目の前の扉がいやに風に煽られ、カタカタと音を立てる。それを避けるかのようにひょいとすり抜けて外に出た僕を、ガラの悪い大きな背中が迎えた。鉄平は想像に違わず煙草を手に持ったまま、背景に沈んでいく何処か遠くの闇を見つめていた。よく見ると、煙草に火はついていなかった。
「おう、久しぶりやんね羽入。お前を呼ぶんに、ちょいと飲みすぎたわ。悪く思わんでな」
そう言ってくつくつと笑い、まだ口のつけていないであろう煙草をひょいと投げ捨てる。すっかりと日の落ちた闇の中で見せるその表情は、未だかつて見たこともない程に優しい笑みを浮かべていた。
そこでようやく気づいた。僕に気を利かせて、煙草を吸わないでいてくれているのだと。
「……鉄平は、どうして僕を探しているのですか?」
聞きたい事は山ほどある。あらゆる疑問が渦を作り、喉の奥底で根詰まっている。それらを抜けて出た最初の疑問。たとえ僕と鉄平に繋がりがあったとしても、だからと言って、僕に用があるとは思えないのだ。もちろん僕自身、鉄平に呼ばれる覚えなどなかった。
「お前がもう、半ば諦め気味なのは知っとるん。でもな、ワシはちょいと諦めが悪いんよ。沙都子をあんな目に合わせた馬鹿を同じ目に合わせてやるまで、ワシは諦めんとな」
「沙都子が、どうかしたのですか?」
「あー、すったらん。いっつもそうやって知らんふりするんね。ワシは知っとるんよ。お前は梨花ちゃまがどうだの言ってるけどな、ワシは梨花ちゃまとは違うん。もう犯人も、全部知っとるんよ。園崎のハナタレ娘に一泡吹かせるまで、もう一息だったんに……邪魔が入りよったん! あーしゃらしいわ!」
前のカケラで嫌なことでもあったのか、鉄平は唾を地面に吐き捨て乱暴に蹴りつける。そんな彼を他所に、鉄平との会話から状況を整理すべく黙考する。
気になるキーワードは"沙都子"と"園崎の娘"。
これらの得られた情報から出た答え。いくつものカケラを巡り、見てきた光景から描かれる未来。
どうやら、このカケラでは詩音が暴走するらしい。そして沙都子が犠牲となる。それは何度となく見てきた光景だった。今回は鉄平がそれらの惨劇を阻止すべく色々試している……と、まあそんな感じだと推測する。
……正直、落胆した。先ほどまで高鳴っていた胸の鼓動が、急速に冷却されていく。これでは、鉄平が動いたところで結局何も変わりはしないだろう。いや、もしかしたら沙都子くらいは救えるかもしれない。でも、結局梨花は死ぬ。それでは何の意味もないのだ。
頭の中で情報の整理が終わると、途端に鉄平への興味が失われていくのが自分でも分かった。このカケラにもう用はない。どうやら鉄平は、なぜだか知らないけれど僕に気を利かせていてくれるらしいから、禁酒を告げてさっさと帰ってしまおう。そして梨花とお喋りにでも花を咲かせて、あと一週間と少しのささやかな時間を楽しめばいい。そうすれば、次のサイコロはもっとマシな目を見せてくれるかもしれないという可能性が広がるのだから。
「鉄平、僕はあなたに協力できることは何もありませんです。ごめんなさいなのです」
「知っとるわ! さっきもそう言ったろ、このダラズ!!」
鉄平の放つ暴言は言葉の印象に反して、口調は抑え目だった。そういえば、僕がもう惨劇の回避をあきらめていることを理解しているようなことも言っていたような…でも、そんなこともどうでもいい。さっさとこの場を離れたかった。
