審神者が本丸を追われた。上ばっかり目指して仲間を顧みなかったから、仕方ない。第一部隊が出陣中で、それに加えて近侍も不在だった。
「貴方はここには必要ないんです」
研修生だった筈の女は多くのかつて彼の部下だった刀たちに囲まれている。彼は刀を向けられぽつんと一人立たされている。顔布をしているから表情は窺えないが、黙りこくっている。
「出て行ってもらえますか?」
あの女のしてやったり顔は忘れないと彼は言う。何をする術もなく、春の陽に晒されて、虫の声がやけに大きくて。彼はにやりと笑った。強がりだったのかもしれないけれど、嫌な歪み方をする口元だった。
「ああ、いいぜ。さいなら」
何の用意も無い姿で、本丸西の山へあてもなく。去って行く背中がちっぽけで、俺の主はこんな人だったろうかとなんだかぎこちなくなってしまう。
それよりも何よりも、あの女に譲られたこの本丸に俺の居場所はない。もう譲られるのは御免だし捨てられるのは嫌だ。下げ渡されるのなんか、もっての外だ。
「長谷部! どこへ行くの!」
あの女は俺を大層気に入っていた。
だから何だというのだ。あの人に産み落とされた身だ、心だ。
「主」
肩に手を掛ける。実際触れるのも初めてだった。普段は政務室に籠って滅多に顔も出さないし、顔布の下を知るのは一部の者に限られていた。話をするのも近侍だけ。だから実際に声を聴くのも初めてのようなもので、鋼製のはずの心の臓がドコドコと五月蠅く音を立てる。
「……へし切長谷部」
「俺は御傍にいます、ずっと」
「お前練度は?」
「………十三です」
彼に出陣を許されたのはたったの四度だけ。それでも数多い刀の中ではまだマシな方だった。どの戦も重傷帰還するという失態を晒して、それから主は俺を出陣させなくなった。
「そうか」
幾晩も後悔の涙を流した。運よく初陣を切り抜けた奴等が次々と起用されていくのを横目で睨んだ。便所掃除も厨の番も完璧にこなした。来るはずのない好機を望んで。
幻滅されるかと思い頬の内側を噛む。
「まあ、ここら辺の獣は倒せるだろう」
思っていたより軽い口調で話すひとらしい。彼は顔の後ろに手を持っていく。次いで顔を隠していた布が落とされた。
「よくも着いて来たな。恨むぞ」
ニヒルに笑う人だった。考えていたよりも毒のある顔をしていて、寝不足なのか隈が目の下を覆っている。顎を撫で、のんきに空の様子を見て。
「行くぞ」
「は、え?」
「早く行こう。今度こそ殺される」
「あの、主」
「ん?」
「悲しくないのですか」
彼はぽかんとした。眉を少し歪め、肩に手をかけてくる。
「いつかこうなると思ってたよ」
その顔が宿す感情の名前は何だったのだろうか。皮肉に歪む眉には憎しみも怒りも無く、ほんの少しの悲しみが浮かんでいるだけのように、俺には見えたんだ。
「見張りはいらない」
「いえ、でも」
「いいから寝ろ。主命」
「はい……」
あれから暫く歩き、とうとう夜になった。夜半にむやみに動き回るわけにもいかず、俺達は野宿する運びとなった。木の根に寄りかかり、主は目を閉じている。次の瞬間には寝息が聞こえてきて、なんだか拍子抜けしてしまった。短期遠征に出ている彼の精鋭たちはもう本丸へ帰った頃だろうか。彼等がどのような立ち回りをするのかは不明だが、あの六振りはこの人の囲いだ。この人の元へ戻ろうとしない訳がない。
第一部隊といえば殆ど出陣続きで碌に本丸へ戻って来ない奴等で、兄弟刀や同派ともあまりつるんでいるところを見ない。たまの休みにそいつらで集まって昼間から酒をかっくらっている。執務室にもズカズカ入るし、内番も全くしないし、それでいて誰よりも尊重されている。そのことを良く思っていない刀も数々居た。俺もその中の一振りだ。
「主」
「ふぁい」
「どうして第一部隊を遠征に出したのですか」
「もう三十連勤だったから」
「しかし、俺にはあの状況は作られたものにしか思えません」
眼を開けた。責められるような瞳の色が焚火の灰に紛れている。
「考えたくない」
それは直ぐに光を失い、けったいそうに閉じられた。ごねる子供のように顔を擦って、地面に寝そべった。
「もう疲れた。昨日も一昨日も寝てないんだもん」
「もんって」
「あいつが来てからはメシもまともに出て来なくなった。知ってるか、お前。この前は味噌汁に痺れ薬が入ってたんだ。その前は画鋲だぜ」
「まさか!」
「誰が入れたかは知らないからお前も秘密にしとけよ」
「お、俺はそのようなことは……」
「お前じゃないのは知ってるよ」
それから主は静かに寝息を立て始めた。橙色の焚火に照らされる顔には疲労の色がべったりと張り付いていて、皮肉に笑う顔も眠っていると幾分か幼い。この人間、幾つくらいなのだろうか。生い立ち、家族構成、真名。知らないことばかりだ。教えてもらえないことばかりだ。
「どうして言ってくれなかったんです」
人間とは如何なるものぞや。
付喪神を使役するには相当の霊力と人格が入用だと思えば、この男の寝顔は今まで見てきた人々同様複雑な色をしている。気概も威厳もまるで足りていない、少し暗い普通の顔。一人執務室で痺れに悶え、きっと暗殺される恐怖で眠れない夜もあっただろう。それほどまでに信頼できないと思われていたのだろうか、俺は。別に取り入りたいとか、俺ばかりを信頼してほしいとか、そんなことではなく。ただ一つの命あるものとそれに付随するものとしての関係を作れなかったのだろうか、と。
「何故、話してくれないのですか、主」
訳があるなら教えてほしい。何か悪いことがあったのなら知らせてほしい。顔を合わせ、おはようおやすみを言ったら。言っていたら、こんなことにはならなかったでしょう。そうでしょう、主。人間でない俺にでもわかる、そんなこと。
「貴方だって、わかっている筈なのに」