ぼちぼち更新する予定です。
目を覚まし、一番に肩の痛みに思わず声を漏らした。夕日だろうか、赤い西日が差し込んでいる。遠くに鳥の鳴く声がして、暫くはぼんやりとそれを聞いていた。古びた小屋のような所の布団の上に寝かされていて、額の上には冷えた手ぬぐいが置かれていた。あの時敵と対峙して、やたらめったらに斬られて。殺される覚悟したものの、この様子からすると生き残れたみたいだ。主はどうしたんだろう、ちゃんと生きているのだろうか。
「主」
血は止まり、痛みはピークを越えだいぶ和らいでいる。上半身を起こして主を探すと、ちょうど屋外からこちらへ歩いてきていた人影が見える。水の入った桶を抱えているようだ。
「起きたな。どうだ、具合は」その人物――獅子王は俺を見てにかっと笑う。
「俺より、主は」
俺の言葉に、獅子王は部屋の奥を指さした。彼の指す方向を見ると、上座の敷布の上に、確かに主の姿があった。布団に全身くるまるようにして眠っており、顔色はうかがえないが、腹と思しき部分の掛け布団がゆっくりと上下しているのが見える。ちゃんと、生きているようだ。枕元で片膝を立てて座っている加州清光は、そんな主の様子を暗い瞳でじっと眺めていた。傍らには水桶や吸い飲みが置いてあり、看病しているらしいことが見て取れる。
「……随分悪いのか」
「過労だろうとは思うが、俺達は医学にゃ明るくないからなぁ」
「追手は」
「まだだ。だが時間の問題だろうな。今は三人態勢で見廻りをしてるが、俺達の霊力も無限じゃない。今総攻撃に遭ったらやばいぜ」
「そうか…」
「ま、お前は兎に角傷を治すことだな! 食いモン持ってくるぜ」
「恩に着る」
獅子王は明るく笑って俺の背中を叩いた。流石部隊長といったところか、肝が据わっている。心強さと叩かれた衝撃で傷口が開く痛みを噛み締める。と、眠っていた主が酷く咳き込む音が響いた。加州は弾かれたように傍に寄り、背中を擦った。俺も心配になりその布団の塊を凝視していると、荒い呼吸を繰り返していた主がむくりと起き上がる。顔は相変わらず赤く、瞳が潤んでいる。
「うあ~、頭いたい」
「あ、あ…主、ぐ、ぐ、具合、は……」
加州はひどくどもっていて、絞り出した言葉が尻すぼみになっている。あいつ自身、怒りややるせなさやらで相当参っているのだろう。そうでなくとも繊細な刀だ、これまでぞんざいに扱われてきた記憶が、創口になっている。俺もそうだから、よく分かる。
「……加州?」
「あ、う、うん。あの、ごめんなさい、勝手に追いかけてきちゃったのは、その、」
「あ、そっか。うん、うん…… あの、加州?」
「は、はい」
「こんのすけ、いる?」
「あ、う、うん」
加州はおっかなびっくりといった様子でこんのすけを探しに行った。主は主で目を白黒させながら床に座っている。俺に凝視されていることにも一切気付かず、滝のような汗を流している。
暫くすると、弾丸のような速度でこんのすけが走り込んできた。こんのすけは迷わず主の元まで来ると、これまた迷わず饅頭のような手で、あろうことか主の頬を殴った。思いのほか強い力で。これには戻って来た加州や獅子王も(勿論俺も)啞然とするばかりだ。
「だから再三言っていたでしょう! こんな計画は頓挫しますと!」
「だだだって、まさか本当についてくるなんて、お、思わなくて」
「縁を手繰ってここに来たのは貴方自身にも関わらず、刀ふぜいに心は無いとお思いか!」
「そんなことはないけど、だって、あんなにひどく当たったのに」
「だってもクソもありませんっ! このままでは権利が移行してあわや、あわや…」
こんのすけは涙を流していた。無論、あの人も泣いていた。何故泣くのか、俺には――俺達には分からなかった。ただ、それがその人の本性であると直感した時、俺はひどく安心した。彼は今人間の顔をしている。焦って、困って、泣いている。そんな風にコロコロ表情の変わる人だとは思ってもいなかったから、俺は、なんだか可笑しくなってしまった。
「あわや、皆で心中ですよ!」