「というわけで、僕は梨花のもとへ帰りますです。頑張ってくださいなのです」
「おい、ちょい待てっちゅーに! まだ要件を伝えてないんよ。あんな、羽入。お前が諦めるのも何すんのも好きにすりゃええ。でも邪魔だけは許さんからな」
「安心してくださいなのです。僕はもう、あなたと関わる気はないのですから」
僕が邪魔を? そんなことは、神に誓ってないだろう。
……ああ、僕は神さまなのだから、この場合誰に誓えばいいのだろうか。まぁいいか、適当に祈っておけば。な~む~☆
…………あぅあぅ。ボケたらツッコミが欲しいのですよ。こんな時、梨花がいたら「あんた神社の神さまでしょ、お経唱えてどうすんのよ」とか言ってくれるのに。早く戻りましょうです。鉄平の空っぽな脳みそでは、かぁいい僕を扱いきれませんなのです。
「もう、要件はありませんですか? ないのでしたら、僕は帰りますです。お酒はもう飲まないでほしいのですよ」
「分かってるん。今日はお前を呼びたくて飲んだだけっちゅーに」
鉄平は他にも何か言っていたような気がするが、既に雛見沢の空へと向かっている僕の耳には届かないのだった。
あれ、でもなんで鉄平は詩音が犯人だと分かっているのだろう…? 記憶の継続が出来ているのだろうか。そんな疑問が今更のように頭を通過する。けれど、いまさらだ。知ったところで何も変わるまい……。
祭具殿で
祭具殿の中心部、オヤシロさまを祀るべく建てられた御神体に寄り添いながら、僕は今晩の食事を楽しんでいた。たとえ梨花と繋がりがなくとも、食事を作るのは沙都子だ。それはさっき自分の耳で聞いて確認したのだから、間違いはない。
豆腐が安いと言っていたわりには、あまり豆腐が出てこない。たぶん鉄平が好き嫌いで避けているのだろう。お肉ばかりが目立つ。だけど、美味しかった。このカケラでは梨花との共同生活をしていないから、沙都子の料理の腕には正直警戒していたが、少なくとも食べられるくらいにはちゃんとしていた。ちょっと出来合いのおかずが多い気がする……けれど、沙都子の年齢にしては頑張っている方だろう。
……あれ? というか、ちょっと待ってくださいなのです。いままで自然な流れで、沙都子が晩御飯を用意しているのを何も不思議に思わなかったのだけれど、よく考えたら普通叔父である鉄平が用意するのではないのですか!? いつものカケラより優しく、沙都子と良好な関係を築けているとはいえ、やっぱり鉄平は情けないのです。
沙都子の料理を満喫しつつ、今後の事を考える。食事が済んだら梨花のもとへ遊びに行こう。もう寝てるかもしれないけれど、僕には関係のないこと。梨花の寝顔を観察するのだって、いろんな変化があって楽しいのです☆
「くすくすくす……」
あぅ。梨花に笑われたのです! よく考えたら、さっきはひどいことを梨花に一方的にされていましたのです。今日は徹底的にやりかえすのですよ、あうあう!! 今晩は寝☆か☆さ☆な☆い! なのです!
…………あれ、あれれ? 梨花の声が…ここで聞こえるのはおかしくないのですか……? あう。あぅあぅあぅあぅあぅ!!!
「くすくすくす……」
また何処からか、梨花の笑い声が聞こえてくる。もしかして僕が帰ってくることを予見してここで待ち構えていたのですか!? 梨花はいつからそんなお茶目さんに育ってしまったのですか!
