『おがさわら』―太平洋の疾風―   作:蒼崎一希

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第二話

 夕焼けを浴びながら目の前に立つ彼女の膝は、完全に笑ってしまっていた。膝に手を添えようやく立っている状態の彼女を見降ろしながら、締めくくりの言葉をかけることにした。

「あなた、基本的な艦隊行動ができていないにも程があります」

その一言に、目の前で力尽きる寸前の彼女の頭が少しだけ動くのが見えた。

「僚艦の行動に合わせきれていない。回避行動は遅すぎる。何より、あまりにも体力がなさすぎます。あなたは本当に帝国海軍の末裔を自称する海上自衛隊の一員だったのですか? 今の有様では、それすら疑わしくなってしまわざるを得ません」

今の言葉が堪えたのか、上がりかけていた頭ががっくりと下がるのが見え、直後に今は見えないその口から、かすかにすみません、という言葉が漏れるのを聞いた。その様子を見聞きしたところで言葉をさらに続けた。

「今のあなたでは、はるなさんやひえいさんの顔に泥を塗ることしかできません。あなたは、先輩を辱めるためにここに来たのですか? それが嫌だというのなら、それ相応の努力を積みなさい。今日の訓練はこれまでにします、解散」

解散の一言に、周囲で待機している他の訓練に参加した仲間たちが三々五々散っていく。先ほどまでさんざんに言われ続けた艦娘、実験高速輸送艦『おがさわら』はまだその場を動かずにいた。この日の訓練を担当した空母寮寮長を務める加賀は、ちらりとおがさわらに一瞥をくべると、静かに海面を滑り、岸壁へと帰っていった。

 

    ◇

 

「ぅ、うぅぅぅ……、もう、からだ、うごかない……」

最後の力を振り絞ってなんとか岸壁に這い上がり、私、おがさわらは表面の粗さをほんの少し感じるコンクリートの上にぐったりと身体を投げ出しました。

 横須賀に来て二日目で、早くも私は艦娘としての訓練の日々が始まりました。

 午前中は教室での座学、昼食を挟んで午後からは徹底的な基本的な艦隊行動の訓練。

 午前中の座学までは辛うじて付いていくことができましたが、午後からの実技訓練で、早速地獄を見ることになったのでした。

 これでもかというほどの徹底した反復訓練。その徹底的な追い込みで、私の身体は早くも悲鳴、それも断末魔の叫び一歩手前の悲鳴を上げてしまったのでした。

「今のわたしでは、はるなさんやひえいさんの顔に泥を塗るだけ、か……」

先ほど投げつけられた加賀先輩の一言が、心に深くふかく突き刺さります。未熟者という自覚がなかったわけではないのですが、ここまではっきりと言われてしまうと、さすがに落ち込みます。

『私、本当にこの横須賀鎮守府の一員でいて、いいのかな……?』

早くも心の奥底にそんなネガティブな思考が湧き上がってきます。でも同時に、だからといってこんなわたしがひとりでどこへ行くのか、という冷静な思考も出てきて、直後にはひえいさんとはるなさんの顔も浮かびます。

 同じ『自衛艦』として、ふたりは何かと私の事を気にかけてくれます。特にひえいさんは江田島のバースで最後のひと時を過ごした間柄なので、なおのこと私の事を気にかけてくれていることは、さすがの私でも感じていました。

 ひえいさんとはるなさんに迷惑や恥をかかせないように、もっと自分が頑張らなければいけません。もっとしっかりとした、立派な艦娘に少しでも早くならなければ、いけません。

「おがさわらちゃんおっそーい! いつまで寝てるの? もうすぐ晩御飯だよ!」

気がつけば、私の事をひとりの少女が腰に手を当てて見降ろしていました。駆逐艦の島風さん。私の、この鎮守府でできた最初の『友達』です。

 時計を見れば、いつの間にかかなり時間が過ぎていました。島風の言うとおり、もうすぐ夕食の時間です。

「うん、今行く……。あ――」

「ん? どうしたのおがさわらちゃん?」

「島風さん、その……、手を貸してもらえません?」

私『おがさわら』。只今、艦娘人生序盤から、前途多難です。

 

    ◇

 

