狸寝入りのナーベラル 作:笹鍋
王国が先の戦争において、『大虐殺』とも称されるほどの記録的な大敗を喫した結果、アインズ・ウール・ゴウン魔導国の支配下に置かれた城塞都市エ・ランテル。
生者を憎むアンデッドが新たに頭首として据えられたはずの街は、
しかし数少ない通りを行き交う者たちの姿は、やはり普通ではない。右手に巨大なフランベルジュを握りしめ、左手には大人の男をぺしゃんこに潰せてしまいそうなタワーシールドを持ったアンデッドの騎士が、街を巡回するかの如く徘徊している。二メートルを優に超える巨躯の頭部は腐り果てており、黒々とした眼窩には生命への憎悪を滾らせている。また、その隣にいる揺らめくような靄が肉の代わりに身体を取り巻いている骨の獣は、汚らわしい黄色と下品な程に鮮やかな緑色に発光して街をおぞましくライトアップしている。
住民たちは他の街へ逃げ出したのか、あるいは家に引き籠っているのか、人間の姿は全くと言っていいほどない。中には肝試しのような感覚でアンデッドの警備兵に近づく命知らずもいるが、その程度だ。
王国、帝国、法国の三国の境に面するこの都市は、王国の軍事拠点としての要でもあったが、最早その面影は何処にもない。街の雰囲気は一変し、どんよりとした空気が都市全体を包んでいる。
そんなエ・ランテルの大通りを堂々と歩む美貌の
魔導国の国旗がはためいているエリアの中に、彼女の目指す場所はあった。その敷地は、少しでも学のある者なら決して近寄らない場所である。アインズ・ウール・ゴウン魔導王その人が御座す居城、内務官が詰める建物、そして『漆黒』のリーダー、モモンが寝泊まりしている別宅が建ち並ぶエリアだ。ナーベラルの目的地は三番目である。
別宅の近くまで来たナーベラルは、何となく違和感を覚える。辺りを軽く見回すと、直後にその理由は判明した。別宅に隣接して建てられた馬小屋に、いるべきはずの存在がいないのである。
馬小屋という名前ではあるが、今はハムスケがここを住処としていたはずだ。モモンの騎乗魔獣として『漆黒』の名声を高めるという役割がある、そこそこの価値の存在である。主人の命令で今はこちらで寝泊まりしているはずだが、一体何故。
だが、疑問はすぐに氷解した。別宅に入り、待機していた
「ナーベか。待っていたぞ」
鏽を帯びた低い声はどこか芝居めいている。ナーベラルは反射的に跪こうとして、その必要がないことに気が付く。
「ただいま戻りました」
「ナーベラル殿!お帰りでござる!」
その風体に似合わない高いトーンはハムスケの声である。アインズのペットというナザリック中の者が羨む立場を手中にしているハムスターは、自分がここにいるのを当然と思っているのか、陽気にナーベラルを出迎えた。それがナーベラルを不愉快な気分にさせる。
ナーベラルはハムスケをじろりと睨むと、底冷えのするような声で問い詰めた。
「お前、どうしてここにいるの?ここはモモンさんのお住まいであって、獣風情が許可なく立ち入ってよい場所ではないわ」
もし勝手に上がり込んだというのなら、ただではおかない。そんな思いを込めた視線が殺気の塊となって飛び、ハムスケの身体を震え上がらせた。
それを見かねたのか、落ち着いた色合いのソファーに座っているモモンが首を振る。
「よせ、ナーベ。私が許可を出したのだ」
「……貴方が?」
「そうだ」と鷹揚に頷くモモンは、プロテクターに覆われた膝に両肘を立てて寄りかかり、両手で口元を隠すようにして続ける。
「私がこれからアインズ様にお会いしに行くことを話したら、自分も連れていけと言って仕方なくてな」
「これの言うことなんて無視しておけばいいじゃない」
「無論私もそれは考えた。だがこの魔獣は父う――アインズ様の唯一無二のペット。アインズ様もそろそろ可愛がりたくなっている頃合かもしれない」
