狸寝入りのナーベラル 作:笹鍋
膨大な額の予算をつぎ込んで造られた海外映画の撮影セットでもここまでにはならないだろうという贅の限りを尽くした巨大な墳墓。主の権力を示威するためかどうかは定かでないが、訪れた者は神代の力を感じずにはいられない現実を超越した至高の美を誇るその場所の、執務室として使われている一室に、支配者たる
アインズは、その長身に合わせて製作されたラージサイズのオフィスチェアに腰掛け、目の前の正体不明の物体を右手で摘まむようにして矯めつ眇めつ眺めていた。
「それで?パンドラズ・アクター、私に人払いをさせてまで見せたいというこのアイテムは一体何なんだ?」
欧州アーコロジー戦争で話題になったネオナチ親衛隊の制服に酷似した軍服を着ている
「よくぞ聞いて下さいました、父上!」
誰が父上だ、誰が。そう反射的に言い返そうとしたアインズは、その呼称の許可を出したのが他ならぬ自分であったことを思い出す。
「そのアイテムは、私が『完全なる狂騒・改』を基に更に改良を完成させて作り上げた珠玉の逸品、『完全なる純情』でございます!」
仰々しい動作で高らかに謳い上げたパンドラズ・アクターにアインズは感じないはずの頭痛を感じた。しかしそれよりも衝撃的な言葉が聞こえたような気がする。
(ちょっと待て!こいつ今、なんつった?!)
「
(絶対に碌なもんじゃない!)
アインズの脳裏に忌々しい記憶が蘇る。
発動すれば、アンデッドに精神攻撃が一時間だけ効くようになるというユグドラシル時代は非常に微妙な効果だった『完全なる狂騒』が齎した、プレアデスを巻き込んでの大騒ぎ。
その改良バージョンである、パンドラズ・アクター謹製のマジックアイテム『完全なる狂騒・改』が呼び込んだ、阿鼻叫喚の地獄絵図。
二度あることは三度ある。宝物殿の領域守護者が今回持ってきたのは、あの災厄を再び起こす悪魔の代物なのではないか。
(いや、俺がNPCたちともっと仲良くなれるかと思って始めたことなんだから、そもそもの原因は俺にあるんだけどさ!)
不運な事故であった一度目はともかく、二度目はアインズが自らの意思で起こしたことだ。
だがアインズは、ただの変態と化した
パンドラズ・アクターは、そんな創造主の懸念を見透かしているかの如く、その卵頭をぐいとアインズに近づけて囁いた。
「もちろん、父上がご憂慮されていることも承知しております。本音を引き出させるというのは、精神へのアプローチとして最も難しい干渉であることは、父上もご存知でしょう」
「近い近い!ええい、離れろ!」
「おっと、これは失礼。……
(そういえば、デミウルゴスやセバス、プレアデスたちには効果がなかったな。……いや、セバスには効いていたんだっけ?)
アインズは何百層、何千層にも連なる記憶の引き出し、まだまだ上の方にある部類のそれを開けて目的のメモリデータを手繰り寄せる。
「まあ、あれは試作品だったので、完成品の方では改善されているのですが……今父上の御手にある
「ふむ?その説明ではまだよく分からないが……<
アインズは存在しない目を驚愕に見開く。
「魔法の込められた弾丸を発射し、それが命中した者の思考を垂れ流しにさせる――だと?!」
唖然としている主人の姿に、パンドラズ・アクターはその通り!と舞台役者のようにオーバーな動きで両腕を広げた。
「
「な、なんということだ……」
――完璧だ。
(最高のアイテムじゃないか!)
これこそアインズが求めていたものだ。NPCたちの忠誠心は最早疑うべくもないものであるが、彼らはアインズがイエスと言えばイエス、白を黒と言えば黒と言う。主を盲目的に信じているところがあった。それが常々アインズに胃痛を催していたのだが、同時にアインズは内心不安でもあった。
中には、アインズの決定を不満に思っていてもそれを口に出せない者がいるのではないかと。アルベドあたりはアインズの考えを絶対のものとし、シモベたちにも有無を言わさず従わせているようだが、そのような構造の組織はいずれ崩壊の一途を辿るということをアインズは知っている。愛読書の一冊『これをしない上司は部下に嫌われる』にアインズは全幅の信頼を寄せていた。
アインズが必要としているのは自分に盲従する者ではなく、自分が道を逸れた時に忠告を行ってくれる者である。もしNPCたちの中にそれがしたくてもできないという者がいるならば。
(
『完全なる純情』は、それを狙って引き出すことができる。
「父上?」
思考に没頭していたアインズは、不思議そうに自分を呼ぶパンドラズ・アクターの声に我に返った。
「――よくやった。私はお前を誇りに思うぞ、パンドラズ・アクターよ」
「おお……父上。非才の身にそのようなお言葉を掛けて下さるとは……このパンドラズ・アクター、更なる努力を持って父上のお役に立てるよう、息子としてより一層の精進をさせていただきます!」
パンドラズ・アクターが鼻を啜るような音を立てながら涙声で深々と頭を下げる。
「う、うむ」
何で?涙腺緩すぎない?
