自身が浮いたと思ったその瞬間には体は部屋の天井を突き抜け、遙か夜空に飛ばされていた。
無数の壁など容易く貫き、上空の結界に勢いよく叩き付けられる猫の体。
腹に刺さる赤い槍を抜いて傷を癒やそうとするがどうにも治りが遅く、染みるようにゆっくりと痛みが広がってくる。
(この槍は……ビンゴかよ)
傷口に手を当てて強引に治療を進めながら、ついさっき自ら立てて捨てた、あり得ないであろう嫌な予想が的中していたことに気づく。
この猫の体はただ肉体を変えた普通の変身ではない。
本体を自身の魔力に移し、己の魔力のみで器を構成し操作する
──だがそれでも。現に今、胸に刺さった赤い槍は間違いなく俺に負傷を負わせた。
そこにないものに攻撃を通す手段など限られている。少なくとも、俺が
答えを出そうとした思考の間際、考えることなど許さないかのように三本の朱槍がこちらに貫かんと空を奔る。
「久しいなぁ……朱槍ィ!!』
咆哮に連動するかのように、槍ごと黒猫を呑み込む膨大な黒。
夜空すらその色で侵してしまう漆黒の中黒猫は崩れ去り、その黒は押さえ込まれるよう圧縮され人の形を成していく。
現れたのは黒の化身。例え人とそれほど変わらぬ姿であろうと、その姿を感じるだけで震撼させた怪物。
かつてと変わらぬ装飾の服を纏い、かつてと同じように空に君臨する最悪の一人。
人の持つ闇の顕現──人が越えねばならない試練の影。
『
掌握された歴史の研鑽。こんなことで使い潰すには惜しい結界だが、俺を呼び起こした勇者には、これくらい派手な方が丁度良い挨拶になるだろうよ。
『そら、征け』
言葉を合図に結界であったものを砲門とし、数え切れないほどの黒い槍。
先ほどの赤い槍と同じような大きさから成美が苦戦した根がか細く見える程に巨大なものまで、それこそ先ほどまでの戦闘が子供のお遊びにでしかないと思えてしまう程の槍の群。
隙間など皆無、逃れることなく不可能。
すでに空に跳躍し俺の命を貫かんとこちらに向かう“朱槍”に、全ての必殺が矛先を向けられる。
──だが
今この場にいる男には
「そらぁっ!!」
手に持つ朱色の槍を一振り、たったそれだけ。
彼が持つ赤色の魔力は竜巻へと変わり嵐の赤壁を生み出し、結界内全てを巻き込みながらも黒槍をすべて吹き飛ばす。
ただの一振りでこの力とは。嗚呼、流石は朱槍。
暴風に体を撫でられながら、朱槍の魔力でこみ上げた懐かしさに心が躍るのを実感する。
自ら敷いた嵐を突き抜け、目前まで迫る朱色の矛先。
展開された黒の障壁と朱槍の衝突。衝撃は空を振るわせながら黒い檻の中を容赦なく蹂躙し、屋敷の残骸を空にまき散らす。
互いが少し後ろに弾かれ、一瞬だけ生まれる膠着。
朱槍は正面から迫る三つの特大魔力弾を貫きながら、今度は外さないと一直線に空を駆ける。
『──堕ちよ』
六重に重ねられた障壁を貫いた槍を最小限の動きで上に避けながら、
一瞬の抵抗の後、弾かれたかのように一直線に空から墜とされる朱槍。
つい先程まで屋敷があったはずの場所。その大地にぽっかりと開いた大穴に吸い込まれて見えなくなる姿を確認しながら、ゆっくりと空を降りていく。
やがて見えたのは成美を置いてきた白い大部屋。
天井は無く壁の至るところに罅が入っているが、まあ部屋と呼べなくもない空間。そんな場所の、今にも崩れ去りそうな地面に出来た巨大なクレーターの中心に男が一人転がっていた。
『とっとと立つが良い。この程度では遊びにもならんだろう』
男のすぐ側に着地し、何故か見当たらない成美を探しながら声を掛ける。
ゆっくりではあるが、確かにここから離れるように動く点が二つ……成程、早速部下に救われたか。
ならば気にする必要はないか。
どうせこちらもすぐに終わるだろうが、もしもがあると気にする余裕はないだろうからな。
『どうした
「……いやなに、相変わらずえげつない力だと思ってね。……いしょっと」
予想通り、まったく堪えてないと言わんばかりの軽い応答をしながら立ち上がる朱槍。
逆立った赤髪と赤い瞳の右目。一目で分かる強者の風格を持ちながらも爽やかな美丈夫こそ、まごうことなきその男で間違いなかった。
「元気そうだね
『白々しい。
「まあね。一応確認だよ、確認」
輝く右目の近くを小突きながら、むかつくほど爽やかに笑う朱槍。
まあこんなあっけらかんな態度で言ってるが、腹の中では可能なら仕留めておきたかったとか思ってるだろうな。
あいつの目は
あれならば仮初めの体の核を見抜き、僅かな魔力の隙間にその槍を通す事も可能なこれ以上なく鬱陶しいものだ。
「──それにしてもやっぱり生きていたんだね。予想が当たって本当に残念だよ」
『……疑っていたか。これ以上なく完璧な幕引きであると自負していたのがな』
