憧れの阿良々木暦、その家の中。主人公の精神は果たして……
意識が朦朧として頭が働かない。気だるさが全身から力を削ぎ落としていく。波に飲まれる砂のように暗闇と自分の境界線が混ざり合って溶け出していく。ひんやりとした風が肌を撫でるたびに自分を形作る物が消失していく。
これこそ僕の望んでいた罰なのかもしれない。大嫌いな僕はこれで死んでしまって、愚かにも「阿良々木 暦」の姿を偽った僕は裁かれてしまって、それで僕の「物語」は終わりを迎えるのだ。未練がないと言えば嘘になるが、未練を残して消えてしまう方が僕らしいとも言える。何も成し遂げられず、しようともしないで……ずっと、ずっと。
こうして自分を否定して、罰し続けた先に僕は何を望んでいるのだろうか。
あのまま消えてしまうのが定めだと思っていたが、不思議なことに目が覚めた。あれも夢だったということだろうか。聞き齧った話によると多重夢(夢の中で見る夢)には夢占い的に意味があるらしく、世間一般的に悪夢であろうあの夢には「疲労や緊張感の現れ」という意味があるらしい。
確かに今日という1日はにわかには受け入れ難い現象に溢れていた。それを加味すればそのような夢を見ることも頷ける。問題があるとすればこうして夢から目覚めたはずの僕がいまだに夢の中にいるということである。一応これが夢で無いとする推論もあることにはあるが、それは流石に……無いと言い切れないのが恐ろしいことだ。あまりにも幸運すぎるし幸せすぎる。僕にそんなことが許されて良いはずがない。
とはいえ目覚めるタイミングというか目覚める条件というのが一切わからない。夢なのだとすれば唐突に目覚めることもあるだろうけれど、こうにもはっきりとした世界だと終わり方も何か形があるに違いないと思うのだ。そうなるとこの世界での身の振り方を一度真剣に考えた方がいいのかもしれない。
「目が覚めたみたいだな」
「どうやら気を失っていたみたいだね」
「ああ。お前を部屋まで運ぶの大変だったんだぞ。僕の体って結構重いんだな」
「すまない……謝罪の意を込めてここで! って今は「阿良々木 暦」の姿だったな。まだ少し頭がぼぅっとしていて……」
「一体何をする気だったんだ? それはともかく、さっき気絶したばかりなんだから体調がすぐれないのも当然だ。無理はしないでくれよ」
「いや、寝ぼけみたいなものだから気にしないでいいよ」
「そうか。それならいいんだけど」
そういって「阿良々木 暦」は僕に冷えた麦茶を差し出した。氷がコップとぶつかるたびに風鈴のような綺麗な音を鳴らす。よくよく考えると今日に入って一度も水分をとっていなかったので、一口一口が極上の味だった。
「ところで──」
「阿良々木 暦」の纏う雰囲気がガラリと変わる。僕のよく知っている表情で僕を睨む。怪異と対峙する時の顔だ。一瞬の戸惑いのあと自嘲的に笑う。そうだった、今の僕は「阿良々木 暦」の姿をしているんだった。彼からすれば僕は不気味で仕方ないのだろう。当たり前のことを忘れてしまっていたようだ。
「お前、何者だ? 」
「何者、と言われても君ほどの人間ではないよ。これといって語り聞かせる武勇伝もなければ長所なんてとんでもないことだ。ただただ、ある日「阿良々木 暦」の姿になってしまっただけの一般人さ」
「僕たちのことを知っていると言っていたな」
「そうだね。でも正確には違うかな」
「──?」
「これは僕の中にだけある境界線なのかもしれないけど……僕は君たちのことを知っている訳じゃない。君たちの『物語』を知っているんだ」
「阿良々木 暦」はいまだ要領を得ないようだが、同じようで全く違うのだ。僕は「物語」の住人が何を思い、何をしたかを限られた範囲で見てきた。だがそれは彼らを理解した訳では無い。だから決して僕は「阿良々木 暦」を、「忍野 忍」を、「八九寺 真宵」を、「戦場ヶ原 ひたぎ」を、「羽川 翼」を……「物語シリーズの住人」を知っている訳では無い。絶対にそんなこと言ってはいけない。
「違いがあるのか?」
「違うさ。全然」
「……『なんでも知ってる』んじゃ無いのか?」
「あはははは! 『阿良々木 暦』らしい鎌掛けというか……僕がオマージュするには言葉が重すぎるけど、まぁいい。そう言われたらこう答えざるを得ない。『なんでもは知らない、知っていることだけ』ってね」
