すでに亡くなった「彼女」と過ごした時間のお話です。
ーー三年前。私はとある任務で暗殺に失敗した。政治家一家を皆殺しにする任務だった。父親と母親を殺し、幼い妹を必死に守る、自分と同じ歳くらいの兄の姿を見て、私は躊躇ってしまった。
その結果、遅れてやって来た警備員達に囲まれた私は逃走するのに必死で、暗殺対象である家族を殺し損ねた。9歳から四年間も人を殺し続けた人生の中で初めての事だった。
別に、あのぐらいの歳の子供を殺した事なんて、何十回とある。それこそ、赤子だって幾人も殺した。
なのに、あの時私はあの兄妹を殺す事が出来なかった。
今思えば、私は限界だったのだと思う。『鴉羽』の暗殺者の子として生まれ、幼い頃から殺人兵器として育てられた。殺す事に感情などなく、自分は完璧な兵器だと思い込んでいた。
でも本当は、殺したくなかった。
私が殺してきた人の中に、殺すべき人間はたしかにいただろう。しかし、殺さなくてもいい人間も少なからずいたはずなのだ。あの人も、あの人も、あの子だって!
……殺した彼らの断末魔が消えてくれない。彼らの最期の言葉が、耳から離れない。
だけど、私は殺した。殺さなければ、私が殺されるから。私はまだ死にたくなかった。
そんな重圧に目を背けてきたツケが回って来たのか。それとも、そうなる運命だったのか。
暗殺に失敗した私には一時間も経たない内に、数人の同胞が差し向けられた。私を殺すために。
私は追手から逃れるために政治家の邸の近くにあった森林の中へと逃げ込んだ。
そしてその日死ぬはずだった私は、彼女と出逢った。
「ーー助けてあげようか?」
その言葉は私にとって、奇跡のようなものだった。
薄暗い森林の中、人が二人分は入れそうな岩陰に身を隠していた私の目の前で、灰色髪の少女がそう告げた。
長い灰色髪を束ねて、右へと流している。勝ち気そうなつり目は黒瞳。ダークコート、灰色のシャツに黒のショートパンツ。歳は私と同じか、少し上。黒いマフラーが夜風に揺られて靡く姿はさながらヒーローのようだった。
「おーい、聞いてる? それとも、もしかして喋れない人?」
灰色髪の少女が、私の顔の前で手を振る。
「ぁ……げっほ、ごっほっ!?」
声を出そうとして、脇腹に激痛が走り大きく咳き込む。その様子を見て、灰色髪の少女が屈んで、私の身体を調べるように触れる。
「あぁ、肋骨が二本いってるね。切り傷もこんなに……酷いな。苦しいでしょ、無理して喋らなくていいよ」
労わるように、私に優しい声を掛けてくれる。そんな言葉を掛けてもらえる資格なんかないのに。
一目見て分かった。灰色髪の少女はどこかの国に所属する諜報員だ。殺した事のある諜報員と同じような雰囲気がある。きっと私が暗殺者だと知れば、彼女は迷わず私を殺すか、見捨てるだろう。
しかし、そんな私の考えている事を読んだのか、灰色髪の少女は目を細めて、優しい口調で告げた。
「助けるべき人間か、助けない方がいい人間か、そのぐらいの事はあたしでも分かるよ。それに、あたしは貴女の正体を知っている。貴女……『鴉羽』の暗殺者でしょ」
それを聞いて、正直驚いた。この灰色髪の少女は私が『鴉羽』の暗殺者だと知っていて、その上で私を助けようとしたのか。
灰色髪の少女が微笑み、再び優しい口調で口を開く。
「もう一度聞くよ……あたしに、助けてほしい?」
その言葉はすっと私の体の中に入り、傷付いた身体に染み渡るように熱く、溶けていった。
その熱で、目頭が熱くなって、雫がボロボロと頬を伝う。苦しくて、痛くて、声が出ない。だから言葉の代わりに私は何度も頷いた。
「……まかせて」
そう力強く答えた灰色髪の少女が優しく、私の頭を撫でてくれる。それは初めての体験で、とても心地良かった。
「そう言えば、自己紹介がまだだったね」
そう言って、灰色髪の少女が胸を張る。
「あたしのコードネームは『狂風』ーー仮名はリタだよ」
灰色髪の少女ーーリタはそう私に告げた。
「ーーえ? 貴女、名前ないの?」
私がある程度動けるようになったところで、薄暗い森林の中を移動し始めたリタは、驚いたような声を上げた。
「……一応、1021番っていう数字は与えられてるけど」
「いや、それを呼び名にする気にはなれないよ……うーん、そうだなぁ」
少し悩むように顔をしかめるリタ。
「よし! じゃあ、あたしの仮名を一つ貴女にあげるよ」
そう言って、得意げに私に向かって笑う。
「貴女の名前はハイドね! これからよろしく、ハイド!」
「は、ハイド……」
自分の中で何度も反芻して、その名前を噛み締める。その人間らしい名前に、体の芯が熱くなって、目頭も熱くなって、また大粒の雫が溢れた。
「ちょ、また泣いてるの!? ハイド、涙もろすぎじゃないっ?」
「う、うん。私もビックリ。今まで泣いた事なんか、本当に小さかった時しか無かったのに……」