てか、その顔のどっからその音出てんの?
動かないはずの埴輪顔から奇怪な響きが聞こえることにアインズは困惑しながらも、ひとつ疑問を投げかける。
「ちなみに、なぜこのような形にする必要があったんだ?」
しかしなぜ、
抱いて当然の疑問であったが、パンドラズ・アクターはきょとんとした表情を浮かべると(実際のところは全く変化していないのだが)、やれやれというふうに肩を大袈裟に竦めてみせた。
「こちらの方が格好いいではないですか」
アインズはこのNPCが自分の黒歴史そのものであるということを思い出し、情けなさと羞恥にその頭蓋骨を執務机に突っ伏した。
(しかしこれ、どうするかな……)
鈍い銀色に光るリボルバーの冷たい感触は心地よく、手持ち無沙汰だったアインズは何となく『完全なる純情』を弄び続けていた。
あの後、『完全なる純情』の取り扱いと注意について、より詳細な説明を得意げに終えたパンドラズ・アクターは「では、私はモモンとしての活動に戻ります」と言って出て行った。
アインズ・ウール・ゴウン魔導国が建国されてまだ間もない。かの英雄の存在は、重い黒ずんだ不安が街全体に淀んでいるエ・ランテルには欠かせないものである。住民たちは、新たなる都市の支配者となった魔導王に敢然と立ち向かったモモンを心の拠り所としている節があるのだ。パンドラズ・アクターの仕事は重要だ。
(誰に撃つのがいいんだろうか……。そもそも、これは本当に使っていいのか?これをNPCたちに使うことは、パワハラにならないか?)
先程は素直に喜んだアインズだったが、冷静に考えてみると強制的に本心を曝け出させるというのはモラル的にどうなのかという心配があった。『完全なる狂騒』とその改良版が引き起こした一連の騒ぎが前例としてあるため、アインズの懸念は今更なものではあったが、無機質な印象を抱かせるリボルバーの外見はそれをNPCへ用いることの是非をアインズに問うた。
(あいつの話では、射出された弾丸は物理的にも魔法的にも攻撃力は持たないということだったが……)
かつての仲間たちが残した子供のような存在であるNPCに、銃を向ける
(まあ、今すぐ使う必要がある訳でもない。これの使い道は、後々ゆっくり考えておくか)
難しい問題はとにかく先回し。未来の自分が何とかしてくれるだろうとアインズは結論付けて、執務机の引き出しに『完全なる純情』を仕舞おうとした。
その時、遠くから微かに地鳴りが響き、一拍遅れて地震のような揺れがアインズの足元に訪れた。
初めは小さかったそれは、巨大な何かが猛スピードでこちらに向かってきているのか、段々と大きくなり始めた。
「な、なんだ?!」
ドタドタと重い何かが地面を蹴る音は執務室にも響きアインズが警戒していると、小型のトラックのようなものがとてつもない勢いで部屋の扉を蹴破った。
「うおおお?!」
あまりの事態に仰天したアインズは、咄嗟に手に持っていた
言うまでもなく
アインズにこびりついている鈴木悟の残滓は、その訓練の成果を骨の身体にもしっかりと染み込ませていた。滑らかにリボルバーの銃口を相手に向け、頭で考えるより先に指が勝手に引き金を引いた。
手応えがあった。
「殿ーー!新しい武技を身に着けたから見てほしいでござるよーー!」
すわトラックが突っ込んできたのかと身構えたその巨大な体躯の正体はハムスケであった。獣とはいえ普段は理性的なハムスケは今は興奮しているのか、自分が破壊したドアの残骸は気にも留めずそのつぶらな瞳を煌々と輝かせている。
呆然としている主の様子が分かっていないらしく、過去にはトブの大森林に君臨する強大な魔獣の一角であった『森の賢王』、今はモモンに従う精強な騎獣として知られているジャンガリアンハムスターは、突っ込んできた勢いのまま捲し立てる。
「今度は防御に用いる武技、『要塞』を習得したでござるよ!それがしの尽忠の証左を、是非殿にもご覧いただきたいでござる!」
だがアインズは、ハムスケの科白を右から左に聞き流していた。
(今俺、撃ったか?!これを!)
