狸寝入りのナーベラル 作:笹鍋
「<
感情が一切込められていないような冷酷な声がそう呟く。死を宣告するかのように向けられた指先から矢庭に白い稲妻が迸り、
それを齎した
圧倒的なまでの力を見せて醜悪なモンスターの集団を殲滅した魔術師は、凄惨たる様相の戦場であったそこからふわりと跳躍して、馬車の中で腰を抜かしている少女の近くに音もなく降り立つと、
「向かってきた雑魚は全て殺しました。行きましょう」
とこれも感情の籠っていない表情でそう促した。人類の最終兵器、切り札とも呼ばれる英雄の中の英雄の
エマ・トルデリーゼ・デイル・ケステンが城塞都市エ・ランテルに逗留することになったのは、他ならぬ彼女自身の願いによるものであった。
両親に蝶よ花よと育てられた箱入り娘のエマが、家の中でも楽しめる数少ない趣味のひとつとして読書を選択したのは、ごく自然な流れだった。家の者も、書斎に引きこもりがちな男爵令嬢に苦笑しながらも、嬉々とした面様で本を読み耽るエマの妨げになるようなことはしなかった。彼女の父であるケステン男爵その人も生粋の読書家であったことも影響しているだろう。
初め彼女は、父の私蔵する様々なジャンルの書冊を無作為に選んで読んでいたが、暫くして小説のような散文で作成された物語を好むようになった。その中でもエマの琴線に触れたのは、二百年程前に存在したという十三英雄の活躍を描いた冒険譚であった。世界を滅ぼしうる力を持つとまで言われた魔神に勇敢に立ち向かう彼らの姿は、エマの好奇心を刺激し、冒険への期待と渇望を生み出した。御伽噺の中の存在ではない、現実に生きている冒険者たちの存在への興味も並々ならぬものになった。
そのため、ケステン男爵が仕事でエ・ランテルに向かうことになったと彼女が聞けば、自分も付いていくと言い出すであろうことはケステン家に連なる者であれば誰もが予想できた。実際、そうなった。
「だめだ」
「どうして?!お父様のお仕事の邪魔はしません!だから、お願い!」
エ・ランテルにはリ・エスティーゼ王国三番目のアダマンタイト級冒険者、『漆黒』が誕生したという。『朱の雫』や『青の薔薇』はケステン領から遠く離れた王都を拠点としているため諦めもついたが、『漆黒』が根城としている都市はここから馬を走らせれば半日もかからない近郊にある。なかなか外出を許されないエマにとっては、生ける伝説に実際に会うことのできる千載一遇の機会だった。
「それでも、だめだ」
しかしエマの父であるケステン男爵は首を縦には降らない。
「お父様!」
「……お前はまだ六つだ。エ・ランテルがいくら近場にあるとはいっても、道中には魔物や野盗が出る。私も護衛は雇うが、まだ幼いお前を守り切れるという保証はないんだ」
「
「
むうぅ、と可愛らしく頬を膨らませる娘に、優秀な領主として民に知られている男は、やはり前言を撤回して連れて行ってやろうかと咄嗟に考えてしまったが、彼の父親としての意地が何とかその甘い誘惑を振り払った。
「第一、今回は仕事で行くんだ。そこに娘がいれば、ケステン男爵は公私の別ができない愚物だと評されてしまう。エマは、お父さんがそんな風に思われてもいいのかい?」
「――それは!」
嫌だ、と言おうとして、エマはそこで言葉を止めた。父が周りから悪評を買うのは本意ではないが、それを素直に口に出せば自分はこのまま言いくるめられてしまうだろう。
黙り込んだ娘を見て、ケステン男爵は嬉しそうに何度も頷いた。
「じゃあ、今回はお母さんと一緒にお留守番を頼むよ。お土産は買ってくるから」
「……」
何も言い返せなかったエマだったが、ふと先の父の『護衛』という言葉を思い出した瞬間、彼女の脳に閃きが走った。
「出立は一週間後だが、私も準備がある。この間新しく買ってきた本があるから、それを読んでい――」
「それです!」
「な、なに?」
「『護衛』を雇えばいいんです!」
