――――いまの藤木さまなら、健康サンダル履いてても勝てる。
あの
柳生三剣士を一撃の下に屠ったことにより、三重が
「あらら。日向さまに、傘をお借りしてくれば良かったですね」
満足感を胸に歩く、日向邸からの帰路。
三重と藤木は、桜吹雪に見舞われた。
「美しゅうございまする。
思えば今年は、稽古ばかりで花見に参りませんでした故、ひとしおです♪」
多くの桜色の花弁が、二人の視界一面に舞っている。
辺りには強い風が吹いており、三重はほんのり笑みを形作りながら、そっと手で髪を押える。
こうして並んであるくのは、いつもの事。
二人はそれこそ幼少期から共に過ごし、常に一緒に歩んで来たのだから。
しかし、この桜舞う駿府城下の美しい光景は、また格別だ。
普段は木剣を持って対手をしたり、所かまわず手を引いて連れまわしたり……というのが多かったが、こうして桜の下、二人でゆっくり歩くというのも、すごく幸せなことに思える。
「三重さま――――」
ふいに、隣を歩く藤木が、口を開いた。
いつもはこちらから話しかけるばかりなのにと、思わず三重は歩みを止め、彼の方に向き直る。
「私の剣は、貴方に及ばぬ。
虎眼流の剣名も、その発展も、すべて三重さまのお力に御座る。
ほんに……、情けのぅ御座る」
けして言わなかった事。
これまで心血の全てを注ぎ、剣に打ち込んできた彼の、初めての弱音。
三重はその大きな瞳を見開き、思わず口をはさもうとした。
でも、その前に。
「なれど、いつも三重さまのお傍に。
貴方を守り申す。決して手を離しませぬ。
たとえ、夢の中でも――――」
寡黙な源之助が、頬をほのかに染めて告げた言葉。
それは恋情に身を焦がす若者であれば、誰もが口にするような、他愛なきありふれた言葉に思える。
けれど……、それは心からの真心。
いつも、どんな時も、たとえ
自分は貴方と共にあるという、聖なる誓いであった。
「……」
いつもはおしゃべりな三重が、言葉を失っている。
愛らしい
けれど、やがて静かに瞼を閉じ――――しっかり心の宝石箱に仕舞い込むようにして。
彼女はまるで花のような笑みを浮かべ、嬉しそうにこくりと頷いた。
(わるい御方……乙女を泣かせて。
わたくしを泣かせるなど、貴方くらいのものですよ? 藤木さま)
口を開けば、きっと涙が零れる。いま必死に堪えているから。
ゆえに三重は、そっと手を握る。
言葉の代わりに、心で気持ちを伝えた。
◆ ◆ ◆
それからも三重たちは楽しく駿府で過ごし、大切な仲間達や家族と共に、鍛錬に励んでいった。
藤木のサポート、イベントの企画、運営などなど……三重は毎日大忙しであったが、その持ち前の明るさと活発さを持って、元気に全てをこなしていった。
そして多くの人達の協力により、藤木の剣の腕前も、飛躍的に上昇。
怪我をしたり治ったりを繰り返す日々であるが、今では遠州のみならず駿府中にその名が轟くほどに、剣名を高めていた。
寡黙で不愛想、そして物静かながら、彼の優しい人柄は多くの人に伝わっており、町中の人々から愛された。きたる御前試合の出場選手という事もあり、いつも沢山の声援を受け取った。
千加と晋吾くんが対手を務め、峻安が医術を施し、なにかあれば笹原がフォロー。
代わる代わる屋敷に来てくれる、月岡を始めとする出場剣士仲間の4人も、今では大切な友人だ。
息抜きがてら酒を飲みに行き、共に談笑している姿もよく見られるようになった。
ついに駿河城御前試合を間近に控え、この度おこなわれた徳川忠長公への御目通りには、彼らもすごく肝を冷やしていたけれど……。
それも皆で、なんとか乗り切った。
駿府城のお庭にてじっと平伏する剣士達のもとに、フラフラと歩み寄った忠長は、突然おもむろに「なにか面白き事をいたせ」と命じ、剣士たちに無茶ブリ。もちろん殿を楽しませる事が出来なかったら、その場で打ち首獄門だ。
源之助や仲間達は、もう必死こいて頭を働かせ、即興でかくし芸めいた事をする羽目となった。
全裸でお盆を持ち、股間を隠す芸をする笹原さん。
狂ったように踊りながら、ひたすら「ホット! ホット!」と叫ぶ月岡さん。
安心して下さい、履いてますよ? とフンドシ一丁でポーズをとる間左衛門。
ダッシュで壁に激突した後、即座に「やさしいのね」と流し目をする磯田きぬ殿。
そして存在自体がちょっと面白いので、一番に忠長から「合格!」と言われちゃった、ガマ剣法の頑之助くんなどなど……。
参加者一同にとって、まさに死地と呼べる、過酷な戦場であったと思う。
これただの御目通りイベントであるハズなのに。どうしてこんな事になったのだろう? いちおう無事に終えはしたけれど、誰にも分からなかった。
