「ちょっとシンジ。手ぐらい繋ぎなさいよ」
艦橋に上がろうとするタラップの手前で、"碇・アスカ・ラングレー"と一方的にシンジの妻を名乗っている少女は言った。
「な、なんでだよ」
シンジは先ほどから、少女の激しく熱烈な攻勢に耳まで熱くなっているのを感じている。
「夫婦なんだから手を繋ぐのは当たり前でしょ!エスコートは夫の義務なんだから」
「だからその夫婦だなんだって、僕は一切知らないよっ!」
「ウルグアイの日本大使館にも婚姻届は提出、受理済みなんで、諦めなさい。アンタの人生は十四の夏でもう終わったの。余生はアタシに甘えたり、アタシとイチャイチャしたり、アタシに夫として心の底から尽くす義務があるだけよ。……楽しそうでしょ?」
アスカはシンジに近づき、頬と頬を触れんばかりに近付けて、耳元で囁く。
「新手の結婚詐欺みたいで、全く信用できないよっ!」
「詐欺とは何よ、人聞き悪いわね!ウルグアイで提出した書類に、アンタのサイン以外の偽造箇所は無いわよっ!」
「やっぱりインチキなんじゃないかっ!!」
「いーだっ!受理されてしまえばこっちのものよ!」
◆
「ミサトさん、あいつらホンマにどうしたらええんですか。出会って直ぐにバカップル化とかムカつきますわ」
「うーん、その事なんだけどね、鈴原君。私もさっきの衝撃から立ち直ってみて色々今後のプランを考えてるんだけど、……毒を以て毒を制すか……いや、しかしそれは劇薬過ぎるか……なんて、二人については、ちょっと、いえ、かなり悩んでるの。取りあえずは当面我慢してくれるかしら」
「僕なんか、あの子に、眼鏡もビデオカメラも壊されたんですけど……」
と、ケンスケの不満はこれももっともだ。
「それは取りあえず……シンちゃんのお小遣いから月々弁償するということで」
「なんでシンジが弁償なんです」
「アスカは性格的に絶対払わないわよ。それに今はシンちゃんがダンナさんらしいし。代位弁済という奴かしらね」
「弁償してもらう俺が言うのもなんだけど、碇のやつ、羨ましいやら気の毒やら、だな……」
◆
艦橋に上がって、ひとしきり、弐号機引き渡しについてミサトと艦長、副長の駆け引き、綱引きがあり、ミサトはネルフの力を背景に、旧来型軍隊代表としての対抗意識を露骨に見せる国連太平洋艦隊幹部の威圧的態度に対しても一歩も引かない。最後にはこう言って、話を結んだ。
「但し、有事の際は我々ネルフの指揮権が最優先であることをお忘れなく」
「かっこええ~!!」
ミサトの慇懃無礼な啖呵に、トウジは喝采する。
「まるでリツコさんみたいだ」
シンジも賛嘆するが、そこに艦橋に上がってくる無精髭の男が一人あった。
「相変わらず、凛々しいな、葛城は」
「加持さん!」
「う、加持……!?」
その後の加持という男自身や、ミサト、アスカの説明を総合して想像すると、彼はミサトの旧友あるいは元恋人で、ネルフのドイツ支部駐在員らしい。
一行は艦内食堂に歓談の場所を変え、アスカはシンジを横目で見て、説明を加える。
「加持さんがアタシたちの結婚手続き諸々を手伝ってくれたのよ。さっ、ちゃんと夫としてお礼を言って、シンジ」
「え、つまりそれってこの子の結婚詐欺の共犯じゃないですか!?」
シンジの中でこの男の評価が一気に低下する。
「ハハッ、碇シンジ君、辛辣だな。オレはアスカが提出してくれという書類の送付やら翻訳やらを手伝っただけ。いつでも君たち夫婦の味方だよ」
「加持ッ、あんた一体全体何をやってくれちゃってるのよッ!こんなの碇司令にどう説明すればッ」
ミサトが加持に食ってかかる。
「アスカに頼まれて、碇司令には俺から事情を説明する連絡を入れてある。葛城が心配することはないさ」
「え、……それで司令はなんて?」
「好きにしろ、初号機パイロットと弐号機パイロットの私的生活の成り行きに興味はない……だそうだ」
と加持は肩を竦めた。
「ほら見なさい。もう外堀は着々と埋まってんのよ、とっとと諦めなさいよ、ボケナス」
アスカが耳元でそっと囁き、キシシと笑う。シンジは眉を顰めて、少女の茶々を無視する。