「それは……」
モモンの言うことは一理ある。普段のアインズの態度からして、ハムスケにそこまでの愛情を抱いているようにはナーベラルには思えなかったが、可能性があるならば、それが万に一つのものでも対応できるように用意をしておくべきである。近頃行動を共にすることが多くなったこの者からそのようにアドバイスを受けた時、ナーベラルは目から鱗が落ちる思いだった。
「何でも、新たに習得した武技をアインズ様に見せたいとか」
「その通りでござる!それがし、早く殿にそれがしの忠義の成果を披露したくて待ちきれないのでござるよー!」
「はっ」
くだらない、と吐き捨てようとして、ナーベラルは自分がハムスケに共感のようなものを覚えていることに気が付いた。至高の四十一人のために努力すること等当たり前のことだが、それが目に見える形で結実したのなら主人に直接見せて褒めてもらいたいと思うのはナーベラルにもよく分かる。いや、ナザリックの者であれば誰しもがそう思っているだろう。
(外から来た知恵遅れの癖に)
黙り込んでいるナーベラルの態度が是を示していると理解したのか、モモンは満足そうに首肯すると、やたらと仰々しい動きで立ち上がった。
「そこで、ナーベにはハムスケをナザリックに連れて行ってやって欲しい」
「私が?」
「ああ。この者はナザリックに帰還する術を持たないからな」
「……貴方が連れて行けば?」
「勘弁してくれ。これから私はアインズ様と秘密の相談があるのだ。できればひとりで向かいたい」
別に獣の一匹くらい同伴させたところで支障はないだろう。大体何の権限があって自分に使い走りのようなことをさせるのか。自分がこの街でそちらに従っているのはそれが主人の命令であるからだ。僅かに怒りを感じて反論するべくナーベラルが口を開こうとすると、モモンがそれを手で制した。
「それでは私はお先に失礼する。アインズ様をお待たせしているのでな」
大根役者がつい過剰な演技をしてしまった時のような、しかしそれでいて不思議と洗練されているオーバーな動きをモモンがした後、その姿が一瞬で掻き消えた。
転移の魔法を使用したのだろう。
(何なのかしら……)
様々な調味料を同じ鍋に適当にぶちまけて煮込んだような奇妙な後味に、ナーベラルは眉をひそめた。
同じナザリックに連なるシモベとして彼のことは決して嫌ってはいないのだが、至高の御姿をお借りしているのだから、もう少し立ち振る舞いというものがあるのでは。
アインズ扮するモモンと長い時間を共に過ごしているナーベラルは、彼の大袈裟なアクションにうんざりしていた。コーヒーも豆の味が濃すぎるものは苦くて飲めない、それと同じだ。
自分と同じ種族の領域守護者についてナーベラルは一寸思案を巡らせた後、ひとつ大きな溜息を吐いてハムスケの方に向き直った。
「……まあ、こうなってしまった以上、私がお前を連れていくしかないみたいね」
「よろしくお願いするでござるよ、ナーベラル殿!」
本当に何故自分が、と思うのと同時に、ナザリックに僅かな時間でも帰還できるのだからそう悪い話でもないか、とナーベラルは思い直した。
それに、ハムスケはアインズに拝謁を賜るのだ。ひょっとすると、同伴する自分もお目通りが叶うかもしれない。であれば悪い話どころではない。
可能性のある未来にナーベラルがうきうきとしていると、それまで部屋の隅でマネキンのように微動だにせず佇んでいたエルダーリッチの事務員が口を開いた。
「ナーベ様。三十分後にナザリックに来るように、とモモン様がおっしゃっていました」
「……何故時間まで指定していったの?」
「申し訳ありません、そこまでは。私は伝言を頼まれただけですので」
「……そう」