余談ではあるけれど、忠長公の隣でゲラゲラ手を叩いて笑っていた三重を、みんな一回くらいは殴って良いと思う。殺生な話であった。
◆ ◆ ◆
「あの時たすけて頂いた、鶴でございます――――」
そんなワケの分からない事を言いながら、三重が藤木の寝室を訪れたのは……その日の深夜であった。
「なんちゃって! 三重にございまする☆
ちぃとばかりお話いたしませぬか? 藤木さま♪」
笹原の厚意もあり、また修行中の身でもあるゆえ、実は別々の部屋をあてがわれていた二人。
今は夫婦とはいえ、元々は岩本の家にいたので、こうして別々に過ごすのが普通。
二人はいつも一緒にいるのだし、毎日ラブラブだ。特に不満もなければ、不自由も無い。
しかし、こんな風に三重が深夜にやってくるのは、非常に珍しい事だった。
寝支度をすると見せかけ、ひとつ庭にでて筋トレ(懸垂)でもしようかと考えていた藤木は、イソイソと姿勢を正して向き直り、三重のために座布団を置いた。
「思えば、これまで様々な事がございましたねぇ~。
駿府に参ってからはもちろん、岩本道場でも。毎日楽しゅうございました♪
……藤木さまが、わたくしのもとに来てくれてから」
いつものように、ニコニコと微笑む。その顔は普段と変わりない。
けれど、明日に御前試合を控えているからだろうか……。その声は少し重く、どこかいつもと違う雰囲気を感じた。
「三重は、ほんに幸せでした。
かような果報者、きっとどこを探してもおりませぬ。
ぜんぶぜんぶ……藤木さまに頂いた気持ちです」
過去を回想するように、これまでの日々を思い描くように、瞼を閉じる。
二人の静かな時、穏やかな時間。
そんな愛らしい三重の姿に、藤木は……。
「――――さて! とりあえず藤木さま、
いつでもこの場から逃げ出せるよう、そっと腰を上げた。
「無駄ですよー♪
その“大剣豪養成ギブス”を用意したるは、いったい誰と心得る! そいやー!」
三重が手元の
えも知れぬ
いわゆるバイブレーション機能というヤツである。
「油断していた? 信じていました? これまで大丈夫だったから、今日も大丈夫だと?
――――甘いです藤木さま。貴方はもっともっと、警戒すべきだった。
この岩本三重(の性欲)を」
畳の上、ビクンビクン「ぎんもぢぃぃー!」とばかりに跳ねている藤木のもとに、瞳のハイライトをOFFにした三重が、「ゆらぁ……」と歩み寄る。まるで幽鬼の如く。
「本当はね? 抱いてくださいまし――――そうしおらしくするつもりでした。
ついに熱海には届きませんでしたが……、この夜を置いて他にないと。
わたくし勇気を出し、しっかりムードを作り、そう願い奉るつもりでおりました。
愛する殿方へ、操を捧げるのです。乙女の本懐ですもの……」
しかし、いま三重はケンシロウがやるように、ゴキゴキと拳を鳴らしている。
加えてウォーズマンみたいな息遣いで、「コーホー」とか言っちゃってるのだ。こわい。
「ただもう、いろいろ考えておる内、
さっさと藤木犯してぇ~。泣くまでいぢめてぇ~。アナルほじくりてぇ~。
そう思い至りましてございまする」
「――――三重さまぁぁぁあああッッ!!」
藤木の叫びが屋敷中に轟くが、誰もこの場に駆けつけて来る者はいない。
当然だ、さもありなん。何故なら三重が
万が一にも邪魔されるよう、全員首の後ろをトスッとやってきた。
もうこの駿府に、藤木を助ける者はいない。
「So fuck it! ではつかまつりましょう藤木さま。よしなに。
あ……、ごめんなさい。最初に申しておきまするが……。
ここからおあずけとか、ギリギリ助かる展開とか、そういうの
これなるは少年誌に非ず! 世界の修正力は無き也ッ!(カッ)」
「ぬわーーーーっ!!」
まるでパパスのような叫び。這いずるしかない哀れな我が身。
やめて! 来ないでよエッチ! この変態!
そうなんとかズリズリ後ずさるものの、相手はかの岩本三重。マッハで地を駆ける女也。
「Fu~♪ 君かわうぃーね~い☆
――――でも泣けッ! 叫べ! 命乞いをしろ! 三重を愛してると言ってみろッ!
それじゃあ藤木さま♪ 召 し 上 が れ 」
……はい。では例によって、これより
R-18で南無三となりますゆえ、なにとぞ御容赦
………………。
………………………………。
………………………………………………………………。
『 ――――んほぉぉおおおおお! いっ……イグゥ!
イッてしまいまするぞぉぉぉ~!! 』
『ウケケケ! コイツぁとんだドスケベ侍にございまする!
こんなにも敏感ではありませぬか!』
『 おおン!! わ……わたっ! ……私はぁっ!
絶対にこんなのにはぁ! くっ! くっしませぬぞぉぉ~っ!!
