曇らせフェチの曇らせフェチによる曇らせフェチのための女騎士 作:赤桃猫
それと今回はちょっと長いです。一万字いってますので、ゆっくりできる環境で読むことをお勧めします。
フェネル先生、と。
私は彼女のことを、多大な敬意を込めてそう呼んでいる。医者だからというのも理由のひとつだが、一番の理由は他にあった。
「早速だけれど、話をしましょうか。──楽しい楽しい、お仕事の話を、ね?」
陰湿に吊り上がる頬。享楽に蕩ける瞳。
彼女は、欲望に染まった顔で私を見下ろしていた。
私はこの顔をよく知っている。
他者の不幸が心地よくてたまらない、人の苦しむ様が好きでしょうがない。
これはそんな、どうしようもない
そう、要するに──フェネル先生、マジリスペクトということである。
騎士団お抱えの医者、そして元騎士という経歴を持つフェネル先生。しかしてその正体は──なんと、暗部の『責任者』と呼ばれる存在なのだ。
先生が私たちのように直接動くことは殆どない。
普段は医者としての顔しか見せず、実際に多くの騎士を彼女が治療してきた。
その実績と積み上げた信頼は確かだ。だがその裏では、暗部の長として私や他の仮面騎士たちの元締めを行っている。
言ってみれば、そう、彼女は全ての黒幕のようなもの。うーん……格好いいです、先生。
そして先生がこれ見よがしに掲げるのは、見慣れた黒い紙。暗部の人間へと秘密裏に届けられる指令書だ。
本来、トップである彼女が私に直接渡すべきものではない。だが、この紙そのものが次の
それが、『セレン』の心をじっとりと傷付けてくれるのだと理解しているからこそ。
流石フェネル先生。人を曇らせる方法をよく分かっていらっしゃる。
「……はい、フェネル先生」
私はそれに対して、理想の反応を返すだけだ。
虚ろな目に、感情を感じさせない声。この世の全てに絶望しているような雰囲気を滲ませて。
そうして、傍から見れば愉悦に顔を歪める悪女と、その哀れな被害者という構図が出来上がるわけだ。
私も先生も大満足。これぞウィンウィンというやつだね!
「さて、今回の件に関してですが……少し、
フェネル先生は悪辣な顔を一旦潜め、こめかみに指を当てる。『厄介』というその言葉をわざとらしく強調すると、意味ありげな目で私を見た。
「襲撃があったのは例の地区の裏通り。犯人の顔はおろか、服装といった特徴まで誰も見ていない……」
囮らしき窃盗犯というのも行方知れずですし、と眉を歪めて困ったような顔を浮かべる先生。その姿だけを切り取って見れば、まるで他愛もない悩み事を抱えているような、それくらいにありふれた表情だろう。
無論、目の前に死んだ目で立ち尽くす
「ああ、それに。噂が広がっていますわ。さる騎士が白昼堂々と何者かに襲われた、と」
「それは……」
そう言われ、事件があった時の事を思い返す。
あの時、私たちの周りには多くの一般人がいた。負傷したモナちゃんをその目で見た者は、かなりの数になるだろう。
その彼らを中心に、『騎士が襲われた』という噂が拡散されていたとしてもおかしくない。
「既に、隠しきれないほどの大事になっていますわ。民も、騎士たちも、一刻も早く下手人を白日の下に晒すことを望んでいる」
それも事実なのだろう。
実際、今の騎士団は犯人を見つけ出すことに躍起になっているようだし。
街の人々にしても、自分たちを守る存在が襲われたとなればその不安は計り知れない。
護国の象徴たる『騎士』が襲われるということは、それくらいに深刻な問題なのだろう。
そこまで考えて、彼女の言わんとすることを薄々察する。
つまるところ──この件は秘密裏に『なかったこと』にはできない、ということ。
色々と後ろ暗いことばかりやっている暗部だが、それでも私たちは『影の存在』だ。
疑わしきを罰する。不利益な存在を誰にも知られることなく抹消する。それがモットー。
つまり、そう。私たちの活動は人知れず行われなければならない。
だからこそ逆に、私たちは
「ですので、今回は少々特殊な事例になりますわ。あくまでも、『騎士団が解決した』という事実が必要なのですもの」
「では、私たちは──」
暗部として何かをする必要はない、と微かな希望を抱く『セレン』の唇を、フェネル先生の細い人差し指が遮った。
私が言葉尻を飲み込み黙るのを確認すると、先生は軽く頷き──花開くような笑みを浮かべた。
「それでは、あなたは満足できないでしょう?」
甘く蕩けるような声で彼女は言う。