しかしその可笑しさも長くは続かなかった。その狐の口から飛び出した物騒な五文字の言葉は、周囲の空気を凍り付かせるには十分だった。心中。主はただつらそうに、悲しそうにさめざめと涙を拭うばかりで、何の言葉も零さない。沈黙が落ちる。
はあ、と誰かが大きく溜息を零した。獅子王だった。彼は持ち前のおおらかな笑顔を浮かべ、仕方ないと言った様子で口を開いた。
「もう全部話してくれても良い頃じゃないのか? 主」
主は目を瞬いた。そして少し考えるような暗い表情をした。それを見た加州が、ギリと唇を噛む。彼の表情もまた苦しそうだった。それを見て、こんのすけに小突かれて、とうとう決心したように主は重い口を開く。
「みんなを、集めてほしい」
「ちゃんと最初から話すのですよ。本当の、最初から」
「分かってるよ」
主の瞳に張り付く、何かの色。俺にはその時やっと、その正体が分かった。出会った頃からそうだった。絶望だった。この人の姿をこんなにも悲しくいびつに見せるのは、心の臓から押し出されるような、どろりとした絶望。いつまでも離してはくれない、惜別の色であった。
集められた刀に話されたのは、まだ彼が審神者を始める前のことだった。
『ねえ、私たち、こんなに幸せでいいのかな?』
雪の日だった。彼女は泣きながらこちらを見つめていた。こちらの名前だけノイズになって聞こえなくって、イルミネイションの光が涙で歪んだ。そこで、目が覚めた。
ある日突然、恋人が消えた。何の跡形もなく、彼女がいたすべての痕跡が消えている。急いで電話をした。彼女のアパートへ行って、警察にも聞いた。抱き締めた感触もキスの味も、全部覚えているのに。全部、覚えているのに。誰も彼女を覚えていない。
『〇〇さんですね』
現れた彼は自身を政府の人間だと言った。発狂したと決めつけられ、精神病院に収容されていたときだった。面会謝絶のはずなのに、医者はすんなりとそいつを通し、気付けばどこか知らない建物へ連れて行かれていた。畳の敷かれただだっ広い部屋で、これまた知らない男と相対していた。そいつは、額の汗をハンカチで拭いながら、口早に話した。
『ご友人の件、誠に残念に思います。我々としても、避けられた事故なのだと思っております』
『…………え』
『しかし、あなたに記憶があることは予定外でした。我々が思うに、あなたの霊力の為したわざだと。そこでお願いなのですが…』
審神者。知らない職業だった。歴史改変を為そうとする遡行軍から刀剣を駆使してなんちゃらうんちゃら。後の言葉は上手く聞き取れなかった。
『現世での縁をすべて失うことになります。でも決して悪い話ではない。どうです?』
『あの』
『はい?』
失って困るものは無かった。今更審神者だろうと靴磨きだろうとなんでもよかった。
『彼女は、戻ってきますか』
それだけ。身を乗り出して男に縋りつくと、男は貼り付けた笑みをつくる。
『それは無理ですね。あの程度の改変を戻すのに戦力を費やす余裕はありませんし、今から戻す方が悪影響になります。可能性はありません、ゼロパーセント。だからといって、改変しようだなんて考えてはいけませんよ』
ゼロって、ゼロだ。何を掛けてもゼロ。
『あなたが忘れたら、彼女はもうこの世から消えるんです。だからいいじゃないですか、死んだ訳でもなしに、元から無かった。何を悲しむことがありますか』
男はそう言って、少し笑った。
彼はからっぽであった。もう、何も残っちゃいなかった。ただ彼に分かるのは、忘れてはいけないことだった。彼は勧められた通りに審神者になった。初めに渡されたのは一振りの刀と狐とあばら家だけで、すべてが手探りで始まった。初めは苦しかった。獣に怯えて夜も眠れぬ日々が続き、作物を作っては日照りや台風に奪われた。伝染病で馬が死に、ぼろ屋は雨漏りや害虫の被害に悩まされた。彼や彼の刀はその日を生きるのに精いっぱいで、彼が寂しさを逐一引っ張り出す暇などなかった。しかし、それでよかった。気付くと、彼は独りではなくなっていたからだ。彼がその生まれ持った思い遣りのため、当然のように支えたように、分け与えたように、癒したように、彼の刀たちは彼の周りを取り囲んだ。一筋縄では決してなかったが、幾重にも絡んだそれは強固なかたちとなった。人はそれを絆と呼んだ。そうして、紛いなりにも、彼は乗り越えようとしていたのだ。冷たく凍る別れの風がやみ、ようやっと彼の人生にも春というものが到来するかの如き兆しが見えた。
