阪神大賞典。芝3000メートル。格付けはGⅡ。
「2番人気ですね」
「距離の不安は拭えねぇ。ファンは分かってんだよ」
老トレーナーが渋面を作る。そういえばこの人が笑ってるところ、見たことない気がする。
「オグリが長距離で通用するのかは、俺にも分からん。練習と本番は別物だからな」
「エネルギーの消費量が違いますからね」
レースでは色々なことを考える。そして考えるという行為は思いのほかエネルギーを消費する。心理的な駆け引き、プレッシャーもあるだろう。練習で上手くいったことが、本番でそのまま通用する保証はない。
単純に速筋と遅筋という例もあるが、人間が思っているよりもずっと、ウマ娘にとっての"距離の壁"は重大なのだ。
「イナリワンというウマ娘に気を配れと言ったそうですね」
「イナリワンはタマモクロスと似たタイプなんだよ。軽くてコンパクトなボディーに、超ハイパワーのエンジンを積んでいるようなもんだ」
「その割には聞いたことのない名前ですが……」
「まだこっちでは目立った活躍はしていないからな。奴は地方のウマ娘だ」
地方の? まさかカサマツ……?
「ふっ、おめぇは顔に出やすいな。カサマツじゃねぇ。大井だ。大井はローカルシリーズでもなかなかレベルが高い。地元じゃかなり有名なウマ娘らしい。それに、噂じゃ中央のスカウトも動いているそうだ」
それはつまり、中央でも通用すると判断されたということだ。
……あれ?
「ちょっと待ってください。スカウトが動いているってことは、まだ中央トレセン学園の所属ではないんですよね。なのにトゥインクル・シリーズのレースに出られるんですか?」
「申請すれば出走は可能だ。だがレースの度に出張するのも手間だろう。中央のサポートも受けられないしな。だからトゥインクル・シリーズを主戦場にするウマ娘は中央に来るのが普通だ。まあ、あの娘にも何かしらの事情があるんだろうよ」
俺の疑問に、六平さんは丁寧に答えてくれた。
「なるほど、ありがとうございます」
改めて、出走表に目を落とす。
六平さんはイナリワンをタマモクロスと似たタイプと言ったが、あんなレベルがそうそういるとは思えないんだけどな。
「エンジンならオグリも負けてないと思いますが……」
「そうムキになるな。ウマ娘については、未だに謎が多い。だからこそオグリが長距離に向いているのか、いないのか。実際に走らせてみるまでは分からん。それが、今日分かるだろう」
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「ポカポカと気持ちのいい陽気となりました阪神レース場。各ウマ娘、ゲート入りが完了したようです。春の天皇賞を占う
(やっぱり逃げるやつはいた。つられないように……だな)
「さあ先頭はシエルユキムラ、2バ身離れてヴァリファオー、3番手にヴィクトリアギルが続きます。それを見るように1番人気のルーオディナ。注目のオグリキャップは中団よりやや後方。すぐ後ろに3番人気のイナリワン」
(ろっぺいが警戒しろと言っていたイナリワンはすぐ後ろか。……なんだ? 見られている?)
「3、4コーナーの中間まず1周目です。先頭のシエルユキムラが4コーナーにかかります」
(隊列が伸びている。このペースは速い。自分のペースを維持しなくては)
「先頭シエルユキムラがスタンド前を通過していきます。このハイペースで大丈夫なのか!? そのまま第1コーナーへと向かいます」
(……ん? 前との差が詰まってきた。私のペースが上がっているのか? ……いや、私のペースはいつも通りだ。そうか、先頭のやつがペースを落として、それにみんなつられているんだ。マズい、このままでは逃げ切られる)
「さあ各ウマ娘スタンド前を駆け抜けて2週目に入ります。おっとオグリキャップが外からじわりじわりと上がってきている。現在5番手。その後ろにイナリワンがつけます」
(よし、先頭が見えた。このままペースを保って……む、今度はスピードが上がったか? スピードを上げたり落としたり、そうか、これがレースを作るということか)
「最終コーナーを抜けて直線へ入ります。オグリキャップは2番手まで上がってきている。その差8バ身。行けるかオグリキャップ! 逃げ切れるかシエルユキムラ!」
(脚は……大丈夫だ。行くぞッ! 最後の直線ッ!!)
「ターフが爆ぜる! オグリキャップの豪脚がうなりを上げる! みるみる差が縮まっていく! そのままかわしたぁ! そして内々からイナリワンが突っ込んでくる! オグリキャップとイナリワンの一騎打ちの形となったぁ!」
(――ッ!? 内を差されたッ!?)
「残り150メートル! 外からオグリキャップ! 内からイナリワン! さあ大接戦だ大接戦だ! オグリキャップとイナリワンの競り合いだ! 外からオグリキャップ! 内からイナリワン! ふたり並んでああーーーっと!! 最後の最後、オグリキャップが執念で飛び込んだ! オグリキャップがわずかに前! 1着はオグリキャップ! 1着はオグリキャップです!!」
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「……勝ったか」
「はい、ギリギリでしたけど」
スタンドの前方ではベルノたちチームメイトが大はしゃぎしている。だが六平さんの表情は思わしくない。
「イナリワンという娘、かなりの賭けをしたな」
「オグリをマークしたことですか?」
「ああ、オグリを徹底マークしていた。過去のデータを見る限り、あの娘はペース配分がまだ未熟だった。だからオグリについていったんだろう。オグリが沈んだら自分も沈むくらいの覚悟だったはずだ。それぐらいオグリを買っていた、警戒していたんだろうな」
「あの
「……だろうな」
苦虫を噛み潰したように、老トレーナーは言葉を吐き出した。
今回は3000メートルだった。春の天皇賞は3200メートル。
その差200メートルが不安を掻き立てる。
そんなレースだった。