「あの、加持さんは……そんな余計な……コホン……手伝いをして……僕の事をどこまで知ってるんですか。この子が僕のこと、どう勘違いしてるか分からないけど、あなたも僕を知らないで手伝ってるなら、この子に対しても無責任じゃないんですか……」
シンジは大人への不信感も露わに、そう尋ねる。
「もちろん、最初のエヴァ搭乗でシンクロ率40を軽く超えた天才パイロットだということは知っているよ。アスカもこの業界では天才と言われているからね。お似合いなんじゃないか?」
「加持さん、こいつをそんなどうでもいい事で持ち上げないで。……シンジ、アンタもそんな事で勘違いして天狗になるんじゃないわよ。エヴァより重要なのはこのアタシなんだからね!」
とアスカの鼻息は荒い。
「それに、ドイツの第3支部ではもちろん有名だよ。この度めでたく華燭の典を迎えるアスカのダンナさんだってね」
「あの、根本的にみんなおかしくないですか……華燭の典云々って、完全にあなたたちの仕業じゃないですか、それで有名なんだって言われても……自作自演みたいなものですよ」
シンジは深く大きく嘆息する。
「ハハッ、まあ皆に祝福されているうちが華さ。兎に角、二人とも頑張れ。……与えられた状況で、どれだけ幸せを掴み取れるかが、人間の価値を決めるんだからな」
「そうよ、シンジ。いい加減、食わず嫌いはやめて、アタシとの結婚生活にのめり込みなさい。それはとても気持ちのいい事なのよ。特に夜にする夫婦の共同作業とか……」
「皆の前でそういう、あからさまなセクハラ発言はやめて欲しいんだけど……惣流」
テーブルの下で、そっと手を握ろうとしてくるアスカの手をシンジは邪険に払いのける。
「どうせ夫婦なんだから、いずれ、することはするのよ。いくら逃げても無駄ふぁんだふぁら」
とアスカは頬杖をついて、不平を鳴らすが、途中からシンジにもう片方のほっぺたを引っ張られる。
「ふぁにをふるのよ、ふぁかひんじ」
シンジがふにふにとほっぺたを引っ張ってやると、美少女の顔が愛らしい変顔になっていく。アスカはそのシンジの指の感触が気持ちいいらしく、しばらく彼のなすがままに任せていたが、やがて周囲の視線が彼女一人に集まっているのに気付き、赤面してシンジの手をはねのけた。
「ぶ、ブスになったらどうするのよッ!」
シンジにこねくり回された顔が変形したまま元に戻らない悪夢でも想像したのか、アスカの怒りは真剣だ。
「へー、でも……惣流は僕のお嫁さんなんでしょ」
「そうよっ、もう惣流じゃなくて碇だけど、そうよっ。それが何よっ!」
「だったら、もう責任は取ってる事になるじゃないか。ブスになっても、僕はキミを貰ってあげなくちゃいけないんでしょ」
とシンジは挑戦的にアスカの白く整った顔を見やる。
「そ、そうよ!だから、ぶ、ブスになったら困るの、夫のアンタでしょうが!!」
「困らないよ」
「な、なぜよ……」
「さっきのは、栗鼠かハムスターみたいで可愛かったから」
「…………可愛いって、そんな……」
元々肌の色素が薄いからか、照れると、赤面の兆候が素直に顔に出るのが、このアスカという少女の特徴の一つであるらしい。
「まあ面白い顔だとも言うけど。でも僕は面食いじゃないから別に気にしないからね、安心して」
「むむむむむむ」
どうやら、シンジもこの厄介な少女の取り扱いの要領が段々飲み込めてきたらしい。
「それから、加持さん、今後、彼女の暴走に荷担したら、僕はアナタのこと、この子と同じテロリスト……いや、エロリストと見做しますよ」
シンジが宣言すると、加持はニヤリと笑って言った。
「まぁ男は最初はガツンと行かないとな。どうせ無駄な抵抗だと分かりきっていても、最初だけは。頑張れ、少年」
悟りきったような加持の発言に、シンジは憮然とした。
◆
「シンジ、ちょっと付き合って」
その後、シンジは二人きりでアスカに連れ出された。先程、彼に主導権を握られたアスカは業腹なのか、殊更にツンと澄まして、一見とりつく島もない。
「取りあえず弐号機の所に一緒に来て、この後、予定もあるから」
「予定?まあ、それはいいけど、少し真面目に話さない?」
「ん……いいけど何よ」
道々、シンジはアスカに真剣に語りかける。
「正直、キミの一方的な行動には困惑してる……けど……キミが自分で自慢するぐらい、綺麗なのは確かだと思うんだ」