そのあまりに蠱惑的な仕草に、私は思わず身震いした。
一緒になって嗤いたいのは山々だけど、それはできない。熱を帯びていく下腹部から極力意識を反らしながら、『
その反応を、先生はお気に召したようだ。彼女の笑みはますます深っていき、唇が弧を描く。
「憎いのではなくて? あなたの大切なお友達を傷付けた、犯人が」
「そ、それは、当然……許せない、です」
拳を握り締めて俯く。ほんの僅かに、怒りを含めるように喉に力を入れる。
だがそれは、理性的な怒りだ。真面目なセレンらしい、私情を抑え付けた上での情動だ。
「絶対に見つけ出して、捕まえます。で、でも、それは『騎士』としてでも──」
「──違うでしょう?」
『セレン』の反論を、フェネル先生が遮る。悪辣な笑みはそのままに、しかしその瞳に絶対的な
間違っていると、そうではないと。反論を許さぬ強い声で。
「先ほど、あの矢に殺意はなかったと言いましたわね」
黙り込む私を見ながら、フェネル先生は目を細める。
そして、問題への答えを示すように指をピンと立て、
「ですがそれは、逆に言えば『どちらでも良かった』と捉えられますわ」
「──え?」
堂々と、当たり前のように──先生は言い放った。
「生きていても、死んでいても結果は変わりない。……であれば、元よりそこに殺そうという意思は介在いたしませんもの」
あまりにも無根拠な推測だ。冷静に考えれば、すぐに気付くであろう暴論。だが、先生の有無を言わせぬ語調は、まるでそれが真実だとでも言うようにするりと耳に入る。
「一歩間違えれば、あの子は死んでいた。それはあの場にいたあなたの方が理解しているのではなくて?」
「う、ぅ──」
まるで毒だ。
耳から入り込み、少しずつ精神を蝕む遅効毒。
思わず『私』でさえも、それが真実なのだと錯覚してしまうほどの甘い声。
それがじわじわと、紙にインクが染み渡るように心を侵食していくようで。
これが『セレン』であったならば、きっと為す術なく侵されてしまいそうだと確信するほどだ。
「その上で、もう一度聞きますわ」
先生は私の肩に手を置き、顔を近付ける。彼女の歪んだ笑顔が、私の視界いっぱいに広がる。その鈍く輝く瞳には、私以外を写さない。
そして、先生の弧を描く唇が開かれる。熱く湿った吐息が漏れ出て、私の頬を擽った。
「あなたは──犯人が憎いでしょう?」
「───」
その囁きが鼓膜を震わせた瞬間──脳の裏側が痺れた。
そう錯覚するほどの絶頂と興奮が、一気に全神経を駆け巡る。
声を上げることさえ叶わない。視界が明滅し、血管の熱が下腹部へと密集する。
端的に言って、私はイった。
質問の内容は先ほどと全く同じ。だが、彼女の口から発せられる『憎しみ』という言葉は、単純な意味を越えている。
そう、これはもっと色濃く、醜く、どす黒い感情。
つまるところ──
「な、にを──させるん、ですか」
辛うじて喉を震わせ、声を絞り出す。
ほとんど興奮のせいで上手く喋れないだけだが、先生から見れば恐怖で喉が引き攣っているように見えるだろう。
ここまで勿体振った言い方をするのだ。どうにも、私に何かをさせようという意図を感じる。
折角なので酷いヤツをお願いします! とお祈りしながら、『セレン』は縋るような目でフェネル先生の瞳を見つめ返した。
「ふふ、理解が早いのはいいことですわ。あなたには……とびっきりのお手伝いをして頂きます」
先生は私の顔から離れると、最初に掲げた黒い紙をこちらへ差し出す。
そこに、今回の任務が書いているのだろう。始めから、『仕事内容』は決まっていたということだ。
震える手でそれを受け取り、
少しづつ読み進めていく内に──私は、眼前の先生に対する認識が甘かったのだと、痛感した。
「こちらに手掛かりが無いのでしたら、頼れば良い」
先生は朗々と語り出す。私はそれを聞きながら、指令書から目を離せずにいた。
場所は貧民街。目的は情報の入手。対象は、不特定。
「表は騎士が。裏はあなたたちが。けれど、貧民街の方々はみな口が堅いようですから……」
記された幾つかの単語や文章が、先生の声と入り混じって頭の中に渦巻く。
先生がやろうとしていること。私にやらせようとしていること。
その全てが、たったひとつの命令へと収束していく。
「──少し強引に、お話を伺って来てくださいませ」
先生の婉曲的な表現。それと対象に、一切の容赦なく記された『方法』。
これが、フェネル先生。他人の不幸を愛する彼女の、私へ向けたプレゼント。
ああ。なんと、素晴らしい……!
