ウマ娘・人生処方短編集 作:ly
一流の理由
男は、うだつの上がらない営業だった。
他の人間と違うところもなく、秀でたところもないので、よく昼食でチェーン店の牛丼屋に訪れることだけが特徴といえる。その特徴を捨象してしまえば、男のことを「東京の彼ら」と形容しても差し支えないような、ありふれた人間だった。
精一杯、苦労の果てに作った媚を売り歩く。靴底に敷いた自尊心は擦り切れてなくなってしまった。しかし媚の売上は伸びずに、むなしく手元に残るばかり。
飲みの席で場を盛り上げるために裸踊りをしたときは、尊厳まで脱ぎ捨ててしまったような気分だった。
愛想笑いで顔に染み付いた妙なシワと、似たようなシワだらけのくたくたのスーツ。それと首輪のようにキッチリと締めたネクタイが彼の(彼らの)トレードマークだ。
今日もため息を吐いて歩く。しかし流れ出るほどの幸せもないので、男の周りの空気が湿気るばかりであった。気の毒というような、しかし無能さからくる自業自得といえばそれまでのような。「パッとしない」で締め括られる類の雰囲気を纏って、会社から会社へ。
昼休みにはチェーン店の牛丼屋を探して、その自動ドアをくぐる。
「いらっしゃいませ」
明るい会話もなく、ただ牛丼をかき込むためだけに集まっている人間たち。空気はどこか澱んでいる。剥き出しの蛍光灯は、明るさよりもむしろ無機質さの印象を与えるような。冷たい白さで光っていた。
成功者よりは、どうにも芽がでていないような、腐ってしまったような、そんな人間が集まって、黙って牛丼を食べている。
席に座るどの背中も、人生の未勝利を語っていた。
そんな中で一気にかき込む牛丼が男は好きだった。
馴れ合うでもなく、傷を舐め合うでもない。しかし同じ場所で、牛丼をかき込む。
いつか未勝利戦に勝つことを願いながら、短く安く、昼食を済ませる男たちがいた。
・・・
店員よりも余程愛想の良い券売機で注文を済ませて、空いているカウンター席に着く。
ひと拭きしただけの机は、端の方に多少の汚れがあった。文句を言うでもなく、スマートフォンを取り出して眺める。何をするでもなかったが、牛丼屋の中には意識を向けるものが何もなかった。
そのとき。
ガラリとドアが開いた。
ヒトでは考えられないほど整った顔立ちに、緑を基調とした上品な服装。ウェーブのかかった髪と、ウマ娘特有の頭上の耳。一挙手一投足が気品に溢れている。
纏うオーラは只者ではなく、平々凡々な男の目にもその少女はスターに見えた。
(キングヘイローだ……)
この店に、まったく似つかわしくない姿が現れた。
あまりにチェーン店の牛丼屋に相応しくない姿に、思わず「道に迷いましたか」と声を掛けたくなった。しかし、誰でもない人間のひとりとして静寂を作り出し、その中に紛れて安息を得ていた男には、この店内で話しかける勇気がなかった。
スペシャルウィーク、セイウンスカイ、グラスワンダー、エルコンドルパサー……。彼女の同期――黄金世代――と形容されるようなウマ娘たちと比べると、劣っていると言わざるを得ない。
敗北と迷走を重ねて、つい最近ではダートですらその血を恥に晒したという。
良血・良家のお嬢様。
クラシックで同期に敗れ、短距離マイルに逃げ、ダートに縋って、それでも一度もG1で勝てていない、諦めの悪いお嬢様。
男は、どうにもその執念を理解できず、見苦しいとすら思っていた。
そうしてぼんやり眺めていると、店内を数度きょろきょろと見まわして店員を探しているようだった。席の案内などされないというのに。
「……好きに座っていいのかしら」
……券売機には目もくれずに着席したところで、男は思わず声を出してしまった。
誰か、気付いた店員が声を掛けるだろうとか、そういう考えもなく、ただ無心で話しかけてしまっていた。
「あ、あの」
「あら、このキングに何か?」
一人称がキング。
理解の範疇を超えた出来事に、男は一秒間フリーズした。
「食券をそこで買ってから、座るといいですよ……」
「……そ、そうね。どうも。」
顔を薄く紅潮させて、やけにカクカクした動作でキングヘイローが券売機へと歩いていく。男のそばを通りがかると、ふんわりと、全く牛丼屋に似つかわしくない香水の匂いがした。
「キングヘイローさん、ですよね」
「ええ、そうよ」
