ウマ娘・人生処方短編集 作:ly
【前編】
一歩ずつ、アスファルトを踏みしめて歩く。
はるか前方で軽快に騒ぐあいつらを目指して、ぼくのではないランドセルをいくつも抱えて。
荷物のせいか、気分のせいか、足取りは余計に重くなった。
ぼくの悲惨さを明るく照りつける太陽が憎くて、汗とか涙とか鼻水がたくさん出た。
長袖で、ずび、と鼻水をぬぐって、ランドセルを持ち直す。
冷たい空気が肺に流れて、体の芯まで凍えるようだった。
「きったねえなあ!俺のランドセルに鼻水つけたら殴るからな!」
それまでぼくのことなんて見えていないかのように騒いでいたのに、こういう時に限って目敏くぼくの様子に気付くのだ。同じような内容の罵声が二つ続けて飛んでくる。
「こんなんじゃ菊花賞始まっちゃうよ。走っていこうぜ!」
「そうだな、無敗の三冠なんて滅多に見れないしな」
「じゃ、俺らは先に行くからちゃんと持って来いよー?チビカス!」
そう言って、あいつらの背中は遠く小さく消えていった。
何も背負わないで、好きなように駆けていった。
京都レース場へは、あとどれくらいだろうか。
・・・
少年は息を切らしながら、重荷をゆっくりと降ろした。
レース場はちょうどウマ娘たちがゲート入りする寸前で、どうやらなんとか間に合ったらしかった。
もっとも、観戦に間に合うという意味ではなく、いじめっ子たちの気まぐれな締め切りに
レースさえ始まってしまえば、投げ捨てたランドセルと少年のことなど忘れているだろうという算段。すでに人込みにいじめっ子たちは消えていて、少年は4つのランドセルを運ぶ義務から解放されていた。
客、客、客……。
どこを見てもミホノブルボンの三冠を見届けに来た観客でいっぱいだった。
それをどこか、少年は他人事のように白けた目で見ていた。無敗の三冠、無敗の三冠とあちこちから聞こえてくる。テレビの特集から新聞、ネットまで、全国が熱狂に包まれている。
期待ばかりが膨れ上がって、空間いっぱいに広がった破裂寸前の風船のように少年を圧迫していた。冬の空が普段よりも近付いて見えた。
――何をそんなに熱狂しているのだろう。
他人が走っている様子に感情移入することなんてできなかったし、その容姿の端麗さに惹かれることもなかった。
懸命に汗を流しながら必死に走る姿を見て、何を思うのだろう。
そんな他人のことよりも、少年の日々は切実であったし、懸命であった。
毎日息を潜めて過ごし、目を付けられないよう必死に隠れていた。今も歓声と熱狂に押しつぶされそうになりながら、なんとか自分の席を確保した。
傷を負った人間は一番人気の走りに勇気をもらうことはないのだ。ずっと誰よりも速く駆け抜けて逃げ切るような、そんな強さはないのだ。
ミホノブルボンの三冠がどうだとか、少年は興味がなかった。
騒ぐ大衆が、いじめっ子や教室のその他大勢に重なって見えて、少年は彼らの祀り上げた王者が敗けるのを望んだ。
席に座る理由は、それくらいのものだった。
・・・
ぼんやり突っ立っていると、いつのまにかゲートインが済んでウマ娘たちは走り出していた。どうにも人数が多く、誰が誰だかわからないまま、じわじわと広がっていくウマ娘たちの集団を見ていた。
「ハイペースだ」とか「縦長だ」とか周りが何か言っていたが、普段レースを観ない少年は何のことだかよくわからなかった。
ぼうっと観ていると、とても長い距離を走るレースだろうことがわかった。この広い京都レース場を一周してもまだレースは終わらない。
最後のコーナーを抜けて直線へ向かうとき、観客の盛り上がり方から、ようやく少年はこのレースが観客席の前の直線で終わることを察した。
「残り400メートル!どこからでも、何でも来いという感じかミホノブルボン!」
鍛え抜かれた脚が、正確無比に駆動する。
直線で先頭を走るミホノブルボンの姿に、歓声が爆発した。
実況は三冠目前の一番人気を褒め称え、それに煽られて観客も声を上げる。ますます少年は白けて、何の想いもなく見つめていたときだった。
たった三人が、四番手以下を引き離して先頭を争っていることに気が付いた。
茶色の髪にサイボーグのような衣装、ミホノブルボン。
「内からマチカネ!内からマチカネタンホイザ!」
知らないウマの名が呼ばれる。内側を走っている、フリルの勝負服のウマ娘のようだった。穴の開いた帽子に耳を通し、ふわふわした衣装とはかけ離れた必死さで駆ける。
しかし、ほんの少し、ミホノブルボンには届かない。
そして、次にその名前が呼ばれたとき、少年に電流が走った。
「外から、外からライスシャワー!」
影が伸びるように、すうっと外に、小さな黒色がいた。
折れてしまいそうな細腕を懸命に振って、少女が走っていた。
光が強くなるほど、影は濃くなる。
一番人気、最も光の当たるミホノブルボンを、ずうっとマークしていたのだ。
小さな、小さな身体で肉薄する。
か細い手足が、低い身長が、少年と重なって見えた。
期待を集めるミホノブルボンを倒すところが見たいと思った。
ターフを走っているのは、少年そのものだと思えた。
「行け!ブルボン!」
「三冠だッ!」
周りからは、罵声にも近い声量で応援が飛んでいた。
気付けば、少年は拳を握ってレースを見守っていた。
声は出せなかった。いままで叫んだこともなかったし、このアウェイのなかで自分を主張することが怖かった。
少年は、だから、座ったままで、ただ、拳を固く握って祈った。
――あの小さな少女が勝ちますように。
そうして、
「ライスシャワーが襲いかかって来る!」
ぐんぐんと外側から伸びて、黒色が全てを置き去りにしていく。三冠の栄光も、アウェイな実況も振り切るように、ミホノブルボンを追い抜いた。
「ライスシャワー躱した!躱した!あー……ライスシャワー先頭!ミホノブルボン三冠ならず……!」
その小さな少女――ライスシャワーがゴールしたとき、歓声は悲鳴に変わった。
「え……」
少年は、頭をガツンと殴られたような、腹の底に重たい氷を投げられたような気持ちになった。
あちこちから、ぽつぽつと、一位を獲ったライスシャワーに対する不満が零れ出ていた。重苦しい失望の溜息や濁った愚痴が重なって、ブーイングとしてレース場に降り注いだ。
健闘への賛辞も、勝利への祝福も、そこにはなかった。
少年は心のどこかで、すべてのウマ娘に平等に祝福が与えられると思っていた。
快晴すら燻んで見えるほどの空気の悪さに、息をするのすら躊躇われた。
そんな現実に、少年は
少年には、悲痛な現実を変えるだけの力がなかったからだ。周りの観客に埋もれそうで、ライスシャワーを称えるための大きな声も出せなくて。この空気を振り払って叫ぶ勇気もなかった。そして何より、きっと機嫌の悪いであろういじめっ子たちに合流しなければならなかった。
我が身可愛さで何もできない自分の不甲斐なさに、少年はどうにかなってしまいそうだった。
ウイニングライブの会場に背を向けて、少年は
会場を後にしようと、ライスシャワーの方を一瞥した。
祝福を受けるはずだった背中は、消えてしまいそうなほどに小さく見えた。