 タッタッ、タッタッ。

 部屋の中に響く運動靴の底が立てるリズミカルな足音と少々重々しい機械音。ここは艦娘用トレーニングジム。昼間のジムには他に人の姿はなく、今トレーニングを重ねているのは、私おがさわらだけです。

「ハァ……、ハァ……、ハァ……」

時間を告げるブザーの音とともにランニングマシンが減速してクールダウンに入ります。ベルトが止まると、もつれるような歩みでマシンを降り、床に座り込みました。

 昨日の加賀先輩の総括が、今も胸の奥に深く突き刺さっています。体力も技量もないのは反論しようのない事実なので、体力・技量ともにとにかく磨くしかありません。とにかく鍛えに鍛えて、鍛え抜くしかありません。

「大丈夫か? 息が上がっているが」

へたりこんだ私の背中から、力強い凛とした声が掛かります。床についていた手を動かして後ろを向くと、そこにはすらりと背の高い黒いロングヘアの艦娘さんが立っていました。へそが出るほど短い丈のタンクトップとスパッツをはいたその人のお腹は、いかにも鍛え抜かれているといった趣です。

「ら、らいじょうぶ、れす……。あの、あなたは……」

横須賀鎮守府生活三日目、まだ所属する艦娘の顔と名前が一致しません。今は頭に酸素が回っていないので、なおさらです。

「そういえば初対面だったな、戦艦長門だ、よろしく」

「じ、じっけん、こうそく、ゆそうかんの、おがさわらです。よ、よろしくお願いします、長門、先輩……」

「――なぁ、本当に大丈夫か?」

あまりに呂律の回っていない自己紹介に心配になったのか、長門先輩が私の前にかがみこんで顔色を覗き込みます。

「立てるか? そこのベンチで少し休んだほうがいい」

差し出された手を握って、よろよろと立ち上がると、近くにあるベンチに場所を移すことにしました。

 

    ◇

 

「――なるほど、それでここで鍛錬を重ねていたわけか。加賀は厳しいからな」

数分後、ようやく呼吸が落ち着いてまともに話ができるようになった私から事情を聞いた長門先輩が、私の話に頷いていました。

「ひえいさんやはるなさんに恥をかかせないためにも、私、もっと強くなりたいんです。何かいいアドバイス、ありませんでしょうか……?」

この鍛え抜かれた身体を持つ長門先輩なら、何か身体を鍛えるコツを知っているかもしれない。もう頼れるものは全部使う覚悟です。

「そうだな……。見たところ、筋力、体力、持久力、心肺能力、いずれも未熟といった状態のようだからな……」

必死に考えてくれているとはいえ、その一言ひとことがグサグサと刺さります。もちろん初対面でヘロヘロに弱り切った姿を見せてしまった以上、誰が見てもそう感じざるを得ないのですが。

「そうだ、水泳はどうだ?」

「水泳、ですか?」

先輩の口から出てきた言葉は、少々意外なものでした。確かに私たち艦娘は海の上を行動する存在ですから、水に親しむことはもしかしたら必要なのかもしれませんが……。

「水泳は全身を鍛えるのにちょうどいいんだ。水の浮力で身体に負担が小さく怪我をしにくいし、想像以上に全身の筋力を必要とするから、全身を鍛え上げるのに最適だと提督が以前話していたな」

そんな先輩の説明に、グイグイとハートが喰いつきます。怪我をしにくく、全身を鍛えられる。まさに今自分が必要としている運動そのものなのですから。

「分かりました! 私、チャレンジしてみます! 長門先輩、ありがとうございました! 失礼しますッ!」

こうなったら思い立ったが吉日です。ついさっきまでの腰ぬけ状態がウソのように立ち上がり、新しいトレーニングへ向けてまっしぐらです。

 水泳で絶対に身体を鍛えて、加賀先輩をギャフンと言わせてみせる。

 そのモチベーションに背中を押され、私は一目散にジムを後にしたのでした。

「――行ってしまった……。大丈夫だろうか」

疾風の如く消え去った彼女の背中をただ見送るしかなかった長門の口から漏れるのは、当然ながら不安である。

 潜水艦を除いて艦娘は水面より上で行動する。艤装がちゃんと機能している限りは水面下に潜ることを心配する必要はない。つまり。

「彼女、果たして泳げるんだろうか……」

 