無意識にトリガーを引いてしまったアインズは、ハムスケのその白銀の身体に穴が空いていないかどうか焦りながら探していた。一応リボルバーの形をしているのだ、パンドラズ・アクターがああ言ってはいたが根が小心者なアインズが不安を感じたのも道理である。
「……ハムスケ、その……痛くないのか?」
「へ?何のことでござるか?」
「……身体に何か変化はないか?」
「変な殿でござるなあ、だから新たな武技を覚えたって言っているでござろう?」
「それならいいんだが……」
ハムスケの言い方にややイラっとしつつも、どうやら弾は当たらなかったようだ、とアインズはほっと胸を撫で下ろした。あるいは当たっているが所詮は獣であるハムスケには効果がなかったのだろうとアインズは決め付けた。この大きさの身体の持ち主にこの距離で外しているという考えはアインズの自尊心に些か傷を付けそうであった。
しかしその言動はどうであれ、ナザリックトップクラスの頭脳と知略を持つパンドラズ・アクターが作り出した『完全なる純情』の効果が全くないというのも不可解な結果であった。マジックアイテムの取り扱いに優れているという設定も与えられているあの領域守護者がそのようなものを作るだろうか、と首を捻ったところで、アインズの身体に、どんっ、と何者かがぶつかってきた。
「あいんずさまー!」
いつもの凛としたそれとは様子の違う、舌足らずな声。
甘えるかのようにアインズの身体に抱き着き、頭を
「えへへ」
その顔は京人形の如く常に澄まし込んでおり、ナザリックの外の存在には剃刀のように峻厳で石のように非情な明眸皓歯のメイド、ナーベラル・ガンマが子供のようにアインズをぎゅっと抱き締めていた。
アインズは考えることを放棄した。
「はあぁ、あいんずさまぁ」
「……」
「ナ、ナーベラル殿はどうしちゃったでござるか?」
「……お前のせいだぞ」
「えええっ、それがしが原因でござるか?!」
ナーベラルの突然の変化におろおろと混乱しているハムスケをじろりとアインズは睨むと、いや、とすぐに思い直す。
(ハムスケのせいではないな。俺があの時の
アインズは頭を抱える。
(くそっ、黒歴史はこんなところでも俺を苦しめるのか?!)
自分の失態に身悶える。過去の汚点が形として残ってしまっているのは、ユグドラシルではパンドラズ・アクターくらいのものだと思っていたが、まさかこのような形でもあの時代の残渣が表面化するとは。アインズは今すぐ穴を掘って入りたい衝動に駆られたが、直後に働いた精神鎮静化の作用により正気に戻る。
冷静になったアインズは、ひとまず、と青い顔をしているハムスケに目をやる。
「すまんハムスケ。ナーベラルがこうなってしまったのは私の責任だ。――だが、お前が落ち着いて行動していればナーベラルは主人の部屋に一目散に突っ込んでいくお前に慌てる必要もなかっただろう。ナーベラルの変貌はその代償と知れ」
「うう、申し訳ないでござるよ……」
反省の色を浮かべているハムスケに、武技は後で見てやるから行け、と手をひらひらと億劫そうに振る。
大変なクラッシュが起きた後の事故現場のような有様の部屋を、ナーベラルの方をちらちらと振り返りながらハムスケが退出したのを確認すると、アインズは己の胴に身体を寄せるメイドを見下ろした。
「あいんずさま……ふふっ……」
「……あー、その、ナーベラル?」
「はいっ!なんですか、あいんずさまっ!」
恐る恐る名前を呼ぶと、喜びを抑えきれないといった表情で元気よく返事をするナーベラルに面食らう。
「……お前は今、私が発動してしまったマジックアイテムの影響下に置かれているようだ。だから、えー、なんだ……」
「あいんずさま、ご心配にはおよびません。今わたし、とてもしあわせな気分なんです!」
「え?」
「なんだか、自分を縛り付けていた柵から解放されたような……ふわふわしてます!」
「……ふわふわ?」
(どういうことだ?『完全なる純情』は本音を引き出すためのアイテムではなかったのか?)
