あのライブで受けたあの熱が、未だに胸を高鳴らせるエネルギーになっていることを、凪紗は自覚していた。
『……バンド!』
サイリウムの光の海で、それに負けないくらい瞳を輝かせた香澄が、凪紗と有咲の手を取って言う。
ぎょっとした表情の有咲とは対照的に、凪紗はほとんど香澄と同じような興奮混じりの昂揚を前面に押し出していた。
『すごいキラキラ!バンドバンド、バンドやろう!』
そのとき、香澄の言う『キラキラ』の意味が、少しだけ分かった気がしたのだ。
それはきっと、心の中のきらめきが、あの光景と融け合った瞬間――自分の手に、世界のすべてに輝きが溢れて見えた瞬間。
期待と、そしてちょっぴりの不安が脈を打って、それでも待ちきれなくなってしまう。居てもたってもいられなくなってしまう――『ドキドキ』も、きっとこんな風なんだと思う。
まだ、夢を見ているみたいだった。
これからも、その続きを見ていたい。
経験したこともない感情がせり上がってくる。律夏が、そして香澄が導いてくれたこの虹色の景色を、ずっと追いかけてみたいと心の中で叫ぶ。
――私は、たぶん今日のこと、ずっと覚えているんだろうな。
そんな風に思えたのは、いつぶりだったのだろうか。
♬
「バンドやるんだ、牛込さん」
昼間にもなると、春を過ぎた日差しは少しずつ強くなってくる。
香澄と沙綾、それに凪紗は昼休みの時間を中庭で過ごすことがお決まりとなっていたが、香澄に連れられて木陰のベンチの特等席にやってきたのが、もう一人――
「りみりんすごいんだよ!……なんだっけ?」
「ベース?」
「ベースができる!」
香澄のオウム返しに、ついつい苦笑してしまう。大方、バンドメンバーを探しているうちに発見したのだろう。
一方、牛込りみ――ライブの終わり際、帰ろうとした有咲とぶつかった同じクラスの少女だ――が、「ちょっとだけだよ~……」と恥ずかしそうに謙遜した。
「ちょっとでもすごいよ!」と香澄。実際、香澄の素人っぷりに比べれば少しでも弾けるだけありがたい。
凪紗もそのバンド計画に参加するつもりではあったが、まだ楽器すらも手にしていない香澄の胆力に脱帽していた。
「ま、座ったら?」
「う、うん」
自分の隣を指さして、座るように促す。香澄の隣にしてしまうと強引な勧誘が待ち受けているだろうから、しっかり守ってあげなければ。
「……牛込さん、嫌なら断っていいんだよ?」
「ひどい~!りみりん……!」
どうやら沙綾も同じ考えらしい。ちらり、彼女を窺うと困ったような笑顔が迎えた。
「というか、香澄は香澄で、どうせ説明もろくにしてないんじゃないの?」
「うっ……」
「そりゃあ牛込さんも困るでしょうが」
ぎくりとした表情を浮かべる香澄に凪紗がため息をつくと、沙綾が「あはは。いいストッパー役だ」と笑う。
入学式の日以来、沙綾との交流は専ら香澄の保護者役を通して深まっていくのを感じていた凪紗だったが、相変わらずの良妻賢母ぶりで、とても自分や香澄と同い年だとは思えない。やはり
そのため、今のように沙綾の反応を見ながらフォローに入るということが多かった。
とりあえずは、これで一安心――そう考えていると、りみが口を開く。
「嫌や、嫌じゃないよ。戸山さんが誘ってくれて、私……」
「りみり~ん!香澄でいいよぉ~!」
――あながち強引な勧誘も、常に悪手である訳ではないらしい。なかなか計算高い部分もあるではないか……と感心したが、「で、ベースって?」という彼女の一言でそれも二度目のため息とともに崩れ去っていった。
顔を上げれば、同じような顔をした沙綾がいて、思わず笑いあってしまった。
「ふふっ……そういえば、さっき教えてくれた星のギター……だっけ?スマホで調べてみたけど、この中にある?」
「ああ、これでしょ?香澄」
有咲の家の蔵で見つけたギターは赤い色をした星型のものだった。沙綾の携帯端末の画面に表示されているもののうち、近いものを指さして香澄に確認する。
「そうそう!ランダムスター……っていうんだ」
「へえ、刺さりそう」
「確かに。私の第一印象は持ちにくそう、だったな」