    ◇

 

「ねぇ、念を押すけど、ホントにやるの……?」

ジムの一件から数時間後、私は売店で急いで買ってきた紺色のスクール水着を身にまといジムに隣接しているプールにいました。さすがに独りで練習を行うのは危ないと思ったので、たまたま出くわしたイムヤさんに半ば強引に指導をお願いしてのトレーニングです。

「よろしくお願いします!」

50mある公式競技さえできそうな大きなプールを目の前に、私は意欲を燃やします。

『普段泳がないけれど、私は艦娘、泳げないはずがない。最初はうまく行かなくても、すぐに泳げるようになるはず。だって私は元々船よ……』

そう自分に何度も言い聞かせながら、私はプールの端の手すりにつかまりながらゆっくりと水の中に入って行きます。が、艤装を付けていれば絶対にない水面下への身体の到達は、考えていた以上に自身へのプレッシャーを与えてきます。大丈夫、私は沈まない、私は沈まない……。

「それじゃあ、まずは水に顔を付けるところから始めましょ。はい、ゴーグル付けて」

イムヤさんの指示に従い、額に跳ねあげていたゴーグルを降ろします。

「息を吸って――――、はい、顔を付けて!」

掛け声に合わせて体をかがめるようにして水に顔を近づけて……。

「――やっぱりかー……」

あごの部分に水面が触れた瞬間、身体が金縛りにあったかの如く動かなくなりました。どれだけ顔を付けようと思っても、また別の意思のような何かがそれを邪魔するような感じなのです。

「ち、違うんです! これは、そうこれは準備段階なんです! ここから徐々に顔を付けていって……」

「おがさわらちゃん、別に無理しなくていいんだよ? それ、潜水艦以外の艦娘の多くが一度は通り過ぎる道だから」

「――へ?」

その言葉に、思わず目が点になります。

「私たち潜水艦は、元から水の中に潜ることに慣れているから大丈夫だけど、水上艦のみんなは顔がつかるイコール沈みかけているって、心の奥底で勝手に認識しちゃうみたいなのよ」

「……確かに」

そう言われれば、顔を水につけようとした瞬間に思い浮かんだのは、あの太平洋沖での嵐の中の航海のイメージでした。何度となく押し寄せる波の中に艦首が呑みこまれそうになるあの瞬間を、まざまざと思い出したのでした。

「だから何人も水泳できるようになりたいって私のところに練習を頼んできた駆逐艦の子たちがいたけど、半分くらいは諦めちゃうの。イメージを払しょくできなくて」

言われてみれば、水上艦が海の中を見るというのは、ほぼ間違いなく沈没するときです。

「――続ける? 練習。無理しなくていいからね?」

イムヤさんが心配そうな表情をしながら私に練習を続行するかどうかを訊ねます。確かに、トラウマを刺激されるのはちょっと怖いけど、それでも、身体を鍛えるためにはそんなことでめげているわけにはいかないのです。

「私、続けます! イムヤさん、お願いします!」

そうです、私はもっと強くならないといけないのです。もっと強くなって、ひえいさんたちや、加賀先輩たちと一緒に海に出られるようにならないといけないのです。

「わかったわ。それじゃあ、もう一度行くわよ! いちにーの、ハイッ!」

そしてそこから何度となく、イムヤさんの掛け声と、私が立てる中途半端な水音がもう一度プールの建物内に響いたのでした。

 

    ◇

 

「ところで加賀、だいぶ新入りを可愛がってやっているみたいだな」

同じ頃、プールから離れた提督執務室では、提督への所用を終えた加賀と提督が雑談をしていた。話題はもちろん、彼女の事である。

「いつものように演習をさせているだけよ」

「ということは、横鎮名物加賀の地獄しごきか。おぉ怖い怖い」

さらりと返す加賀の言葉に提督はからかうような調子で笑いながらそう評した。実際、この鎮守府での艦娘の演習の中で加賀が課す演習は軽巡神通に次ぐほどの厳しさというのがこの横須賀鎮守府内でのもっぱらの評判である。

「あの子はいくらなんでも鍛錬が足りなすぎるわ。もっと鍛えておかなければ、とても実戦には出せません」

海軍の威信を背負う存在である一航戦として戦場を駆け、そして戦場で散った経験を持つ彼女の言葉は重かった。確かに、それは事実だ。彼女が提出した演習報告書を見てもそれは歴然だった。

