誰もいない路地裏。人は愚か、監視カメラや猫の気配すら微塵もない静寂の空間。
そんな人の営みの日陰に突如として降り落ちる流星。揺れることなくただ潜むだけの場を照らす蒼の滴が一滴。
見ているだけで吸い込まれそうな青髪をなびかせる様はまさしく流麗。
透き通る紺碧を見せる刃は、彼女が自らをそのまま示すかのように美麗に光を放つ。
「……はあっ」
青色の少女──
思い返すのは忌々しい一人の
最初に
認めるのは癪だが、一度私から逃げ果せる程には頭の回る
だが、あの女は私の想像を上回る速度で成長を進めていく。
そうして先日まで逃げることしか叶わなかった小娘が、私よりも遙かに劣っていたはずの少女はついに反撃し、小細工なしに逃走を成功させてきた。
──嗚呼忌々しい、腹立たしさでどうにかなってしまいそう。
あの目、私の心をざわつかせるあの目つきが何よりも気に入らない。
同じクラスにいる不真面目な少年と同じ瞳。ほとんどの人間とは違う、自分を
それはあの人が唯一していい目だ。
あの人が、私に気づいてくれたあの方だけが向けてくれる私にとっての救いの証だ。
害なすだけの虫けら風情も、救われるだけの
どちらもすべからく大嫌いだ。あの人がいなければ、あの人と約束しなければ、助けも守りもしたりはしない。
だってそうだ。その身勝手な都合一つで、あの人の心は擦り切れてしまったのだから。
……余計な思考、あの人に会うには醜過ぎる雑念だ。
ぐるぐる回る負のスパイラルに区切りをつけ、懐から取り出すのは小さな金色の鈴。
ちりんちりんと三度鳴らせば、その数響く鈴の音。
心に染み込む暖かい柔音と共に、その音で揺らされた目の前に大きな歪みが現れる。
水滴の垂らされた水面のように、波紋を靡かせ微弱に揺れる偽りの
相変わらず凄い技術だと舌を巻く思いになりながら、彼女は躊躇いなく体を通す。
染みこむように波紋に溶け落ちる
拒むことなく阻まれることなく通されたその先は別世界。空の色すら異なる様は、まさに絵本の想像をそのまま形にしたとすら錯覚する神秘。
白と黒で構成された世界。澄み渡る夜空に浮かぶ数多の星、そしてどこかの屋上レストランを貼り付けたような景色。
「──うん、来たね」
その中で目的の人──
夜空の声のまま、
優しくこちらに微笑む女性。白のテーブルの上に置かれたカップを取る所作さえ美しく、僅かなこと一つでも思わず見惚れてしまいそうになりそうだなと、
「一週間ぶりだね? 元気そうで良かったよ」
「は、はい! ありがとうございます!」
先ほどまでの毒々しい心根など欠片も見せることなく、まるでずっと憧れている人に声を掛けられたかかのようなたどたどしさになりながら、細かく頷く
だがそれも仕方のないこと。
英雄協会の
私ですら気づかなかったこの身の呪いに気づき、鏡越しの嫌悪に向き合ってくれた女性。
そんな彼女に敬意を抱かずにいられるだろうかと、その緊張を肯定する
普通に接して欲しいと行った彼女には申し訳ないが、そんな軽々しく言葉を掛けるなんて私自身が許さない。
「
「は、はい!」
流されるままにすぐさま魔力を体に戻し、身に纏う全ての蒼を落としていく
深い蒼を持つ髪と瞳は艶のある炭のような黒色に、戦うことを前提とした衣装はどこにでもあるような学生の象徴へ移り変わる。
「……うん。やっぱり綺麗だね。繕う必要のない透き通った宝石の眼だ」
「そう言うのは貴女だけです。多くの者が拒んだ呪いを、美しいなどとおっしゃるのは」
黒髪の美少女──
忌々しい呪われた片目。蒼の宝石を内に宿し、見るものをそのまま返す忌むべき鏡の如き魔眼。
悪意には悪意を、僅かな好意にも内に眠る悪意を。誤魔化しの許されない瞳と口は、多くの者に理解されることなく嫌悪されてきた。
自業自得だと人は言った。その通りだと私は考えた。
在るだけで毒を振りまく、身勝手で醜い汚物のような性根の自分。そんな己を全部を捨てたくなり、在るはずもない来世に託そうともした。
『──そんなことをしちゃだめだ。それでは君は一人になってしまう』
そう言ったのは、星の光をそのまま地に降ろしたかのような女性だった。
何を馬鹿なと、手に持つ小さな刃物を向けても何ら動じることなく私を包み込んだ暖かな光。
救われた。文字通り死んだような生を送っていた私に、輝ける命が宿ったのだ。
自らの呪いについて教わった。身を守るためにと、少しでも宿命に抗うために力の使い方を教わった。──
数え切れないほどの恩だ。すべてを捧げてもなお足りぬ、それほどのものを私は与えられた。
だからこそ私は
「──それでどう? どこか怪我はないかい?」
「特には。今週は三体と少なかったので」
いつの間にか置かれていたカップの礼を交えながら、恒例の報告を続けていく結。
どれも取るに足らない些末事。この人の時間を使ってしまうにはあまりにも無駄極まりない報告ではあると思う。
けれどこの人はそれを認めない。まるで割れ物を扱うかのように、私の話一つ一つに心を揺れ動かされながらも、それでもその機会をなくすことだけは許してはくれない。
