翌日。
強い日差しを感じて目を覚ますと、綺麗に畳まれた沙都子の布団が目に入った。窓から差し込む陽の眩しさと、遠くで響く蝉の声が、既に朝という時間をとっくの昔に超えていると伝えていた。暖かな温もりを通り越して、もはや暑苦しいだけの布団をはねのけ、重い身体を起こしてウンと背伸びをする。鉛のように重かった身体に活力が戻る…代わりに、今度は鈍い痛みが等間隔で頭を叩き始める。……そりゃそうだ。昨日、羽入を呼ぶ為にあれだけ飲んでいたんだから、いくら酒に強いとはいえど二日酔いにもなるというもの。……それにしても、最近頭痛が多いな。
ふと部屋を見渡す。が、羽入の姿はない。あまり期待していなかったから、特に気にもとめないが。沙都子は学校に行ったのか? まあ、それは当たり前か。そして、行ってもらわなくては困る。今日は仲間を呼んで、作戦の最終確認をする予定だった。ふと壁にかけてある時計を見る。カチカチとうるさいその針は、お昼を過ぎてさらに右半分を超え始めていた。……ふん? そろそろ来てもいいはずなんだが……。
そんな事を考えながらコップに水を汲んでいたら、玄関の扉が叩かれた。噂をすればなんとやら、だ。
「おう、今行くんね! ちょいと待っとれやー!」
急いで蛇口をひねって水を止め、コップに汲んだ水をぐいっと飲み干す。生ぬるいだけの水だったが、それでも少しは頭痛を和らげてくれる気がした。それにしても、やけにしつこい。今行くと言ってるのに、まだ戸を叩いていやがる。
「やかましいっちゅうん! 今行く言うとんね!!」
思えばこの時既に、頭の片隅では一種の予感めいたものが警鐘を鳴らしていた。世間様に比べて真っ当な生き方をしてこなかった分、危機への察知能力はあるつもりだった。それが、外へ出てはいけないと告げている。虫の知らせってやつだ。でも、二日酔いと寝起き…そして仲間と待ち合わせをしていたという状況も相まって、無警戒に戸を開けてしまったんだ。そう、きっとそうに違いない。
扉の向こうに立っていたのは、見慣れた仲間達ではなかった。蝉の声がやけにうるさいのは、扉を開けたからなのだろうか? うるさいうるさい、やかましい!! なんで……なんでコイツがここにいるんだ!?
「こんにちはです、北条の叔父さま。って、んー? その様子だと、おはようございますって感じです? 寝過ぎは体に毒ですよー? くすくす」
目の前の少女……園崎詩音は、そう言って爽やかな笑みを浮かべる。こんな時間に、何故? 一体なんの用が…? いや、理由なんてどうでもいい。こいつは、俺と沙都子を狙っている殺人犯じゃないか……!
落ち着け…、落ち着け。クールになれ、北条鉄平……!! 伊達に外れた道を生きて来たわけじゃない。こんな小娘一人くらいならば、襲ってきたところで来ると分かっているなら十分に捌けるだろう!? 落ち着け……落ち着け!!