「ただ、君の言葉に死に物狂いで喰らいつこうとする彼女の根気だけは認めてやれよ? 早速今朝の陽の登りはじめのうちから鎮守府内を延々ランニングし始めて、さらには座学と演習の隙間の時間にもジムでトレーニングしていると長門が話していたし。突き放すことだけが指導じゃない。それはよく覚えておくように」

「心得ておきます。――それでは、失礼します」

加賀は表情を変えることなく一礼し、執務室を後にした。

「座学と演習の合間に、ね……」

ドアを閉め、ゆっくりと廊下を歩き始めた彼女の口から、そんな独り言が漏れた。

 あの娘は私の言葉をバネにして、死に物狂いで鍛錬を重ねているのだろう。どんなに鍛錬を欠かさない艦娘でも、ここまでやれる娘は、なかなかいない。

 確かに、その点は認めてやらなければいけないのかもしれない。そう思える提督からの情報だった。

 ただ、なんとなくああいう辛辣な言葉を使った手前、どういった接し方をしていいのか、いまいち図りかねていた。こちらにも先輩としてのプライドというものがある。変に優しい言葉を掛けることが果たしていいことなのか……。

「ダメだわ……、こういうの……」

優しい言葉を掛けるイメージがどうにも浮かばず、加賀はため息を漏らす。そういう優しい言葉で励ますのはどちらかといえば赤城の方だ。もちろん彼女も非常に厳しい一面を持っているが、少なくとも自分とは違う『優しい言葉』という手札を持っているのが、彼女だった。

「お願い、するしかないわね……」

そう心に決めて加賀は寮へと戻る。教育の難しさを噛みしめながら。

 

    ◇

 

「――今日はここまでにしよっか」

イムヤさんのその言葉を、私は水面の上で息を切らしながら聞いていました。ビート板につかまった状態で。

「ありがとう、ございました……」

私はよろよろとビート板から手を離し、プールの底に足を付けてプールの端へ動きます。水から上がって、へりにドッカリと腰をおろします。長門先輩のいうとおり、泳ぐというのは全身の筋力を使います。確かにこれを続けていたら、いずれは長門先輩のような身体に……。

「あのさ、おがさわらちゃん」

あとからプールを出たイムヤさんが私の横に座りました。

「これからも、私の時間が空いている時なら水泳は教えられると思うから、教えるのは全然構わないんだけどさ……」

イムヤさんが髪に残っている水を払い、こう続けました。

「単純に身体を鍛えたいのなら……、たぶん普通にトレーニングしたほうが早いんじゃない、かな……?」

泳げるようになることは悪いことじゃないけど、と後に添えはしたものの、単純に地道に筋トレなどで身体を鍛えたほうがいい、と諭されてしまいました。

「――イムヤさんから見て、あとどのくらいで泳げるようになると思いますか?」

なんとなく答えは予想できましたが、念のために質問してみました。

「そうねぇ……、たぶん、もうしばらくかかると思う……、かな」

返ってきたのは、やっぱり予想通りの返答でした。彼女のいうとおり、普通に身体を鍛えたほうがいいのかもしれません。

「また、練習に来てもいいですか?」

「いいわよ、せっかくだから泳げるようになっちゃおうよ!」

「――はい」

「あ、もうすぐ晩御飯よ、ほら、帰ろ?」

イムヤさんに促されて、私も立ち上がってプールを後にします。トレーニング計画、早くも変更です。

 

    ◇

 

 夕食を食堂でとって、私は重い足を引きずるようにして空母寮へ戻ります。思えば朝早くにランニングのために出てから、座学のテキストを取りに行くのと、トレーニングのために着替えた時以外はずっと寮の外にいました。おかげで身も心もヘトヘトです。