おほぉおおお~~っ☆☆☆ 』
『それ……かように気持ちよさそうな顔で、仰ることですか?
どうしたのです藤木源之助! 根性を見せなさいっ!
この軟弱者! へたれ! アナル弱虫ペダル!』
『 ふぅいいっ! いひっ! 奥までズコズコ来てござるぅぅ~~!
コツンコツン☆ って奥をノックしておりますぅぅー! アヘェェーー☆☆☆ 』
『この岩本三重、容赦はせぬ。今日は何回イクこととなりましょうかね?
10回? それとも20回?』
『 どっ! どどどうかお取り止めを……! 三重さまっ!
こんなの止めりゅのですぅぅ~~☆ ぁあ~っ☆ 』
『わーい、まるでクジラみたーい☆
三重はじめて見ましたー。ぴゅっぴゅーって♪』
『 うぃぃ! こ……こねないでッ、へぇ!!
そんにゃにグニグニしにゃでぇ~っ!
こねっ……メッチャこねられておりまするぅぅ~!! うぐぐぐひぃ 』
『耐えるのです藤木さま! 涙の数だけ強くなれるよ♪
明日はきっとホームランです! さぁ場外まで飛ばして見せてっ!』
『 おほぉおおおああっ!! イグイグイググクぅぅうううう!!!!
イってしまいまするぞぉぉぉぉおおおおおおおおーーーー!!!! 』
『あ、ほんとに効くんですね。すごい効果です。
流石は忠長さまより賜りし、
ぬぢゅぬぢゅぬぢゅ……ぬぢゅぬぢゅぬぢゅぬぢゅ!
『 ひぁ、んふっ、だめ、だめ、だめですぞぉぉおおおぉぉ!!!!
いッ! イガしゃれ……! イガしゃれひゃっへりゅぅううっ! 』
『双子いきましょう藤木さま! 三重ならばスポーンと産めますゆえ!
いざ参られませぇ~い☆』
『 ひぎぃい☆ 止まんなっ♪
腰が止まりまちぇ……! ダメラメやめれェエエ~~ッ! 』
『ドクドク♪ どっくんどっくんっ♪
おーナイスですねぇ~。三重もとろけてしまいまする~』
ズキュウウウウ! ズキュウウーーンッ!!
『 ――――へヒひぃいいいいイイインッ?!?!?
あ゛ーっ! これしゅっごいのぉーーう!!(≧Д≦) 』
『藤木ぃーさーま、腰を振るぅー。 イヤーイ イーヤイ オー♪
気持ち良すぎてー、泣いているぅー。 イヤーイ イーヤイ オー♪』
スパンスパン! スパパパパパーーーン!
『――――おぅいえす! おぅいえす! あいむかみーんぐっ!
ではどうぞ藤木さま♪ いらっしゃいませぇー♡♡♡』
『 おっほぉお!! うおぉぉぉッ! イグイグイグぅぅうう!!!!
――――虎眼流、藤木源之助。 絶 頂 つ か ま つ る っ !!
アッヘぇぇぇぇえええ~~んに御座るぅぅーー☆☆☆ 』
◆ ◆ ◆
「スッキリ!(輝くような笑み)
いや~良ぅございました藤木さま。三重は満足にございまするー♡」
「さ……左様に御座いまするか」ゲッソリ
数時間後。いま寝室には肌がテカテカしている三重と、うつ伏せでグッタリしている藤木の姿がある。
「これが……殿方と肌を重ねるという事、なのですね……。
流石は乙女にとり、人生の本懐たる物。ほんにGOODにございました♪
有り体に申せば――――腹ん中パンパンだぜッ!! みたいな心地です」
「なによりに御座る(アヘ顔)」
アッハッハ! と笑いながら、藤木の肩をパシパシ叩く。
彼女が幸せそうでなによりだが、この腑に落ちない気持ちは何だろう?
拙者、はじめてに御座ったのに! ひどいっ! ……とかは思わないけれど、これで良かったのかな~とは思う。こういうモンなのか、えっちって。
「さって、無事に子種も授かった事ですし、これにて虎眼流は安泰也!
後は……ちぃとばかり“
ふふふと微笑む三重を、藤木は「?」と不思議そうに見つめる。
戦? 明日の御前試合のことだろうか? それならば自分は勝つつもりだし、どうか安心して欲しいのだが。そう藤木は首をかしげる。
「藤木さまは、いま幸せ?
