことを考えると、ますます人となりとは、表層的な言動で窺い知れないものなのだと思えてきてならない。──ああ、先ほどとは違う意味で頭が痛くなってきた。
「……あ、あの、氷川、さん」
「は、はい!」
沈思黙考の渦に絡めとらつつある意識の埒外から呼びかけられたことに気付くと、思わず声が引き出される。
きょとんとした様子のメンバーに「す、すみません」と陳謝しつつ、自分の名を呼んだ白金さんに目線を向ける。
「どうか、されましたか……? 少し、表情が暗いような気がして」
「えっ、そうなの? 紗夜、体調悪い?」
「いえ、少し考えごとを……」
そこまで言って、急速に思考が遡る。彼の過去を知っている白金さんならば、この問いの答えを導き出せるかもしれない。
ただし、そのためには──
「……?」
物怖じする気持ちと疑問の両方を併せ持ったような表情が覗く彼女に真っ直ぐ視線を向けたとき、グラスの氷がからんと音を立てて溶け落ちるのだった。