色々と不可解な点はあるが、アインズに会うことができるかもしれないという可能性の前には全てが些事に思えた。
ナーベラルは、心を優しく撫でられているかのような切なさを覚え、きゅっと胸を押さえた。
約束の時間になり、ハムスケを伴いナザリックに転移する。第一階層、墳墓の入り口に飛んだ一人と一匹であったが、その瞬間。
それまでやや落ち着かない風ではあったものの一見普通の様子だったハムスケが、急に興奮したように奇声を上げて走り出した。
「は……?」
リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを受け取るため、門番を務めているアンデッドに話しかけようとしていたナーベラルは、予想外の出来事に呆気にとられて、全速力で駆けていくハムスケの後ろ姿を呆然と眺める。
中央に建てられた巨大な霊廟の、六メートル程もある巨大な戦士像。その脇をハムスケが競走馬のような速度で潜った。すぐにその姿が見えなくなり、ナーベラルは我に返った。
「あの家畜風情が……!狂ったか!」
ハムスケがどうしてこのような強行に及んだのかナーベラルには分からなかったが、急変したあの様子からしても正気の沙汰とは思えなかった。それこそ、精神魔法を掛けられているかのようだ。
ナーベラルは慌ててハムスケの後を追った。第一階層に入ったもののハムスケの姿はない。第二階層に下りたのだろうと当たりを付ける。
(所詮は低俗で愚劣な獣……やはりアインズ様が飼う価値はないわ)
愚か者を探しながらナーベラルは墳墓を下りていく。第二階層、第三階層にもその姿はない。
道中シャルティアに呼び止められたが、彼女の話ではどうやらハムスケは墳墓よりも更に下の階層へ進んだらしい。
不思議そうな顔をしている階層守護者に丁寧に礼を述べると別れを告げ、ナーベラルは第三階層に設置されてある転移門にその身を沈めた。
第七階層。そこまで来てハムスケを見つけることができないことに、流石にナーベラルも焦りを感じ始めた。
途中で気づかない内に追い越してしまったのかとも考えたが、ここにハムスケが来た痕跡がある。第七階層『溶岩』の熱気は本来であればハムスケには辛いはずだが、下賜されたマジックアイテムにより耐性を揃えているのだろう。
移動する速度は<
(成程ね……)
恐らく、ハムスケは一刻も早く主人に会いたかったのだろう。エ・ランテルではまだ自制ができていたが、ナザリックに到着した瞬間に我慢ならなくなったのだ。
アインズが今第九階層にいるだろうことはナーベラルも気配で察知できる。至高の四十一人が発する独特のオーラのようなものはそれぞれが若干異なる色を有しているが、その中でも特に慣れ親しんだ気配が下の方から感じ取れる。流石にここまで距離が離れていると砂漠に埋もれたコンタクトレンズのようなものだが、極僅かに漂うそれは、間違いなくナーベラルの敬愛するその人のものである。
ハムスケがそれを理解しているとは思えないが、あの領域守護者の言い方からして、アインズたちがいるのは十中八九アインズの私室か、あるいは執務室だろう。ハムスケもそう推測したからこそここまで寄り道をせずに下ってきたのだ。
あの魔獣が突然自分を置き去りにして走り出した理由は理解できた。しかしそれでも、あのような品性の感じられない行動に及ぶとは。本当に救えない程頭が悪いのね、とナーベラルは独り言ちた。
何にせよ、これ以上の勝手を許すことはできない。ナーベラルは
その甲斐あってか、第九階層へ繋がる転移門のところでようやくハムスケを発見した。まさに今転移しようとしているところで、少し遅れたナーベラルも急いで後に続いた。
転移門にその身を潜らせる。亜空間のようになっているその先は、ナーベラルの身体を完全に呑み込んだ。
