遠くでカーテンが開く音がする。どうやら朝が来たようだ。
のそのそと起き上がり部屋の電気を点けると、シーリングライトの白色光が寝室を照らす。
相変わらず殺風景な、そして住み慣れたフローリングの5畳。部屋にあるのは大き目のベッドと着替えの入ったタンスに本棚1つ、エアコン。窓はない。広めのサービスルームというやつだ。
枕元に置かれた時計が、午前7時を示している。日付はわからないし、もはや知る気もない。
ベッドに腰掛けて何をするでもなくぼーっとしていると、隣の部屋に気配を感じた。
最初の頃は一日中しがみつく勢いだった(本当に24時間以上肌が離れなかったことも何度かある)彼女も、最近では俺が寝ている間に隣の部屋へ行ける……手どころか目を離せるくらいになったらしい。きっと大きな進歩だ。
「おはよ、トレーナー」
開いたドアの先には、昔より成長した気がするトウカイテイオー。吸い込まれそうな青い瞳が、こちらを捉える。そこに光はなく、目の奥にどこまでも深淵が続いているようにさえ見えた。
あそこに、「俺」は映っているのだろうか。
「おはよう」
俺は最近、口数が減った。
外の事を話題に出せば表情が曇り、レースのことを話題に出せば表情を失くし、未来の事を話せば口をつぐむ。
テイオーがどんどん悪い方に解釈して、不安定になってしまうのだ。自然と、迂闊な発言が減っていった。
「えっと、今日も一日することないから、く、くっついてても……いい、かな? へへ……」
「もちろん。ほら、おいで」
「う、うん」
控え目なおねだりに、一も二もなく即答する。まさか渋る訳にはいかない。少なくとも今、俺の生殺与奪権は全てテイオーにあるし、そうでなくとも……
あれから何ヶ月……いや、ひょっとしたら何年かも知れない。テイオーは、前にも増して、極端なほど甘えたがりになった。同時に、どこかこちらの様子をうかがうような、擦り寄るような態度をとることも多くなった。
日がな一日、文字通りずっと俺の傍か、遠くても隣の部屋にいる。仕事や学校に行く様子はなく、買い物は全て置き配の通販を使っているらしい。財源は……多分自分の獲得賞金だろうな。
あれは未成年のうちはトレセン預かりだが、引退後は成人するまで毎月、生活に困らない程度の額を振り込んでくれる。それでも残っていた分は、20歳の誕生月に通帳ごと渡してくれるシステムだ。因みに希望すれば最長で大学院卒業まで預かっていてもらえる。
かつて親に賞金を巻き上げられる生徒が散見されたことから生まれた仕組みらしいが、競走しかしてこなかったウマ娘が新たな人生(ウマ生?)を歩み出すための支援として、特に条件戦~オープン級のウマ娘達にとって大いに役立っていると聞いている。テイオーの使い方が正しいかは、俺にはわからないけれど。
ある日はどろどろに甘えて蕩け、またある日は健全(?)に二人で料理やゲームなんかをして過ごす。表面上、俺達の暮らしはこれ以上なく穏やかだ。
まるで、社会的な役割を全てやり切って、後は穏やかな死に場所で「お迎え」を待つばかりになった老夫婦のような。
「えへへぇ……トレーナー、あったかいなぁ」
一日中暖房が動いているのを考えると、多分今は冬なのだろう。ベッドの上、俺の隣に座ったテイオーは、そんなことを言って俺にしなだれかかって来る。
「ぁっ……へへへ」
優しく頭を撫でてやると、一層幸せそうな声を漏らした。お互い前を向いているから顔は見えないが、きっとふにゃふにゃに蕩けているのだろう。
ゆったりと時間が過ぎていく。何かをしなければいけないということはない。と言うより、何もさせてもらえない。
肉体的には自由だ。拘束されてはいない。
『と、トレー、ナー……? 行っちゃうの……?』
ただ、少し買い物に行こうとするだけで、捨てられた子犬のような目を向けて来る。
少しでもテイオーから離れるような素振りを見せれば、すぐに不安定モードに逆戻りだ。
つまり俺は、テイオーに軟禁されていた。
『ご、ごめん……! ごめんね……ボク、そんな、つもりじゃ……っうぅ、えぐっ……ごめん……嫌いにならないで……』
急に情緒不安定になったかと思ったら思いっきりひっぱたかれて、その直後に出てきた台詞だった。
外に出ようとする、昔を思い出そうとする、他のウマ娘の話題を口にする、桐生院の話をする。
地雷はそこら中にあって、最初の……何ヶ月くらいだったろうか、度々踏み抜いては、テイオーの顔から表情をなくし、ある時は青ざめさせ、ある時は逆上させてから泣き崩れさせた。
その度、
テイオーは縋るようで、貪るようで、あるいは、媚びるようでも、不安から逃げるようでもあった。お互い何の身分も持たない身。一度押し倒されてしまえば、あとはズルズル爛れていった。
分かっていた。つまり彼女は、俺が離れていくことを、極端に恐れているのだ。だからあらゆる手段で、つながりを保とうとしている。
誰より彼女自身が俺の行動を信じられなくて、そうしてしまったのは俺の行動なのだ。