エ・ランテルへの道中の護衛として『漆黒』を雇えばいいではないか。父が不安がっているのは自分の身の安全についてだと、エマは幼いながらも理解していた。だが、『漆黒』は噂に名高いアダマンタイト級冒険者だ。英雄の中の英雄である彼らが用心棒として同行すれば、父の心配は無用の長物となる。
話を突然遮られたかと思えば、訳の分からない科白を吐かれ目を白黒させている男爵を尻目に、エマは自信満々で自分の考えを説明した。しかし、彼女の予想とは反対に父は難しい顔をした。
「それは悪くない提案だと思う。だが、問題はある。まず、私の仕事中、エマはひとりになってしまう。先程も言ったように、仕事場にお前を連れていくことはできないからな。それに、金も足りるかどうかは怪しいところだ」
幼い娘にも伝わるよう、男爵は言葉を選びながら慎重に答えた。
「最高位冒険者である『漆黒』の実力は確かだろうが、依頼料もそれに比例して高くなるんだ。……うちは確かに貴族だが、湯水のように金があるという訳じゃない。領民の血税――町の人たちのお金を私たちが貰っているのは、エマも知っているだろう?」
うん、と首肯するエマに彼は満足そうな表情を浮かべると、続けた。
「だからといって、彼らからもっとお金を貰うという訳にはいかない。この辺りについては、これから学ぶ機会があると思うが――つまるところは、『漆黒』に依頼をできる程、我が家に財政的な余裕はないんだよ」
そう締めたケステンは、エマが理解できたかどうか、その顔色をじっと観察していたようだったが、彼女は納得していなかった。
(なんで?もっと平民からお金を取ればいいじゃない!どうしてお父様はそうしないの?)
確かに、徴税の仕組みについては教師に学んで知識として持ってはいたが、父の治める領地に住んでいるのだから、税を引き上げても領民から文句を言われる筋合いはないとエマは考えていた。
だが、これに関して問い詰めると面倒臭いことになりそうだ、とエマは直感していたため、そう口に出すことはしなかった。しかし疑問はもうひとつある。
「なら、『漆黒』のどちらか一方を呼べばいいのではないですか?」
「うん?」
「『漆黒』は戦士と
「……」
「エ・ランテルに滞在中も、その方に侍衛を務めてもらえばよいのです。そうすれば、お父様の言う『問題』は全て解決です」
冒険者がどのように依頼を請け負っているのか、エマが知っていることは決して多くはなかったが、それは難しい方法ではないように思えた。黙り込んだ父を不思議に思い、声を掛ける。
「お父様?」
「……いや、はははっ、エマには敵わないな。うん、もしかしたらそういう可能性はあるかもしれない。明日、エ・ランテルの冒険者組合に使いを出そう」
父の言葉の意味を理解した瞬間、エマは身体の芯から沸き上がる歓喜を堪えきれず、兎が跳ねるように飛び上がってはしゃいだ。
出立の日、ケステン男爵の屋敷に訪れた人物を見て、エマは絵本の中のお姫様が現実に飛び出してきたのではないかと思った。
茶色いローブを羽織った、一般的な
ここまで美しい女性とは出会ったことがなかったのだろう、エマより先に顔合わせを行っているはずの男爵も、どこか落ち着かない様子であった。
「あー、ナーベさん、こちらが私の娘です。エマ、ご挨拶を」
目の前にいるのが、エ・ランテルまで護衛を務めることになった冒険者であることを思い出し、エマは慌てて貴族としての礼を取った。
「貴女がアダマンタイト級冒険者、『漆黒』のナーベさんですね!エマ・トルデリーゼ・デイル・ケステンです!よろしくお願いします!」
「お初にお目にかかります、ナーベです。よろしくお願いします」
エマは目を丸くした。男爵家の令嬢である自分を前にした領民はみなへりくだった態度を取る。しかしこのナーベと名乗った女性は、軽く目礼をしただけで、挨拶の言葉も必要最低限といったものだ。