「はたから見てる分には、ほんと滑稽な神さまよね。くすくすくす」
笑われるどころか、ずいぶんと馬鹿にされている気がするのです。そしてなんとも信じがたい事に、その声はオヤシロさまの御神体から聞こえてくる気がするのです。注意深く聞き耳を立てる。……音としては何も伝わってはこない。けれど、御神体からは何か強力な意思のような力が流れてくるのを感じられた。
暗闇に鈍く光るその胴体に、そっと額を当ててみる。すると、やはり梨花の声が聞こえるのだった。でも、違う。梨花のようであって、別の存在だと僕の直感がそう断言する。
「あら、そういえばその場所はこちら側と繋がっているんだったわね。どうしようかしら。あなたと会話する気はなかったのだけれど。くすくすくす」
「あなたは、誰なのですか? 梨花とよく似たものを感じるのです。何者なのですか」
「未来のお友達……とでも言いましょうか。今のあなたにとっては、数あるカケラほどにどうでもいい事よ」
「未来の、友達…ですか?」
「そう近くない、ずっと遠い未来に、もしかしたら会えるかもしれない……そういう関係。つまりあなたが気にするほどの存在ではないわ。………それにしても、どうしようかしら。この世界に干渉する気はなかったのだけれど。くすくす。ちょっと入れ知恵してしまおうかしら? その方が退屈しのぎになりそうだし」
梨花の声をした何者かは、楽しそうに一人で喋っている。僕によくわからないことを言いながら煙に巻くように。そんな性格すらもが梨花を思わせるのだ。カケラの世界を通じて話している、この相手は一体何者なのだろうか。
そんな疑問で頭がいっぱいの僕には、それを突き破る、もっと衝撃的な言葉がすぐに飛び出てくるとは、思いもしなかった。
「そうね、その世界でこれから起こる事を、予言してあげるわね。まあ結論から言えば、北条沙都子と古手梨花、そして北条鉄平の三人が死ぬ。それだけの事よ。発症者は北条鉄平。彼が二人を殺害して終わり。ね? つまらない世界でしょ? くすくす…」
「鉄平が発症……? 詩音ではないのですか?」
「なんで詩音が発症しなくちゃならないの? 彼女を狂わせる罪は、何もないのに。鬼のいざこざはあるでしょうけれど、それは殆どの世界で言えることなのだから、どうでもいいでしょう?」
そう言うと梨花の声をした人物は、くすくすと狂ったように笑うのだった。
詩音ではなく、鉄平が雛見沢症候群を発症する……? さっきまで一緒にいた彼が? そんな馬鹿な。彼からは異常な行動は見られなかった。それに、ほかならぬ鉄平自身が言っていたではないか。犯人は詩音だと。
……あぅ。そういえば、鉄平は惨劇を起こす犯人について知っていた。何故か継承している死直前の記憶。その謎は、この梨花の声をした何者かが握っているのだろうか。いや、そうに違いない。
「そうね。彼を繰り返すものとして送り出しているのは、あなたではなく私よ。でも、もう無理。彼は袋小路の運命に囚われてしまった。だからその世界で終わりにするつもりだったのよ。だからあなたは何もしなくていい。私の余興で生まれた世界なのだから、何もかもを放っておけばいいわ」
「あなたに言われなくとも、僕は最初からそうするつもりだったのです。余計なお世話なのですよ」
「そうかしら? あなたにはまだ、運命に抗おうとする意志が感じられたのだけれど? くすくす……あまりイジメすぎると良くないわね。泥沼化する前に退散することにするわ。あなたと根気比べをしていたら、綿流しのお祭りが何十回行われても足りないもの。……くすくすくすくすくす」
御神体を通じて感じていた力が、急速に失われていく。何者かの存在が、どんどん遠くへと消えてしまう。
彼女はそれを僕に伝えて何を期待しているのだろうか。いや、何もしなくていいと言っていたではないか。それは文面通りに受け取っていいものなのか…? 分からない。分からない…。
あっという間に彼女の何もかもが感じられなくなる。残されたのは、どうしていいか分からずに佇む僕と、座して動かない御神体、そしていつもの古きを感じる道具たち。そして、静寂。
僕は祭具殿の中が大好きだ。古き時代を忘れることなく過ごしていられるのは間違いなくこの場所のおかげ。鷹野が偉そうにご高説垂れるのは勘弁願いたいけれど、とにかく僕には、この場所が一番落ち着いていられる場所だった。
そんな場所が、闇が、無音が、怖い。初めて僕はこの場所で恐怖を感じたのだった。後は早かった。梨花の名前を叫びながら、僕は梨花の寝床へと逃げ帰るのだった。