感謝、感激、歓喜、感涙──とにかく途方もない激情が、私の胸を跳ね回る。
「もし。それで重要な手掛かりが得られれば……そうですわね、直接犯人と
指令書を握り締めたまま固まる私の手を、フェネル先生がいきなり掴む。
ぱっと顔を上げると、昏く淀んだ彼女の瞳と目が合った。
先生は笑うように目を細め、私の手を引く。
「こちら側からは手を出せない。ですが、あなたには『騎士』としての顔もある」
引かれたその手がゆっくりと、先生の胸元へ押し付けられる。
その場所が示すのは、彼女の心臓。どくどくと脈動する感触が手のひらに伝わり、そこに命の核があることを思い知らせているようで。
その熱が、私の手から腕を伝い、そしてお腹の芯へじっとりと響く。
「であれば、あなた自身の手で──報復、というのも可能かもしれませんわよ?」
「ぁ、っ……」
ありがとうございます! ありがとうございます!
感極まって叫びそうになるのを、寸でのところで我慢する。
だが、どうしても堪えきれない。これは今までとは別のベクトルだ。そう、レベルが違う。桁が違う。
ただひたすらに『セレンを曇らせる』ことを目的とした話術。
これに、興奮せずにいられるワケがない!
「あらあら、震えているのですか? ふふっ、いじらしいですわね……」
先生は目敏くそれを察したのだろう。ふいに私の顔へ手を伸ばし、頬をさする。その手がゆっくりと横に滑り、髪の毛へと触れる。
わしゃわしゃ、わしゃわしゃと。くすぐったくなるくらいに優しく。まるで犬を愛でるかのような手つきで私の髪を弄ぶ先生。
その目に宿る感情は、明らかに人間に対して向けるべきものとは違う。
まさしく
先生の目に写っているのは、従順で可愛らしい小動物。或いは震えて縮こまってばかりいる、哀れで愚かな家畜。
なんて、なんて──最高の気分なのだろう。
先生に触れられた頭が、暖かな感覚に包まれる。茹だるような熱が脳を満たし、思考が蒸発してしまいそうになる。
勿論、ここで喜んでいる姿を先生に見せるわけにはいかない。そんなの、興醒めもいいところだ。
息を荒げ、目を見開き、両の眼を震わせる。半開きの口端から涎を溢せば、心が潰れる一歩手前の少女が完成だ。
興奮と恐怖は表裏一体なのである。知らないけど。
「……ふふ、失礼しましたわ。あんまりにも健気なものでしたから、つい愛でてしまって」
それから暫く先生の愛玩を堪能していると、私の頭から手が離れていく。
見れば、先生は実に満足げだ。心なしか医務室で会った時よりも生気に満ちているというか。その目の輝きが、より一層強まっているというか。
ちなみに私も大満足である。当然だよね!