エマの隣で苦虫を嚙み潰したような表情を一瞬だけ浮かべた男爵は、それきり黙った二人の間を取り持つかのように口を開いた。
「既にナーベさんにはご説明させていただいておりますが、今回は私どもの、恥ずかしながら金銭的な問題で『漆黒』というチームではなく、ナーベさん個人に依頼を引き受けていただく形となりました。このような特殊な依頼にも関わらず、こうして来てくださったナーベさんには感謝を申し上げたい」
普通貴族は、自らを卑下することをよしとしない。そうすれば家全体が貶められ、家格そのものが下がる危険があるからだ。格上の貴族相手ならいざ知らず、一介の冒険者に過ぎないナーベ相手に弱みを見せるようなケステン男爵の発言はありえないものだったが、アダマンタイト級冒険者であるナーベと良好な関係を築くことができればその程度お釣りがくると男爵が考えた結果である。だがナーベはそれに気づいた素振りすら見せず、抑揚のない機械じみた声で答えた。
「いえ、問題ありません。モモンさんが『せっかくの名指しの依頼だから』とおっしゃったので、私はそれに従ったまでです」
“美姫”ナーベがモモンの従者であるという噂は真実であったか。思いがけぬ収穫に男爵は内心密かに陰湿な喜びを得たが、表面上は平静を装いながら今回の依頼内容について改めて説明を始めた。
「ナーベさんには、私たち一行がエ・ランテルに向かう道中、そしてそこから帰還するまでの道中の護衛をお願いします。エ・ランテルでは五日間程留まる予定ですが、その間はエマの警護をお願いしたい」
「了解しました」
「向こう一週間の短い付き合いにはなりますが、どうぞよしなに」
ケステン男爵はそう言うと仏頂面の魔術師に向かって右手を差し出したが、ナーベはそれを一瞥しただけで握手に応じようとはせず、小さく俯くことで返答とした。それが、ナーベの会釈であるということにエマはやや遅れて気が付いた。
父は今度は厳しい顔つきを隠さなかった。彼が「だからモモンの方がいいんじゃないかと言ったんだ」とぼそりと独り言ちるのがエマの耳に聞こえた。
憧れの『漆黒』の片割れを目の前にして、エマは自分が思いの外落ち着いていることに驚いていた。ナーベはそれほどまでに美しかったのだ。夢にまで見た英雄との邂逅であるということをエマに忘れさせてしまう程、彼女は美しすぎた。
霧がかかったかのように凪いだ心はしかし、現れたモンスター相手にその力を発揮したナーベの姿に沸き立つような昂りを覚えた。
(……すごい!すごいすごい、すごい!)
一騎当千のその姿は、まさに本の中の英雄そのままである。外見はどちらかというと英雄に守られる姫君のようであったが、首から掛けたアダマンタイトのプレートは伊達ではなかった。
一行を乗せた馬車が屋敷を出発してからすぐに、ナーベは最高位冒険者の名に違わぬ働きぶりを見せた。それを使えれば一流と目される第三位階の魔法を惜しげもなく放ち、彼女のしなやかな指先から放たれる雷は
ケステン男爵はナーベの他にも数人の冒険者を雇ってはいたが、彼らを含む一行の全員が羞花閉月の
「流石にアダマンタイト級と言わざるを得ませんな」
「全くだ。旦那、俺らは必要なかったんじゃないですかい?あのお姫様ひとりで十分だったでしょうよ」
自分たちのトップに立つ
「いくらアダマンタイトとはいえ、
王国では魔法への無理解と軽視が根付いてしまっており、魔法と密接に関わる職業の者以外は、バハルス帝国に籍を置く
貴族の中では、比較的有能であるという評価を得ているケステン男爵も例外ではなかった。だが、ナーベの圧倒的な力は、彼のその偏見をも覆したのだ。
「こいつらを追加で雇ったせいで旅費として用意した資金は残り少なくなってしまったが……高い授業料を払ったと思っておくか。帰りはナーベ嬢だけでもよさそうだな」
当の魔術師本人は飄々としている。男爵はやれやれ、というふうに力なく笑った。
(お父様も呆れる程ナーベさんはすごいんだ……!)