いつもの冷静沈着なそれではなく、天衣無縫な、どちらかというとアウラやマーレに近い顔を見せるナーベラルの様子を見るに、『完全なる純情』は対象の人格にすら影響を及ぼしているように思える。
(パンドラズ・アクターの説明からすれば、これがナーベラルの本心ということになるが……)
そこまで考えてアインズは気が付いた。
(まさか普段のナーベラルの姿は、この本性を抑圧していたものだったというのか!?)
確かにアインズは、自分を抑え込んでいるNPCがいれば『完全なる純情』の効果でそれを解放してやろうと考えていた。
ナーベラルの子供に返ったかのような状態は、これが彼女自身の本来の姿だということの何よりの証明にならないだろうか。
「そうか……そういうことだったのか」
「あいんずさま?」
「ナーベラル……これがお前の偽らざる胸中なのだな。――よし、分かった。お前が私に甘えたいというのなら、幾らでも甘えてこい!」
どこか幼くなってしまっている現在のナーベラルは、双子の
アインズの言葉に、ぱああ、と顔を輝かせたナーベラルは、蕩けそうな程甘い笑顔になり、抱き着いているアインズと己の身体の間に空気の分子すら入れたくないとでもいうかのように抱擁を強くした。
しかし、むにゅ、と上腹部の辺りに感じる柔らかい感触に、アインズが感じていた子供への庇護欲など一瞬で霧散し、ナーベラルの成熟した女体を慌てて引き離した。
(やっぱりだめ、だめだ!子供にスキンシップするのとは訳が違うんだ、こんなの耐えられるはずがない!)
「あう」
するとナーベラルは突然失われた主人の温もりに、悲しいような、心細いような、言葉にならない声を漏らした。
「どこにも行かないでください、あいんずさま……」
アインズは不意に引っ張られる。引き寄せられて、アインズの胸にナーベラルの頬が当たった。腕が背中に回り、強く抱き締めてくる。メイド服を通して、ナーベラルの体温と鼓動がアインズに伝わってくる。
コアラのように肢体を絡ませるナーベラルの表情は、雲間から再び太陽が顔を出したかのように、晴れ晴れと温かく、屈託のない微笑だった。
アインズの幻の心臓が跳ね上がった。アインズに僅かに残っていた、鈴木悟の頗る可燃性の高い部分に火が付く音がした。アインズはそれを鎮めようとしたが、炎は燎原の如く燃え広がり、一瞬で手が付けられなくなってしまった。
(もう、いいか)
何も考えられなくなったアインズは、徐に両腕をナーベラルの後ろに伸ばし、華奢な肉体を抱き返した。
むふぅ、と満足そうな溜息が胸元でじんわりと広がる。
「お慕い申しております、あいんずさまぁ……」
最早ナーベラルの言葉の意味すらアインズの頭には届かない。何十年も仕舞い込まれていたものが蓋を吹き飛ばして溢れ出たような、感情の奔流にアインズは流されていた。
生まれて初めて感じる種類のそれに、しかしアインズは嫌悪感を抱かなかった。頭の中にもたげたそれは、春の訪れのようにアインズを幸せな気分にさせた。
「あいんずさま、あいんずさま、あいんずさま……」
壊れたビデオテープのように何度もアインズを呼ぶナーベラルの、紙のようにクシャクシャにした顔は、手持ちの何もかもを無償で差し出したくなってしまうような笑顔で、アインズは今まで見てきたものの中で最も尊いものだと思った。
蠱惑的なほどの弾力を持つ頬をすり寄せるナーベラルのポニーテールは、ふりふりと犬の尻尾のように揺れていて、それがアインズを更なる幸福感に包んだ。
「ナーベラル……」
アインズが彼女の名前を呟くと、ポニーテールは一層ぱたぱたと嬉しそうに揺れる。
それを面白く感じたアインズは、もう一度その愛おしい名前を彼女の耳元でささめく。
「ナーベラル」
「はふぅ」
「ナーベラル」
「んふふっ」
「ナーベラル」
「えへへ」
(可愛いな!おい!)
