英雄に憧れる少年の英雄譚 作:葉振藩
いつの間にか、敵の数は増していた。
(くそっ! こいつらめ、仲間を呼びやがったか!)
リーフォンは状況の悪化に心中で毒づいた。
最初は五人ほどになった【
勢いで初めてしまったリーフォンの喧嘩は、今や終わりの見えぬ苦行となっていた。
「せいやぁ!」
「がっ!?」
門人の一人に脇腹を蹴られる。その蹴り足に込められた術力の勢いで、旋回しながら後退させられた。
さらに後退した位置に待ち構えていた他の門人の回し蹴り。またも弾き飛ばされた。
さらに飛ばされた位置にいた別の門人が突きを放つ準備を見せていたが、そう何度もやられてなるものかと気概を発揮したリーフォンは全力で体勢を持ち直す。眼前の門人が放った正拳突きが当たる前に、それ以上の
さらに背後から攻撃の気配。リーフォンは蹴り伸ばした足へ重心を移して位置を一歩移動し、背後からの蹴りを回避。再び鋭く歩を戻し、術力を込めた掌打を放った。
だが、掌打が当たる直前、その門人の姿が消えた。
どこへ——と考える前に、背中に丸太で殴られたような衝撃が叩き込まれた。
「がはっ……!?」
痛みつつも、後ろを見る。そこには消えたはずの門人の姿。回避と同時に背後へ回り込み、術力を込めた蹴りを加えてきたのだ。
「くそぉっ!」
吐き捨てつつ、振り返りざまに蹴りを放つ。しかし苦し紛れの攻撃にキレは無く、難なく躱されて掌底を食らう。
吹っ飛ぶが、受け身をかろうじて取る。もし倒れた状態を一秒でも長く続けたら終わりだ。袋叩きにされ、そこから抜け出せなくなる。
立ち上がって早々、後ろから蹴りが真っ直ぐやってくる。リーフォンはそれを腕の摩擦で受け流しつつ、踏み込んで正拳を走らせた。
だが、その門人は蹴り足を伸ばしたまま、腰を急激に沈下させた。励峰の拳が頭上を通過してから、間髪入れずに蹴り足へ重心を移動させ、豹が飛び込むような双掌を打ち込んできた。
予想だにしない変則的な身のこなしで反撃を喰らい、リーフォンは驚愕と術力を同時に味わいながら吹っ飛んだ。
……【奇踪拳】には、今のような変則的かつ予測困難な身のこなしが多い。先制攻撃より、後手でこそ真価を発揮する武法。
しかし、数は連中の方が圧倒的に上だ。機先を制することも、後手に回ることも、作戦の上ではほとんど障害にならない。数という要素が味方をし、ほぼ全ての行動が利となる。
どう対処すべきか、考える余裕すら与えられない。
「ごはっ!? がっ!? ぶっ!? づぁっ!?」
とうとうリーフォンの攻勢が崩れた。
周囲を囲む門人たちから、次から次へと術力をぶち当てられる。
打たれて跳ね返り、打たれて跳ね返り、打たれて跳ね返り、打たれて跳ね返り——
やがて、最後の正拳突きを喰らい、地に倒れた。
「うぅっ……くそっ……」
意識はある。戦意もある。しかし体力はもうほとんど無い。
勝敗はすでに決した。
けれど、メンツを潰された側としては、なおも治まりがつかない。
「ほら、何寝ているんだ? とっとと立て」
リーフォンの髪と両腕を掴み、強引に体を上げさせる門人達。
さらけ出されたリーフォンの胴体に、術力を込めた拳が叩き込まれた。
「ぐふっ! がはっ、ごほっ! ぅほっっ……!」
胃の中がでんぐり返るような衝撃に、吐き気を催す。
殴った奴を睨む。……リーフォンが最初に蹴り飛ばした男だった。静かだが剣呑な怒気をその厳つい顔に浮かべている。
「おい、まだ気ぃ失うんじゃねぇぞ。まだこっちは殴り足りねぇんだから——なっ!」
「がほっ!」
再び拳が突き刺さる。吐き気の混じった鈍痛。
武法は肉体の潜在能力を解放する武術だ。それなりに鍛錬を積んだ武法士の各種器官は、普通の人間より遥かに頑丈である。よほど危険な技でない限り、そう簡単に死んだりはしない。