こーんなじゃじゃ馬といるのに、不満は無かったのですか?」
唐突に、そう訊ねられる。
さっきまでの空気から立ち直れず、未だ身体はグッタリしているけれど……でも藤木源之助は、ハッキリ答えられる。微塵の迷いもなく。
「いかにも、幸福に御座る。
三重さまと共にあるが、私の幸せなれば」
それは、知っていた答え。分かり切った質問だった。
それでも三重は「ニコーッ!」と笑い、えへへと源之助に肩を寄せた。
「ありがとう。貴方さまの真心……たしかに頂戴しました。
わたくしは、三国一の果報者。
ほんに、ほんに幸せでした――――藤木さま」
ふいに手を握られ、ハッとその顔を見た。
三重が今、はじめてポロリと涙を流す。
そして、いままで見た事のない顔をしている――――
「傍にいて下さい、夢の中でも。
貴方と共にある時、三重は無敵です。
いかなる敵にも、屈しませぬ」
いつも照らしてくれた、太陽の笑み。夜の闇を打ち消す、あたたかな光。
不器用で、無口で、感情を表すのが下手だった自分の手を、優しく引いてくれた人。
岩本三重が今、微笑んでいる。
まるで童女のように、まるで心から満足したように、こちらを見て微笑んでいる。
藤木は言葉なく、ギュッと手を握り返す。
決してこの温もりを……、三重を放してしまわぬよう。
あの日、桜の下で約束した通りに――――
……………
………………………………
………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
◆ ◆ ◆
夢を観ている――――そうハッキリ自覚している。
己が今、この世の物ならざる場に居ることが、ハッキリと分かる。
『ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!』
また、ここへ来た。
物心つきし日より、一人で眠る夜が来る度に、何度もやって来た……慣れ親しんだ場所。
『うわぁぁぁあああーーー!! 嫌だぁぁぁああああッッ!!』
『助けてぇぇぇえええええええッッ!!』
決して見たくないのに、目を背けられない。
決してやりたくないのに、手が止められない。
殺したくないのに、止めさせてくれない。
『お止めくだされ三重さまっ! 何故にっ!』
『殺さないで! 殺さないでぇぇぇえええ! あああああああッ!!』
血飛沫が飛び、わたくしの身体を濡らす。
腕も、同も、服も、顔も、すべて返り血で赤に染まっていく。
生暖かい感触と、命という物の温度、ゆっくりと人が倒れていく光景。
この手で命を奪った、という認識。
この上なく大切で、心から愛していた物を、自分で壊してしまったという事実。絶望。
わたくしが壊した。わたくしが殺した。わたくしがやった――――
みんなを。家族を。友人を。隣人を。
何に代えても守ると誓った、あの愛すべき朴念仁な恋人を。
何度も。何度も。何度も!
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――――
「…………」
けれど、何故だろう? 心が波打たないのは。
いつもなら、喉が破れるほど叫ぶのに……。
血が出るほど、目の前を睨むのに……。
もう赦してと、必死で地面に額をこすり付けるのに……。
「…………」
今も眼前には、わたくしの悪夢がある。
決して見たくない物が、必死に否定してきた光景が、繰り返し繰り返しリピートしている。
無間地獄。
この身体、この存在を構成する物。
この身の根本であり、
そう――――憎しみだ。
これは、人の憎しみ、そのものの世界だ。
けれど今……、わたしはそれを平然と見ている。ふとそんな自分に気が付く。
おだやかな心で。あたかも受け入れるが如く。
ただただ静かに、両の脚で立っているのだ。童女のように泣き崩れることもせず。
「ふぅ……」
目を伏して、ため息をひとつ。つまらない映画を仕方なしに観る時のように。
あんなにも怖かった物が、あんなにも恐れていた全てが、今はもうため息交じりに見られる。
心底
いま眼前にあるのは、人の心の奥底。無明と呼ばれし物。
これぞ、
けれど……。
「なんとしょーもない。退屈にございまする」
今、“あたたかさ”を感じているから。
ハッキリ、確固たる温もりが、この手の中にあるから。
ゆえに、この身が倒れることは無し。この心が挫けることは、もう有り得ない。
貰ったから、あの青年に……。
身体を重ね、心を通わせて、ぬくもりを貰ったから。
わたくしの全てを、貰ってくれたから。
わたくしという存在。その全てを、彼が受け入れてくれたから――――
「ありがとう、わたくしのだいすきな人。……もう大丈夫」
冬の寒さの中で感じる、握った手のぬくもりのように。
まっくら闇の中で光る、お星さまの輝きのように。
決して揺るがない、大切な気持ち。
何があろうと信じられる、この世で唯一の“絶対”。
あの時、貴方が私にくれた、
その確固たる物が、この胸にある。
ゆえにわたくしは、もう倒れない。
こんな悪夢に負けない。この心を折ることは出来ない。二度と絶望に堕ちることは無い。
「――――さっさと参りなさい。いつまでコソコソしているのです。
切り裂くように、言い放つ。わたくしの発した声と共に、眼前の光景がかき消える。
フッと息を吹きかけた蝋燭のように、あんなにも赤くて悍ましかった視界が、一瞬にして黒に変わる。
何も見えない、なんにもない世界。真っ暗な闇だ。
「姿を見せよ、そう申したのです。
光が差す。何も無かったこの世界に、あたかも神が降臨するかの如く。
まぁこれは、決してそんな良い物では無いが……。
ただただ、この世界を作り出した、この世界の主が、ようやく来ただけの話だ。
空から降りてくる。憎らしいほどにゆっくりと。
俯き、前髪で顔を隠し、されど限りない憎悪にその顔を染めて。
“死んだ女の子”。
その憎悪によって、わたくしという存在を産み出た子。
恨みを果たさんが為、世を滅ぼさんが為、全てを壊す為にこの力を与えた、本当の岩本三重が。
今、幽鬼の如き佇まいで。
悠然とこの場に降り立ち、わたくしと対峙した。
◆ ◆ ◆
――――いったい、どちらが夢だったのでしょうね?