「そろそろわたくしはお暇いたします。──期待していますわよ、セレン」
フェネル先生は再び私の顔に近付き、その額に口付けした。
そこに愛情などあるわけがない。それはまるで、己の所有物なのだと示すような、偏執を感じさせるキス。
そして最後に私の頭を一撫ですると、先生は背を向けて部屋を出た。
「……では、ごきげんよう、私の愛しいセレン?」
先生は振り向き、優雅な一礼をするとゆっくりと扉を閉め始める。その間も、彼女は私から一切目を離すことはない。
少しづつ閉まる扉の隙間から、じっと。紙一枚ほどの幅が埋まるその瞬間まで、先生の瞳が私を見詰め続けていた。
「───」
完全に扉が閉まり、足音が遠く離れていく。
長いようで短い対話。実に濃密で、有意義だった。
興奮を最後まで隠し通せたのは、私が今まで築き上げてきた『セレン』という強固な仮面の賜物だろう。
私は扉に鍵を掛けると、念のため扉に耳を当てる。一人分の足音が確かに反響し、フェネル先生が遠ざかっていくのを確認する。
「ふぅぅ……」
それからさらに数秒。音は遠く霞んでいき、やがて静寂が満ちる。どうやら先生は行ったようだ。
ここまで積みあがった全ての熱を口から吐き出し、私は振り向いた。
……それじゃあ、早速──
「ふひひゅっ」
とりあえず、この興奮が冷めぬ内にベッドへとダイブした。
──せめて一発抜いとかないと、落ち着かないからね!
◆
朽ちた家屋の一室。クーシャの目の前で、椅子に縛られた男が何事かを叫んでいた。
泡を吹きながら捲し立てられるその言葉は、もう殆ど形を成していない。
辛うじて聞き取れたのは、既に幾度も聞いた「知らない」、「助けてくれ」といった単語くらいのもの。
だが、この場に居る誰もその言葉に耳を貸すことはない。
当然だ。男を囲うのは、彼に苦痛を与え続ける張本人たちなのだから。
男の側に立つ『影』が、彼の指先を押さえ付ける。暴れ回ろうとする腕をものともせず、『影』は指と爪の間にずるりと
絶叫が木霊する。これで都合三度目。
果たしてこれらの行為がどれほど惨いのか、程度を知らないクーシャにとっては、計りかねる。
──拷問。その行為に立ち会うのは、クーシャにとって初めてのことなのだから。
良い気分はしない。だが、極度に不快感を覚えるわけでもない。
クーシャ自身の胸にある感情を率直に表すならば、無関心。
目の前の名も知れぬ男に対し、特に思うことがない。例え貧民街という同郷であっても、隣人ですらない他人に抱く感情などなかった。
だって、そんなものよりも、今のクーシャにとって大事なのは──
「セレン、大丈夫?」
自身の横に立つ、優しい友達なのだから。
「ええ、大丈夫……私は、大丈夫です」
セレンはかくかくと首を揺らして頷く。その不安定な仕草は、とても『大丈夫』そうには見えない。
クーシャの声に応える間もこちらには目を向けず。彼女はじっと、眼前で行われる行為を食い入るように見つめていた。
まるで、己の眼にそれを焼き付けるかのように。
「ふ、くっ……」
セレンの口から微かに漏れる、呻くような声。
不規則な呼吸を何度も繰り返すその姿は、今にも倒れてしまいそうなほど危うい。
それでも彼女は、決してこの光景から目を反らそうとはしなかった。
どうして、そこまで苦しい思いをしながら立っているのだろうか。思わず口を開きかけ──その疑問の答えを聞く前に、クーシャは思い至った。
なぜならば、この拷問を指揮しているのは他ならぬセレンなのだから。
騎士を襲ったという『謎の人物』の手掛かり。それを得るための、貧民街での調査。
それが、セレンから説明された今回の任務だ。
なぜ調査対象として貧民街を狙うのか、その理由をクーシャは知っている。
──貧民街の人間は、独自の
劣悪な境遇で生きる中、自然と育まれてきた同族意識。
その密接な繋がりによって、彼らの間には世間話、噂、真実入り混じるあらゆる情報が常に交わされている。
それは、決して表からは見えない共生関係の結果なのだろう。
彼ら独自の網。他所者には決して明かすことのない巨大な情報源。
その有用性は、きっと外側の人間からすればかなりのものになる。
たとえクーシャ自身にその繋がりはなくとも、貧民街に生きていれば嫌でも『網』の存在を知るほどに。