多分、クラスに居れば、男子の半数以上が彼女の容姿に参ってしまうだろう。残りは彼女の性格に辟易するかも知れないが……。
「だから、どうしてキミみたいな綺麗な子が……僕なんかに拘るのかが分からないんだけど……」
「はぁん?僕なんかって何よ」
アスカが怪訝な顔をして立ち止まった。
「いや……だから、僕はいたって普通の平凡な男子中学生だし。キミも最初に冴えないって言ってたくらいじゃないか」
「確かにアタシの亭主である碇シンジ君は冴えないクンよねぇ……でも世の中、冴えない男だって大抵は結婚してるわよ」
「そ、そりゃそうかもしれない。だけど。釣り合いとか色々あるじゃないか」
「釣り合い?……アタシの容姿が、アタシの男の好みにどうして関係あるのよ?」
「え?」
そうね、アンタでも分かるように例え話をしてあげましょうかと─とアスカは立ち止まったまま、静かに語り出す。
「生まれてから一度も鏡で自分の顔を見たことがない女がいるとするじゃない?そうしたら、その女は男を好きにならないの?当然、男を見れば好きになる事もあるわよね……女が男を好きになった後で、鏡を見てしまったら、自分の容姿で身の程をわきまえて気持ちを捨てたり、あるいは、もっと高望みに切り替えたりしなきゃいけないの?……アタシは美人だから、冴えないアンタを好きになったらいけないの?」
「そ、それは……」
「アタシはもうアンタのモノだから、アンタが自分の妻の容姿をどれだけ自慢しても誇りに思ってもいいよ。でも、それは裏を返せばアタシだって同じよ。アタシの自慢の亭主について、頭だろうと顔だろうと悪口を言うことは許さない。たとえアンタ自身であってもね。アンタをバカにしていいのはアタシ自身だけ」
「……惣流」
「何?ていうか、呼び方はアスカでって言ってあるでしょ」
じろりとシンジをねめつけるので、シンジは仕方なく呼び方を訂正する。
「いや……じゃあアスカ……その理屈だと、君が僕をバカにするのは……なんでアリなの?」
「それは当たり前でしょ、アンタに何か取り柄でもあるの?冴えない顔して、ボケボケっとしてて、鈍感で……
要するに、シンジには自虐を許さないが、マウンティングはアスカの勝手にするということらしい。
「うう、理不尽過ぎる……」
◆
二人は、空母イエロー・ブリック・ロードから、弐号機を積載している駆逐艦デスデモーナに移動する。デスデモーナは、オゼロー級の二番艦だ。ちなみに三番艦は僚艦として隣を遊弋するオネスト・イアーゴーだ。
アスカがデスデモーナ艦上にしつらえられた天幕をはぐり、その中に二人で入ると、巨大な人型兵器が水中に浮かべられて横たわっている。
「これが、弐号機……?」
「そ、世界初の制式タイプのエヴァンゲリオン。ま、無敵のシンジ様の初号機様には劣るんでしょうけどね」
そう言って不意に表情に陰が差したアスカの態度や力強さを喪った口調にシンジも不審を感じた。
「……無敵のシンジ様?」
アスカを見ると、しまったという顔をして、うなだれた。
「ごめん……今の忘れて。アタシ、シンジのこと、もうそんな風に思わない………思っちゃダメだって決心したのに……酷い言い方をして、ごめん」
先程までの強気が急に影を潜め、アスカはシンジに対して申し訳なさそうにしている。
「無敵って言われるのが、酷い言い方かな。一応褒めてるんでしょ、よく分からないけど……。そもそも、もう思わないって、どういう意味?前はそう思ってたの?僕がエヴァに初めて乗ったのはついこの間なのに」
「な、何でもないわよ。アンタのサポートぐらいは妻としてアタシでも務まるって言ってるの。戦いは基本的に夫のアンタがメインでやんなさいよ……」
初めて見る、気弱で自信を失いかけているようなアスカを前に、シンジはしばらく考えていたが、
「要するに、初号機がガンダムなら、弐号機がジムってこと?」
「……ハァ?」
「あ、それともガンダムとザク?」
誰もが知っている国民的ロボットアニメを使った卑近な喩えに、アスカの顔がどんどん真っ赤になる。遂には癇癪が爆発した。
「な、何ですってえ!!いくら何でも初号機と弐号機でそんなに性能差はないわよっ!!」