だが、苦痛は感じる。
何度も何度も浴びせられる術力には、リーフォンが意識を失うギリギリのところで加減がされていた。いたぶろうという意思が嫌でも感じられた。
「ち……ちく、しょ…………」
悪態すら満足につけない。
情けない話だった。
好きな女の前で醜態を晒し、苛立ちに振り回されて大流派に喧嘩を売り、果てにこのザマである。
自分は恥を何重に塗り重ねれば気が済むのだろう。
意識が朦朧としてくる。痛みさえ感じなくなってくる。
武法士として、男として、気持ちが死にかけた、まさにその時。
「うわっ、なんだこの小娘っ!? いきなり何をっ!」
「うるさい! 誰が小娘だ!? ボクは男だぁっ!」
「どほぉっ————!?」「ぐおぉぁ————!?」「うわぁぁっ————!?」
聞き覚えのある声とともに、三人の叫びが一度に轟いた。
リーフォンは自分を囲っている門人達の隙間から、声のした方向を覗いた。
「のぉぉ————」「ほぎゃぁ————」「ぎゃぁす————」
さらなる三重の叫喚。それとともに、三人の門人が一気に左右に弾き飛ばされる。
その三人が弾かれ、明らかになったその人物の姿を見て、薄目になっていたリーフォンの双眸が一気に見開かれた。
「
誰あろう、それは自分に大恥をかかせてくれた、憎き小柄の美少年だった。
門人達の隙間越しに、二人の視線がぶつかる。
「おい! リーフォン、無事かっ!?」
リンフーのその叫びを聞き、リーフォンは一瞬その意味を分かりかねた。
無事か、だと? なんだその助けに来たかのような口の利き方は? なぜ助けに来た? 呼んでもいないのに。お前だって俺が大層ムカつくはずだろう? 何故?
言いたいことがたくさんあり過ぎて、かえって口から何も出てこなかった。
そうしている間にも、女顔の美少年は門人達の人だかりを着実に掘り進んでいき、やがてリーフォンのいる場所へとたどり着いた。
リーフォンを掴んでいた連中が警戒して拘束を解き、リンフーと距離を取った。
支えるものを無くし、倒れようとした満身創痍のリーフォンを、リンフーが受け止めた。
すぐ近くに、あの女々しい顔立ちがあった。間近から見るとさらにその顔の整い具合が分かる。石膏のようにきめ細かな肌。大きな瞳の上を縁取る長い睫毛は、弓形に反って一律に整っている。鼻筋もほどよく通っており、桜の花弁のような薄い唇。そこらへんの女よりよほど麗しい造作をしていた。
その端麗なかんばせに必死の形相を浮かべながら、そいつは言った。
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」
リーフォンはかすれた声で尋ねた。
「貴様……何の、つもりだ。俺に、貸しでも……作りたいのか」
「うっさいこの馬鹿阿呆間抜けすっとこどっこい! お前のためじゃないぞ! 誰がお前のためなんかに率先して動くもんか、ばーか!」
子供のような罵倒をまくし立てるリンフー。
言い返せなかった。あまりに予想外すぎる返し方に、リーフォンは呆気にとられていた。
「おい小僧っ! 貴様何のつもりだぁ!? 俺達【奇踪拳】の邪魔をするのかぁ!?」
その叫びを皮切りに、周囲の【奇踪拳】の門人達が、口々に罵声を投げてきた。
リンフーはそれらに対し、喝破した。
「やかましいっ! 一人相手に
周囲の怒号の勢いがさらに増した。
「おい女顔の小僧! 我々【奇踪拳】と敵対する気か!? そのボロ雑巾の味方をするということは、そういうことだぞ!」
「ああ、するさ! 見て見ぬ振りをするくらいなら、お前ら全員と喧嘩してやる! さぁ、派手にぶっ飛びたい奴からかかって来いっ! お前らまとめてボクの武勇伝に加えてやる!」
拳を握りしめ、戦意をみなぎらせたリンフーがそう叫ぶ。