だが、そんなものを彼らが易々と外部に漏らすわけがない。
暗部の人間は外様だ。そうなれば、取れる手段は自然と限られる。
結果として行われているのが、その『網』を横合いから強引に掠め取るようなこの行為だった。
「──っ、──、───」
彼女は男の絶叫に合わせるように、幾度も肩を震わせる。
そして言葉にならない小さな悲鳴が、喉の奥から溢れ落ちていた。
貧民街の人間を捕まえ、手掛かりを
だがそれは明らかに彼女の意思ではない。誰か、セレンにそれを命令した人間がいる。
でなければ、あれほどに苦痛に満ちた反応をするわけがないだろう。
例え本意でなくとも、自分の指示した行為から目を反らさない。
その優しさと責任感がセレン自身を傷付けようとも、決して彼女は逃げようとしない。
そんなもの、あまりにも──報われないではないか。
「セレン、もういい。あなたは、休んでて」
「……いえ、これは大事なこと……ですから」
感情のままに、セレンの腕を咄嗟に掴む。
振り払おうとされるが、それでも離すまいと両手で彼女の腕を掴んだ。
「だめ。あとは、私たちがやる」
「ですが……」
強い語調で告げるが、それでもセレンは従おうとしない。
頑ななその姿勢に、クーシャはどうしたものかと頭を捻る。考えて、考えて──分からないので、とにかく口を開いた。
「騎士を襲った、犯人、捕まえる……だっけ」
「──っ」
その言葉に何か思うことがあったのか、セレンの拒む力が和らぐ。
どうやら効果があったようだ。
彼女は暫く悩むような素振を見せ、ようやくクーシャの方を向いた。
「……クーシャさんにとっては、乗り気ではないですよね」
「うん、あんまり」
元より自分たちが騎士団の駒であることに変わりはない。
今まで行ってきたことは全て、間接的に騎士団の益となっているのだろう。
だが、こうも直接的に騎士共を助けるような任務となれば、あまり良い気分がしないことは確かだった。
「あんなの、別にどうなっても、いいから」
「そう──ですか」
一瞬、セレンは言葉に詰まる。
騎士は嫌いだ。クーシャにとってその認識が変わることはない。だが、セレンはどうにもその限りではないらしい。
何か事情があるのだろうか。しかし、これ以上踏み込むのは気が引ける。
──過去は人それぞれ。セレンが何者であっても関係ない。
過去に自分が告げた言葉を思い起こす。
思い詰めたように何かを言おうとしたセレンを、そう止めた。
無理に明かす必要はないと言ったのは自分自身だ。だというのに、それを詮索するようなことはしたくない。
だが、そうでもしないとセレンを動かせそうにない。
聞くべきか、やめるべきか。踏み込むか、それとも、それとも──
「──っ、なに?」
クーシャの葛藤を搔き消したのは、大きな物音だった。
何か、重い物が落ちるような音だ。
セレンも気が付いたのか、その肩がぴくりと跳ねる。
「今の音、何の……」
音の出所は背後──部屋の入口。そこには念のため、見張りの『影』が立っていたはずだ。
何かあったのだろうか。セレンと軽く目を合わせ、振り向く。
「───」
そこに、人が立っていた。
黒いローブに仮面の姿。一瞬、仲間だと思ったが──違う。
ローブの種類、仮面の造形。その2つが、暗部のものと微妙に違う。
まるで、狙って『影』を真似ているかのような装いだ。
体格からして男だろう。彼は右手に、鞘に収まったままの剣を握り締めていた。
その足元に転がるのは、見張りをしていたであろう『影』。
こちらは正真正銘暗部の人間だ。辺りに血はなく、微かに動いている。
先ほどの物音は、人間が崩れ落ちる音だったのだと理解して──、
「──敵襲ですっ!」
セレンの鋭い声が空気を裂く。
真横で告げられた号令に、クーシャも瞬時に意識を切り替えた。
『影』たちも彼女の声に反応し、拷問対象の口に布を詰めると剣を執り始める。
「───」
まず一人。こちら側の『影』が音もなく駆け出した。
謎の男に接近した『影』は、流れるような身のこなしで凶刃を振るう。
決して素人の剣ではない。殺すことに一切の躊躇がない、迷いなき剣筋。
胴体目掛けて放たれたそれに──男は即座に自身の剣を滑り込ませ、弾いた。