剣を振るいながら、身体を動かしながらも、ふとそんな考えが頭をよぎる。
けれど、今は考えに耽っている場合ではないので、いけないいけないとプルプル顔を振り、ギュッと七丁念仏を握り直した。
「おいしょーい!」
いわゆる一刀両断というヤツだ。向かって来た身体をすり抜けるようにして、銅から真っ二つにしてやった。
ちなみにだが、今わたくしが斬リ捨てたのは、かの“うっしー”である。
死んだ女の子……こと岩本三重がふっと手をかざした途端、この場に牛股さまの御姿がホワッと出現し、すぐさまこちらに襲い掛かってきたのだ。
それをわたくしが、動じる事も無しに「おいしょーい!」と斬り伏せた次第である。
「ほい! そい! ちょおい!」
おっきー、まるちゃん、むなっち。
岩本三重が宙に手をかざす度、なにもない空間から次々と現れる剣士達。
わたくしの良く知る者達。かけがえのない家族。
「えいっ! やぁ! よいしょーお!」
茂助、夕雲くん、涼。
大切な人、愛すべき子、守りたかった者達。
それを乱取り稽古の如く、次々と斬り捨てていく。
一刀の
「ああああしょいッ! おおおそぉい! ええええほぉい!」
お父上、いく殿、清玄が倒れる。
まるで霧みたいに、かき消えていく。なんにも無かったみたいに死んでいく。
「 ――――おっしゃあ! おらぁぁぁああああああッッッ!!!! 」
斬った。いま
この手で。この刀で。このわたくしの意思で。
何にも分からないまま、キョトンとした顔でわたくしを見たまま、藤木さまが死んだ。
わたくしに殺されて、失われた!
その存在を消された! 命を奪われた! もう居なくなってしまった!
お前なんかいらないと! 斬って捨てたんだ! あの人の全てを否定したのだ!
真面目で、不器用で、剣に真摯で、心からお家の為に仕え、わたくしを愛してくれた!
そんな人を、この上なく残酷に! この上なく自分勝手に! 一片の慈悲すらなく!
あんなにも優しかった貴方を! わたくしを殺したんだッ!!!!
この化け物が!! この
「ふぅ。さってと……。
これでご満足ですか、
わたくしが愛した者達。その全てを斬り捨てた後、彼女に向き直る。
もうこの場には、わたくしと彼女しか居ない。
二人の女、
「代わりに斬って差し上げましたよ?
貴方の憎んだもの、貴方が殺したかったもの。……その全てを」
七丁念仏を担ぎ、肩こりをほぐすようにトントンする。
片方の眉を上げて、「くだらない時間をありがとう」と、そう伝えるように。
「気は済みましたか? スッキリしましたか? 恨みは晴れましたか?
みんなみんな、居なくなりましたよ? お望み通りに」
ペッと地面に唾を吐くという、武家の子女にあるまじき所作。
でももう気にする事もない。そんなのはもう……、わたくしには関係ないのですから。
「
……空想遊びがお好きとは、ほんに乙女らしゅうございますね」
今も
一歩も動かず、顔を隠すように俯いて、わたくしに言葉を返すこと無く。
「羨ましゅうございまする。……わたくしはいつも、いく殿に怒られておりました故。
もっと女の子らしくしなさい。乙女たるもの、可憐であれ。慎ましくあれと。
……毎日毎日、飽きること無く剣を振り、手にマメを作っておったわたくしとは、雲泥の差にございまする」
ビシュッ! と七丁念仏を振り、刀身の血糊を落とす。
こんなに斬りましたよ? 褒めて下さいまし。貴方の為に斬って差し上げたのです。
そう見せつけてから、眼前の女を睨む。
「――――
わたくしのようなミラクル・ガールになれたら~と、そう空想しちゃうワケです」
比類なき力。何者にも屈せずに済む力。己の意思を押し通せる力。
この武家社会にあっても、たとえ徳川という王を相手にしても、決して負けない。世界を壊してしまえる程の。
自分の思い通りにならない全てを、
――――貴方が思い描いた夢。「こうなれたら」という幻想。なりたかったモノ。
それがわたくしなのですね、
「強いワケです……。この
世を呪い、全てを憎み、ひとりっきりで死んでいった……。
そんな乙女の無念こそが、わたくしを産み出した」
“情念”という言葉がある。
身を焦がし、全てを焼き尽くしてしまう程の、とても強い想い。
伝承やおとぎ話においては、人が“鬼”に変ずるという、その理由たる物。
己も、周りの人々も、その全てを巻き込んで破滅に向かうような……。
余人には決して理解の及ばぬ程に、この上なく強く、この上なく愚かで、儚い力。
それこそが、わたくしの正体――――
たったひとりの、哀れな女の子……その中にあった“ちっぽけな願い”こそが、この身を形作ったのだ。
全てを壊してしまえ、と。
「分からぬことも無き也。同情せん事ものぅございまする。わたくしも人の子ゆえ。
……まぁこの期に及んでは、違うかったのやもしれませぬが……。それはともかくとして」
わしゃ
わたくし個人と致しましては、そう文句を申したくもなるという物ですが、これは今はよぅございまする。
たった一人で、世を儚んで死んだこの子を、哀れに思わぬでもないですから。我慢いたしまする。
「しかしながら……無念にございますね? そうは存じませぬか?」
だが、これだけは申しておかねばなるまい。
この事実だけは、ハッキリこの馬鹿女に突き付けなければ、気が済みませぬゆえ。
「――――わたくしは、源之助さまに抱かれましたよ?
