中央での生活にも慣れ、ようやく地図なしでもこの広大なトレセン学園を隅々まで出歩けるようになった。
今日は休日である。
「と言っても、何をやるかな」
ここには色々な施設があるが、俺に利用できるものは少ない。ジムやプールはもちろん、図書室や音楽室も利用不可だ。
まあ、ああいうものは生徒のための施設だから、考えてみれば当然だが。
「差し入れでもするか」
そう決めて、炊飯器の蓋を開けた。
トレーニング用トラックから喧噪が聞こえてくる。その一角に見知った顔を見つけた。彼女もこちらに気付いたようだ。にこやかに手を振ってくる。
「こんにちは」
「よっす。差し入れを持ってきたぞ」
ひょいっと手にした風呂敷を掲げる。耳聡く反応したのはダートコースの上で寝そべり、胸を上下させていたウララだった。
「差し入れ~? なになに、美味しいもの~?」
「もう、ダメだよウララちゃん。最後の1周が残ってるでしょ。それが終わってから」
「ぶ~、ベルノちゃんが意地悪だ~」
ぶーぶー言いながらも、ウララがダートコースを走り始める。
「他のみんなは?」
「バルちゃんは今日レースなの。オグリちゃんとユキノちゃんはロードワーク」
「ウララは留守番なのか?」
「ウララちゃんは外に出るとフラフラ~てどっかに行っちゃうから。本当ならみんなでバルちゃんの応援に行く予定だったんだけど……」
「だけど?」
「重賞レースでもないのに応援なんかいるかッ! て怒られちゃった」
「あー、あの人なら言いそうだ」
応援が許可されるのはデビュー戦と重賞レースだけってことか。
「ハルウララ選手、いっちゃくでゴォール! ゆうしょー!」
両手を上げてゴール板を通過したウララがニコニコ顔でこちらにかけてくる。肩で息をしているようだが、尻尾はルンルンだ。
「差し入れってなに~。ニンジン~?」
「先に手を洗ってきなさい」
「は~い。ばびゅ~ん!」
ばびゅーんと手洗い場に向かったウララがばびゅーんと帰ってくる。重箱を開けて中身を見せると、ウララは目を輝かせた。
「ニンジン色のおむすびだ。美味しそ~」
ウララが両手におにぎりを持ってパクパクと食べ始める。この
「ベルノはやはりサポート1本で行くのか?」
「はい。私はやっぱり支える方が向いていると思うんです。編入試験もサポート研修生として合格しましたし。あ、帰ってきましたよ」
正門から銀色の髪と栗色の髪が入ってきた。片方は額に薄く汗をかいている程度だが、もう片方はゼーゼーと息が上がっている。
「む、来ていたのか」
オグリはこちらに目を向けると、すぐにウララの方へと視線を移した。正確にはウララが手に持っているおにぎりへと。
「差し入れを持ってきたんだ」
「美味しいよ~。みんなで食べよ~」
「ああ、いただこう」
「わ、わだしはちょっと……うぷっ」
「ユキノちゃん、ここ座って。はいこれ、ドリンクだよ」
「ベ、ベルノちゃん、ありがどー」
ぐったりとユキノがベンチに倒れ込む。どんだけ走り込んだんだろ。
5つある重箱はすでに2つが空になっている。早く回復しないと食べ損なうぞ。
「ところでオグリ、まだトレーナーともめてるのか?」
「むぐっ、……いや、一応折り合いはついた」
オグリはトレーナーに春の天皇賞に出たいと言った。だが、トレーナーはこれをはねのけた。何故なら春の天皇賞レースは3200メートル。オグリがこれまでに走った最長距離は、有馬記念の2500メートル。その差700メートル。トレーナーが渋るのは当然だろう。ましてや2500メートルで不覚をとったばかりだ。
「阪神大賞典で勝つ。1着を取れば認めると言った」
「天皇賞
距離は3000メートル。予行演習としては最適だ。だが1着しか認めないとは、あの人らしいな。
「本当ならタマが取るはずだったレースだ。だから誰にも渡したくない」
ベルノから受け取った紙コップの中身をグッと飲み干し、オグリは決意を呟いた。
タマモクロスが支払った奇跡の代償は、右脚の剥離骨折。長期休養を余儀なくされた。
とそこで、こちらに向かってひとりの男が近づいてくるのに気づいた。高齢ではあるが背筋はシャンとしており、頑健さを誇示しているようにも見える。
「おかえりなさい。ひとりですか?」
「あいつは先に帰らせた」
「バルちゃん勝ったの~?」
口をもごもごさせながら、ウララがチームメイトの結果を問う。
「いや、勝ちきれずに2着だ。あいつはダートが良いと言ってるが、芝の方が向いてるのかもしれんな。まあそれはともかく、握り飯か。世話かけるな」
「いえ、大したものではないですが」
「運動後に炭水化物をとるのは悪くない。とりすぎも問題だが、こいつは動くから大丈夫だろう」
オグリの消化能力、内臓の強さは天性のものだろう。回復も早い。そう考えれば、長距離にも適性があるように思えるのは、素人考えだろうか。
「ねぇねぇトレーナー。わたしのレースはいつ~?」
「おめぇはもっと基礎を固めてからだ。体幹がブレてるからスピードが乗らねぇんだ。ちゃんとフォームを意識しながら走ったんだろうな?」
「うん。ちゃんとやったよ~」
「そうか。えらいぞ。明日チェックしてやるから、今日はもう上がれ。ユキノもな。オグリとベルノはちょっとこい。おめぇもどうせヒマだろう。付き合え」
「はぁ」
そう言って老トレーナーはスタスタと歩いて行った。
トレーナー室の椅子に3人が腰かけると、トレーナーはホワイトボードに『阪神大賞典』と書き記した。
「おめぇは聞いてるのか?」
「はい。春の天皇賞に出たいと」
「そうだ。そして俺の出した条件がこれだ」
トレーナーがペン先でホワイトボードを叩く。
「このレースで勝てんようじゃ、出走しても恥をさらすだけだ。だが、出るというのならトレーナーである俺もサポートはする。長距離レースで最も重要なのはペース作りだ」
「……ペース作り」
オグリがトレーナーの言葉を復唱する。
「3000メートルをフルに活用しなきゃならん。脚が足りねぇのはもちろん、余らせてもダメだ。おめぇ、阪神大賞典をどう走るつもりだ? 先行か? 差しか?」
逃げと追い込みは口にしない。最初から論外なのだろう。オグリは少し悩んでから答えを口にした。
「最初は中団に構えて、最後の直線で抜く」
「随分ふわっとした作戦だな。長距離で危ねぇのは隊列が伸びた場合だ。つまり大逃げするやつが出た場合だな。ひとりが大逃げするだけで隊列は伸びて、結果仕掛けどころを見失うわけだ」
「先行したウマ娘がバテると思ったら、意外と残ってそのままゴールしちゃうパターンが多いんですよね」
「ベルノの言う通りだ。今がハイペースなのか、スローペースなのか。自分のスタミナはどのくらい残っているのか。どこで仕掛けるべきか。長距離レースは荒れやすい反面、本当に強いウマ娘はしっかり勝つように出来てるんだ」
トレーナーがホワイトボードを叩く。今度はペンではなく、拳で。
「出るからには勝て! おめぇの強さを見せつけてやれ!」