「……ただいま、もどりました」

玄関をの扉を開け、体中の筋肉や関節が悲鳴を上げる中普段の倍以上の時間を掛けて履物を靴箱にしまいます。

「おかえりなさい、おがさわらさん」

履物をしまい、自室へ戻ろうとした私にそんな声がかかりました。赤城先輩でした。

「朝から鍛錬頑張っていたみたいね、お風呂空いているわよ、ゆっくり入って疲れを取ってきていらっしゃい」

最後に小さな声で頑張って、と付け加えた赤城先輩は、階段を上って自分の部屋へと消えて行きました。

 頑張って。

 そう言ってもらえた。艦娘のみんなが憧れて、私からすれば、まさに雲の上の艦娘といった存在のあの一航戦の赤城先輩に。

 その出来事を疲れ切った頭が理解し出したところで、少しずつ自分の心の底から何かが湧き上がってくるのを感じました。

 見てくれる人は見てくれている。そして、褒めてくれる時は褒めてくれる人がいる。その何気ないことが、これほどまでに元気をくれる。そんな感覚を、初めて味わったのでした。

「――明日、頑張ろう、私!」

少しだけ軽くなった足取りで、私は寮内の風呂場へと足を向けたのでした。

 

    ◇

 

「これでよかったかしら、加賀」

ほんの少し明るいリズムを刻み始めた彼女の足音を階段の先の廊下で聞きながら、赤城はそんな言葉を口にした。

「えぇ、ありがとう、赤城さん」

赤城の隣に立つ加賀が、彼女から少し視線をそらしながらそう答えた。

「本当なら、飛鷹や隼鷹に任せようと思っていたのだけれど……」

「仕方ないわ、今ふたり揃って佐世保出張なんだから」

「そう、ね……」

その言葉を最後に、少しの間だけ言葉が途切れた。

「本当に加賀さんは、褒めるのが苦手ね」

沈黙を破って口を開いたのは、赤城の方だった。

「――褒めるときは褒めている、つもりなのだけれど……」

「それが上手く伝わらないのよね」

「あとは、いつ褒めていいのかを図りかねて、声を掛ける機会を逃したりすることも……」

「それだと余計に辛辣な言葉が目立っちゃうわね」

赤城の言葉に加賀は頷くだけだった。赤城とて別に今知ったことではない。艦娘としてお互いこの横須賀にやってきてもうそれなりの時間が過ぎた。ともに行動することが多く、同じ部屋で暮らす間柄としてもう十分に知っていることである。しかし、そういうことだからこそ、たまには口に出しておかなければいけない時もあるのだ。

「もう少し笑顔で、その時にすぐいえば伝わるんじゃないかしら」

「笑顔、ですか」

赤城の方を向いた加賀の表情が動く。表情筋の動きとしては笑顔なのだが、どうにも固い。

「駆逐艦の子たちが恐がるわよ、そんな表情だと」

「――ひどいです、赤城さん」

「もう少し練習が必要ね、笑顔と褒めの」

うつむきながらその言葉を聞く加賀を眺める。普段からよく言えば沈着冷静、悪くいえば冷徹な印象を抱かれやすい彼女も、悩み、苦しみ、心乱している。もっと鍛錬を積め、そう檄を飛ばす彼女もまた、鍛錬を積まなければならない存在なのだと、赤城は感じていた。

 

    ◇

 

 ようやく太陽が港湾地帯の建物や岸壁の上へ顔を出し始める早い時間の岸壁を潮風が通り過ぎていきます。その潮風を浴びながら、私はトレーニング二日目を迎えていました。

 正直にいえば、体中の筋肉と関節が悲鳴を上げています。前日早いうちに寝てはいますが、その睡眠だけでは疲労が抜けきっていない状態です。それでも、少しでも早く錬度を上げるために、トレーニングを休むわけにはいかないのです。建物にかかる時計に目をやります。朝のラジオ体操の時間まではまだまだ時間があります。

「あと、もうしばらく……」

軋む身体に鞭を打ちながら、ペースを少し上げていきます。

少しでも早く、みんなと並んで海を走るために。

 

    ◇

 

