ウマ娘短編 作:おぶなむ
「何々……ウマ娘の驚異的な五感を利用することで、いわゆる催眠状態への導入は極めて容易となる……と。裏付けデータは? あ、ない。そりゃそうだ」
トレーナーは読みかけの雑誌を、そのまま机に伏せた。
ウマ娘という存在に魅せられたのは、何もトレーナーやファンだけではない。
研究者という人種にとっても、彼女たちは非常に魅力的だ。
人体以上に謎が多く、それでいて身近な存在。意思疎通が図れ、了解さえ得られれば多様な実験もできる……となればさもありなんと言ったところか。
故に、『Nネイチャー』とか『サイエンスS』といった大手学術誌にも、怪しげな研究テーマが寄稿され続けている。
今彼が読んでいる関連雑誌も、その例に漏れなかったということだ。
「まぁ、催眠療法自体は頭から否定できるもんでもないし、案外、ウマ娘のメンタルケアには役立つかなぁ……」
『催眠』というと胡乱な響きだが、要するにセラピーのようなものと思えば使いようはあるだろう。
レース本番で実力を発揮するためには、日々のトレーニングはもちろん、いわゆる『やる気』を充実させることも重要だ。
これについては、ベテラントレーナーでも苦慮することが多い分野でもある。
急に偏頭痛になったり寝不足になったり不安になったりと、それまで絶好調だったのにレース直前に不調になって負けた日にはリセット案件だ。
(そうは言っても、催眠術ねぇ……)
心中で呟いて、トレーナーは立ち上がった。
とりあえず、現時点では眉唾理論に飛びつくより先にやることがあるし、何より昼飯を食う時間が必要だったからだ。
結果的に、当該ページが開かれたままの雑誌が放置されることになる。
しばらくして彼が戻ると、雑誌はなくなっていた。
「ありゃ、誰かが掃除してくれたのか?」
内容は読みかけではあったが、そこまで気になるものでもない。
手間を掛けさせたな、と思うだけで、彼はそれ以上気にしなかった。
「――まったくアイツったら!」
ダイワスカーレットはお冠であった。
その手には一冊の雑誌が握られている。催眠術云々の論文が寄稿されていたそれである。
「よ、よりにもよってアタシにさ、催眠だなんて……!」
彼女は勘違いしている。
ところで、彼が担当するウマ娘はスカーレットだけではない。
「油断も隙もないわね!」
そう言いつつも、口角が若干緩んでいるのは気のせいではないだろう。
トゥインクルシリーズに共に立つパートナーとして、憎からず思っている相手が、ウマ娘への催眠術に興味を持っている。
それはつまり、自分に対して使うつもりがあるということで、男が美少女であるところの自分に何をするかといえばそんなものは決まっている。
そう、愛の告白である。
――彼女は思春期であった。
それで片付けていいものかはともかく、そういうことにしてあげるのが優しさであろう。
「そんなのがなくたって別に……って、違う違う! アタシはアイツのことなんて嫌い……じゃないんだから!」
(何やってんだあいつ)
同室のウオッカは、部屋に入ろうとして中の様子を伺い、可愛そうなものを見る目をしていた。
ライバルの色ボケした顔とあれば、そうもなるだろうか。
とはいえ、そろそろ午後のトレーニングの時間であり、練習着は室内である以上は入らないわけにもいかない。
彼女にも、ライバルの思春期に配慮するだけの情けがあった。
「よっしゃ! 今日もトレーニングの時間だぜ!」
「うひゃぁ!?」
殊更に大声をあげて、扉を勢いよく開く。
それに負けないくらいの勢いで、スカーレットが跳ねた。
「あん? なんだスカーレット、いたのかよ」
「のののノックくらいしなさいよこのバカァ!」
我ながらわざとらしくないかこれは、と内心で思っていたウオッカだったが、スカーレットの様子を見る限りそれは杞憂のようだった。
なんとかは盲目とはよく言ったものである。
ところで、この世界において『バカ』とはどういう成り立ちなのだろうか。
「ンで自分の部屋に入るのにノックがいんだよ……。それより、着替えなくていいのか?」
「な、何にっ!?」
「何ってお前、トレーニングだろうが。制服でやる気かぁ?」
「そっ……そうよね……」
表情の変化が激しい。
このまま弄るのも楽しそうではあったが、ウオッカは友人思いだったし、何よりトレーニングが大事だった。
「ほら、さっさと着替えて行くぞ? トレーナーが待ってんだからな」
「わ、わかってるわよ」
トレーナー、の部分で耳をピンと動かすスカーレットに、ウオッカは苦笑する。
(まったく、困ったもんだぜ。トレーナーは俺のことが好きなのにさ)
コワイ!