数席離れたカウンターで、男は聞いた。確信があったが、確認を取るのが礼儀だと思ったからだ。仮にオフで訪れていたとしたら、わざと「違う」と答えるだろう。しかし、「そうだ」と肯定したということは、今この場で「キングヘイロー」として対応するということ。
どうして負けてなお、挑み続けるのか。その身を泥で汚してなお、前へ進もうとするのか。
「どうして、レースを続けるんだ。もう、長距離も、中距離も、マイルも、短距離も、ダートも、全部負けてしまった。G1で10連敗って……」
80パーセントの興味関心と、20パーセントの侮蔑。それを込めて、男は問うた。
「同期に勝てなくたって、時代が悪かったと言い訳できる……。それで、短距離やマイルやダートまで出たら、……」
――なんにも勝てないじゃないか。
そこまで言おうとして、男は、はっとした。
ただ食事をしに来ただけのウマ娘に、こんな負の感情をぶつけて、何がしたかったのか。
暗い雰囲気に飲み込まれて、良血・良家の生まれに見当違いの憎しみを燃やして。
しかし、キングヘイローは、なんでもないように、ただ男の目を真っすぐに見て答えた。
「言いたいことはそれだけ?」
負け続けてきたはずなのに。
一度も勝っていないはずなのに。
その目は、ただ澄んでいた。前を向いていた。
項垂れてはいなかった。
「私は何度も、そういう罵声を聞いたわ。血に対する失望も、家に対する嫉妬も。ひどいときには、同期に夢中で興味すら向けられないことだってあった。最近だってそうよ」
「……それなら、」
――もうやめればいい。
レースに出なければ、負けることはない。勝負に出なければ、勝ちも負けもないのだ。
「いいえ。私は進むのをやめない。一流であることを絶対に証明するのよ」
「それは、どうして……?」
男は、救いを求めるように呟いていた。
懺悔するように、改心するように、呆然と話を聞いていた。
答えを待っていた。
勝ちも負けもしない人生で、戦いに出るための一言を。
キングヘイローは、ふっと小さく笑って、まるで当然のように言った。
太陽が東から昇るように。月が満ち欠けるように。
この世の真理を語るように、自分のことを語った。
「私が、一流であるためよ」
男は、ただ小さく「そうか」と呟いた。
勝てないな、と思った。自分よりもたくさんの勝負に負けている小娘の言葉が、どんな偉人の言葉よりも重く圧し掛かっていた。
「お前はどうだ」と、自分の投げた問いが跳ね返ってきていた。
「次の高松宮記念、観に来る権利をあげるわ。一流の走りをその目に焼き付けなさい」
男が自分の言葉に潰されそうになっていたとき、再びキングヘイローが口を開いた。
「……うん、観に行くよ」
そう答えて、男はそのままスマートフォンで、高松宮記念の席予約をした。そっと目の前に不愛想に置かれた丼を放置して、冷めるのも構わないで。
キングヘイローは、その様子を満足げに見ていた。
予約を終えた男が丼に向かったのと、キングヘイローに丼が届いたのは、ほぼ同時だった。
しかし、キングヘイローはひと足先に食べ終わって、立ち上がっていた。
「ご馳走様でした」
そう言って、男よりも先に店を出ていった。一瞥もくれずに。
あんな会話をしたのはまるで夢か嘘だったかのように、他人のように出ていった。
これ以上の会話が必要ないことを、キングヘイローはわかっていたのだ。
「さすが一流、だな」
そう溢して、男はそのあとすぐに店を出た。
久しぶりに、「ごちそうさまでした」と声に出して言った。店内からの返事はなかったが、男には必要なかった。
青空と日差しがコンクリートに突き刺さる。
清々しい気分そのままに、くぁ、と大きな伸びをした。シャツが少しベルトから出て、もそもそとそれを直した。
ちょうど昼食終わりのビジネスマンたちが、まばらに街を歩いていた。これからオフィスに戻るのか、営業に戻るのか。
なんだか何でも出来そうな気分になって、スキップで走り出した。
奇異の目も、太陽の日差しも、革靴の靴擦れも、何にも痛くなかった。
毎日頭を下げるばかりで、いつしか地面しか見えなくなっていた。見上げると、空は透き通って青く、太陽は燦燦と輝いていた。
項垂れることも、折れることも、頭を下げる必要もない。
あのウマ娘のように気高く戦って生きていこう。
まずは未勝利戦からだ。
3月の中京レース場、曇り空のなか、不思議と心は晴れやかだった。
1着 13番と点灯した掲示板を見ながら、男はゆっくりと伸びをした。