「――何してるの、加賀さん……」

夕陽が東の空に沈みつつある時間帯、非番の中散歩をしていた蒼龍が見かけたのは、物陰から何かを見守っていると思しき加賀の姿だった。

「蒼龍、あなたこそ何してるの? ここで」

「……散歩です散歩。あの、どちらかといえば私の方が知りたいかな、事の次第を」

全く以って頓珍漢なやり取りである。

「ん? あぁ、おがさわらちゃんかぁ……」

直後聞こえた足音のする方へ向けた視線の先にいたのは、グラウンドを必死にランニングし続けている新入りの姿だった。

「あの子ですよね、最近朝早くから走ったり筋トレガッツリしたりしてるのって」

「みたいね」

「頑張ってますね、座学に演習もあるのに」

「――まだまだだわ、もっと、もっと頑張りを見せないと」

「うわぁ、加賀さん相変わらず辛辣ぅ」

「――それが、彼女のためよ」

そんなふたりのやりとりが続く間も、彼女は走り続けている。グラウンドに伸びる影が、どんどん長さを増していく。

「それにしても、今日も暑かったですねぇ。まるで日本じゃないみたい……」

蒼龍が手を団扇のように動かしている。確かに暑い。もう何日もここ横須賀は真夏日が続いていた。刺すような日差しと汗の蒸発を妨げる湿度の高さが、その場にいる皆の体力を奪っていく。

「そうね、確かに、この暑さは、堪えるわね……」

手にしていた手拭いで加賀が額の汗をぬぐう。もう陽も十分に傾いてきたとはいえ、まだまだ十分すぎるほどに暑かった。

 額の汗をぬぐった後、首筋の汗を拭おうと少し視線を落とした加賀、その次の瞬間、

「あれ、おがさわらちゃんの様子がおかしい」

そんな蒼龍の声が耳に入った。すぐに顔を上げ視界に入ったのは、明らかに身体をふらつかせながら、それでも走り続けようとする彼女の姿だった。頭が前後左右にふらつき、足元が明らかに覚束ない。明らかにおかしい、そう思った次の瞬間。

「おがさわらちゃん!」

バランスを崩した身体がグラウンドの砂の上に倒れ込んだ。弾かれるように走りだしたふたりがグラウンドの入り口から走り込み、倒れこむ彼女に駆け寄った。

「大丈夫?」

「おがさわらちゃんしっかり!」

抱き起した彼女は、完全に焦点の合っていない目でどこかを見ながら何事かうわごとを言っている。間違いなく、熱中症だった。

「蒼龍、明石さんを呼んできて。あと担架も」

「わかった!」

「おがさわらさん、言っていることわかる? 大丈夫?」

加賀はそう声を掛け続けながら、同時にこんなことも考えていた。私は彼女を追いつめ過ぎたのではないか、と。

 

    ◇

 

 目が覚めて最初に見えたのは、真っ白な天井でした。全身の気だるさがワンテンポ遅れて感じられるようになって、ようやく自分がベッドの上に寝かされているのだということを実感したのでした。

「眼が覚めた?」

掛けられた声の方に目を向けると、そこにはふたりの見知った顔がありました。同じ空母寮に暮らす蒼龍先輩、そして加賀先輩。

「あれ、わたし……」

「グラウンドでランニング中に熱中症で倒れたんだよ、たまたま私たちが見ていたから、ここまで運んできたの」

「……すみません、ご迷惑おかけして」

「無理をしすぎよ、あなた」

蒼龍先輩に続いて加賀先輩が口を開いた。

「こんな猛暑の中、休まずに身体を動かし続ければ、持つ身体も持つはずがないわ。もっと自分の身体を大切にしなさい」

「……ごめんなさい」

また、加賀先輩に叱られてしまった。私はその時そう思いました、が。

「あなたの頑張りは認めるわ。でも、自分の限界を大きく超えて、危険な環境の中頑張り続けることは、褒められることではないわ。それだけは、しっかり肝に銘じておきなさい」

「――わ、わかりました、加賀先輩」

 

『あなたの頑張りは認めるわ』

 

 加賀先輩に、頑張りを認めてもらえた……?