あれだけ貴方が欲した、乙女の本懐とやらを、
その点につき、どう心得ておられるのです?
ピキッっと、今この場の空気が、凍り付いたのを感じた。
「えっちしましたけどー。
操を捧げ、身も心も捧げましたけどー。
めちゃハッピーにございまするがー」
煽っていきまする。見せつけてやりまする。この幸福を。
此度の人生にて、わたくしが見事に掴み取った物を、誇示していきまする。ざまぁ見ろとばかりに。
「己のことしか顧みぬ、自己中女。
恋をするばかりで、
いく殿に取られたから、手に入らぬのなら、殺してしまえとな?
しかもそれを、
「そんな、どこぞの馬鹿娘には、決して手に入らなかった物。
我ら女子にとり……、たったひとつの“乙女の王冠”
それ、わたくし得たんですケド? ねぇどんな気持ち?」
斬! 斬ッ! 斬ッッ!!
次々と言葉の刃を刺す。積年の恨みとばかりに、滅多刺しにする。
そして……最後に。
「無念でしょうね。全部いらぬとばかりに、産み出したのに……。
わたくしに、ぜんぶ壊させたかったのに……」
「
藤木さまを愛し、彼に愛された――――」
「偽りじゃない、利用したんじゃない、
真心をもって接したから、彼が応えてくれたのです!」
ビシッと、七丁念仏を突き付ける。
カッコ良く、乙女の矜持を乗せて。
「――――わたくしの勝ちです、
つぎ生まれ変わったら、この身を手本となさいッ!!!!」
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!
天を引き裂き、大地が割れるほどの絶叫。
“死んだ女の子”の悲しみが、まさに世界を揺らす。
「貴方は
今のわたくしから見たらば……もうそうとしか思えぬのです」
時代も多分にあったろう。さぞ押さえつけられ、ままならぬ人生だった事だろう。それは痛い程に分かります。
でも、泣いていれば、お菓子が貰える。
じっとしていれば、誰かがやってくれる。
拗ねれば、可愛く膨れてみせれば、相手が折れてくれる……。
それは実に可愛らしい、乙女たる姿ではあるけれど……わたくしには似合わないから。
「何をやっても良い。何を言っても許される。
だって、女の子はか弱いから……。とても力が弱いから……」
だからこそ、守って貰える。男の子に大事にして貰える。確かにそういうのもアリだ。
儚くて、か弱くて、愛らしくて。
そして、ちょっぴりワガママな乙女。すごく憧れまする。
けれど……だからこそ
男の子みたいに、ゲンコツが振るえないから、言葉で相手を傷つけるしかない。プリプリと態度で示すしかない。
でも大事にされてきたからこそ、守られる存在であるからこそ、“どこまでやって良いのか”を知らない。
言葉では怪我をしない、心は血なんて流さないから、目に見えない痛みだからこそ、加減というものを学べない。
一度傷つけられたら、おもいっきりやり返してしまう。何をしても良いと、思い込んでしまう。
激情のままに、悲しみの全てをぶちまけてしまう。まさに「みんな死んでしまえ」と、この子がしたみたいに。
「でも……、わたくしはそうではなかった。
身体を鍛え、剣を振るい、自分の気持ちを伝える術を、他にも持っていた。
男の子ともやり合えた。
言うなれば、ただそれだけの違い……、だったのやも」
気に入らなければ、河童頭にしてやりました。
ムカッときた時は剣で勝負して、それが終わったらちゃんと握手して、仲直りをしました。
だから、貴方と同じ事はしなかった。貴方と同じ道は歩まなかった。
力を持っていたから、剣を振っていたからこそ、
そう思うのですよ、
ゆえに、貴方に。
「――――虎眼流、指南
参られませ、三重どの」
正眼。幼少の頃、一番最初にお父上に習った構え。
それを教えてやるように、わたくしは剣を構えた。
感情のぶつけ方を、この子に教えてあげる為に。
◆ ◆ ◆
そうですね。悲しかったね。辛かったよね――――
剣がぶつかる度に、美しい火花が闇の中で光る。二人の身体を照らす。
好きでしたもの。心がキュッってなりましたもの。添い遂げたかったね――――
泣くことで感情を表す、子供が如き剣……それを受け止める。
もうずっと、長い時間そうしている。永遠のように感じる。
信じていたから。たとえ押しつけがましくとも、藤木さまのこと――――
グシャグシャだ。涙で前も見えていないだろう。
あんなに整っていた、可愛らしいお顔が、もう涙で見る影も無い。めっちゃブサイクだ。
わかってます――――ついやっちゃったんですよね?
