メイショウドトウ見ててどっかで見たな……と思ってたら、これアレだ、ベルナデッタだ。道理で私の性癖にぶっ刺さると思った。
あの事故からわたしは、ただ無為に日々を過ごした。
何をすればいいのか分からなかった。
あれほど焦がれた「スピードの向こう側」は、届いてみればただの地獄だった。それを垣間見た代償に、わたしはもう二度と、ターフを走ることはできない。
皆気を使っているのか、そこには触れなかったけれど、誰にでも分かる。歩けるようになるかどうかを気にしているのに、以前のように走るだなんてとてもじゃないが無理だろう。
……何より。
呆然とするわたしに、トレーナーさんは「治る」とか、「走る」という言葉を一切言わなかった。ただ、命が助かって良かった、脚が繋がっててよかったと言って……他のメンバーが帰ってからは、ひたすら謝っていた。
誤解されがちだが、トレーナーさんが自信たっぷりのように見られているのは、単にできると思っているから、そう言っているだけ。彼は嘘のつけない人だ。
だから態度で分かってしまった。
わたしはもう、一生走れるようにはならないんだと。
――けれど。トレーナーさんは悪くない。わたしは加減して勝つこともできた。
あの壁を超えずに、ほどほどの速度で走っているだけで、先頭のまま秋の天皇賞を制すことができた。そうしなかったのは、わたしの我儘でしかないのだから。
だからこれは、自業自得だ。トレーナーさんは、こんな大馬鹿の背中を押してくれたじゃないか。
走ることに人生を捧げてきたから、きっと走れなくなった時が死ぬ時だろうと、漠然と考えていた。その時はきっと、体が死なずにすんでも、心が死んでしまうだろうと。
きっと、トレーナーさん以外のところで走っていたら、走り足りないうちに脚を壊して……わたしは発狂していただろう。そうならずに済んだのは、トレーナーさんが思いっきり後押ししてくれたからだ。
シニアの秋まで走り抜いて、求めた果てを見届けたわたしは、心のどこかで満足していた。何と言うか……そう、燃え尽きたんだと思う。
だから、空っぽになった。そうなるだけで済んだ。
頭の中が走ること一色だったのが、トレーナーさんの事を半分くらい考えていたからだろう。いつの間にかわたしは、走ることが全てではなくなっていたみたいだ。
悲しかったし、今も胸に穴が空いたような、酷い喪失感に苛まれている。
思いっきり走れていた頃の夢を見て、起きた時には顔がべしゃべしゃになっていることもある。
けれど、思ったほどではなかった。
ああ、そうだ。
わたしにはまだ、トレーナーさんがいる。
だから心までは、なんとか壊れなかったんだ。
そう思うと、ほんの少しだけ、世界に現実感が戻ってきた気がした。
今のこの脚を受け止め……るのはまだ無理でも、きっといつか前に進めると思った。
トレーナーさんと一緒の景色が見られるなら、わたしは歩くような速さでも――
『聞いた? アンタレスのトレーナー、辞めるらしいわよ』
――ぇ。
『まあ、これだけ大ごとになったらねえ。ネットとか凄いんでしょ? 炎上ってやつ?』
そん、な。だって、ぼーっと聞いていたけれど、お見舞いに来た皆は、一言も……
『担当を潰すほどのスパルタ練習だの、ドーピング疑惑だの、凄いものねえ』
だって、トレーナーさんが居なくなったら、わたしは、これから……ひとりで……
『あんな映像流れちゃったらねえ……ネットの方だと、事故の時の生放送を録画してた人が何度も映像上げてるんでしょ?』
事故。
じゃあ、トレーナーさんが叩かれているのは。
トレーナーさんが、辞めなきゃいけなくなったのは。
トレーナーさんを――
『うえー! きっつぅ!! あんなグロいの一般人に見せちゃダメでしょー』
――わたしが、つぶした?
―――――――――
――――
――
「あ、そうだ。今日の金ロー、前スズカが見たいって言ってた映画らしいぞ。帰ったら一緒に見ないか?」
平常心を保てているだろうか。
刺激してはいけない。デリケートな話題に触れてもいけない。
気にしていない風な日常会話から入って、何でもいい、後の予定を取り付ける。
「…………」
スズカは答えず、振り返らない。だが俺は、最初に声をかけた時、耳がこっちに向いたのを見ている。
俺の問いかけはまだ、無駄ではないはずだ。
「……どうして、きたんですか」
時間にしたら、恐らく1分程度。
人生でも一番長いんじゃないかという1分が過ぎた後、スズカが絞り出すように喋り出した。
「聞きました。トレーナーさん、辞めるんですよね」
衝撃が走った。
今彼女がここに居る理由は……もう走れないことを知ってしまったから、だと思っていた。
「ス、ズカ。どこでそれを」
嘘はつけない。後でまた、こうなるだけだ。そしてその時、俺はもういない。
「わたしの病室、となりに看護師さんたちのさぼりスポットがあるんです」
それで、大体察した。ウマ娘は人間より耳がいい。どこが源流になったかは知らないが、昨日の今日でもう、一般レベルに情報が漏れ始めているらしい。
「だとしても、それはスズカのせいじゃ」
ない、と言おうとして、スズカが何かを言おうとしているのに気付いた。
「……んで」
ギプスが付いたままの左脚を庇いながら、スズカがついにこちらを向いた。
「なんで! そんなこと言うんですかっ!!」
泣いている。
「わたしのせいじゃないですか!! わたしが無理に加速したから! わたしが壊れたからっ!! わたしがトレーナーさんのキャリアを、仕事を奪ってしまった!!」