こういう形のギターを総称して変形ギターとも呼ぶらしいが、それは『変な形の』と略されているのではないだろうか。凪紗はそんな邪推をしてしまった。
――そういえば、父さんのギターって、どんなのだろう。
律夏は言った。きっと役に立つと。
しかしながら、凪紗は父が楽器を演奏しているところなど見たこともない。ならば、彼は知っていたということだろうか。帰ったら聞かなければならない。
「あ、あの……若葉さん」
「ん?どしたの」
「若葉さんも、バンド、やるの?」
りみは控えめな目線で、そう質問してきた。その意図は汲み取れなかったが、昨日のライブで香澄と一緒にいるところを見ているからだろう。
「そのつもり。まあ、私も少し触ったことがあるくらいだからさ。最初は気楽にいこうよ」
「う、うん……」
了承は得られたものの、どこか曇ったような表情をしている。
凪紗は、りみの内側を知らない。
それでも、香澄が集めたメンバーなのは確かだ。きっと、なにかを持っている。
だから、知りたいと思うのだ。
♬
「あ、有咲いたぁ」
「不法侵入だっつってんだろ!」
放課後、なんと朝から市ヶ谷家にお邪魔していたという香澄が、気付かぬうちに早退していた有咲のもとへ行くというので、凪紗も同行していた。
この間と同じように当然のように蔵へ一直線の香澄に、急ぎ凪紗が玄関に行って有咲の祖母へ確認を取りに行くと、彼女は「あら、あなたも香澄ちゃんのお友達だったのね」と歓迎するものだから、香澄の攻略速度に思わず驚いてしまった。
「いやあ、びっくりした。おばあさんに聞いたら香澄、市ヶ谷さんちで朝ごはんご馳走になったらしいから」
「すっごい美味しかった!」
「美味しかった、じゃねーよ!勝手に入ってきてご飯食べてくってどういうことなんだよ!」
恐らくそのやり取りは、一通り通学路で繰り広げたはずなのだが、有咲は律儀にツッコミを入れてきている。なかなかの実力だ。
「んで、今日はなんだよ……」
「そうだ、ランダムスター!ね、また見せてもらっても……」
「ああ、それか……ふふん、商品に触らないでくださーい」
「へ?」
得意げな顔でこちらに歩み寄った有咲が、ポケットからスマートフォンを取り出す。「三十万……もう超えたかな?」と呟きながら見せてきた画面を、香澄と見つめると、そこには紛れもないランダムスターと、その値段――”300,000円”の金額表示があった。
「これ……オークション?」
「そ。欲しいなら買えば?」
「うう、そんなの無理だよ……!」
「買うだけなら、私にできるけど」
「えっ、凪紗買えるのっ!?」
「でも、それは香澄が欲しいんでしょ?私、ギターなら家にあるし」
「買えるとこにはツッコまないのか……」
兄が自分のために用意してくれたあのお金は、出来れば兄自身のために使って欲しい。
そんな考えとは裏腹に、彼は『必要になったら、自分の判断で使え』と通帳を手渡した。だから、もしその判断を下せば、ギターそのものは手に入るだろう。
だけど、あのギターは香澄の手の中で輝くものだ。彼女が見つけ出したのだから。
お金を後で返してもらうことも出来るが、そんな金額ではない。高校生には大金すぎる。
「……まあいいや。そんなわけだから、もう帰るんだな」
声とともに、戸が閉め切られる。
「どうしよ……凪紗ぁ」
「大丈夫だよ。別にもう来るなって言われたわけじゃないし」
「うん……」
俯く香澄は、これまでみたこともないような萎れ具合だった。
凪紗はその肩を叩いて、彼女の頬を両手で挟んだ。
「香澄らしくないなあ。どうしたの」
「んむ…だってっ」
「……きっと、市ヶ谷さんは、香澄とすっごく違うんだよ。考え方も、やりたいと思うことも。だから、思いが伝わるには時間が掛かっちゃう」
凪紗は、掌の中の香澄の目を見ながら語りかける。
いつもなら、すれ違いを気に留めることもなく、ただ波風を立たせないようにと努める友人関係。それが普通だった。
しかし、凪紗は知った。彼女のように、感じたものを共有しようとまっすぐにぶつけてくる人間もいるのだと。
「大丈夫だよ。市ヶ谷さんは、たぶん香澄みたいな子に会うのが初めてなんだろうね。……だけど、必ず待っててくれてる」
