屋上というのは、高校生をはじめ多くの若者が憧れを抱く場所ではないだろうか。
授業中、あるいは放課後――誰もいないその空間にひとり佇んでいる、そんな風景を空想しては、まるで世界が自分を気にも留めないような寂寥交じりの解放感に浸ってみたいと思うのが性だ。
一人くらい、そこで寝ていたって世界は知らんぷりで回り続けるだろう――少し後ろ向きな、消極的でアンニュイな特有の思想がカッコいい……恐らく、そう考えていたいつかの黒歴史。
「なあ、北沢」
「んー?」
そんな思考を止めて、昼休みの心地よい涼風の吹き抜けるなか、律夏は恵にそう問いかけた。
紙パックのコーヒー牛乳にストローを挿して吸っていた恵が返事をして振り向くと、長めの髪が風に揺れる。
「
「あがり症――緊張しちゃうってこと?」
「そうだ」
一昨日、凪紗の元に掛かってきた電話は、彼女のバンドメンバーになるという同級生からのものだった。
とにかく超ポジティブなのは分かったが、星耳やらきらきらどきどきやら、彼女にまつわる逸話はあまり言葉を通して理解できるものではなく、律夏は冗談かなにかの類いだと思っていたのだった。
「妹がバンドメンバーを探してるんだけどさ。そのうちの一人から、人前で演奏するのが苦手だって断られたらしい」
「そりゃー致命傷だね」
「まあ、色々あるんだろうけど……」
恵の指摘ももっともであるが、もしかするとその辺りをよく確認せずに誘ってしまったのかもしれない。
後で凪紗に聞かなければ、と考えていると、恵からの意味ありげな視線を感じた。
「……何だ」
「いや。妹思いなんだなって」
「そうでもない。それこそ北沢だって、店番をよく代わってあげてるって言ってただろ」
恵にははぐみという妹がいる。凪紗と同じクラスに所属しているらしい。
彼は兄として、元気いっぱいな妹に振り回されながらも、それを微笑ましく思いながら見守っているのであった。
「あいつはエネルギーに満ち溢れてるからね。店先に閉じ込めておくといつ暴走するか分からないから」
「心配してるんだろ?」
「……まあ、兄として、ね」
ここで「妹さんをください」と懇願すれば、もれなく渾身の一撃をもらうだろう。それくらいの
「まあ、そうだな」
「うん。それで、緊張しちゃう、って話だけどさ。その子は人前で演奏したことあるの?」
「……それが出来ない、って話じゃないのか?」
「まだしたことがないんだとしたら、本当に緊張するのかはやってみないと分からないんじゃない?」
食わず嫌い、みたいな?と付け加えた恵に、律夏は「なるほど」と頷き返した。
強い思い込みか、はたまた他に理由があるのか。単にあがり症では済まないことが確かだが、どうやら、これ以上は想像力を要することになりそうだった。
「完璧主義で、こんなの人様に見せられるレベルじゃない!って考えてるとか」
「ありがちだな。自分に課したハードルが高いってことか」
「そうなると、どうしてそんなに高くなっちゃったのってことになるけど」
この問題の根源はそこにありそうだ。それを絶つか、解決してあげられれば、律夏の知らないその子は凪紗たちのバンドに加入してくれるかもしれない。
実際に動くのは凪紗たちだが、少なくともヒントを与えてあげるくらいのことはしたい。
「完璧主義って、要は理想を追い求めすぎるってことだよな」
「うん。悪いことではないと思うけど、どうしても無理をしてるって印象が先に出てくるんだよね」
無理をしてまで追いかけたい理想が彼女にはあるのだろうか。
彼女が完璧主義であるというのはあくまでも仮定にすぎず、したがってこの思考が実際に意味を成すとは考えにくい。だけど、彼女の背後にあるものが心理的な足枷となっているのなら、それを取り除く方法くらいは見つけておいてもいいだろうと思っていた。
「理想、ね。北沢の理想像ってなんだ?」
「あはは、何それ」
「いや、個人的な興味で」
「うーん……それってどんな意味の理想?」
「なんだっていい。人間として、男として、高校生として、目標みたいな」
「そうだなあ……あ、兄として、なら若葉かな。ザ・お兄ちゃんって感じで」
「俺が?もっと他にいないのかよ」
「意外とこういうのって、身近な人になりやすいよ。周りで下の子がいる子ってあんまり知らないし」
「それは、つまり他に宛がないってことかよ」
「いやいや、尊敬してますよ?」