この大集団を前にして、少しも怯みを見せていない。
リーフォンを道の端に運んでから、再び【奇踪拳】の門人たちと相対したリンフー。
その後ろ姿に、かすれた声で呼び掛けた。
「やめろ、馬鹿者……死ぬ気か……!」
「うっさい。死にかけの奴に言われたくない。黙って休んで見てろ」
「ふざ、けるな……誰が貴様に、借りなど作るか……!」
「うっさいっての!」
リンフーはぴしゃりと断じた。
「借りなんか気にするな。お前のためにやるわけじゃないんだ」
語り口が、悠然と、堂々と、はっきりとした響きを持つ。
「ボクがここに来た理由は、たった一つだ。——
その声は、偽りのない強い意思の響きを持っていた。
リーフォンは、自然と傾聴していた。
「ボクも、お前と同じなんだ。こうやって馬鹿なことやって、こうやって人に助けられてる。ボクも、その人みたいになりたい。武法の世界の英雄の真似事をたくさんして、本当に英雄になるための最初の一歩を踏み出すために、お前を助けてやる」
心の奥底で、熱が生まれるのを感じた。
「お前はそこで、黙って見てろ」
そう言って、小さな英雄は悠然と歩き出し、止まった。
己を取り囲む多勢。
——リンフーはそれに臆していないように見えて、内心では緊張を抱いていた。
一人で多勢と戦った経験が無いからだ。
さっきまでは不意を突いたから大勢を一気に蹴散らせたが、明確に「敵」と認識されてしまった今、どれだけ戦えるか分からない。
しかし、もう退くつもりはなかった。
四肢の震えを、語気を強めた名乗りでねじ伏せた。
「そういえば、名乗ってなかったな。——ボクは【
じゃりっ。全員が靴を鳴らし、臨戦態勢をとる。
張り詰めた場の空気。
それが、一気に弾ける——
「待たれぃ」
——寸前に、幼い少女の声によって静止させられた。
声の主の姿は見えない。
だが、従わざるを得ないと思わせる「何か」が、その声には含有されていた。
全員が固まり、沈黙していると、
「——この勝負、一時中断するのじゃ」
リンフーの隣に、白銀の幼女の姿が
「っ——!?」
心臓が胸郭を突き破らんばかりに跳ね上がった。
(何だこのチビっ子!? いつからここにいたんだ!?)
リンフーのその恐慌はもっともであった。
先ほどまで、リンフーの隣には誰もいなかったのだ。
そこへ、まるで
今なおバクバクとうるさく鳴る心臓の音を実感しながら、リンフーはその幼女の全体像を確認した。
全体的にほぼ真っ白な幼女だった。
肩の位置で切り揃えられた銀髪と、鏡面のような銀眼。幼さあふれる顔貌に浮かぶのは、愛嬌がありつつもどこか油断のならないしたたかさを秘めた微笑み。
衣装は白と青を基調とした配色で、ゆったりとした袖と裾は二の腕と太腿の中間で途切れていた。そこから伸びる細い手足もまた、発光せんばかりに真っ白な肌をしていた。
こうしてまじまじと見ると、やはり幼い。軽く目算しても、年齢は十二歳ほどだろう。
だがその真っ白幼女からは、幼さを超越した、神々しさのようなものを感じた。
白い幼女がリンフーを見上げる。戸惑いの表情を浮かべる美少年の顔を鏡面じみた瞳がくっきりと映し、その小さい口元に猫のような笑みが浮かんだ。
「きゅっふふふふふ。しかと聞いたぞ、おぬしの啖呵。きゅふふふ、まだ成人もしていないであろう小童のくせに、勇ましい限りじゃ。あと百歳ほど若かったら惚れておったわい」
その声は幼いが、舌足らずではない。明確な発音と、泰然自若とした意志の強さがあった。
リンフーが今なお当惑から抜け出せずにいると、【奇踪拳】の門人の一人から、かしこまったような声が投げかけられた。
「……
「よさぬか。もうわしは師範の座を返上して隠居の身。今は
白い幼女は悠々と言った。
——
【