「違う! それは」
「違わないッ!! 何も、何も違わないの!!」
首を振って、普段のスズカからは考えられないような大声でまくし立てる。
「トレーナーさんは、絶対に無茶はさせなかった!! わたしの脚が持たないレースは、わたしがいくら走りたいって言っても全部避けてくれた!! わたしの脚が壊れたのは、トレーニングとか因子のせいじゃない! わたしのせいなの!!」
ほとんど悲鳴のような、所々で声が裏返った慟哭を、俺は黙って聞いていた。
「これ以上わたしに優しくしないで!! 許さないで……もう、嫌なの……自分が……」
ひどい顔だ。頬もこけて、この遠目からでも隈があるのが分かる。
「何も知らずに、自分だけベッドの上でのうのうとして。スピードの向こう側が見られて……もう走れなくなったけれど、この結果に満足してもいたわたしが、わたしは許せない」
やがて語気が静かになったスズカだが、そこに込められた憎悪は寧ろ悪化している。しかも、その対象は……
「……スズカ。脚がもうダメなの、知ってたんだな」
俺の返答が予想外だったのか、スズカは一瞬目をぱちくりさせてから、小さく頷いた。
スズカの脚は、完治の見込みは皆無と言われている。
医者の提示したリハビリプランが理想的に推移した場合、松葉杖に頼らずとも片足をひきずるような恰好で歩けるくらいになる。それですら、十分奇跡の領域に踏み込んだ話だと。
「なあスズカ。俺はさ。止めに来たんじゃなくて、聞きに来たんだ」
スズカの耳が、ぴくりと動いた。
「おまえが、もう走れないことに耐えられないって言うなら、俺はそれでもいいと思う。本気で考えて出した答えだろうから」
スズカが自分で選んだ道なら、俺は止めない気でいた。だが。
「でもそれが、自分のためじゃなく……スズカのいう通り、俺のことを考えてやってるんだとしたら。絶対にやめろ」
そんなものは、認めない。
「俺は、スズカを死なせるためにトレーナーを辞めるんじゃない。逆だ。スズカ達に責任が行かないように、俺が肩代わりするんだ」
スズカに、担当に、これ以上の絶望を見せるためにこうしたんじゃない。
そのはず、だったんだ。
「ごめんスズカ。俺が辞めることは、間違った行動だったかもしれない。でもスズカと同じように、俺も皆を想ったからこうしたんだ。……もし、スズカが俺のことを考えてくれるなら。俺のこの行動を、無駄なものにはしないでくれ」
スズカは動かない。けれど、纏っている雰囲気が、ほんの少しずつ和らいでいくのを感じる。
「……これはエゴだ。呪いをかけると承知で言う。それでも……俺は、スズカに生きていて欲しい」
「っ!!」
スズカが、キッとこちらを睨みつけた。それでいい。
「別に、何でもいいんだ。勉強して大学に行ってもいい。どこかに就職するのもいい。なんなら養ってくれる旦那さん見つけて、家でぐうたらしててもいい。……俺は価値観が古臭いからこの辺しか思い浮かばないけど……ともかく、そんな顔したまんま、死んで行って欲しくないんだ」
とにかく、思いの丈をぶつけた。
……それから、何分経っただろう。
「ずるいです」
スズカは消え入るような声で、確かに生気を取り戻した目で、そう言った。
「まあ、自覚はあるよ」
「もう」
呆れたように笑って、病院から盗んできたらしい松葉杖を使ってこちらに歩いて来る。後で謝りに行かないと。
「自分は居なくなっちゃうのに、人を引き留めるなんて……わるいひとです」
「ああ、そうだな」
目の前まで来た。
そっと、抱きしめる。
「でも、わたしもバ鹿だったので、お互い様です」
「そうか」
肩に顔を埋めたまま、スズカの独白は続いた。
「……トレーナーさんは、わたしと違って、死のうとしてる訳じゃないんですよね」
「ああ、もちろん」
耳がピンと起きて、すぐ戻った。
「そうですか。……だったら、いいです」
「そうか? 自分で言うのもなんだけど、今の俺、結構クズだぞ?」
俺の言葉に、スズカは
「わたしのやりたいこと。見つかった気がしたので」
ほんの少し、顔を赤らめてそう言った。まあ、お互いあれだけ恥ずかしいことを口走った手前、気持ちは分かる。
やりたいことか。どんなものか分からないが……
「全力で応援するよ」
「ふふ、覚悟しててくださいね」
覚悟か。一体何をする気だろうか。
まあ、何でもいいさ。俺は彼女に余計な苦労をさせてしまった。償いという訳じゃないが、出来ることなら何でもしてやるつもりだ。さしあたり、傍にいてやることができないのはかなり心苦しいが。
「じゃあ……とりあえず、トレセン戻るか。車付けてるぞ」
マルゼンの外車じゃなくて、遠征用の社用車だけど。
「え? にんじんジュースは……」
しまった、勢いで流せるかと思ったが。
「あー、あれな。すまん、出まかせなんだ」
「えっ」
「スズカが病院から居なくなったって聞いて、そのまま直行して来たもんだから……流石にそこまで準備してる場合じゃなかった」
見ての通り袋はカラだ、とひっくり返して見せる俺を見て、スズカがぷっ、と噴き出した。
「ふふ……もう、折角かっこよかったのに」
「悪かったよ。飲みたかったんなら、これから買いにいこうぜ」
「はい、そうしましょう」
俺に寄り掛かったままふにゃりと笑う彼女を見て、俺はなんとなく、問題が解決したかのような錯覚に陥っていた。
それに気づかされるのは、その日の夜のことだ。
次話、選択。