毒々しい色の光がナーベラルの視界を塞ぎ、身体の上下がひっくり返るかのような独特の感覚が訪れた後、世界が切り替わる。ナーベラルが目を開けると、そこは第九階層の『ロイヤルスイート』、広大な廊下。見上げるような高い天井にはこれでもかと装飾が施されたシャンデリアが一定間隔で吊り下げられており、磨き上げられた床は大理石のように光を反射して輝いている。
ナーベラルの正面、その距離百メートル程先に鋼鉄のように硬く、蛇のように長い尻尾を振り乱して一目散に駆ける動物の姿がある。それを視認したナーベラルは、この神聖なるナザリックで無様に走り回る狼藉者をひっ捕らえるべく、弾丸のように飛び出した。
やはりレベルの差は如何ともしがたい。兎に襲いかかる猟犬のように追いかけるナーベラルの速度は尋常ではなく、視界に映るハムスケの背中はどんどん大きくなる。途中誰かとすれ違った気がしたが、それを気にかける余裕はない。
ハムスケは奥にある執務室に向かって一直線に進んでいる。ナーベラルは思わず舌打ちした。あれが執務室に到達するのが先か、自分があれをぶちのめすのが先か、ぎりぎりだ。
呼吸が、口の外で動悸を打つ。もう少し。もう少しだ。目と鼻の先程にハムスケの尾が近づき、ナーベラルは思い切りそれに手を伸ばした――
鉄鎚を銅鐸に振り下ろしたかのような轟音が響いた後、何か非常に小さいものが自分の胸部の辺りに相当な圧力を持ってぶつかるのを感じ、そしてナーベラルの意識は真っ白になった。
――自分は、何をしていたのだったか。脳内がひどく混濁しているのをぼんやりと感じる。思考に白い靄のようなものがかかり、記憶が曖昧になっている。鳥籠に囚われた意識を何とか開放し、引っ張り上げようとするが上手くいかない。確か、賎陋な家畜の分際であの方に訓練の成果を見せたいとか抜かすのがいて……そこまで考えて、ナーベラルがこの世界で最も忠誠を誓い、この上なく至情を捧げる人物が目の前にいることに気付き、彼女の心に幸福が水に油を落としたように一面に広がった。
「――あいんずさまー!」
ナーベラルは沸き立つ高揚のまま、遠慮なしにアインズの懐へ飛び込んだ。普段の彼女であれば全く考えられない行動だが、今のナーベラルは自分の感情を抑えきれなかった。まるで先程までのハムスケのように、ナーベラルは自分の底から溢れ出る欲望のままに行動することを善しとした。
ナーベラルにとって創造主とは弐式炎雷以外の誰でもなく、彼女は至高の四十一人の中でも指折りの攻撃力を持つハーフゴーレムを尊敬し、彼に創られたことを誇りに思っている。だが、まるで目の前の光景に驚いているかのようにつくねんと突っ立っている
フリルやレースなどの意匠が、派手過ぎないように適度に散りばめられたメイド服。その布越しにアインズの温もりを感じてナーベラルは痴呆のような幸福を覚えた。エンドルフィンが過剰とも言えるくらいに分泌される。麻薬が齎す快楽の海に溺れる感覚。
本来であれば、主人に仕えるメイドという立場にしか過ぎない下賤な自分と、全てのシモベを支配する絶対者であるアインズの身体が隙間なく密着しているという事実に、ナーベラルは背徳的な興奮を禁じ得なかった。
最早抱擁の時間は、彼女が後戻りするには少し長くなりすぎてしまった。その長引いた分だけ、ナーベラルは多幸感に震え、いっそこのまま溶けてしまいたいと感じた。全身の力が抜け落ちてしまったかのようで、自分の足で立っているのが精一杯だった。
あいんずさま、と最愛の主人の名前を、口づけるみたいにそっと呟く。背後からアインズでない誰かの気配が消えたような気がしたが、今となってはどうでもいいことだ。
何が起きてももうこの方から離れない。そんな思いでアインズの胸をより強くぎゅうう、と抱き締めると、アインズが困ったような気配を見せた。