自分にそう自己暗示をかけると、頭が冴えわたる。さっきまでやかましかった頭痛も、今や全く感じない。……大丈夫だ。俺は至って冷静。問題ない。何も、問題はない。
「お、おう。沙都子のお友達かいね。いったいどうしたんよ、こんな時間に」
「えっとですね。お届け物を預かってるんですよ。……ん、ありゃ? あれれ? 何処行ったかなー」
「詩音さん、車に忘れてますよ。これでしょう」
「葛西〜、あんた私のポッケ漁ったでしょー! 絶対ここに入れてたのにー」
「いいえ。さっき車から降りられる時に、落とすのを見ましたよ」
「なら、その時に教えろー!!」
相手から来ないならば先手必勝……と隙を伺っていたが、詩音の背後から現れた男を見て完全に戦意を失った。
その男……葛西辰吉。この男だけは、相手にしてはいけない。それは、裏の界隈では絶対に守るべき共通のルールだ。決して、俺では勝てないからだとかそんな理由ではない。この男には、絶対に手を出してはいけないのだ! それは、この長い人生を裏の世界で生き、学んだ数少ない常識だった。
「まー、いいや。ってわけで、はいこれ。大事なお手紙だって言ってたんで、失くさないで下さいよー? ……あっは! さっきまで失くしてた私が言っても、全然説得力ないんですけどね」
「おう、えらいすまんな。んで、誰からのモンなんよこれ」
そう言いながら、受け取った封筒を見る。ひと目で新品だと分かる綺麗な封筒。しわの一つもないそれに書かれていた差出人の名前は……。
「園崎魅音からです」
その言葉に、心臓が締め上げられるのを感じた。せっかく落ち着きを取り戻した呼吸が再び回転数を上げる。引いたはずの頭痛が、ジクジクとぶり返す…! 園崎家頭首代行からだと……!?
いくつかの世界を繰り返し、その度に園崎姉妹に狙われていた。しかしその理由が分からなかった。でも、今理解した。間違いなく、律子からカネをこっそりと盗んだ事がバレている……!! 律子が持っていたカネ……、あれは元々園崎組のカネだ。奴らがどうやってそれを知ったかはわからないが、そのカネが今ここにある事を、こいつらは知っているんだ!
「まー、北条の叔父さまなら大体察しがつくんじゃないかと。最近、お姉に狙われてるの、薄々は感じてるんじゃないです? くすくす」
背筋に冷たいものが流れる。封筒を持つ腕の筋肉がその力を失ってゆく。園崎魅音が、俺を狙っているだと? 気づいていないだけで、既に園崎組の手のひらで踊らされているとでもいうのか!? もう、既に手遅れなのか……?
「それじゃ、私ゃ用が済んだのでこれで失礼します」
「お、おう。わざわざ、すまんね」
二人を乗せた車が、土煙を上げながら遠ざかって行くのを見届ける。……そこが限界だった。受け取った封筒を、開けもせずに床に叩きつけ、踏みにじる。その綺麗なボディに、メリメリとシワが広がっていく。
「クソがッ! ワシを舐めよんからに、あんのクソボケ共の思い通りになってたまるかっちゅうんね! クソッ! クソッ!!」
園崎頭首代行が直々に手を出し、わざわざ姉妹を使いに出して権威を見せ、そしてあの葛西までもが動き出した。これは言わずもがな、事実上の死刑宣告だろう。
…………落ち着け、冷静に、冷静になるんだ。
そう、別になんの問題もない。問題はないんだ。園崎家が俺を狙うのと同じく、こちらだって、園崎姉妹を狙っている身なんだ。そもそも、あのカネだってその為に盗んだモンじゃないか。何も、問題ない。冷静に、クールになれ。
しわくちゃになった封筒を拾い、ゴミ箱に捨てる。それとほぼ同時に、またしても戸を叩かれた。……ふん、同じミスは繰り返さないぞ。俺はいま、冷静に対処している。冴えわたる思考が、行動の過程が、それを教えてくれている。今度は扉を少しだけ開けて、外の様子を伺った。扉越しに見える大勢の人影、その空気感が半開きの視界を通して伝わってくる。
「鉄っちゃん、来たで。これで全員よ」
「おう、えらい気合い入っとんね。まあ、上がれや」
そこには、見知った顔の仲間が十人弱ほど来ていた。どいつもこいつも、昔から共に裏世界を生き抜いて来た、信頼の出来る数少ない仲間だ。
「ん、どうしたんよ。はよ上がらんかい。雁首そろえてそんなん突っ立ってたら、目立つんよ! ご近所様を怖がらす気かいな! かっかっか!!」
だが彼らは、家に入ろうとはしない。互いに顔色を伺い、そして俺の顔を伺っている。…………嫌な予感がする。クソッ、悪いことは立て続けにっちゅうやつか!?