本当は、ちゃんと「おかえりなさい」って、言ってあげたかったんですよね――――
一振りごとに、この子の想いが伝わってくる。
違うんだって。本当は好きだったって。大切に想ってたって。
「うん……うん。分かります三重どの。
ほんに、ほんに辛ぅございましたね……。いい子ですね」
わたくし達は、同じモノ。もうひとりの自分ですもの。
そんなの分かっておりまする。ぜんぶぜんぶ知っておりましたとも。
さっきは酷いこと言ってごめんね? という気持ちを込めて、彼女に付き合ってあげる。
「あらあら……、泣かないで下さいまし。大丈夫ですよ?
ほら、お上手です。その調子ですよ三重どの。
ぜんぶぜんぶ、吐き出しておしまいなさい――――」
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!
地面が揺れる。空気が震える。彼女の身を裂くような叫び声と共に。
心の深淵、漆黒の闇の中、突然爆発するように紫色の炎が燃え広がり、この身を焼く。
そんな中、ふたり斬り結ぶ。
言葉を交わす代わりに、ギュッって抱きしめる代わりに、わたくし達は剣を振るのだ。
――――きらい、キライ、みんなだいきらい!
そう
――――違うの! ホントはきらってなんか無い! こんなの全部ウソ!
その想いを受けながら、わたくしも剣を振るう。腕に渾身の力を込めて。
いつまでもいつまでも、ふたりでクルクルと舞う。日が暮れるまで遊ぶ子供のように。
――――最初は、利用していた。
――――――自分勝手な
でもだんだん、彼の真摯な姿に惹かれて、まっすぐな想いを伝えられて……。
確かにこの心が、高鳴った。彼に惹かれていったんだ。
この人を支えよう。この人に寄り添おう。この人が好きだって。
あの時、確かにそう感じた。なんて自分は幸せなんだろうって、心から思った。
なのに……
あんなにも愛してくれていたのに……、貴方の手を離した。
――――違った! 裏切られた! やはり傀儡だった! なんと悍ましいッ!
そう思い込み、衝動的に自らの喉を刺した。
勝手に絶望し、勝手に憎んで、大切な物を手放してしまったんだ。
あの時、伊良子の首を斬れと命じられた、あの人の顔を……。
絶望に染まり、虚ろな瞳のまま、震える手で事を成していた藤木さまのお顔を、確かに私は見ていたハズなのに。
ヨロヨロと歩き、こちらに帰ってきた、貴方の崩れそうな身体。
それを抱き留めてあげる事。それこそが私のすべき事だったのに――――
恨んでなんかない。責めたりなんかしない。ただ
あんまりにも悲しかったから、とても認める事が出来なかった。
ぜんぶぜんぶ、無かったことにしたかった。いつものように、ワガママをしてしまったんだ。
時代や、身分や、誰かのせいにして……、何かを憎まずにはいられなかった。
みんなが悪いって、大きらいだって、すべて壊してしまえって。
違う――――ずっと私は“後悔”していたんだ。
藤木さまを残し、ひとりで死んだことを。
あの時、彼を裏切り、抱きしめてあげなかった事を。
願わくば、もう一度だけ私に機会を…………ただそれだけだったの。
「ごめんなさいは、言えますか?」
――――うん。あの人に謝ってみる。
「だいすきって、伝えられますか?」
――――うん、言えるよ? 勇気を出して言ってみる。喜んでくれるかな?