『君、良くやっているようだね』
『はい。ありがとうございます』
ある日のことだった。本部に呼び出された彼は、政府の人間と面談をしていた。政府高官に呼び出されるのは彼にとり初めての経験だったので、少しばかり背筋が強張っていた。
『そこでね、今日は折り入って頼みたいことがあるんだけどね』
『何でしょう?』
『……僕の上司に当たる方の娘さんがね、この度審神者に就任するそうで』
『はあ』
『僕としても女性を危険な目に遭わせるのは本望じゃない。お父様も、随分心配してあるようだ。身分の高い家系の箱入り娘とくれば、丁重に扱わなければどうなることか。分かるだろう?』
『はあ』
『そんな時だ。君の本丸は最近調子を上げているのがその上司の眼にとまって、大層気に入られた様子でね』
『……何をおっしゃりたいのでしょう』
『単刀直入に言おう。君の本丸をその娘さんに譲らなければいけなくなった。期限はあと3年だ。それまでに、譲り渡せるように体裁を整えておいてくれないか』
光はもう十分に彼の中にあった。それ以上の幸福を、彼は望まなかった。望まなかったというのに、それはいつでも唐突に、その手のひら大の幸福を根こそぎ奪い取って行ってしまう。彼はもうこれ以上、擦り減らすべき心を持っていなかった。彼は、いつも奪われる人間であった。当然の如く、この世の理と言わんばかりに、奪われる側の人間であった。
『そ、そんな、今更審神者を変えるなど。仮に私が良くても刀たちが何と言うか』
『
『…………なる、ほど』
それでも彼は、その手に残った最後の希望を養分とし、決断をした。養分――思い出は、彼を生かし、また彼の大切なものを生かす最後の希望であった。希望が無くなれば絶望が来るのではない。希望が突き抜ける正だとしたら、絶望は沈み込む負。だから彼を絶望に浸したのはその決断自体ではなく、決断から決行に至るまでのプロセスとも言えた。それは「信頼を失う」ことであり「裏切りをする」ことであり、それに見合った報いが、痛みや恐怖心が、彼自身に振りかかることだった。そして、「彼等をそうするべく変えてしまったのは紛れもない自分自身である」という揺らぎようのない事実であった。実を言えば、彼はもう死んでも構わないと思っていた。死んだところで消えた恋人に再会できるわけでもないが、それ以外に救われる方法など見出せなかった。そうして、いつかは必ず「終り」がくることを糧に、“決断から結構に至るまでのプロセス”をクリアしてきたのだ。
そして、追放前夜。
『これで終わりだ。こんのすけ、俺は上手くやっただろう?』
『……』
『お前と別れることになるのは、辛いな。今まで本当に世話になったね』
『僕は、もう何が正しいのか、分からなくなってしまいました』
『はは、そんなの』
俺もだよと呟き、彼は最後の月を見た。死を前に彼の心は夜の海のように落ち着いていた。覚悟も何もかも、とうの昔に終わっていたのだった。
そしてその日、あくる朝。彼の予定では「終り」が訪れる筈であった。少しばかりのイレギュラーはあったものの、それでも確実に、彼を憎む者達によって彼は断罪され得る筈であった。筈ではない、そういう手筈だったのだ。だから彼は、目の前に性懲りもなく現れた自身の刀たちを見た時、彼等が彼と同じように泣きそうな顔をしているのを見た時、涙を流さずにはいられなかったのだ。そうして自身が未だやり残したことがあることを知ったとき、彼は、彼の傷つけた者達の顔を思い出さなければいけなかった。そして、彼等の為に再び手を伸ばすことを、半ば無理やり強いられる。それが断罪ならば、彼には、やり通すしか道が無かった。
5話でした。