エマは堅物の父すらも唸らせるナーベにひどく心酔した。エマから見ても、その力は想像以上だった。もちろん、第三位階を使いこなす
ケステン家の御者が操る馬はエマ、男爵、男爵秘書と侍女が乗った馬車を牽いている。
エマは決心した。
早朝に出発した一行だったが、太陽が昇り切った頃に一旦休息を取ることになった。
見晴らしのよい平地で各々が疲労の溜まり出した身体を伸ばす中、エマはすぐさま馬車から降り、腰を下ろすでもなく周囲を見回しているナーベに駆け寄った。
「あのっ!」
「何でしょうか?」
「ナーベさんは、どうしてそんなに綺麗なのにそんなに強いんですか!」
「……その質問に何の意味があるのでしょう」
人形のように表情がなかった魔術師は、その顔をやや苛立っているのか微妙に顰めた。
「私も強くなりたいからです!」
思いもよらないところを問われたエマは、それでもはっきりと即答した。
「は?」
最早苛立ちを隠そうともしないナーベに気圧されながらも、少女は怯まずに続けた。
「冒険者になって、世界中を旅してみたいんです!そのために、強くなる必要があるんです!」
父にも母にも言ったことのなかった自分の夢を、エマは正面に立つポニーテールの
「お父様やお母様は、私をあまりお屋敷から出してくれないけれど――ナーベさんくらい強くなったら、きっと冒険に出るのを許してくれます!だから、知りたいんです!」
教えて下さい、とエマはその小さな頭を下げた。
小説の登場人物たちは、大陸中の秘境を巡り、そこに巣くう強大な魔獣を倒し、隠された宝を見つけ出す。ページを捲るたびにエマの心を躍らせる冒険劇は、しばしば物語世界に彼女を深く没入させた。
初めは、彼らのような英雄であるアダマンタイト級冒険者である『漆黒』に会ってみたい、というただの好奇心から今回同道を父に頼み込んだエマだったが、不世出の魔術師であるナーベに師事すれば自分が冒険者になることだって可能なのではないか、と彼女は考えたのだ。過保護な両親も、地位や実力が確かなナーベに教えを乞うた結果エマが力を身につけたと知れば、家を出るのも許可してくれるかもしれない。ナーベがここまで唱えた魔法の種類は二つのみだったが、その魔法はいずれも凄まじい威力を誇った。ナーベに魔法を教わり、鋸刃のような雷を自由自在に操る己をエマは幻視した。非力な自分では、戦士であるモモンより
「話にならない」
エマが密かに抱いていた願望を、ナーベははぁ、と溜息を吐くと残酷にもそう一蹴した。幼い少女の必死の侵攻は、美姫の牙城を崩すには至らなかった。
「
げじむし?と首をひねる少女をナーベは冷酷な目つきで見下ろすと、話は終わりだとばかりに彼女に背を向けた。ついさっき氷河から切り出してきたかのような、硬く冷え切った目だった。
遠巻きに二人の様子を見守っていた冒険者たちが、話が終わったと見るや否や一斉にナーベに群がる。憧れの英雄を目前にした少年のようなきらきらとした彼らの眼は、エマがナーベに向けるそれと大差がない。
どうやら自分は拒否されたようだ、とエマは理解した。それも、これ以上ないという程はっきりと。冒険者に対するナーベの対応も似たようなものだが、そちらはまだ玉虫色な表現が多い。自分は嫌われたのだろうか、とエマは落ち込んだ。ナーベが、特に冒険者相手には極力敵を作らないようにしておけ、と主人に言い含められている結果がその差だとは、エマは知る由もなかった。だからといって、それ以外の者はおざなりな対応でよいなどとは彼女の主人は一言も言っていないのだが。
その後、数度に渡り発生したモンスターの襲撃を、ナーベはほぼ彼女のみの力で捌き切った。ケステン男爵が保険として用意した