「胡散臭いなぁ」
嬉しくない尊敬というのも珍しい。
それはともかくとして、理想像というものは近しい存在をモデルとして抱きやすいのは事実だろう。
律夏は、そこに答を見出せることが可能であることを確信したのだった。
♬
「若葉、少しいいか?」
放課後、いつもは帰路を共にしている恵が、店で急ぎの用があると言ってすぐに帰ってしまったので、律夏は図書室で数学の復習をすることにした。ベクトル、数列と苦手な単元が続いていたので、凪紗にからかわれる事態は避けたいのである。
教科書を開いて、苦虫を噛み潰す思いで演習問題と格闘すること小一時間。休憩を挟もうと自販機コーナーへ歩みを進める道すがら、担任の教師である
「はい。何か?」
「こないだの生徒会選挙は知ってるよな。アレなんだが、どうも役員が集まらなくてな。教員推薦枠が設けられた」
「……それで、なぜ俺にその話を?」
「分かってるだろ、図書室に残って復習をするくらいには真面目で努力家な生徒をみすみす野放しにする教師はいない」
正直にいえば、生徒会選挙の最中はずっと居眠りをかましていたのであまり覚えていない。
ずん、と体育教師特有の力で肩に掌を乗せられる。顔には暑苦しい笑顔が貼り付けてあり、サムアップが非常に鬱陶しかった。
「すみません、俺、家のことが」
「それは分かってる。お前も大変だろう。お母様のご様子は?」
「お陰様で、少しずつではありますが改善しています」
「よかった」
今度は腕組をして頷く左門。ジャージの上からでも分かるが、なかなかの筋骨隆々っぷりである。一年前の自分なら張り合いに行っていただろう。
「今回の話は、そういった事情を踏まえてのことだ。公立の当校は指定校推薦枠が非常に少ない。だからこそ、生徒会に所属してくれれば教師陣もお前を指名しやすくなる」
「……!」
彼の表情が途端に真面目になっていたことに、律夏は今になって気が付いた。
ひょっとしたら上手く乗せられている線も捨てきれないが、それを見る限り、彼なりに自分と家のことに最大限配慮しての発言だったと思えるくらいには、真摯さが伝わっていたのだ。
経済的な制約が大きい状況下で、私立大学に行くぐらいであれば高卒で働きに出る道を模索する気でいた律夏は、その提案を受け入れないわけにはいかない。
むしろ、彼に感謝する気持ちが生まれてきたのだった。
「お前が色々と考えて動いていたことを、転校前にお母様から電話越しで聞いた。お節介かもしれないが、俺にできることなら協力させてくれ。教師としてな」
「……すみません。少し誤解してました。ありがとうございます」
「まあその方が都合いいと思ったのは事実だからな」
「事実なのかよ……」
がはは、と豪快に笑い飛ばす担任の姿は、僅かな安堵を含んでいるように見えた。無遠慮に見えて、実のところはデリケートな問題に対して注意深く配慮していたのかもしれないと思うと、何だか似つかわしくない。
「それで、役職とかって決まっているんですか?参加するとは言ってもあまり忙しいと」
「ああ、それについては不足分を補うだけだから安心しろ。今のところ会長と副会長以外なら空いているぞ。選び放題だな」
「それって要職が誰も揃ってないってことじゃないですか」
「まあ、年にもよるが基本定員割れを起こすポストだな。今年は特に少ない」
「そうすると、何をするんですか?」
「役職に就く生徒が少なくなると、書記や会計といった仕事は副会長に回ってくる。そうなれば、お前の仕事は庶務、会長たちの補佐と、校内の取り締まり――風紀委員みたいなものになる」
「その風紀委員はいないんですか?」
「彼らはあくまで学級内の仕事に留まる。まあ、自称進学校たる当校には問題を起こすほどの度胸の持ち主はいない」
「腑抜けと言われているようで素直に喜べませんね……」
「健全であることに越したことはない。何、それともお前には
「いたら一人寂しく図書室で自習なんてしません」
「そうだったな」
「納得しないでくれ……」
日の落ちかかっている廊下を担任に従うように歩く。こうしていれば身辺警護のように見えるのだろうか。
「さっきは選び放題と言ったが、結局は
「今日からですか?」
「というのも、今日は地域各校の生徒会交流会でな。具体的な仕事についても昨年度から続けている生徒に聞くことができる」
「なるほど」