そんな具合だったから、段々喋れる話題が減っていき、安牌は彼女を褒めることと、彼女を気遣うことくらいしか残っていない有り様。
精一杯彼女を喜ばせるような……媚びるような言動をして、彼女も恐らくそうしている。
俺達の関係は……共依存に見えて、多分初めから破綻していた。
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トレーナー業を廃業すると方々に伝えて回り、いよいよ退職当日となったあの日。トレーナー寮から出た直後、何者かに足払いをかけられ、体勢を崩したところに後頭部を殴られ昏倒。
次に目覚めた時にはこの部屋にいて、以来俺は風呂とトイレ以外では一度も部屋から出ていない。
初日こそ、危険な笑みで膝枕していたテイオーに食ってかかった。下手をすれば人が死んでいた。確かに俺は無責任だったかもしれないが、いくら何でもやり方に問題がある。
俺は考えが甘かったんだ。何年も一緒に居たのに、いや居たからか、初めに会った頃の、幼さと自信にあふれていたテイオーのイメージが、眼の前のテイオーを理解する邪魔をしていた。
始めこそ強硬な態度だったテイオーは(実際何発か殴られたし、その時折れた脚を病院にかからず治したせいか歩くのに支障が出ている)、次第に泣きそうな、捨てられた子犬のような表情で懇願し始めたのを覚えている。
『やだ、いっちゃやだ……ボクはトレーナーだけで、トレーナーしかいないのに……ボクを一人にしないでよぉ……ぐしゅっ、えぐっ』
あの時は……「間違えるな」と、俺の中の何かが警鐘を鳴らしていた。虫の知らせ、第六感、そういうものが過去最高にフル稼働していた。
それほどまでにテイオーは危険な空気を纏っていて、きっと俺が少しでも突き放すようなことを言っていれば、今頃俺かテイオーか、もしくは両方がこの世から居なくなっていただろう。
だが、拒めなかったのは脅されたからじゃない。自慢じゃないが肝は据わっているほうだ。あそこからでも、口八丁で抜け出して警察に駆け込むことは可能だった。
だがこうしたのは俺だ。彼女の気持ちを分かってやれなかったのは俺だ。彼女の中の、俺以外の全てを塗り潰してしまったのは俺だ。俺が居なくなったって上手くやっていくだろうと、高を括っていたのは俺だ。
責任を取らねばならないのは、俺だ。そう腹を括ったことは、忘れない。
……俺はあの頃、テイオーの事をどう思っていたんだったか。これは思い出せない。
テイオーと一緒にいると決めた時に、あまりにも色々なものを捨てすぎた。今ではもう、思い出せる物事が極端に少なくなった。テイオーがそれを望まないからだ。
ただ、テイオーと日々を過ごすだけでいい。確かに俺が求めた、頑張らなくてもいい生活だ。ひょっとして、辞めると言った日の俺の台詞を覚えているのだろうか。
「はい、あーん♪」
食事を食べさせ合い、
「テイオー、随分大きくなったな」
「そうかなあ、トレーナーがえっちだからじゃない?」
「いや、背の話だぞ」
「……いじわる」
一緒に風呂に入り、
「お休み、トレーナー」
「ああ、おやすみ」
一緒のベッドで寝る。テイオーが不安定な時には、お互いを貪ることもある。
それだけ。それだけの暮らしを、もう何度繰り返しただろう。昔はお子様らしい出で立ちだったテイオーも、いつの間にか随分成長したから、きっと結構な時間が経っていると思う。
歪な同棲生活は、表面上はうまく行っているように見える。
……お互い分かってはいるのだ。これが正しい在り方ではないことくらいは。
何せ、俺達の関係は俺達だけで完結してしまっている。関係が壊れた時何が起こるか、当の俺達にすら分からない。きっと破滅的な、恐らくは命に係わる何かが起こるというのは分かるが。
「んぅ……ずっと……いっしょ……」
同じベッドで密着しているテイオーが、幸せそうに寝言をこぼす。
彼女は今、幸せになれているのだろうか。それだけが気掛かりだ。それ以外のことは、とっくに全て捨ててしまった。
俺? 俺はテイオーが幸せなら、それが一番幸せだ。
ただ、いつか来る「お迎え」は、きっとそんなに遠い未来の話じゃない。きっと破綻はすぐそこにあると確信している。
それでも俺達が改善しようとしないのは……この暮らしに心地よさを感じているからか、それとも、心のどこかでは「
……今テイオーに抱いているこの気持ちは、多分愛とか、そんな綺麗な代物じゃないと思う。
だが罪悪感や義務感や使命感がごちゃ混ぜになった
俺には、それで十分だ。
ある日ドアを蹴破って現れたかつての教え子に、俺は穏やかな顔でそう説明した。
トレーナー業復帰? 新生URA? 俺を助ける?
何言ってんだ、それじゃあ、
本人たちは幸せな引退後を過ごしてるからグッドエンド! グッドエンドです!!!(強弁)
この先「お迎え」によって関係が健全化するのか、それとも「お迎え」を寿命とするかはまた別のお話。