当然というべきか、トレーニング中のダイワスカーレットは精彩を欠いた。
「――んー、スカーレット、ちょっと来てくれるか。他の者はメニューを続けててくれ」
「……な、何よ」
「調子が悪そうだったからな。体調でも悪いのか?」
「そういうわけじゃ……」
モゴモゴと言いよどむスカーレットに、トレーナーは小さくため息をついた。
プライドの高い彼女のことだから、簡単に話してくれるまいとは思っていたが、少し腰を据える必要があるかもしれない。
「ちょっと中で休むか。今の状態じゃ、効果的じゃなさそうだ」
「そんなこと……! あ、いえ、えっと……そこまで言うなら……」
(本当に調子が悪そうだな。怪我とかではなさそうだが……?)
トレーナーは首を傾げながらも、彼女をトレーナー兼チーム室内の椅子に座らせると、飲み物を用意し始める。
(そういえば、さっきの雑誌にあった催眠術云々のやつ、はちみつとヒーリングミュージックを使うんだったか?)
モノは試し、とばかりに用意した紅茶にはちみつを添えてテーブルに置き、AIスピーカーにヒーリングミュージックをリクエストする。
(やっぱり、練習中にわざわざ二人っきりにさせるなんて、そうだと思ったのよ!)
一方、ダイワスカーレットは勘違いしていた。
顔を赤くして見るからに緊張している彼女に、トレーナーは改めて首を傾げる。
「……うーん、熱でもあるのか? ちょっと触るぞ」
「ひゃ、ひゃい!」
額に当てられた手に、ますます彼女の顔が赤くなっていく。
やはり発熱だろうか、と訝しんだトレーナーの指示で体温を計るも、微熱と言えない程度の結果。
ちょっとしたストレスか何かで、一時的に体調のバランスが崩れたのかと当たりをつけ、彼はスカーレットを椅子からソファに移動させる。
いよいよね、と彼女の鼓動は最高潮に達しつつある。
されるがままになっているスカーレットに、トレーナーは、やっぱり体調不良だな、と納得した。
そのまま横になるよう促し、目を閉じさせると、その上に固く絞ったタオルを置く。
「ひゃっ」
「冷たかったか? ま、しばらく目を閉じて安静にしてろ」
そう言いながら、トレーナーはブランケットをスカーレットの体にかける。
この辺りで、彼女の頭をはてなマークが埋め始めた。
「トレー、ナー?」
「今日は休んでて良いぞ。音楽は、うるさかったら止めてくれ」
「……えっと」
「ま、そういう日もあるさ。一日二日でヤワになるようなトレーニングは積んでないから、安心して休んどけ。……恐らく一時的な体調不良だと思うが、もし明日になっても熱っぽいなら、念の為保健室だな」
「あ、はい」
「じゃ、俺は練習場に戻るが……そうだな、携帯を置いとく。何かあったらタブレットの方にメッセージなりコールなりしてくれ」
「……はい」
ソファ近くのテーブルに携帯を置くと、トレーナーは練習場に戻っていった。
一人残されたスカーレットは、しばらくそのまま寝ていたが……不意にうつ伏せになると、ソファに顔をうずめたままジタバタともがき始めた。
その夜。
自室で、ある雑誌を切り刻んで捨てるスカーレットの姿を、ウオッカが生暖かく見守っていたらしい。
学術誌の名前をもじるネタを思いついた時は世界を獲った気になったんですが、これは宮下あきら御大に随分先を越されているのでした。