一度だけ野盗の集団が現れたが、ナーベはそれらも顔色ひとつ変えずに殺し尽くした。貴族の馬車と見て、にやついた表情で現れた汚い身なりの男たちに、無慈悲な雷光が平等に襲い掛かり彼らを焼き払った。まず、斥候も兼ねていたのだろう弓兵が死んだ。次に野盗の頭目らしい大柄な男が塵になった。その後はただの作業のような、戦闘とも呼べない一方的な殺戮が行われた。この戦いを本に書いたとしたら、梗概だけで完結してしまいそうな瞬きの間の殺戮だ。後に残ったのは、超高熱の塊が通り過ぎたかのような大きな穴を腹部に空ける屍と、新鮮な肉が焦げたような匂いを漂わせる死灰であった。
いくら犯罪者とはいえ、人間を弑することに一切の躊躇を見せない美姫の態度に、尊敬の眼差しを向けていた冒険者たちも言葉を失っていた。
陽が落ち切ろうかという夕暮れ時と夜の境目に一行はエ・ランテルに到着した。ナーベ以外の冒険者たちはこれで依頼達成、解散となった。
依頼主である男爵、そしてナーベと一言ずつ言葉を交わした彼らは、当初よりは落ち着いた様子であったが、それでも別れ際に深々とお辞儀をしていた。この国の王を相手にしても彼らはそこまでの角度になるだろうかという深い会釈を見ても、ナーベは特に何も感じるところはないようで、至極どうでもいいという顔つきをしていた。エマが屋敷の庭に巣を作る蟻を見てもその生態に関心を持たないのと同様に、まるで人間という種そのものに興味がないような、そんな淡々とした水の流れのようなものをエマはナーベに感じた。
冒険者たちと別れた一行は、予定通りこれから五日間を過ごす宿屋に向かうことになった。エ・ランテル最高の宿屋『黄金の輝き亭』には数段劣るものの、貴族が泊まるにはぎりぎり合格ラインの比較的高級な宿だ。
『漆黒』という人類の守り手が住まう街は、まばらに行き交う人々にも活気が溢れている。明日がよりよいものになるだろうと信じてやまないような希望に満ちた表情が、ケステン家の馬車に随行して歩くナーベの姿を認めると浮かべられる。彼女を見た者は、すぐにきょろきょろといるはずの誰かを探しているかのように視線を左右に動かしているが、モモンもいるのではと思っての行動だろう。ナーベもその絶世の美貌でこの都市では知らぬ者がいないほど名を轟かせているが、『漆黒』は戦士の方が民に人気らしい、とエマは聞いたことがあった。温厚で慈悲深く、人を守るために活動しているという比類なき英雄は、この街に住む誰からも慕われている。
目的の宿屋に辿り着くと、ナーベはここで一旦お役御免となる。彼女の仕事は、ケステン領とエ・ランテル間の往復の際に男爵たちを守ること、そして男爵が仕事の間この城塞都市を観光する予定のエマを護衛することだ。従って彼らが宿で眠る夜の間は自由行動となっている。そもそも、その時間までナーベを縛り付けるような依頼では、いくらモモンがいない分安上がりだとは言っても男爵には払い切れないような高額になる。結局予定していた範囲内には費用が収まらず、男爵は愛する娘のためにポケットマネーからも幾らか捻出しているという状況なのだ。そこまでの余裕はなかった。
「では、また明日よろしくお願いします」
「分かりました」
ケステン男爵の言葉に首肯したナーベは、彼女がモモンと共に寝泊まりをしているという『黄金の輝き亭』のある方角へ足を向けた。結局、あれからエマはナーベとまともに話せていない。彼女は徹底的にエマに対して無関心な態度を貫いている。
しかし、明日からナーベは暫くエマと共に行動するのだ。それが彼女にされた依頼だからである。その間に、何としてもナーベの強さの秘訣を教えてもらわなければ。
エマの胸中を占めているのは、一貫して揺るぎのない決意であった。
明くる朝、冒険者組合を見に行くと言い出した娘に、貴族の淑女が行くような場所ではない、と思い直すようケステン男爵は必死に説得した。エマの何を言われようと聞き入れないという頑固な態度に、それならばせめてと侍女を付けようとしたが、それすらも彼女は首を縦には振らなかった。
「ナーベさんがいるから大丈夫です」
そのナーベがどうやら人間性に問題のある人物だということが分かったから心配なのではないか。しかし親の心子知らず、エマは結局、契約通りやって来たナーベを伴い宿を発った。