「なんでそんなに似てるんだ!? いや、まぁいい、お前に聞きたいことがある」
僕の手を結露が伝う。
「八九寺から話は聞いた。突然僕の姿になってしまって困っているらしいじゃないか」
「そうだけど……? 」
「それなのにお前は僕たちの事を『知っている』。その前に1つ聞いて置かなきゃいけなかったな」
「だから、僕が知ってるのは『物語』なんだってば! 」
「お前は怪異を『知っている』のか? 」
「怪異を知っている」か否かという問いは実質「お前は怪異か」という問いに他ならない。怪異というのは基本的に人間の尺度では推し量ることのできない超常の存在なのだから。それを知っているということはその存在もまた超常の者であるという事になる。今の僕は怪異の様なものだけれど、生まれついての怪異である訳ではない。どちらかと言えば僕は怪異というよりも怪異の被害者なのだ。
それに、自分が怪異であると認めるのは嫌だった。こんな事を言えば「阿良々木 暦」は僕を怒るだろうが、僕にとって怪異とは「物語」を面白くする存在であり、僕なんかがなっていいものではないからだ。故に僕はもし今の僕が100%怪異だったとしても怪異ではないと言い続けるつもりだ。
「……僕は怪異を『知らないよ』知った気になってるだけだ。僕は『阿良々木 暦』が出会わない怪異は知らないし、出会った、もしくはこれから出会う怪異についても知ったかぶりの知識を振りかざしているだけだ」
「僕が出会う怪異?」
「そう。僕が見ていたのは『阿良々木 暦』を中心として回る『物語』なんだ。だから『阿良々木 暦』の出会う怪異の事しか知ったかぶれないんだよね」
「本当にここにお前が来てしまった事に心当たりはないのか?」
心当たり……ざっとこの世界に足を踏み入れる前の事を思い出してみても特にこれといったことには辿り着かなかった。
「すまない。強いて言えばあの日の夜は寝付きが良くなかったということぐらいだな。正直あれはショックだったな。これでも僕は眠りの質については一家言あって、寝室にほとんどの稼ぎを注ぎ込んでる程なんだ。体を包むベッドは完璧に体を支え、高さも最も僕の身長にあっているからアクセスしやすい。さらに空気清浄機とこれの正式な名前はわからないけど湿度調節機が常に稼働している。アロマキャンドルも炊いているし風呂の後のストレッチも欠かしていない!!僕の睡眠環境は最高なんだよ!!それでも眠れないなんて……そう考えるとあの日の夜は異常だった。ちょっと僕が精神的に不安定だったというのも影響してると思うけど、この件との繋がりは薄いと思うな」
阿良々木 暦は考える。これらの発言を信じていいのか。そしてこの不審人物を信じていいかどうかを考える。
「阿良々木 暦」が沈黙する。僕を観察するようにじぃっと視線を飛ばしてくる。何か僕の発言に粗相があったのだろうか……もしや睡眠への思いを語り過ぎたのだろうか!?確かに「阿良々木 暦」が聞いていたのは僕がここに来てしまったこと、「阿良々木 暦」の姿になってしまったことの原因の心当たりであって、ここにくる前夜の異常についてでは無かった。的外れなことを言った僕を怪しんでいるのだろうか。
「あれこれ聞いて悪かったな。どう見ても怪しかったからつい」
「いや、正直自分でも怪しいと思っているから気にしなくてもいいよ」
それが何故かはわからないが、「阿良々木 暦」の中で何か解決したようだった。
「そういえばお前……あー、僕、お前の名前知らないんだよな。八九寺も知らないみたいで結構なあだ名つけてたし」
そう言えば「八九寺 真宵」と会った時から一度も名乗っていないので「阿良々木´さん」「阿良々木さん……にそっくりな人」「阿良々擬さん」「偽アララギさん」「あららBさん」「あいつ」「お前」などと呼ばれていた。僕からすれば全く間違いではないのでそのままで良かったのだが、これらの呼び方は気に入らなかったようだ。
「今更感がするけど自己紹介をば。僕の名前は宙野かなた。今年30歳の現役サラリーマンだ」
「え? リーマンなの!?」
「うん。特にこれといって特技のない、寝ることと自虐くらいしか語ることのない中年一歩手前さ」
「僕の姿でなんて夢のないことを!!」
「おお! また『阿良々木暦』に突っ込まれてしまった!!」