『影』は一瞬姿勢を崩すが、すぐに立ち直り距離を取る。同時に他の『影』たちが殺到し、各々の隙を埋めるように攻撃を行う。
意識の薄い彼らだからこその芸当だ。たとえ仲間の剣が頬を掠めようと、『影』は動じない。同士討ち間際の連携だった。
しかし、男はその全てを弾き、避け、受け流す。
暗部の『影』たち──複数人の殺気を一身に受けるその対象は、まるで堪えた様子もなく自然体だった。
「セレン、下がってて」
「ま、待ってください! 私も──」
セレンを無理やり後ろへと押しやり、自身の得物を構える。
男は数人の『影』を同時に相手取りながらも、まだ余力を残しているように見える。
まさかこの人数で負けることはないだろう。だが、このままではかなりの痛手を被ることになることも確かだ。
故に──セレンを守るために、クーシャもまた飛び出した。
「クーシャさん!」
セレンの呼び止める声が、クーシャの背に圧し掛かる。だが立ち止まらない。
男へと接近する最中、彼はセレンの叫びに反応したのかこちらを見る。
仮面の向こう側で、目が合った。
クーシャがそう直感した瞬間、男は先ほどまでの立ち回りが嘘のように、その身体を硬直させた。
「ふ──っ!」
「───」
だが、その隙も一瞬。即座に復活した男は、弾かれるように後ろへ飛ぶ。
振りかぶった剣が、直前まで男の首があった空間を切り裂く。
急所寸前の回避。だが、ほんの僅かに捉えた。
躱し損ねた彼のローブの胸元が、クーシャの剣先に引っ掛かる。千切れた布が舞い散り、留め具らしき金属の部品が飛ぶ。
男のローブの前面部がはだけ、その首元から何かが飛び出した。
小さな首飾りだ。紐を通して首に掛けられていたそれを、ローブの内側に入れていたのだろう。
クーシャの視界の端できらきらと輝くそれは、赤色の硝子片。およそ粗末という他ない装飾品だ。
その欠片をふいに目で追いかけ──視線が、釘付けになった。
「──っ!」
心臓が跳ねた。凍えるような悪寒が背筋を走る。
脳が最大限の異常を検出し、平衡感覚が失われていく。
咄嗟に後ろに下がったクーシャの隙間を縫うように、再び『影』が男に殺到し──
「待ってッ!」
あまりにも聞き馴染んだその声が、空間を支配した。
全てが制止する。『影』たちが。後ろに立つセレンが。そして謎の男さえもが固まって。
息の詰まるような静寂を生んだ、その張本人を見ていた。
即ち、悲鳴の主──クーシャを。
「あ、う……待って、待って──」
「クーシャ、さん……?」
幾つもの目がこちらを向いているのが分かる。
無感情な視線、困惑の視線、不透明の視線。
それらの中心で、クーシャは混乱と共に自らの頭を掻き毟る。
「待って、まって、うぅ……」
──クーシャは、知っている。あの首飾りを。
そしてそれは、持ち主の存在も知っているということで。
頭が痛い。割れるような激痛が走る。その痛みの間を駆け抜ける、曖昧な記憶の欠片。
それらが少しづつ像を為し、クーシャの頭に刻み込まれる。
知っている。忘れていた。思い出した。記憶に蓋をしていた。その鍵が今、強引にこじ開けられている。
思考という過程さえも捩じ伏せて。ただ本能が導き出した『結論』だけが、喉の奥から込み上げた。
「──兄、さん?」
「え?」
自分の呟きが脳裏に反響する。
そしてその答えが間違っていないのだと、他ならぬクーシャの心が納得していた。
セレンの呆然とした声さえも聞き流し、クーシャは眼前に立つ男を霞む視界で捉える。
男は暫くクーシャと見つめ合うと、やがて観念したかのように首を振った。
「……やっぱり、君なのか」
この場の誰のものでもない声──謎の男が初めて声を上げる。
若い声だ。彼は無造作に剣を降ろすと、自身の仮面に手を掛けた。
そして露になったのは、青年の顔。端正な顔立ちに、それに似合わぬ深い眉間の皺が目立つ。しかしクーシャへと向けられたその瞳だけは、確かな慈愛を含んでいるように見える。
その声を。その顔を。クーシャは
「あの日以来か。久しぶりだね、クーシャ──僕らの愛しい末妹」
青年は苦笑混じりに肩を竦め、穏やかな声で語り掛ける。
あまりにもこの場にそぐわぬ気配を纏いながら、彼は──クーシャの『兄』は、『妹』へ向けひらひらと手を振った。
(後ろで棒立ちな宇宙猫状態の変態)