「……あー、その、ナーベラル?」
その瞬間、ナーベラルは頭の中に火花が散ったかと錯覚した。自分の名前を主人が呼んだ、ただそれだけのことで歓喜が電流となってナーベラルの身体を突き抜けた。痺れるような悦楽の津波に、ナーベラルは恍惚としながらも応えた。
「はいっ!なんですか、あいんずさまっ!」
アインズはマジックアイテムがどうの、と言っているが、その意味はよく分からない。今の自分が平常でないことは理解しているが、繋がれていた鎖から断ち切られたかのような自由をナーベラルは謳歌していた。ナザリックがこの地に転移してしまう前から彼女の中に存在していた軛が消失しているような感覚だった。全身で感じるアインズの感触に思わずはにかみながら、ナーベラルはいつもより回らない口で何とかそれを主人に伝える。
ナーベラルの主張を聞いたアインズは、考え込むような素振りを見せた。間もなく、「そういうことだったのか」と何やら納得して、アインズの胸元に抱き着くナーベラルを優しげに見下ろした。
「ナーベラル……これがお前の偽らざる胸中なのだな。――よし、分かった。お前が私に甘えたいというのなら、幾らでも甘えてこい!」
その言葉の意味を咀嚼して、ナーベラルの胸にひしめき合うような感激が沸き起こった。
(うれしい。うれしい。うれしい!)
――自分の想いを、受け止めてくれた。許してくれた。この気持ちは間違っていない、と言ってくれた!
衝動のままに、ナーベラルは密着していた身体をよりアインズに押し付ける。柔らかな脂肪の詰まった胸部を潰れそうなくらいに摺り寄せて、一生懸命に主人を抱き締める。
頬が火照り、胸が弾む。主人の盾となって死ぬために生み出された
しかしアインズはいきなりナーベラルを突き放すかのようにその身体を遠ざけた。満たされていたナーベラルの心にぽっかりと穴が空く。
――どうして。
何か自分が粗相をしてしまったのか、とまとまらない思考で考える。だが今は、失われた温もりを取り戻す方が先だった。
「どこにも行かないでください、あいんずさま……」
見る者が見れば不敬どころではない行為だが、ナーベラルは頓着せずに主人を力一杯引き寄せる。もう二度と離さないといわんばかりに腕をアインズの背中に回して濃厚なハグをする。すらりと伸びた長い脚は蛇のようにアインズの下半身に絡みついて引き留める。
ナーベラルはアインズの中にすっかり溶け込んだ自分を
するとアインズもナーベラルの背中におっかなびっくりといった様子で腕を回し、繊細な手つきで彼女を抱いた。
それは、ナーベラルの最後の防波堤を決壊させる行為に他ならなかった。
もう、何も考えられない。
自分を掻き抱く腕までもが愛おしい。屋烏の愛とは何たるかをナーベラルは知った。噛み締めるように、ナーベラルは何度もその名前を呼ぶ。
「あいんずさま、あいんずさま、あいんずさま……」
あまりに甘美なその響きに、泣き出してしまいたくなる。こんなにも近くにいるのに、近くにいる気がしないのは、欲しがり過ぎているからだろうか。
もっと抱いて欲しい、包んで欲しい、隙間なく埋めて欲しい。そんな遠い憧れすら愛おしい。
「ナーベラル……」
小半時程そうしていただろうか。主人が自分の名前を呟いた。それだけで、暴力的なまでの幸福感がナーベラルを包み込む。彼女を縛る理性の欺瞞は、既にない。
嬉しくて嬉しくて、目を合わせることはできそうにない。きっとひどい顔をしているから。だがアインズは残酷にも、彼女の名前を繰り返し呼び続ける。
「ナーベラル」
――すき。
「ナーベラル」
――すき。
「ナーベラル」
――だいすき。
我慢ならなくなり、涙の滲む顔を上げる。アインズと視線が交差する。その空虚な眼窩が全てを見透かしているような気がして、ナーベラルは途轍もない羞恥を感じた。