名前を呼ぶごとに主人の感情を表すかの如く動くポニーテールにアインズが夢中になっていると、顔をアインズの剝き出しになっている骨の胸元に埋めていたナーベラルが、ふとその顔を上げた。
「ん?」
「あいんずさま……」
その瞳が、アインズに何かを求めるかのように切なげに潤んでいる。美しく血色の滑らかな唇は熱を帯びて湿っており、そこに映る光をぬめぬめと動かしている。
ぱくぱくと微かに動く瑞々しいそれは、濡れた官能のナイフをアインズに突き刺した。
「――!」
強く触れれば、それだけで破れてしまいそうな小さな口唇だ。だがそれは男好きするような眼が眩むほどの色気を放っている。
(
汗ばむような緊張感が金縛りのようになって動けないアインズをよそに、大和撫子のように整った顔を薄紅に染めたナーベラルは、静かに瞼を閉じた。
(うおおおっ、絶対これあれだ!『キス待ち』だ!)
あまりの興奮に、テンションのアクセルは最大まで踏み込まれる。昂り続ける精神に、アンデッドの種族的特性は行方不明になっている。
(えっ、でも、いいのか?!これ、やっちゃっていいの?!だめだよな?!ナーベラルは弐式炎雷さんの子供のようなものだぞ!俺なんかが、ナーベラルを汚してしまっていいはずがない!いやでもチューしたい!すごくしたい!めちゃくちゃしたい!いやしかし――)
その時アインズは、目を閉じたきりひっそりと時間が止まってしまったかのように動かないナーベラルの身体が、ぷるぷると震えていることに気が付いた。
何か恐ろしい想像から、懸命に逃れようとしているかのように。
まるで、アインズに拒まれることを何よりも恐れているかのように。
(ナーベラル……)
それを見たアインズは、震えるナーベラルの肩にできる限りゆっくりと、優しく触れた。
それだけで安心したのか、ナーベラルの強張っていた身体は脱力して震えが止まった。
(何を考えていたんだろう、俺は。一番大事なのは、ナーベラル自身の想いじゃないか)
艶めくナーベラルの上気した顔に、アインズは自らの顔を下ろしていく。
ぴたりとくっついているナーベラルの身体から、どくどくと心臓の鼓動が伝わってくる。
(そして、俺の気持ちだ――)
「ナーベラル」
アインズは、ひどく穏やかな気持ちで、目の前の愛しい、かけがえのない存在の名前を呼ぶ。
さくらんぼのような唇に、骨しかない口元が、ふらふらと吸い寄せられるかのように緩やかに近づく。
「俺は、お前を――」
両者の距離が、互いに糸で引き合うかのように狭まり、零になろうかとしたその瞬間――
「アインズ様、お時間が過ぎましたので失礼――って、何これ?!大変、アインズ様の執務室が!誰か、誰か呼んできてーっ!」
パンドラズ・アクターのために一時的に退出させていた今日のアインズの当番メイドが、ハムスケが破壊した入り口の惨状を見て恐怖と驚愕に慄く。
悲痛な叫び声は廊下に透き通るかのようによく響き、数秒もしないうちに大勢の足音が急いで駆けてくる足音がアインズの耳に届いた。
「アインズ様ご無事ですかっ!これは一体――?!」
主人の命令とはいえ、自分が席を外していた間に何が。もし御身に何か起こっていたらどうしよう、とこの世の終わりのような面持ちで執務室の中を覗いたメイドが目にしたのは、偉大にして至高、絶対なる支配者アインズ・ウール・ゴウンその人と、一般メイドの憧れであり、アイドルのような存在である戦闘メイド『プレアデス』の三女、ナーベラル・ガンマが固い抱擁を交わし、今にも口づけようかという接吻未遂の瞬間だった。
「アアアっ、アインズ様とナーベラルさん?!え、ええ、えっアイナベ?!お二人は、そういう関係で――」
弾かれたように一瞬でナーベラルから距離を取ったアインズが目撃者に必死の弁明を行うも、衝撃のシーンを目の当たりにした彼女は上の空。アルベドとシャルティアの激しい正妻戦争は苛烈を極めており、一般メイドたちの間でもどちらが勝者になるかという話がちょくちょく論争を呼んでいた。しかしどうやらその戦争は、愛の重い守護者統括でも性癖役満の階層守護者でもなく、自分たちの先輩のような立ち位置であるナーベラルが制したらしい。混乱する脳内の中で、そうぼんやりと考えるメイド。
瞬く間にこのことはナザリックの全ての者に伝わり、ナーベラルがアインズの心を射止めたようだという噂で暫く持ちきりになった。その後、『完全なる静寂』により正気に戻ったナーベラルがどのようなことに巻き込まれたかは言うまでもないし、アインズの場合ももちろん言うまでもない。