 そのことに気がついたのは、その言葉が発されてからしばらく時間が経過してからでした。

 今の状況を理解した瞬間、ホッと胸の奥に残っていた何かが晴れたような、身体を支配していたこわばりが取れたような、そんな感覚を覚えた気がしました。ほんの少し、頑張りだけだけれど、認めてもらえたということの効果なのかもしれません。

「気がついた? だいぶ疲労が溜まっていたでしょ? こんな暑い中限界超えて頑張りすぎたらあっという間にこうなるわよ。加賀さんも言っていたけどもう今後こんな無理なことはしないように、いいね?」

そんなタイミングで病室に入ってきた工作艦の明石さんが私の寝ているベッドのそばにやってきて、加賀先輩と全く同じことを口にします。頑張ればなんとかなる、そんな根性論ではどうしようもないことがあるということを身に染みて感じていました。

「今夜はここで寝てなさい。そして明日から三日は安静よ、いいわね?」

「――はい」

容体が落ち着いたことに安心したところで、ここまで搬送してくれた蒼龍先輩と加賀先輩が寮に帰り、部屋には私と明石さんのふたりだけになりました。

 

    ◇

 

「――熱中症の理由はおおかた鍛錬のしすぎかしら」

しばらくしてから明石さんがそう尋ねてきました。「はい……。頑張りすぎちゃいました……。おかげで蒼龍先輩や加賀先輩にまで迷惑を掛けて、加賀先輩にはまた叱られてしまいました……」

寝返りを打ちながら、私はそう返します。

「頑張りすぎ、ね……。加賀さん、心配してたわよ。自分が無理させたんじゃないかって」

「えっ……?」

それは、少しだけ予想外の言葉でした。先ほどのお叱りも自分の弱さを叱られている、そう思っていたら……。

「それは加賀さんだって心配ぐらいするわよ。それともなにかしら、弱い後輩の事なんかこれっぽっちも気にかけたりしない、そんな人って思っていたりした?」

いたずらっほい口調と表情で訊ねられてはいますが、私としては心が痛い限りです。

「彼女、表情に出ないから誤解されるけど、本当はあれこれいろんなこと思っていたり考えていたりするの。演習のときの言葉がキツめなものが多いのも、彼女なりに相手に発破を掛けているのよ、相手の成長を期待して。そして相手の努力はちゃんと認めている。いつも五航戦のふたり、というかほぼ瑞鶴ね、辛辣なことばかり言っているけど、あれでも心の中で彼女の頑張りを認めている部分はあるのよ」

同じ空母寮の中で、ことある度に衝突しあう加賀先輩と瑞鶴先輩の姿は何度か見かけましたが、そんなことなど考えもしませんでした。

「だから別に彼女もあなたの頑張りを認めていないわけじゃないの。ましてはあなたに関して関心がないわけがない。当然よ、彼女は空母寮の寮長で、みんなをまとめて引っ張って行く存在なんだから。あなた、おおかた一刻も早く認めてもらいたい、関心を持ってもらいたいなんて思って無理な鍛錬をしたんでしょうけど、だからといって無理しちゃダメ。自分の体と相談して、できる限りのことをするように、そして休むときは休む。それも立派な訓練よ。いいわね?」

「――はい」

「それじゃあ、今日はもう寝なさい。明日になったら寮に戻っていいわよ。ただ、さっきも言ったように三日は安静にね。熱中症になった直後はまた症状が出やすいから。提督にも演習などから外すように報告しておくわね。それじゃあ、おやすみ」

そう言って明石さんは部屋の明かりを落として、出て行きました。

 布団をかぶりながら、これまでの加賀先輩とのやりとりなどを思い出していました。今になって考えてみると、加賀先輩のいうこと、やることが違った見え方をしてくるような気がしました。

 早く体調を元に戻して、また頑張ろう。もちろん今度は、無理のない程度に。そんなことを考えながら、私は気がつけば眠りについていました。

 

    ◇

 