組合へ続く道をナーベに案内されながら歩いていると、やはりと言うべきか、貴族の娘らしく上質な衣服を身につけているまだ幼い少女と、美姫という二つ名を持つアダマンタイト級の
眩いばかりの朝日が、昨晩は夜闇に隠されていた街並みを顕にしていた。石造りの建物が整然と並ぶ風景は、ケステン領のそれより遥かに発展している。赤い煉瓦で覆われた家々は、エマを歓迎するかのように温かみを持って佇んでいた。
洒落た街路灯が両側を飾っている道をナーベと進むと、他の建築物よりひとまわり大きな建物が目に入った。交差した二本の長剣を載せた木盾のようなエンブレムは、冒険者組合のそれだ。興奮したエマは駆け出し、重厚な威圧感を持って聳え立つその建物を見上げた。
(これがあの冒険者組合……!)
エマの三倍ほどもある巨大な扉を開けると、奥のカウンターで数人の受付嬢が笑顔で冒険者たちの相手をしているのが見える。昨日まで一緒にいた冒険者たちと同じような格好をしている者が多いが、中にはナーベのような地味な色のローブを身に纏い、手にはスタッフを持ついかにもといった風貌の
入り口に姿を現した小さな少女に、幾人かの冒険者が目を丸くするが、彼らは一拍遅れて入ってきたナーベの姿を見てああ、と納得したかのように頷き、それきり興味を失って先程まで興じていた雑談に戻る。彼らは、この貴族然とした格好の少女がナーベの依頼主で、ナーベは今仕事中なのだと理解したのだろう。
本で読んだ通りの光景が中に広がっていることに感動を覚えつつも、エマはずかずかとカウンターの方へ歩み寄る。手の空いていた受付嬢のひとりが、にこやかな表情で彼女に笑いかけた。
「こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか」
貴族の令嬢らしい外見とはいえまだ幼いエマに丁寧な対応をする女性は、エマの後ろに立つナーベの方を気にしているようであった。しかし次のエマの発言に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「冒険者になりたいの!」
そこで初めて受付嬢は、ナーベではなくエマに注意を向けたようだった。未成熟な顔をまじまじと覗き込み、彼女が本心で言っていると感じ取ったらしい。
組合の制服に身を包んだ受付嬢は、くすりと微笑むと、優しげな瞳をした。
「申し訳ございません。冒険者として登録を行うためには一定の年齢に達していなければなりませんので、本日お客様がご登録することはできません」
それは嘘だった。組合の規則にそのようなものはなかったが、あまりに幼すぎる者はそれとなく追い返すというのが暗黙のルールとして存在していた。
長命な
「私、もう六歳なんだよ!それでもだめ?」
「申し訳ありませんが、規則ですので」
「読み書きもできるよ!」
「申し訳ありませんが」
「嫌いな野菜だってちゃんと食べるし!」
「すみません」
「こないだなんて――」
「おい、
諦めきれないエマが粘り続けていると、それまで石像のようにだんまりを決め込んでいたナーベが口を開いた。
「どうしても冒険者になりたいというのなら、私がいい場所に連れて行ってあげる」
ナーベの提案に一も二もなく同意したエマが彼女に連れられて来たのは、人気のない路地裏だった。
こんな場所で何を、とエマが困惑していると、ナーベが私に摑まりなさい、とローブの裾を差し出してきた。腫れ物に触るかのようにエマがそれを握ると、ナーベが何やら魔法を唱えた。
「わあっ!」
すると周囲の世界が急速に滲み出し、いきなり目の前で白い爆発が起こったかのようにエマの視界は強烈な光に包まれた。軽い眩暈すら感じさせるそれは、しかし一瞬で掻き消え、代わりに目の前に広がったのは、先程までエマたちがいた仄暗い裏通りとは似ても似つかない光景であった。
エマがいたのは鬱蒼と生い茂る雑木林の中だった。迷い込んできたエマを森そのものが拒絶しているかのような、重苦しい雰囲気が森全体に立ち込めている。
(えええ、な、何これ!?)