「信頼さ。見ていたわけじゃないけど、まあ直感でね」
直感でばれかけるとかちょっと自身なくすなぁ。
まあ信頼とかほざくこいつの主人公的直感が可笑しいだけ。基本的には疑われてもいないだろうし気にしても仕方がないか、うん。
『それで? 何か話があるんじゃあないのか?』
「おや、わかるのかい?」
『あれほど手を抜かれては明白というもの。如何に我とて無視するわけにはいかないだろうよ』
疑問を問いただせば、案の定さっさと槍を納めて警戒を解く朱槍。
どうやら正解だったらしい。まああんまり手を抜かれているから舐められてるのかと思うくらいには、あからさまな手の抜き方だったしな。
その証拠に、衝突の余波で結界が割れなかったのだ。
いかに俺が力を注いだからといって、俺とこいつが本気でぶつかれば被害は甚大。あの程度の薄膜なぞ、ガラスのように容易く崩れ去るはずだ。
「選り好みの激しい君にそう評価してもらえるとは嬉しいね。良いことあるかな?」
『早く話せ。ぶつけるぞ』
「ごめんって。そんなに怒んないでよ」
本気で魔力を込めた黒球を出すと、やっと態度を改める朱槍。
いちいち油断を誘おうとしやがって、相変わらず油断を許さない嫌な奴だ。
「とはいっても大したことじゃないんだ。神月祭では暴れないで欲しいってだけの話なんだよね」
『……何?』
朱槍の頼みは俺の思考の外にあるもので、少しばかり噛み砕くのに時間を要した。
神月祭? 一体どうしてそんな名前が出てくるんだ?
「今年の神月祭は、日国の歴史においても類を見ないほどに荒れかねない。
『……仮に企てがあるとして、俺に聞いてやる道理があると思うか?』
「対価は払う。君が自分から世に出るまで、君とあの少女──
つまりそれほどの何かが起きるということ。英雄協会最強の
、目の前の悪を見逃してもなお対処しないといけない程の災いが訪れるってことだ。
念のため、心を見透かして真偽を計るが嘘はない。
偽ることも可能だが、それにしては綻びがないのでこの言葉に関しては確かに真実なのだろう。
『天下の朱槍が
「ないね。ご執心だった
……なんでこいつ、こんなに知ったような口聞けるんだろう。
あの目は思考とかも読めたりするのかな。いかに魔眼の力であろうと、外以上に防壁張ってるからそこまでわからないはずなんだけどなぁ。
「頼むよ
そんな関係でもないのにえらくなれなれしい朱槍を鬱陶しく思いながら脳を回す。
百の確証はないが、ここで断れば間違いなく茶番は終わりになる。そうなれば、どちらかが倒れるまで潰し合うのは言わずもがなだ。
俺単体ならそれでも構わない。この自分勝手な人の希望に倒されるのならそれも一興、それはそれで趣きがなくはない。
だが、それをしてしまえば被害は甚大になるだろう。
俺らが本気でぶつかるということ。それは日国はもちろんのこと、
社や
そうなればいよいよ世も末。最悪の場合、この世から生き物が消え失せるなんてことに負の連鎖に繋がりかねない。
──嗚呼、それは実につまらないな。
せっかく成美の成長が面白くなってきたところなのだ。こんなくだらない提案で無に帰すのはあまりに馬鹿馬鹿しい愚行だ。
ならばこの場は抑えてやるのが師の務めというもの。
もし反故にするのなら、その時は教会ごと潰してやれば良いわけだしな。
『……良いだろう。この場は互いに見ていない、そういうことにしてやろう』
「助かるよ」
『気にするな。俺とて目的あって故、少し都合が良いのだ』
周辺の魔力を戻し、結界を元あった形に修復しながら戦闘態勢を解く。
……終わりだな。ならとっとと帰って、あいつが生きてるかの確認でもしに行かなくっちゃな。
「……しかし驚いたな。まさか君に部下が出来るなんて。あんな年下の小娘に斗有を奪われるとか、
『戯れ言をほざくな。
「……地雷かな。これ以上は当人同士、踏み込まないから安心してよ」
一瞬、感情のままに膨れあがろうとした魔力の渦を抑え込む。危ないな、危うく今までの会話を全部無視して戦闘始めるところだった。
巫山戯たことを言うものだ。あの
あれか、怒らせるために挑発か。
それなら乗ってやるぞ赤色。その腐った
これ以上気分が損なえば本当に我慢できなくなりそうなので、成美の位置を正確にして転移の座標を定める。
『最後に聞かせろ。神月祭で何が起こる? 貴様が警戒する程の事態とは何だ?』
転移を発動させる直前、天気を聞くくらい適当 な感じで気になっていた質問を投げかける。
答えなくても別に良い。だがまあ知れるのならちょっとは興味あるし、面白そうなら見学にでも行きたいしな。
「……殺神だよ。
転移を実行し、場を離れようとした俺に届いた最後の言葉は実に面倒事の予感がした。