初めて彼女と会話した時の、あの目――友情とか、青春とか、バカらしいと思っていても、本当は諦めきれない。その瞳に燻ぶった火種を、凪紗は印象深く感じたのだ。
「……うん」
髪を撫でられて、香澄は少し落ち着きを取り戻したようだった。
「香澄の思うように伝えてみなよ。すぐには無理でも、いつかきっと……大丈夫だから」
「うんっ」
今度は迷いなく、そう口にした。
それから数日、香澄は朝から有咲を学校に迎えに行き、そして夕方には一緒に下校して、蔵の整理を手伝うことを繰り返した。
時折、凪紗はその様子を見に行くのだが、日に日に有咲の表情が、面倒がっているものの生き生きとしたものに変わっていく。そして、そのたびに通学路での距離が縮まっていくのだ。
「……なんで?」
「?」
「バンドやりたいんでしょ。ギターならなんでもよくね?」
雨の日も、香澄はやってくる。休憩中、紅茶の入った二つのマグカップを置いて有咲が尋ねた。
香澄は、スマートフォンのカバーに貼ってある星のシールを見せながら、それに答える。
「……星のシールがね、壁とか電柱とか、色んなところに貼ってあって。それを追いかけて出会ったギターだから、なんていうか、運命って気がしてるんだ」
対して、有咲が浮かべたのは複雑そうな表情だった。答えるか迷って、結局口にする。
「……貼ったの、私」
「えっ、そうなの!?有咲が呼んでくれたの!?」
「そういう話じゃねーよ……昔、小学生の時にピアノ習ってて、ひとつ曲が弾けたらもらえたの」
それから、有咲はその帰り道にシールを貼っていたことを明かした。意図があったわけではもちろんないが、香澄は、一度は有咲が否定したことが、まさに運命と感じられてならなかった。
凪紗たちとの出会いと、同じように――
「ピアノ、やめちゃったの?」
「中学受験。そういう子、けっこういるし」
懐かしむ表情。その先にあるピアノの側面には、汚れにくすんでも未だ輝きを失っていない星が一つ。
「――ね、ピアノやってた時、キラキラドキドキしてた?」
「なんだよ、それ……まあ、発表会とかは緊張……うっ」
言い淀む有咲。そう、彼女も『ドキドキ』の体験を持っている。
「私も見つけたんだ。キラキラドキドキすること。できるかどうか分かんないけど、凪紗と、一緒にやってみたい」
「……」
有咲の心底にあるものは、かつてのきらめきを取り戻そうとする情熱なのだろうか。
そうあってくれればよいと、香澄も感じているのだった。
――夢の続きを、香澄は有咲と見たい。そのことを、言外に伝えようとしているはず。
「有咲っ」
そう言って立ち上がった香澄は、有咲の手を取った。
「バンドやろう!」
「はぁ?」
「バンドって、ギターとベースと……えっと、キーボードもあるんだって!」
「もう弾けないし」
「大丈夫!だって、有咲もドキドキしたんでしょ?この前のライブも!」
「っ…してない!」
「ええー?」
「……あんましつこいと、もうギター見せねぇぞ」
「わー!ダメ―!」
「……ふふっ」
蔵の壁に背を預けて傘を差しながら、そんな掛け合いの一部始終を耳にしていた凪紗。
――彼女はギターのために有咲に近づいているんじゃない。
そのことが、彼女の純粋で、喜怒哀楽に富んだ表情を通して有咲に伝わっていくのだろう。
それを感じるたびに、凪紗は僅かな微笑みを浮かべながら彼女たちの会話を見守っていたのだった。
♬
「終わったぁ!」
香澄が歓喜の声を上げる。
市ヶ谷家の蔵の中は、幾日も訪れ続けた香澄と凪紗の手伝いの甲斐あってか、そのほとんどが片付いていたのだった。
「お疲れ」
「うん、ちょっと疲れちゃった」
「正直かよ」
凪紗がはっきりと感想を述べると、有咲がそれにツッコむ。彼女からしてみれば、勝手に手伝ってきたのはそっちだろ、と言いたいのだろう。
「私、ちょっとおばあちゃんに飲み物もらってくるねー」
「くつろいでんじゃねーよ!」
「そのあとで、またギター見せてね!」
「お、おい!……行っちまった」
ダッシュで出ていく香澄を留める間もなく、有咲は項垂れる。凪紗はそれに苦笑した。