あまりの変化に驚愕していたエマだったが、この奇怪な現象を齎した魔術師がいつの間にかいなくなっていることに気が付いた。ここに来るまでは確かに隣にいたのに。エマの小さな手には、まだ滑らかな布地の感触が残っていた。
「あ、あれ?!ナーベさん!ナーベさーん!」
全てを知っているはずの
(――!)
小さな、子供くらいの身長をした生き物が、エマが思い切り声を張り上げれば届くくらいの距離に立っていた。
人間と猿のハーフのような顔は潰れていて、エマへの敵意に歪んでいる。動物の皮をなめした粗雑な造りの鎧を纏い、その下には汚らわしい襤褸切れを着込んでいる。嫌悪感を催させる醜悪な存在は、間違いなく
しかも、その数は一匹ではない。十数匹の
「う、うあ……」
ナーベがいない。その事実は、エマを恐怖の底に叩き落とすのに十分だった。不安が次第に増長し、脈拍が高まるのを感じた。奥歯がガチガチと音を立て始め、膝頭は自然と震え出した。
エマが僅かに後ずさった瞬間、
片手に持つ木でできた
「うああああ!」
自分に迫る命の危機を本能で察知し、気が狂いそうな恐怖に突き動かされてエマは
生死の瀬戸際に追い詰められた生物の本能は、肉体の本来の能力を凌駕する。驚くほど俊敏に駆けるエマと化物の差は暫くの間縮まらなかったが、先に疲労を見せたのはエマの方だった。
もともと、彼我の身体能力の差は大きい。肩で息をし始めたエマと
「あ、あ、あああああ!」
背後に迫る狩人の吐息を錯覚して、エマは血も凍る程の恐ろしさを覚え、悲鳴を上げる身体に鞭打ち走り続けた。
だが、彼女はここが森の中であるということを忘れていた。大地に這う細長い木の根に足を引っかけ、転ぶ、と思った瞬間にはもう地面が目の先にあった。鼻を思いっ切り殴られたかのような衝撃が走り、身体がぐるりと回転する。一寸遅れて突き刺すような痛みが広がった。
エマが痛みに呻いていると、完全に獲物に追い付き、気味の悪い笑みをその不細工な顔にこびりつかせた
「ぎぃやああああああ!」
背骨が折れたかと思う程のショックが脳天に突き抜け、エマは身体を燃え盛る炎で炙られているような熱さを背中に感じた。最早エマは、傷ついた牛のように叫ぶほかなかった。
(わたしは、ここで、死ぬの……?)