「まあ、その辺ガンダムとジムについても色々異論が出そうだけど……でも良かった。アスカがそこまで反論できるなら、まだまだ元気そうだね」
「へ?」
「キミが自信なさげだと調子狂うから、もっと元気でいてほしいと思ったんだ。だからちょっと挑発した」
「ふ、ふーん……」
アスカはそっとシンジから視線を逸らして、照れくさそうに頬を掻く。
「それにアスカが自分で加持さんに言ったんじゃないか。僕にはエヴァの操縦よりアタシが大事って。僕がアスカと本当に結婚するのか、まだ分からないし、そんなつもりにも未だなれないけど、でももしアスカと結婚するなら、当然僕だってそう思うよ。エヴァよりアスカだ。夫婦なら、どちらが無敵だとか、どちらがガンダムだとか関係ないんじゃないかな」
「……それよ」
「何がそれよ、なの?」
「そういう所が、大ッキライ!」
アスカの甲高い声が、弐号機を格納する仮設テント内に響き渡った。
「……と言いながら、突然、抱きつくのは何なの」
と、シンジは自分の胸元にしがみついて来たアスカを見下ろした。
「嫌いでも、アタシの夫だからいつでも抱きついていいの。夫婦の特権……」
アスカはしばらくじっと、シンジに抱かれていた。
「……髪、撫でなさいよ」
「うん……」
「どう?」
シンジは指で梳くように、アスカの金髪を撫でてやる。流れるような長い髪が、シンジが梳く傍から、零れ落ちていく。
「なんかサラサラしてる。いい匂いもする」
「それがアタシの匂いだからよく覚えておいて」
「うん分かったよ、アスカ……」
アスカはそっと目を閉じる。
「たぶん、そういう僅かな愛着がアンタをこの世界に繋ぎ止めてくれる……」
「アスカ……?」
「なんでもない!」
アスカは名残惜しそうにシンジから身体を離し、
「ずっとくっついて居られたらいいのにね」
と微笑んだ。
「……そうだね。結婚とかはまだよく分からないけど、少しだけ、暖かかった。他人の温もり……って悪くないね」
「でもね、本当にずっと一緒だったら、それはアンタとアタシが同じ人間になるって事なの。アタシはそれはイヤ。自分を保ったままで、アンタと一緒に居たいの。そのためにアンタの所に嫁に来た」
「アスカ……?」
「ごめん、訳わからないわよね。頭の片隅で覚えておいて」
◆
「にしても、弐号機のこの色って……」
「そっ、紫と緑と橙、アンタの初号機と同じ色よ」
「へー……綾波の零号機は違う色なのに、弐号機は同じなんだ」
何となく嫌な予感が頭によぎりつつも、シンジは確認する。
「元々はアタシの好きな赤色だったのよ。でもアタシがシンジカラーにして!って頼んで、この色にしてもらったの。夫婦なんだからエヴァもペアルックみたいにしないとね」
「シンジカラー……エヴァをペアルック……」
シンジはこめかみに指を当てて、頭を抑える。なんだかこの先、頭痛が持病になりそうだ。
「そっ。嬉しいでしょ?……いつでも夫婦で繋がってる感じになれるしね!」
「アスカ、こんな我が儘言って……技術者の人に無茶苦茶怒られなかったの?」
リツコを筆頭に、シンジには技術担当の気難しいイメージが頭に浮かんだ。
「生き別れの恋人、碇シンジ君と遂に結ばれるのと言って、この写真を見せたら、ドイツ支部の技術部のみんな、大張り切りでサムズアップとかして、休日返上、徹夜で仕上げてくれたわよ。ま、アタシはドイツ支部の大人気アイドルだし、塗り直しは結婚の御祝儀だって」
アスカが取り出したのは、雑コラのように切り貼り跡があからさまなシンジとアスカが見つめ合っているように見えなくもないツーショット写真だ。むろん、捏造された写真だろう。
「ろくに書類の偽造も見破れないウルグアイの役所や大使館、アスカにコロッと騙されるドイツ支部の人たち……みんな○んでしまえばいいのに」
「国際問題になるような物騒な事、言わないでよ」
「それなら、偽造書類や写真の方が、国際問題になるって……」
シンジの懸念をアスカは、ハンッと鼻で笑う。
「それを言うなら、アンタとアタシの恋の行方は、世界の滅亡危機の問題よ。全人類がアタシたち夫婦に協力するべきなのっ」
「……何言ってるんだか、もう無茶苦茶だなぁ」
シンジは呆れかえり、その自称妻は自信満々にふんぞり返るのだった。