私にはとんと縁のないことだけど、過保護な親っていうのはこんな感じなんだろうなと思う。
申し訳ないとは思う。けれど不思議なことに、鬱陶しいとか面倒臭いとか後ろ向きな気持ちは起きなかった。
「……約束は守ってくれているね。嬉しいよ」
「当たり前です! 私が貴女に背くなんて、例え天が返ってもありえないことです!!」
結にはしては本当に珍しく、夜空の前で大きな声を上げながら言葉を返す。
「それなら良いんだ。……今の私は守ってあげられるかわからない。だから絶対に、絶対に無理はしちゃいけないよ」
「……わかっています。以前のような失態は二度とする気はありません」
「……そっか。ならこの話はおしまいにして、もう夏休みになったんだっけ?」
少しだけ寂しそうに笑みを浮かべ、すぐに元通りの笑顔に切り替える夜空。
どうしてそんな顔をするんだろうか。もしかして、何か不快にさせてしまうことがあったのだろうか。
そう困惑しながらも、不安は心の中に押しとどめて結は話を続ける。
既に夏休みの宿題は終えたこと、人と顔を合わせる機会がないので比較的心が楽なこと。……そして欲しい猫のキーホルダーのためにガチャガチャを回しすぎたことみたいな、本当にどうでも良いことまで話していく。
綺麗な星の下にしては欠片も風情のない会話。
けれど、夜空は楽しそうに聴き続けていく。遠くから見れば、仲の良い家族が話しているようにしか見えなかった。
「……ふふっ。それで結局、その猫は当たったのかい?」
「はい。少しばかり痛手でしたが、それでもしっかりと獲ることが出来ました」
二人の笑みと共に、話は和やかに進む。
ふと携帯で時間を確認すれば既に十九時になろうとしており、気がつけばもう終わりの時間が近づいていた。
「……楽しい時間程経つのは早いね。そろそろお開きにしようか」
夜空は立ち上がり、指で軽く空を叩くと現れる波紋。
星鈴はあくまで鍵に過ぎない。彼女にとっては庭同然の世界──それ故、来るも拒むも彼女の次第でしかない。
嗚呼、やはり遠い。
どれだけ進んでも辿り着かない果ての果て──人が求める
追いつきたいと願いながらも、それが果てしない難業であることを自覚させられる。
それが彼女と私の距離。──世界最高と
「一つ、聞いても良いですか」
「? なんだい?」
「あそこの席。なんであそこはずっと変わらないんですか?」
広大な夜空の世界を眺めていると、ふと疑問を零れる。
何人たりとも立ち入ることのない彼女の聖域。意のままの空間故に、そこにある手間が違和感となる。
空に最も近い場所、最も景色の良い場所にぽつりとある二人席。
思い返せばいつだってそこにあった。訪れる度に異なる配置の中、そこだけは変わらずに固定されていた。
──まるで思い出の写真をそのまま再現したかのように。
忘れたくない記憶を刻みつけるかのようにずっと存在するその席が、今になってようやく気になったのだ。
思い悩む夜空。
波紋は消え失せ沈黙が場を包み込んだのを理解すると、すぐ結は自らの失言を後悔する。
まずい、聞いちゃいけないことだった。触れてはいけない大事な場所だった。
見放されたらどうしよう。嫌われたくない。どうしようどうしようどうしよう──!!
「あ、あの──!」
「大丈夫。なんてことないから、落ち着いて」
パニックに陥りながら訂正しようとする結を気遣う夜空。
夜空はゆっくりと、ゆっくりと時間を掛けて結を落ち着かせていく。
「ごめんね。変に悩むことじゃないのに、私が動揺しちゃったから気を遣わせちゃったね」
「い、いえ! 聞いた私が悪いんです。だから私が全部──」
「聞いちゃいけないなんてことはない。少なくとも、私は結が聞いてくれて嬉しいよ」
彼女は実に懐かしそうな顔でその咆哮に視線を移す。
「……失恋、或いは後悔かな。私が誘って断られた、それだけの話なんだよ」
その場所を見ながら思い出を言葉に変えていく夜空。
懐かしむように、後悔を滲ませるように。その短い一言には言葉にしきれないくらい様々な想いが詰まっていると結は感じた。
「……不思議と噛み合う奴でね。気がつけば私は彼を特別だと、誰よりも側にいたい存在だと想ってしまったんだ」
断られたけどねと、そう言った夜空は失恋に悲しむ少女のよう。
その時だけはいつもの頼もしい姿はなく、私と同じように弱さを見せる人の姿があった。
きっと、私ではどうすることもできない。
人と心を繋げない逸れ者。疎まれながら生きてきた私には、誰かの心を救うことなどできないのだから。
「……さ、そろそろ解散だ。次に会うのは来週……神月祭の直前だね」
「そうですね。……あの」
「……ん? どうしたの?」
「……いえ。なんでもないです」
ふと湧き出ようとした黒い欲望。
彼女が与えてくれた生き方を放棄して一緒に祭りを回りたい、そんな自分勝手で醜い願いを抑えつけながら
最後に見えたのは彼女──星崎夜空の優しい笑顔。