顔を再び伏せたくなるのを何とか堪える。ふと、アインズの口腔に目が行く。
むらむらと、腹部の辺りから、感じたことのない種類の欲求が立ち昇ってくるのを感じた。それはナーベラルの欲望の梯子を一段一段確実に上がってくる。
女としての本能がそうしろと叫んでいるような気がして、ナーベラルはゆっくりと目を閉じた。唇が熱を持ったかのように火照っている。自分が何か、とんでもないようなことをしている気はした。
――数瞬の空白の後、やおらアインズがその手をナーベラルのなだらかな肩に乗せた。
椿の花のような唇へ、緩やかにアインズの顔が下りてゆく。
もともと両者はひとつの存在であったかのように。互いに惹かれ合うように、近づいていく。
アインズが、掠れたような声で囁く。
「俺は、お前を――」
ナーベラルの記憶はここで途切れていた。
「ああああああ!わた、私は……!なんて愚かな……!」
ユリ、ルプスレギナと共用のナーベラルの私室。そこに与えられた彼女専用のベッドの上で、ナーベラルは布団にくるまって恥辱にもがき苦しんでいた。
ルプスレギナをユリが連れ出してくれたことにナーベラルは心から感謝していた。あの悪戯好きな姉は、事の顛末を知った途端に部屋で寝込む自分にちょっかいをかけようとしていたのだから。
『完全なる静寂』という名前のピコピコハンマーは、今回パンドラズ・アクターが作り出したアイテムにもしっかりとその効果を発揮した。ナーベラルが自分を取り戻したのは、アインズの執務室に大勢のシモベが詰めかけたところだった。『完全なる静寂』を手に持って颯爽と現れたパンドラズ・アクターが、ナーベラルの頭をぴこん、とひと叩きしていったらしい。まるで図っていたかのような完璧なタイミングだったという。
事態の収拾のため、アインズはナーベラルに取り敢えず三日間の休暇を言い渡し、混乱して立ち尽くしていたナーベラルを彼女の部屋に運んだのだった。
当時のナーベラルは白昼夢を見ているかのような気分で、アインズに幼児のように甘える自分を何処か他人事のように捉えていた。現実を現実であると理解できず、それがあのような結末を呼んだのだろう。
(まさか私が、アインズ様と、せっ、せっ、――あれを賜ろうとするなんて……!)
いくらマジックアイテムの効果による変化とはいえ、あれでは本能で生きる動物と同じだ。直前までハムスケを散々心の中で罵っていたナーベラルだったが、自分も他人のことは言えないとかなり落ち込んでいた。
その経緯は噂好きなメイドたちを中心にものすごいスピードで広がり、それを耳にした守護者統括はその身体の何処にそんな力があるのかという程大暴れしたという。ナーベラルがそれを聞いた時は生きた心地がしなかったが、これはナーベラルの命の危機であると判断したアインズとデミウルゴスが協力して彼女を監禁したらしい。その荒れっぷりは相当なものだったとその様子を目の当たりにした姉妹は口を揃えて震えていた。
また、どうやら今回の事件の首謀者であるとされたパンドラズ・アクターには、一か月宝物殿の出入り禁止という罰が下された。ハムスケの謎の急変と、場を収めるために現れたタイミングがあまりにも丁度良すぎるという二つの状況証拠によるアインズの判決だった。
あの演技過剰な領域守護者が何を考えていたのかはナーベラルには分からない。同じ
何から何まで後悔しかない。ハムスケが墳墓に消えた時、アインズにそれを伝えるべきだった。ハムスケの様子がおかしくなった理由を、もっと考えるべきだった。
「……でも」
――
そこまで考えて、ナーベラルは慌ててその思考を振り払った。
「あああ、アインズ様に合わせる顔がない……」
いつもよりも艶めきを失ったポニーテールが、へなへなと項垂れた。