「また藤木さまと一緒に、がんばれますか?」
――――うん、支える。あの人どこか抜けてるもん。私がいてあげなきゃ。
剣撃を交わしながら、三重どのがコクリと頷く。
照れ臭そうに。恥ずかしそうにモゴモゴしながら。それでもハッキリと。しっかりわたくしの問いに答えた。
なれば、これで良き哉。
今宵の立ち合いは、これにて終了也。
「よくできましたね、三重どの♪
貴方にねお虎眼流・免許皆伝を差し上げまする♪」
斬ッ! ……と最後に大きな音が鳴る。
◆ ◆ ◆
「わたくし、ほんに嬉しゅうございまする♪
三重どのは……もう大丈夫。きっとやっていけまする」
キョトンとした顔を、初めて見た。
以前は怨霊めいた恐ろしい顔、そして今宵は童女のような顔。
でもいま三重どのは、驚いた表情をしている。「なぜ自分の太刀が通ったのか? 何故あえて受けたのか?」と、愛らしく呆けてしまっている。
……まぁ“愛らしい”と申すのは、自画自賛やもしれませぬが……此度ばかりは御容赦頂きたく。
同じ顔だとしても、この子はわたくしのような猪とは違い、まことの乙女にございますれば。
ふと顔を下に向ければ、今わたくしの胴体から、なにやらキラキラした光のような物が、外へ溢れ出しているのが見える。
血が噴き出すのではなく、わたくしを構成する“力”のような物が、どんどん失われて行く感覚がございますれば。
それにより、わたくしは今ハッキリと、終わりを悟る。
これなるは、岩本三重が見た夢。わたくしこそは、岩本三重が夢見た
その終りが……夜明けが来たという事にございましょう。
「もうわたくしが、居る必要は無い。
もう夢などに、頼る必要は無き也――――」
後悔の日々は終わり、女の子は歩き出す。
悲しい夢は終わりを告げ、再び新しい朝が来る。
貴方が望む通りに、行動なさい。
思い描いた通りに、未来を開きなさい――――三重どの。
「では最後に……不束ながら“ねお虎眼流”の秘奥を、ご覧に入れましょう。
陰気なムードはもう沢山……。悲しみなど、それこそ
闇を払い、
ポケッとした顔の三重どのに背を向けて、わたくしはこの世界と向かい合う。闇と対峙する。
どこまでも続く深淵。真っ暗な夜の如き闇。人の心の奥底に潜む、“無明”と呼ばれる場所。
この岩本三重という少女の、積み重なった悲しみで、出来た世界。
この闇を吹き飛ばさんが為、この少女の涙を拭わんが為に……わたくしは生まれてきた。
きっと、そういう事にございましょう。
なれば……いざ征かん。ねお虎眼流奥義!
「――――
風が吹き荒れる。光が暴れ狂う。
わたくしの放つ斬撃が、
黒が白に染まり、真っ二つに裂かれた闇の隙間から、いま澄み渡るような空が顔を出し、光が差し込んでいく。
もう真っ暗はおしまい。世界がガラガラと崩れ、眩い光が溢れていく。
やっぱり女の子は、うじうじしてちゃいけないです。泣くよりも、やっぱり笑顔が良い。
闇が払われ、世界が祝福しているかのような光の中で……ようやく女の子は外に出る。
こんな場所じゃなく、眩しいお日様の下へと、また歩き出すのだ。
そして、わたくしの身体が消えていく。
わたくしの自意識が、だんだん無くなっていく。
あってはならなかった存在。変な偽物が無に還っていく。役目を終えたとばかりに。
でもニッコリ微笑みつつ、元気に退場と参りましょう。
これにてさらばい! にございますれば。
後はよしなに、駿府の皆様方。
「最後まで、
誰に言うでもなく、そう呟いてみた。
◆ ◆ ◆
『交代です。バトンタッチにございまする』
『もしくは、リテイクにございましょうか。
ささっ、
◆ ◆ ◆
意識が覚醒していく。冬が終わり、春の日差しによって雪が解けるように。
長かった夢が、今ようやく終わった。
瞼を開く前、誰かの声がした。
花のように愛らしく、太陽のように活発な、女の子の声だ。
クスッという笑い声と、「あの御方によろしく」という、まるでお別れのような言葉が、確かに聴こえたような気がする。
「……っ!」
パッと瞳を開き、おもわず飛び起きる。
身体を包んでいた掛け布団を跳ねのけ、辺りをキョロキョロと見渡す。
今この目に映るのは、窓から優しい朝の光が差し込む、和室の部屋。
地獄の如き、深淵めいた、世界の狭間のような空間じゃない。
肌に空気を感じる。
指が布団を掴む感触がする。
はっきり「生きている」という実感がある。
あれだけ憎悪に染まっていた心が、今は澄み渡る青空のよう――――
ここは、生きている者達が住む世界――――懐かしき人の世なんだ。
そんな変な考えが、この寝ぼけ頭に、痛烈によぎった。
「あ、あれ? えっと……私は」
けれど、まるで霞の如くに、さっきまでの記憶が掻き消えていく。
先ほどまで居た場所。これまでの想い。あの優しかった女の子の声……。
それが全て嘘っだったかように。霧が掛かったみたいに消えていく。だんだん遠ざかり、思い出せなくなっていく。
代わりに蘇っていく、私の自我。自分を自分たらしめる、これまで人生の記憶。
私は三重――――岩本のお家に生まれし、武家の子女。
そのくせ、剣術などという男臭い物が嫌いな、料理とお洗濯が趣味の、
「三重さま……如何なされた?
なにやら、お声を上げていらしたが」
「えっ、あ! ふ……ふじふじふじっ!?」
ふいに声を掛けられ、慌てて振り向いてみれば、そこには私の夫たる人の姿。
仏頂面ながら、今もどこか心配そうな顔で、こちらを見ている御仁。
とても剣に真摯で、どこまでも真っすぐで、いつも私の隣に寄り添ってくれる人。
彼が今――――私の顔を見ている
それを、どこか不思議な気持ちで。何故がとても久しぶりのような感覚のまま。
私はワチャワチャと手を動かしながら、なんとか必死に取り繕い、朝の挨拶を返した。
「お、おはよう御座います。藤木様――――」