最後に泣いたのは、暗殺の修行が始まったばかりの時だったか。泣きそうになれば、木棒で打たれ、泣き止むまであらゆる暴力に晒された。涙なんて、とうの昔に枯れ果てたと思っていたのに。
「で、でも私なんかが本当に貰っちゃっていいの? リタ、この名前って任務とかで使うものじゃないの?」
「ん? いいよー、全然。仮名は他にも一杯持ってるしね」
たはは、と笑いながら軽口を叩くリタ。そんな反応をされると、しゅんっと涙が引っ込んでしまった。
「あ、そ、そうだよね。諜報員だから、名前は一杯持ってるよね。その一個をくれただけだもんね。使い捨てたりする名前の、一つを、ね……」
「え、もしかして落ち込んでるっ? う、うそうそっ! すごく大事な名前の一つだよ!? ちゃーんとよく考えて、ハイドっていうピッタリな名前を選んだんだよっ」
「あ、そうなんだ……えへへ、そうかぁ。大事な名前の一つで、私にピッタリな名前なんだぁ」
「う、うん。もちろんーーハイドって結構、面倒くさい子……?」
「え?」
「うぅん、何も言ってないよ?」
そう言ってニッコリと笑みを浮かべるリタ。心なしかその笑みは引き攣っているように見えるが、気のせいだろう。
そうして話していると、ふと、リタが神妙な面持ちで立ち止まった。私もその気配を感じ取って、短刀を構える。
「ーーっ! 避けてっ」
ばっと見上げたリタがそう叫ぶ。私は上を確認することもなく後ろへと跳んだ。
少し遅れて、黒い外套を纏った何者かが、先程まで私が立っていた場所に刀を突き立てていた。『鴉羽』の暗殺者だ。
ここまで近づかれるまで、存在に気付かなかった。彼らは『鴉羽』の中でもかなりの実力者だろう。
「ーーーーっ」
そして、今更ながらに気付く。四方に『鴉羽』の暗殺者。全員が刀を構え、私に向かって肉迫する。
殺されるーーそう思った。今の私では、この四人を同時に相手しては勝てない。
結局、私は死ぬ運命だったらしい。
「ーーハイドっ!」
少し離れたところで、リタが悲壮に顔を歪ませている。つい先ほど会ったばかりの私を本気で心配してくれているのが分かる。それが嬉しくて、感謝してもし足りない。そして同時にごめんなさい、と謝る。私のわがままを聞き入れたばっかりに、リタを巻き込んでしまった。
私が殺されれば、次に殺されるのはリタだ。リタもそれなりの実力者だとなんとなく分かるが、状況が悪い。あの四人の『鴉羽』の暗殺者に囲まれれば、逃げるのはほぼ不可能だ。
『鴉羽』の暗殺者達が眼前まで迫り、私が諦念と共に目を閉じたーーその時。力強い声が響いた。
「コードネーム『狂風』ーー狂い、引き裂く時間だよ」
結論から言えば、私は死ななかった。
瞼を上げると、目の前に『鴉羽』の暗殺者はいなかった。いや、視線を上にずらせば、いた。
四人の『鴉羽』の暗殺者が宙に浮いて、もがき苦しんでいる。
「ーー事前にワイヤーを仕掛けて置いたんだよ。『鴉羽』の暗殺者に追われたとき用にね」
そう言って、悪戯っ子ぽく舌をちろっと出して笑うリタ。私は驚愕する。いつから仕掛けていたのかというのも気になるが、それよりも『鴉羽』の暗殺者が気付けないような罠を設置できるとは!
「貴方達あんまり動かない方がいいよー? そのワイヤーはもがけばもがくほど、身体に食い込んでいくからね。」
その通りだった。見れば、彼らが抜け出そうと動けば動くほど、ワイヤーがキリキリと音を上げて彼らの身体を締め上げる。
リタがホルスターからサプレッサー付きの拳銃を取り出し、構えた。
「……まぁ、どちらにせよ、貴方達には死んでもらうけどね」
そう告げて、四発発砲する。放たれた弾丸は吊り上げられた『鴉羽』の暗殺者達の頭を貫き、彼らは糸が切れた人形のようにおとなしくなった。
「さ、逃げるよ。ハイド」
「う、うん」
走り始めるリタに、私はついて行く。リタの行為は、当然の処置だ。『鴉羽』の暗殺者を見逃せば、確実に彼らは殺しに来る。だから、あの行為は正しい。だけど、自分も『鴉羽』の暗殺者なわけでーー
「ーー安心して、ハイド」
私の不安に気づいてか、リタが優しい声音で声を掛けてくれる。
「あたしはハイドを助けてあげるって言ったでしょ? その言葉に嘘偽りはないからーー貴女を殺させたりなんかしない」
そう告げて、笑いかけてくれるリタ。私はその笑顔に安堵する。リタは私が望む時に、望む言葉を掛けてくれる。こんな私を肯定してくれる。
「ーーお母さん、みたい」
「ん? お母さん?」
リタが不思議そうに首を傾げる。つい声に出てしまったようだ。
「あ、うん。何だかリタは私のお母さん、みたいだなって」
「あはは、お母さんって。あたしとハイドは年齢同じくらいでしょ。まぁ、でもそれだけ今はあたしを頼ってくれてるって事だよね? ありがと」
照れ臭そうに笑うリタ。そんな笑顔を見て、また私は安心する。リタの側にいると、とても落ち着く。
「さ、あと少しでこの森林も抜けれると思うから。頑張ろう、ハイド」
「ーーうん」
私はその言葉に、力強く頷いた。