降りしきる雨の中を、凪紗たちはひたすらに駆けてゆく。
道行く人々の、色とりどりの傘の色合いがまるで虹のように見えて、それが綺麗だと思った。だけど、本当の虹はもっと先――この空の、向こう側にある。
そう信じて疑わなかった。
「すみません!」
「リィちゃん暇なんじゃー……あ、いらっしゃー……おろ?」
江戸川楽器店――有咲の蔵から住宅街を抜け、川に架かる橋を超えた先にある店だ。雨だからか店内の客はおらず、レジ横の椅子に座る店員からはそんな声が漏れ聞こえた。
「はあっ、はぁっ……落としちゃって、修理お願いできますか!?」
店員の女の子――エプロンの下に着ているのは花女の制服である――は、初めはずぶ濡れの三人組にしばし瞠目していたものの、香澄のそんな悲痛な叫びを聞くと、
「まっかせて!てんちょーっ」
と、自信を感じさせる語気でそう答えたのだった。
雨は上がった。
店員の女の子は、鵜沢リィというらしかった。花女の三年生で、りみの姉であるゆりと同じバンド――『Glitter*Green』のベースを担当している。
香澄は、まるで手術中の家族を待つときのように祈りながら、ときおり「ごめん……」と口にしてばかりで、流石の有咲も端末を見ているふりをするくらいには、深刻そうな表情を続けていた。
――それだけに、変わらず自信満々で出てきたリィを見た時の、香澄の喜びようといったら。
「うう、直ってよかった~!ごめんね、ごめんね……!」
「はぁ……弦切れただけなんだろ?落したくらいで大げさなんだよ」
「まあまあ。それくらい、大切だったんだよね?」
「うん……」
香澄が有咲に近づいたきっかけは、ランダムスターだったわけではない。確かに、惹き付けられたことは間違いないが、それを通して有咲という人間に出会って、香澄は彼女に歩み寄ろうとした。
ギターが出品に出されても、『いい人にもらわれるといいね』とも言った。
有咲は気付き始めているのだろう。香澄の真っ直ぐな純情に。
「……それ、持って帰れば。オークションの出品取り下げたから」
「えっ?な、なんで……?」
有咲はそれに答えなかった。ただ、一言だけ、
「大事にする?」
それだけで、香澄は全て察することができた。そして目を輝かせて叫ぶように答える。
「するっ!」
「よし。じゃあ、五百四十円」
「えっ?」
「オ、オクの取り下げ手数料。三十万はおまけしてあげる」
目線を外し、背中を向けてそう言った有咲。凪紗の見間違いでなければ、その頬に差した赤みは夕日のせいではあるまい。
ツンデレ少女はきっと、香澄のような純情を向けられることに慣れていない。その根底はかつて何かがきっかけで手放した憧れなのだろう。
「うん!ありがとう!……あっ、お財布にあと三百円しかない……」
「やっぱ売る!」
「ダメ~~~!!」
学割の効いた修理代でも、三千円は高校生の財布には厳しかったようだ。やり取りに苦笑して、凪紗がそれに助け舟を出した。
「香澄、三十万円は貸せないけど、それくらいなら貸せるよ」
「な、凪紗ぁ~~!」
「それ意味あんのかよ……」
五枚の硬貨を財布から取り出して、有咲に手渡す。
夕焼けの中、二人の視線がぶつかるとき、凪紗は優しい微笑みを彼女に向けるのだった。
「……ありがとね、
「うっ……感謝されるようなことはなにもしてねー」
「素直じゃないんだから」
茜色に染まる雲間から、虹が飛び出している。それはまるで、二つの空を繋ぎとめるように――
泣きつく香澄を抱き留めながら、凪紗は深い感慨に包み込まれていたのだった。
♬
「ただいま……あ、ばあちゃん」
そこそこの水たまりを避けながら、夕暮れの住宅街をまっすぐに進んで蔵へ戻ってくると、そこには有咲の祖母がいた。
有咲の声に気付いた彼女は、ゆっくりと三人の方を向いて微笑んだ。
「おかえり、有咲。蔵の中、キレイになったねぇ。約束通り、有咲の部屋にして。はい」
そう言いながら、ゆっくり近づいて有咲に渡したものは、鍵らしきものだった。それも、二つ。
「二個あるの?」
「一個は地下室のだ」
「地下室?」
何のことだか分からない香澄は首を傾げる。その傍で、なにやら有咲が床をいじっている。
「これ、入口なんだよ」
その呟きとともに、床の一部が開けられる。覗いてみれば階段の先の暗闇が見えて、躊躇なく有咲が進み始めるので、凪紗と香澄は顔を見合わせて、それについていく。
有咲が先に降り切って、電灯のスイッチを入れた。
「わあ……!」
香澄は一人、静かな歓喜の声を上げる。