「なあ、鉄っちゃん。えらいすまんな。……これ、返すよ」
先頭の集団にいた一人が、分厚い現金の束を差し出す。それは俺が、頭数を揃えたくて仲間を集めるために渡したカネだった。
「……どういうこったん。唸るモン前に日和ったんかよオイッ!?」
「鉄っちゃん、落ち着いて聞いてほしいんよ。…………あんな、律子が、殺されたんよ」
予想はしていた。だから特に動揺も無い。もともとこのカネは律子が園崎組から盗んだモンだ。そして、繰り返して来たいくつかの世界で、見せしめに殺されるのを、俺は見てきた。
「……だからどうしたんよ。ワシらにゃ、なんの関係もないんね。律子のやつが何処ぞのアホンダラと馬鹿やって、しくっただけよ。そのカネはなんも関係ないんね」
「鉄っちゃんがそう言うなら、信じるよ。でもな、いま園崎組が殺気立ってるん。そないなってるんに、大人しくしない方が馬鹿だと思わんかいな?」
「こんのダラズ共がッ!! もうええわ。帰れお前ら。ワシ一人でやったる。腰抜けどもの話なんぞ聞きたくもないわ」
「なあ、そない気張らんと。ホンマもんの娘と違うんだろ? そんなんに、タマ張るほどのモンかいな!?」
「なんじゃいお前ら、ワシの娘馬鹿にしよるんか! 沙都子はワシの大事な家族やけんね。死んでも守る決めとんね!!」
亀裂がどんどん大きくなっていく。仲間が他人へと変貌していくのを、肌で感じる。圧倒的な疎外感。分かってる。コイツらが正しいってのも、俺が馬鹿言ってるのも、全部分かってるんよ。でも、沙都子は大事な……。
「鉄っちゃん、アンタどうかしてるわ。ウチら、園崎組とやり合うつもりはないんね。もう関わらんでな」
さっきまで頼もしい仲間だった彼らは、あからさまに軽蔑の視線を向けて、一度だけ振り返り……そのまま消えた。
「…………んん。こりゃ、まいったんね。結局、ワシ一人かいな」
開け放たれたままの玄関に、溢れた呟きが吸い込まれて行き、蝉の声に掻き消される。雛見沢すらもが、孤独を強要しているような気分だった。
そんなぽっかりと開いた空間をただ呆然と見つめているうちに、ある一つの疑問が湧いてくる。俺はなぜ、こんなにも必死になって、昔からの仲間すら捨てて、沙都子を守ろうとしているんだ? そんな模範的な人間だっただろうか? …………違う。自他共に認める、暴力と博打だけが生き甲斐の男だった。大体にして、ガキなんてこれっぽっちも好きじゃない。自分の世話すら面倒だというのに、なんも出来ないお荷物を抱えて生きるなんて、とんでもない。そう思って生きてきた。
全てはあの日、羽入に出会ってからだった。あのドタバタペタペタあぅあぅとうるさいだけのやかましい存在。自分では何もしないクセに、やたら説教がましい事を言ってくる奴。あれと出会ってから、全てが変わった気がするのだ。
「……おじさま? どうしたんですの、こんなところで」
ふと気づけば、目の前には沙都子がいた。すっかり陽が落ちて、いつの間にやらひぐらしの合唱が響いている。
「ん、ああ。ちょいと夕涼みしたくなってな」
「随分とらしくない事をしますわね」
「ワシもたまには、そういう事をしたくなんねんな」
そう言いながら、そっと沙都子の頭を撫でようと手を伸ばす。しかしその手は、沙都子の頭へと届く事はなかった。……それは、明らかな拒絶。数歩ほど後ずさりして、はっとする沙都子が、そこにいた。
「あっ。違ッ、ちがうんでの。これは、その……」
「………………すまんな。驚かせて」
孤独だった。その事実を、この世界はあらゆる表現で俺に突きつけてくる。
ひぐらしの声が、やかましい。ふと、そう思うのだった。