「あら、寮に戻ったんじゃないの? 寮長さん」

病室のドアを静かに閉め外に出た明石の目に止まったのは、ついさっき寮へ戻ったはずの加賀の姿だった。

「えぇ、これから……」

加賀は相変わらずのポーカーフェイスで返す。その内面では、様々な感情が渦巻いていることを、明石は知っている。

「――彼女、あなたに認めてもらいたい一心だったみたいよ。鍛錬に鍛錬を重ねて、あなたが認めてくれて、振り向いてくれるに値する艦娘になりたい一心で」

「……そう」

「どちらかというと、あなたが追いつめているというよりは、彼女のことに無関心でいると思ったみたいね。あなたの言葉や態度から」

いい子よね、あの子。明石はボソリとそうこぼした。

「無関心の子に、そんなこと、言ったりしないわ……」

僅かに明石から視線をそらした加賀が、小さくそう呟いた。

「そう、無関心の相手に厳しい言葉を掛けたところで何の意味もないわ。厳しい言葉を掛けるということは、相手に関心があるということ。だけど」

そこで明石が一旦言葉を切る。加賀の顔がこちらを向いた。

「あなたのその気持ちが、必ず伝わるわけではない。あなたの普段の態度や言動からは、特にね」

ふたりに沈黙が訪れた。

「――そうね、赤城さんにも言われたわ、あなたは褒めと笑顔の鍛錬が必要、って」

「私も赤城の意見に賛成ね。あの子みたいにその言葉をバネに出来ればいいけれど、いや、あの子はちょっとバネにしすぎたわね……。みんながみんな、そんな子とは限らないし」

「……そうね」

赤城に続いての指摘に、少しばかりだが視線が下がる。普段は誰もがなかなか気がつきにくい彼女の感情の変化を、彼女はしっかりと捉えていた。

「あなたも彼女同様、鍛錬を積むことね」

「そうするわ。……では、おやすみなさい」

「えぇ、おやすみなさい、加賀寮長」

クルリと踵を返し、薄暗い廊下へ消えていく加賀の姿を見送った明石は、病室に掲げられた札を『使用中』に返し、自身の部屋へと帰って行った。

 

 

    ◇

 

 翌日提督から直々に言い渡された三日間の休養は、思えば意外とあっという間に過ぎて行きました。ひとまず座学だけは出席して、それ以外は時間の開いていたひえいさんと何気ない雑談をしたり、熱中症で倒れて以降何かと気にかけてくれる蒼龍先輩と話したり、時々ゲームをしたり……。

 思えばその間、加賀先輩とはあまり話をしませんでした。加賀先輩自身がそれほど積極的に話す方ではないですし、寮で顔を合わせたとしても大抵同室の赤城先輩と一緒でなんとなく話しかけにくくなってしまったのもあるのですが……。

 そんな休養最終日、昼食を済ませて寮に戻ろうとしていたところで、

「あっ、加賀先輩」

「おがさわらさん……」

演習終わりなのか、艤装を付けたままの加賀先輩と遭遇しました。行く方向は同じだったようで、ふたりとも特に何かを話すわけでもなく、そのまま歩きだし始めました。

「体調は?」

「――え、あ、はい。もう大丈夫です」

沈黙が続く中、会話を切りだしたのは加賀先輩でした。

「そう、それなら明日から演習に復帰できるわね」

「はい、よろしくお願いします。加賀先輩」

「あなたの現状、よく見させてもらうわ」

これといって視線を合わせることもなく続くふたりの会話。加賀先輩の言葉へ、一言言葉を返そうとしたその瞬間、

「金剛、長門、加賀、妙高、神通、陽炎、イムヤ、提督執務室へ。各艦娘は別命あるまで各寮で待機。以上」

あちこちに設置されているスピーカーから、大淀の声による呼び出しと指示が聞こえました。呼び出されたのは全員、秘書艦や各寮の寮長を務めているはずの名前です。

「私は執務室へ向かうわ。あなたは寮に戻っていて」

そう言い残し、加賀先輩はクルリと踵を返し、提督執務室のある方へ戻って行きます。同時に周囲から他の艦娘の声も聞こえてきました。

 

「あら、おがさわらさん」

寮に戻っている途中で赤城先輩と合流しました。いつも優しく穏やかな赤城先輩の顔にも、何かいつもと違う雰囲気が現れています。

「あの、全ての艦娘に待機って命令が出ましたけど、これって……」

流石の私も、鎮守府全体に漂うピリピリとした空気は感じ取ることができます。そう、恐らく……。

「えぇ、あるでしょうね、大規模な作戦、それも緊急のものの発動が」

 大規模な、緊急作戦発動。

それとなく察してはいたものの、いざ明確な言葉とされると、その言葉が持つ意味の重さを、ずっしりと感じ取れました。

「私も、出撃する、のでしょうか……?」

私は絞り出すように質問の一語一句を口にしました。

「分からないわ。でも、もしあなたの力が必要になれば、提督は出すはずよ、出撃命令を」

出撃命令。その言葉を聞いた直後、背中を一筋の汗が流れていくのを感じました。夏の暑さが流させる汗とは違う汗が。

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