そこには古いレコードの詰まった棚、そして大きなスピーカーにアンプが置かれ、まるで音楽を嗜む者のための空間が広がっていたのだった。
勝手知ったように引き出しからシールドを取り出した有咲が、香澄のギターへ向けて片方の端子を突き出す。
「ほら、ギターに挿してみて」
「う、うん……」
なぜか緊張したように、香澄が接続したギターを見つめて、それに頷いて有咲がアンプの電源を入れた。
「……はぁ」
小さく息を吐く香澄。まるで、ライブが始まる前のような雰囲気を醸している。とは言っても。彼女は素人なので、コードも何も知らないだろう。
だから、凪紗は彼女の左指に触れた。
「うひゃぁ!?」
「驚きすぎでしょ。あと、緊張しすぎだって。運指?教えてあげるからさ、ちょっと力抜いて」
「わ、わかった」
三本、指を貸してもらう。教えるといっても、少しかじった程度の凪紗は、とりあえずできるだけ簡単なコード――
2フレットの1・3弦と、3フレットの2弦に香澄の指を配置する。
「よしっ。これを保ったまま、この弦から弾いてみて!」
「うん。……えいっ」
4弦から指が滑り落ちていく。増幅された弦の振動が、アンプから鳴り響く――いわゆるDコードというやつだ。
「……!!」
偶然とはいえ、見事に和音が奏でられた。香澄は、目を見開いて驚きの表情を浮かべていた。
「すごい……すごいすごいすごい!鳴ったよ!」
「やるじゃん。これは才能アリかもね?」
にわかに沸き立つ香澄に、凪紗はウインクで応じる。「もっかい!」とせがまれるが、何やら言いたげな顔をした者がいるようで――
「あ、あのさ」
「うん?」
「こ、ここで練習すれば?」
「え!?いいの!?」
「ただし!昼休み……一緒にご飯食べて」
「へ?」
「嫌ならいいけど!」
香澄のまっすぐな気持ちは、どうやら伝わったらしい。有咲も、そんな彼女を信じることを決めたのだろう。
顔を赤くして、どんどん語気の弱くなっていった有咲とは対照的に、みるみるうちに香澄の瞳が輝きを増していく。
「……!有咲~!!」
「うわあ!?」
飛びつかれて驚いているのだろうが、にやつきが隠せていないあたり、有咲も有咲である。
凪紗は推察する。彼女も、きっと欲しかったものがあったのだ。理由をつけて、目を瞑って諦めたものが――
「ふふっ。じゃあ来週からは皆勤賞目指さなきゃね」
「い、いやもう手遅れなんだけど」
「私、毎日有咲の家行く!もーにんぐこーる!」
「行くよ!行くから毎日はやめろぉ!あと離れろ!」
香澄を引っぺがすには相当の腕力が必要なので、
一通り頬ずりも終わったあと、疲労困憊で座り込んでいる有咲に手を差し伸べるようにして言った。
「これからよろしく、有咲」
「うっ……よ、よろしく……な、なぎさ」
「なに照れてんだよー。憧れの名前呼びじゃん」
「う、うっせー!」
「あーっ、凪紗ずるい!ね、有咲、私も香澄って呼んでー」
「わ、分かったって!だから引っ付くなーっ!」
同じ立場になければ見えないものもある。だけど、違うからこそ気付けるものもまた、同様に存在する。
人との関わり合いを諦めなくてもよい、今までなら信じられなかったものを、香澄と有咲が、信じさせてくれた気がしていた。
♬
「おお、もう四人目まで」
「うん。凄いでしょ」
翌日は休日だった。
寝ぼけ眼で起きてきた凪紗は、朝食がてら
ちなみにもう十時である。完全無欠と謳われる彼女の唯一の弱点であった。
「その感じだと、その有咲って子は昼飯を一緒に食べるだけに聞こえるけど」
「だいじょーぶ。あれは香澄がぐいぐい行けば絶対落ちる」
「意志は関係ないのか……あ、コーヒーか紅茶、どっちにする?」
「そういうこと。今日はコーヒーかな」
「了解」
手早くペーパードリップの準備をしていく律夏。相変わらずの手際であり、出る幕もないだろうと凪紗は冷蔵庫から牛乳を取り出していた。
「ミルク、入れるでしょ?」
「ああ、サンキュ」
それを手渡しながら、ふと思いついたことがあった。
「そういえば、お父さんのギターなんだけど」
「ああ。今朝、物置から出しておいたぞ。……これだ」
キッチンから離れ、すぐ裏の玄関に置いていたギターを慎重に運んできた律夏。その手には、香澄の変形ギターと対になる色のギターがあった。
思わず、「うわぁ……!」と声が漏れるのが分かった。
海を感じさせるようなボディの蒼のグラデーションが美しい。板目の杢が波のように感じられた。
「すっごい綺麗……そういえば、お父さん海が好きだったもんね」
「そう。ウチの家系の青髪は、先祖代々海好きが多いからじゃないかってずっと言ってた」