「すっかり居着いちゃってるね」
「お前もな」
「ふふ、確かに……ね、結局香澄の勧誘はどうしてるの?」
凪紗がそれを訊くと、有咲はむくれたように答える。
「……別に、私が居なくてもいいだろ。お前いるんだし、なんでもできるだろ」
「え、もしかして有咲、それで……まさか、拗ねてるの?」
「う、うっせー!そんなんじゃねー!」
入りたくない、彼女はそう言わなかった。
原因は自分にあるものの、もうこれは半分
流石、香澄の人心掌握術……と驚きながらも、まずは有咲に意味深な笑みを向けることが先決である。猛抗議する有咲を見ると、それに構わず爆笑してしまっていた。
「……それに関しては大丈夫だよ。私、ギターやろうと思ってるから」
「はあ?」
「香澄と同じだね。二人で歌うのもいいでしょ?」
「なんか、そうしなきゃいけない理由でもあんのかよ?お前なら担当が被るのは非効率とか言いそうじゃん」
意地悪そうな笑みを浮かべる有咲。間違いなく、普段の自分ならそう言うので、そこは肯定しておく。
「そうかもね。でも、私、弾いてみたいんだ。お父さんのギター」
「お父さん?」
「そう」
「……なんか、訳アリって感じだな」
「訊いちゃう?」
挑戦的な笑みに、しかし自分でも無理にそれを作っているのだろうなと、凪紗は自覚していた。
有咲もそれを感じ取ったのだろう、その話を訊くことは、凪紗に深く踏み込むことになると予感できた。言葉の上ではそれを拒んでいたはずなので、返事に戸惑いを隠せない。
「……やめとく」
「ふふっ、そっか」
むすっとして目を逸らした有咲。
まだ、誰にも話すわけにはいかないかな。そんなふうに、凪紗は思いをひた隠しにするのだった。
「――たっだいまー!有咲ギター見たいっ!」
香澄が戻ってきた。
雨の降る中傘も差さず来たので髪が濡れていたが、星耳は崩れていない。不思議である。
「別にいいけど」
「やったあ!それじゃ早速……」
歓喜とともに、香澄は星のマークの描かれた黒いギターケースの取っ手を持ち上げようとする。
その瞬間、その留め金が外れ、ケースが大きな音を立てて床に激突した。
「あっ!?」
音からして、かなりの衝撃が伝わったのだろうか、その中身を晒したギターケースの金具は真っ二つに割れていた。
「か、香澄、大丈夫?」
「怪我はねーか……うわっ、こりゃ相当ボロかったんだな」
凪紗は、座り込んだ香澄に向き合うように屈む。ふと、彼女の目から、大粒の涙が溢れているのが分かった。
「ごめん、ちゃんと持ってなかったから……!どうしよう、ごめん……!」
「……」
凪紗は、香澄のギターに対する思いの大きさを、このような形で知ることになるとは思わなかった。
有咲へ視線を向ければ、恐らく自分と同じように、それに呆気にとられているようだった。
「香澄、ケースはともかく、中身にはそれほど衝撃が伝わってないみたいだよ」
慰めの言葉を掛けてみる。事実、ギターの弦が数本切れているだけで、見た目は大きな損傷はない。
けれど、香澄には届かない。
そうだ。彼女には、上辺だけの言葉は響かない。
「戸山さん」
同じように、有咲が声を掛ける。端末で何か調べているようだった。
雨粒の弾ける音だけが聞こえる。香澄からの反応はない。じっと、ただギターを見つめている。
「……戸山香澄っ!」
「……っ!?」
有咲が叫んだ。今度は届いたようだ。
「行くよ」
「行くって、どこに?」
赤くなった目を、疑問符とともに向ける香澄。その視線の先には、有咲の端末画面が向けられていた。
凪紗はそれを見て、彼女の思いが揺れ動いていることを確信する。それとともに、言葉足らずな有咲に代わって、香澄に答えるのだ。
「――ギターのこと、本当に大切に思ってるんだよね。それなら、行動しなくちゃ」
香澄の疑問符たっぷりな泣き顔が、一瞬にして真剣なものに変わる。
彼女もその行先について理解したのだ。
「……うんっ」
走ることを覚悟しているのだろう、有咲はスニーカーの靴紐を結び直している。
雨はまだ止む気配を見せない。
それでも、彼方にある虹を目指して、走り出さずにはいられなかった。