その歩法の精妙さは大陸随一とされ、数々の武勇伝を轟かせた、生ける伝説。
さらに、惺火と同じ【
そんな伝説の武法士が、今まさに目の前にいる。
普段なら、今すぐにでも握手を求めたい所だった。
だが、今まさに自分が戦おうとしていた連中が「師範」と敬う存在なのだ。であれば、この白い幼女が味方である可能性は低いといえよう。緊張せずにはいられなかった。握った拳の中が否応なしに汗ばむ。
そんなリンフーの緊張とは対照的に、フイミンは再びリンフーへ視線を映し、婉然と微笑んだ。
「大体の事情は野次馬どもから聞いておる。そこの【
リーフォンは顔を青ざめさせた。
もうだめだ。自分の愚行のせいで、父や兄、所属する鏢士たちに多大な迷惑がかかる。
ああ、いっそのこと、もうここで自刃してしまおうか。リーフォンは今度こそ本気でそう思った。
「——じゃが、その馬鹿息子はまだケツの青い若造じゃ。若者に過ちは付き物。それにいちいちマジギレして罰しておったら、世の中つまらなくなるわい。わし個人としては、今回の一件は超強烈なゲンコツ一発でチャラにして良いと思っておる」
リンフーとリーフォンは希望を見出すが、それに冷や水をかけるようにフイミンは二の句を継いだ。
「とはいえ、それでは我が弟子どもが浮かばれぬのもまた事実。武法士として、落とし所というものが必要じゃ。何より、それもまたつまらぬ」
愛らしくも老獪さを感じさせる微笑を浮かべ、フイミンは次のように持ちかけた。
「【吉剣鏢局】のセガレよ——わしと立ち合うが良い。ただしわしはめちゃくちゃ手加減してやろう。基本的に回避のみで攻撃は時々する程度、さらにその攻撃も手加減してやろう。もしわしの体もしくは衣装に傷一つでも付けることができたのなら、今回の件を不問にしてやろうではないか。どうじゃ? 悪い話ではあるまい?」
フイミンの突きつけた要求に対し、リンフーは横槍を入れた。
「ま、待ってくれ! 見れば分かるだろ!? リーフォンはもうボロ雑巾なんだ! 手加減するって言っても、あんたみたいな伝説の達人に勝てるはず——」
「——口を閉じろ門外漢。もし次さえずったら半分殺すぞ」
その銀眼から刃の光沢のような冷たい光が発せられ、絶対零度の声音が響く。
視線が質量を持って心臓に突き刺さるのを錯覚し、リンフーは背筋を凍てつかせた。
動けない。嫌な汗が肌に浮き上がってくる。横隔膜が固まって息ができない。肉体がこの銀色の【亜仙】に歯向かう事を全力で拒否している。
だが、リンフーの気は、抗う意思を捨てなかった。
落ち着け。何をビビってるんだ。ボクは何のためにここまで来た。リーフォンを助けるためだろうが。
考えろ。リーフォンを助ける最善の方法を。
リーフォンはもう戦える状態じゃない。
なら——
「
「ぬ?」
「こいつはもう戦えない。だから代わりに…………ボクがあんたと戦う。それじゃダメか?」
フイミンはうつむいた。
「きゅふっ……きゅふふふっ、きゅっふふふふふふふふふふっ」
笑声をこぼす。銀の前髪の下に隠れた顔は、愉快そうな笑みを浮かべていた。
フイミンの本当の目的は、リンフーを自分との立ち合いの場に引きずり込む事だった。
この場に現れた時、最初にリンフーへ投げかけた称賛は、世辞ではなく本心だったのだ。
面白い子供だと思った。
「雷鳴騒々しく雨は静か」。この大陸に伝わる
だが、この子供は違う。実際に行動に移してから、大言壮語を述べてみせた。
子供のくせに面白い。この子供は、いつか素晴らしい英雄になるかもしれない。
だからこそ、若い芽のうちからちょっかいをかけておきたいと思った。
「構わぬぞ、それでも。健闘して見せておくれ、小さな英雄くんよ」
真っ白な幼女の姿をした【亜仙】は鷹揚に両手を広げ、猫めいた微笑で言った。