懐かしむように言った律夏と笑い合う。
父は、本当に海が好きだった。瀬戸内で生まれ、ずっと海を見て育ってきたからだろうか、毎年、夏は家族を連れて海水浴へ出かけたものだった。
「ふふ……でも、お父さんは本当にギターやってたの?私知らなかったよ」
「実は俺もほとんど見たことはない。……まあ。座るか」
彼の言葉に従って、マグカップを持って食卓に移動する彼の背についていき、椅子に腰を下ろした。
一口啜って「まだ苦いな」と大量の牛乳を投入し、律夏は話を始めた。
「昔、偶然見たことがあるんだ。その時には『秘密な』って」
続いていく説明によれば、家での練習はせずに、休日にライブハウスなどで演奏していたらしい。
バンドを組んでいたらしく、しかしそのメンバーは会社の同僚などではないとのこと。
「そうなんだ。恥ずかしかったのかな?」
「分からん。ただ、楽しそうだったことはよく分かった」
懐かしむように、律夏は私室でこっそりとギターを弾く彼の表情について語った。
実直さを絵にかいたような人間で、特に息子の律夏には誠実であれと何度も諭していたことを覚えている。だから、ギターへ向けた情熱、そして律夏が見たという笑顔も本物なのだろう。
「……私も、頑張らなきゃ」
「ああ。父さんの分まで、な」
マグカップを持つ手に力が入る。その熱が身体の奥へと伝わっていくようだった。
「それで、残りのメンバーはどうするんだ?」
父についての話はこれで終わりらしい。律夏はギターをスタンドに掛けて、まだ見ぬ五人目以降のメンバーについて触れた。
「うーん、ギターはもう二人揃ってるんだけど、私も香澄も素人だし、上手い人がいたらなあ」
「文字通りリードギターってことか。後は?」
「欠かせないのはドラムだよね。誰かいるかなぁ」
首を捻って考える。外部生の凪紗に心当たりのある者はいない。それならば、問題はそれをどうやって見つけるか、ということに帰着する。
「志哲にはいないの?先輩でもいいからさ」
「うーん……二年になると、もうバンドを組んでいる人がほとんどだからな」
「それもそっか」
よく考えれば、志哲高校は共学校である。単純に生徒数が花女と同じだとするならば、その半数の女子生徒から探し当てなければならない。
「志哲から探すのは最終手段だな。そうすると――あっ、そういや花女のほかに、もう一校女子高がなかったか?」
律夏が思い出したように口にしたその続きは、凪紗にも心当たりのあるものだった。
「ああ、羽丘ね。あそこと迷ったんだったっけ」
羽丘女子学園は、花女と同じように中等部を設けている一貫の女子高である。
凪紗は以前通っていた中学からの進学に際し、進学校だからという教師の勧めを一蹴していたのだった。
「その割には即決だった気がするが」
「うーん、花女の方が制服可愛いしねー」
「まあ、大学進学に関しては心配無用か」
「そーそー。第一、進学校っていったら志哲もそうでしょ?」
「ちなみに、なんで志哲には来なかったんだ?」
「……もう、男子絡みで要らぬ嫉妬を買うのは私も疲れたよ」
「あっ……」
我ながらとんだ思い上がりだと非難されてもおかしくはないと思う。だが、それで散々苦しんだ経験を持っている凪紗は、こと進学先に関しては誰の介入も受けまいと息巻いていたのであった。
「って、違う違う。私の黒歴史の話じゃなくて、バンドメンバーの話をしてたんだった」
「そうだったな。そういや、四人って、そのキーボードとギターボーカルの子の他に、誰かが入ったのか?」
「あ、そっか。有咲の話が急浮上したから触れてなかったんだよね。りみっていう、ベースの子を香澄が見つけてきて――」
律夏の疑問に対して、凪紗が答えようとしたまさにその時、携帯がけたたましく着信音を鳴らせた。
「ん?香澄か……ごめん、ちょっと出るね」
「ああ」
「もしもし?香澄?どうしたのこんな朝かr……もう朝じゃないか、すみません」
『?なんか謝られたけど気にしないで!っていうか、そうじゃなくて、大変だよ凪紗!』
「なに?また有咲の家に突撃したの?」
『今日は行ってない!違くて!りみりんが逃げちゃったの!』
「……逃げちゃった?どういうこと?」
自分の
それよりも、彼女の言葉――先程話題に出た、りみが
事態が掴めず、凪紗はそれを追及した。
『りみりん、バンドやらないって……』
有咲を加入させ、バンド結成に王手を掛けた、と思っていた。だけど、それはあくまで序章のこと。
――どうやら、私たちの道は険しいらしい。
がっくりと項垂れて、凪紗は深く悟りの境地に至るのであった。