「あいも変わらず自由な奴だな……」
どちらかといえば自由というか浮遊である。「物語」シリーズの世界に入り込んでいること、さらに言えば憧れの「阿良々木 暦」と会話していることに浮かれてしまっているのだ。一応いい年の大人ではあるが、心境としてはヒーローショーのヒーローを間近で見た子供の心境に近い。
「ところでかなた、お前家帰れるのか?」
「ああ、ここからの正確な道はわからないが地図を貸してもらえるか、検索させてもらえれば電車を使って帰らせてもらうよ」
「そういうことじゃなくて、僕の姿のまま帰って大丈夫なのか? 」
「あ」
「考えてなかったのかよ!? 」
仰天の連続でそこまで頭が回っていなかった。「阿良々木 暦」はそういうつもりで言ったわけではないのだろうが、現実に「阿良々木 暦」の姿をした人間が現れたら、大混乱を招くことは間違いない……待て、何かがおかしい。
「『阿良々木暦』!!今すぐにでも地図を調べたいのだけれどいいかな!!」
もしここが現実なら何かの拍子に「阿良々木 暦」を目撃する人がいるはずだ。これまで一度もそれが無いとなると……僕の予想が正しいなら事態は思ったより深刻だ。
「おわ!いきなりなんだ?僕のケータイで良ければ貸すけど」
そう言って、「阿良々木 暦」はベッドに放り出されている自身のガラケー*1を差し出す。そうかこの時代はまだガラケーが主流だったか。なんだか懐かしい気持ちになりながらそれを受け取る。
「ありがとう」
「阿良々木 暦」があらかじめ地図の検索画面を開いて渡してくれたので入力はスムーズに行うことができた。細かい気遣いに感謝を述べつつも検索の結果を待つ。
「……無い」
まさかと言うべきか、やはりと言うべきか、検索結果に僕の住所は無かった。そもそもの話、僕の世界とは世界線も時間軸も違うのだから僕の家がある方がおかしいだが、流石に焦らずにはいられない。
「何が無いんだ?」
「僕の住んでる場所が無いんだ。地名も住所も何もかも違っている!!」
「なんだって!?」
「ああ、マイスイート寝具……」
家をなくし、意気消沈する僕を見ていられなくなったのか「阿良々木 暦」がそっと部屋を立ち去る。ひとり残された僕はそっと泣いた。
それから少し時間も経って考えがまとまったので、それを伝えるために「阿良々木 暦」を待つ間、僕は暇を持て余していた。
一度落ち着ける時間を手にしたのであたりを見回してみると、見れば見るほどアニメの描写通りの風景がそこにはあった。ここが本当に「物語シリーズ」の世界なのだと痛感する。
ところで、いつしか「神原 駿河」が発見せしめた「阿良々木 暦」のマニアックお宝本とは如何なるものなのだろうか。
「ちょっと探してみるか? いやいや! 流石にルール違反だ! 僕はそんな事しないぞ!! 」
「何をしないんだ? 」
「あ、これは違」
「何をしていたのか定かではないけど、後ろめたい事があるのは想像に難くない。せっかく人がお前を泊めてやれないか妹たちに聞きに行ってやったってのに邪な考えを巡らせていたなんてな」
意地の悪い目線が僕を突き刺す。こんなに良くしてくれようとした人に一瞬でもあんな……自己嫌悪の感情が止まらない。
「うう、ごめんよ『阿良々木 暦』ぃ」
というか今僕の聞き間違いじゃ無かったら泊めてやれないか聞きに行ってるとか言ってなかったか?
「はは、そんなマジになるなよ冗談だから。それで聞いてきた結果だけど、泊まっていいってさ。良かったな」
「泊まるって僕が、『阿良々木暦』の家に??」
「その通りだ。それ以外に何があるんだよ」
「えー!!え?えーー!!!」
「そんなに驚くことか?」
「そうだよ。なんたって『阿良々木 暦』の家だよ?」
「ああ。たかが僕の家に泊まるぐらいでそんなに大騒ぎされても困る」
「僕以外にもたくさんいると思うぞ。『阿良々木 暦』宅お泊まりイベントで大喜びする輩」
「そんなわけあるか!」
「阿良々木 暦」の家に泊まるなんて僕なんかに許されていいのだろうか。いや、よくない。これから一体どうすればいいんだ。
かなたの一人称を「俺」にしなかった事は、正直に言ってかなり挑戦的だと思うが、阿良々木君と混ざらない様に気をつけなければならないな。
なんせ容姿も一人称も同じなんだから。言動で差をつけなければ……