後になって知ったことだが、その日の彼女はレース後でとても空腹だったらしい。
レースの結果は2着。靴ひもが解けたとか、靴が破れたとか言われているが、映像すら残ってないので確認しようがない。本人に聞くのもはばかられるし。
それでも1バ身差の2着。靴の事故がなければ勝っていたと、多くの観客がそう言っていた。
そしてその期待に応え、彼女は強さを見せつける。
現在の戦績は7戦5勝2敗。
最初の1敗はともかく、次の1敗は俺の責任だった。
その日、俺は彼女に新メニューを出し、意見を貰おうと思った。新メニューと言っても奇抜なものではない。単なるニンジンのきんぴらだ。
この甘辛く調理したニンジンのきんぴらを、彼女はいたく気に入り、これをご飯の上に乗せ、丼のようにしてかき込むのを彼女は好んだ。
瞬く間に3杯を平らげ、4杯5杯と続けた。しかも普通のご飯茶碗ではない。ラーメン用のどんぶり茶碗で、だ。
彼女がレース前だと気付いた時には、もう遅かった。彼女の腹部はでっぷりとしており、とても今から走れるようには見えなかった。
それでも彼女は「問題ない」と言って食堂を後にした。
結果は前述した通りの2着。
あの状態で2着に入ったことを褒めるべきか、本来なら1着が取れたと嘆くべきか。
まあ、後者だろう。本人が気にしてなかったのが幸いだが。
彼女の見方が変わったのは、8戦目だった。
どういう経緯があったのかは知らないが、彼女は出張してレースを行うことになった。
そこは芝のレース場で、ずっと
ダートでは強いのかもしれないが、芝は無理だろ、という嘲笑が聞こえてきたような気がした。
だが、彼女はそれを一蹴した。
まるでそれが当然だと言わんばかりの、圧倒的な1着だった。
彼女の活躍にカサマツは沸いた。戻ってきた彼女は、万雷の拍手で迎えられ、続くレースも連戦連勝。
戦績は12戦10勝2敗。
その2敗も、実質は勝っていたということをカサマツのファンは知っている。
そしてその頃になって、中央からスカウトされたという噂が聞こえてきた。
カサマツのファンは揺れた。
彼女が中央で活躍する姿を見たい。
彼女が東海ダービーを制する姿を見たい。
どちらもファンの本音だった。加熱したファンの激突は、一時殴り合い寸前にまで発展したが、結局は本人の意思を尊重するということで落ち着いた。
俺の気持ちはどちらだろうか?
自問するが、答えは出なかった。
移籍騒動から数日経ち、騒ぎも落ち着いてきた頃、ひとりの来客があった。
暖簾はすでに片付けており、客の姿もすでにない。おそらくは営業が終わるまで待っていてくれたのだろう。若草色の帽子とスーツの似合う、涼やかな女性だった。
「初めまして。日本ウマ娘トレーニングセンター学園から参りました駿川たづなと申します」
「ああ、どうも」
名刺を受け取り、ペコリとお辞儀をする。こちらも返したいが、あいにくと名刺など普段から持ち歩いていない。使うこともないのでタンスの肥やしになっていた。
とりあえず名乗りを返し、用件を伺うことにした。
「今日はお返事を聞かせていただきたく、お伺いしました」
「……うん?」
返事? 何の?
「……彼女からお聞きではありませんか?」
若草色の帽子がふわりと揺れる。中央のトレセン学園からわざわざ来たのだ。『彼女』というのはすぐに思い至った。だが、何も聞いてはいないな。
「どうやらすれ違いがあったようですね。それとも言い出せなかったのかしら。彼女は中央に移籍する条件として、貴方の帯同を上げたのですよ」
「俺……私を?」
「ええ、随分とお気に入りのようです」
その言葉にドキリとする。
「貴方の料理」
だろうね! だと思ったよ!
「特にきんぴらごぼうのごぼう抜きが好きだと言ってました」
俺にとってはあまり良い思い出のない料理だ。言ってみればきんぴらニンジンなのだが、縁起が良いということで、きんぴらごぼうの『ごぼう抜き』というメニューになっている。
「ありがたいことです。ですが、こちらにも事情がありましてね。カサマツとの契約がまだ残っています」
「それは先ほど解決しました。後はもう、貴方のお心ひとつですよ」
そう言って駿川さんがニコリと笑う。
なんだか俺抜きでどんどん話が進んでるな。
「こちらが雇用条件です」
差し出された書類に目を通す。条件は、悪くない。むしろカサマツよりずっと良い。給料は多いし、休みも多い。寮もあるし、至れり尽くせりだ。
……俺はどうしたいのだろう?
彼女はすでに、このカサマツでは敵なしだ。遠からずしてローカルシリーズを制するだろう。その後に中央へ進出してもいいのではないかという意見もあるし、俺もそう思った。
だが、彼女が今所属しているカサマツのトレセン学園に比べ、中央のトレセン学園の方が設備は充実している。そして何より、彼女のライバルとなりうるウマ娘が、中央には必ずいる。
ライバルの有無は、成長の大きな違いとなるだろう。
そうだ。俺は何を悩んでいたのだろう。彼女を井の中の蛙で終わらせてはいけない。
食べることが好きで、走ることが好きで、マイペースで、少し世間ズレした不思議な少女。
彼女がトゥインクル・シリーズで活躍する姿を見たいと思ったことは、一度や二度ではない。俺がその一助となれるのならば、迷うことなど何もない。
気付けば、俺は雇用契約書にペンを走らせていた。