意識が朦朧とし始め、段々夢の中に引きずり込まれるようなぼんやりとした感覚に襲われる。呆けたような状態の脳が、その最後の力を振り絞り、今まさにエマにとどめの一撃を加えようとしている
(いや、いやだ……)
死から足掻き続ける脳とは反対に、エマの身体は動かない。白く染まり始めた視界の隅で、再び
「<
だが、それがエマに振り下ろされることはなかった。
「<
聞き覚えのある凛々しい声が響いたかと思えば、龍の如くのたうつ雷撃が一本、落雷にも似た放電を発しながら中空を駆けていく。龍の怒りは相対する者の希望という感情をを根こそぎ攫っていくような荒々しい轟音を立てて、
生命を内側から食い破るかのような激しい閃裂は、
ただの一撃で全ての
「<
魔法の込められた
「ほら、もう立てるでしょ」
先刻までの濡れ雑巾のように重かった身体が嘘のように軽くなり、エマは恐る恐る立ち上がった。
「……あ、ありがとうございました。ナーベさん」
絶体絶命の危機を救ってくれた
「お前、馬鹿なの?戦う力もないゴミが冒険者になりたい冒険者になりたいと喧しくてあまりにも苛々したから、身の程を弁えさせようと私がこうなるように仕組んだのよ?分かってる?」
「でも、それは私のためを思ってしてくれたんですよね?だから、ありがとうございます」
「……呆れた。餓鬼とはいえここまでの能無しとは……」
治癒が使えるようアイテムまでお借りしてきたのに、と頭を押さえて眉を顰めるナーベはひどく小さな声で呟いた。
「アインズ様にこの
考え込むような仕草をしている命の恩人に、エマはどうしたんですか?と不思議そうに声をかけた。
今の自分には冒険者は無理だ、と判断したエマは、男爵が職務に励む残りの四日間を宿で本を読むことで過ごした。エ・ランテルには屋敷にはなかった様々な種類の本が売られていたが、彼女が特に気に入ったのは、『漆黒』がエ・ランテルで冒険者となってから果たしてきた数々の偉業を物語のようにリズミカルな筆致で書き記した英雄譚だった。そこには、雷の攻撃魔法を使いこなして漆黒の鎧の戦士を支援する、エマがよく知る人物となった
我が儘を通して冒険者組合に早朝出かけた娘が、夜更けにナーベと共にやっと帰って来たかと思えば一転しておとなしく読書に耽溺している姿に、男爵はやや困惑しながらも冒険者の現実を見て諦めてくれたのだろうと喜んでいた。
実際のところエマは諦めていない。確かに今はモンスターと戦う力は自分にはない。どの小説の中でも雑魚扱いの
あれは第三位階等という生半可なものではない。第四位階、いや、真の英雄のみが辿り着けるとされる第五位階の魔法かもしれない。かの十三英雄にすらその実力は匹敵しているのではないかと思えるほどの一撃だった。
そんな歴史に刻まれるべき伝説を目撃したのだ。あの人を人と思わない冷淡な魔術師に師事することは叶わなかったが、自分の経験はそれにも等しい貴重なものだろう。
エマは彼女に教え込まれた己の無力さを忘れることなく、自らの修練のみで実力を磨くことにしたのだ。温かい家の中で本を読んでいる、英雄に憧れるだけの少女ではない。帰ったら、まず魔法の仕組みについて勉強するところから始めよう。そうして、ひとつずつ自分でも使いこなせる程度の魔法を覚えていこう。
そんな娘の心変わりの様相など与り知らぬ男爵は、安心したままエ・ランテルでの仕事を終え、ケステン領に帰還する日がやって来た。
帰りの護衛はナーベひとりだけだ。しかし彼女の魔術師としての腕が確かであることは、もう一行の全員が知っていた。
人数が減ったため向かう時よりも短時間でケステン領の屋敷に到着したが、それでも陽はまもなく沈もうというところである。主人が不在のケステン家は静寂に包まれていた。
「ナーベさん、この度はいろいろとお世話になりました」
「いえ、これが仕事ですので」
長旅でも相変わらず疲れた様子を見せない
エマは馬車を下りたときの姿勢のまま微動だにせず無言で立ち続けている。少女を見下ろす黒髪の魔術師は、ふ、と嘲るような笑みを浮かべた後、彼女の帰るべき場所に戻るためくるりと背を向けた。
夜の帳が容赦なく下りようとしている。薄闇に溶け込む魔術師の黒髪が見えなくなるまで、エマはその後ろ姿をいつまでも見つめ続けていた。