続く説明によれば、本格的な始動は先のことになるらしい。交流会は役職を初めて経験する低学年の生徒に対する、事前のアドバイスも兼ねているという。
「地域各校というのは?」
「羽丘と花咲川だ。どっちも女子校だ、よかったな」
「妹が花咲川なので……滅多なことはできません」
やたらとその手の話を推してくる担任にため息で返す。思春期真っ盛りの高校生にとっては魅力的な話なのかもしれないが、残念ながらそんな暇もなければ心意気もないというのが、自分の枯れっぷりの深刻さを実感させて悲しくなってしまった。
♬
「いやあ、若葉くんが入ってくれてよかったよー」
「まあ、内申目的なのであまり偉そうなことは言えませんが」
自分を超える筋肉質な彼に連れられて生徒会室に入ってみれば、一人の女生徒――志哲高校の生徒会長である上原ひかりが歓喜の表情で律夏を出迎えた。
その髪色は、すっかり散ってしまった桜の色を想起させ、それを左右に留めたヘアピンの間の額が眩しい。
歓迎の熱烈ぶりに面食らった律夏は、激しく上下に振られる腕をそのままに、しばらく呆気にとられていたが、もはや恐怖とまで言えるにやつきを残して教室から出ていった左門への怒りに、自我を取り戻したのだった。
「それで、副会長は?」
「それがねー、今日はお店の手伝いがどうのって、先に帰っちゃって」
「店?」
「あれ、聞いてない?北沢恵くん、確か同じ二年生だったよね?」
「……同級生です」
「それはよかった!」
天真爛漫な笑顔を見せるひかりとは対照的に、衝撃のあまり表情が神妙なものになってしまった律夏。生徒会選挙を眠って過ごすと知るべきことを知ることができないのだと悟った。
ふと、眼前にあったそれまでの笑顔が、真剣なものへと変化していることに気付く。
「……あと、左門先生からご家庭の事情を聞いたんだけど」
「そうなんですか」
控えめな口調が、努めてこちらに気を遣っていることを伝えていた。
正直に言えば、この人に務まるのかと一瞬でも疑ってしまうくらいには、纏っている雰囲気が女子高生らしく(失礼なのだが)、律夏が少しだけ驚いたのはそれが理由だった。
「その感じだと、先生はそのことを言ってなかったんだね。……まったく」
「いえ、気にしていないので大丈夫です。……ただ、その都合で」
「仕事のことならそれこそ気にしないで!基本は私と副会長がいるから」
総てを、というわけではないだろうが、左門が若葉家の事情を伝えていることは予想ができていた。仕事によっては積極的に参加することが厳しい場合もあるだろう。説明や誤魔化しの手間を省くためでもあるのだろう。
「妹さんがいるんだよね。この辺りの学校に通ってるの?」
「ええ。花咲川です。今年から」
「そうなんだ!私にも一年生の妹がいるよ。羽丘に行ってるんだ」
「羽丘……やっぱり受験は難しいんですか?」
「そうだね、でも、できる姉がいますから!」
胸を張って威張るふりをするひかり。この学校に入学しただけの学力のこともあるが、しっかり者の姉らしい。どうやら最初の印象とは違っていたらしいと認識を改める。
――なんだか慎ましいな、と思ってしまったことは口が裂けても言えまい。
「若葉くんだってそうでしょ?」
「いえ。それが妹の方が勉強はできるんですよ。もう高校範囲も終えてしまったくらいで」
「……マジ?」
「マジです。だから勉強には手を抜けなくて」
「できる妹ってのも大変だねえ……」
「先輩の妹さんはどうですか?」
「うーん、まあすっごい可愛いのは言うまでもないんだけどね。ちょっとおっちょこちょいで空回りしちゃうところもあるかな。あっ、でもそれも可愛いっていうか」
――これは重度のシスコンだな。
これでは我らが志哲のツートップがシスコンになってしまう。その上、庶務兼風紀委員長までもが妹もちとなると、あらぬ噂を流されることになって困るのは自分だ。
律夏は最大限の警戒をもって答えるのであった。
「溺愛ぶりがすごいですね」
「妹なんてみんなそんなものでしょー?若葉くんだって、そういう思いがあるからこそ、家の仕事を買って出たんじゃない?」
「……否定はしませんが」
「ふふ。ツンデレでおまけにシスコンだ」
「あなたに言われたくないんですけど……」
兄弟事情にはそれぞれに差があるとはいえ、どの家庭でも兄や姉の気持ちはそう大きく変わらないようであった。