――ドリームトロフィーリーグには鬼がいる。
その"鬼"は毎日決まった時間にグラウンドに現れ、決まったメニューのトレーニングをこなし、そして寮の自室へと引っ込んでいくと言う。
彼女にはトレーナーが付いていない。
正確には、書面上のトレーナーはいるが、実際にトレーニングの指導を受けることは一切ない。最初から、それを織り込み済みでの契約だった。
かれこれ3年間。彼女は前のトレーナーに残してもらったトレーニングメニューをこなし続け、そして勝ち続けた。
"鬼"がドリームトロフィーに現れて以来、「彼女VS.そのほか全員」の構図が崩れたことはない。
中世ごろの古文や能楽においては、「鬼」とは主に悪霊を指すと言われている。
サイレンススズカが消えた後に現れ、段々と荒廃していくURAレース界に君臨する絶対王者。「アンタレスの亡霊」あるいは「置き土産」。"鬼"という名はその恐るべき強さを称するほかに、そういう意味も含まれるのだろう。
何せ今のところ、彼女の進撃を止められた者は一人としていない。
かつて1度だけ彼女を破った「英雄」は、宝塚記念の怪我が元で既に現役を退いている。サイレンススズカと唯一勝負ができた「白毛の勇者」は、業界を二分して争う名門どもの暗闘の中に消えていた。
かつてのチームメイトたちは、ただ一人「トレーナー」を中核とする繋がりだった。それを失った彼女らは、すぐに各々違う道へと進むことを余儀なくされる。
ある1人は今のURAを「つまらない」と称し、ある日愛車に乗って姿を消した。
ある2人は学園を運営する側に回って前線から去り、代理を立てて裏に潜った理事長と共に、誰も知らない闇の中で戦い続けていると言う。
ある1人はURAに見切りをつけて、国外の機関に渡って研究に没頭しているそうだ。ただ速さを追求していた昔と違い、頑強な身体づくりや事故後の応急処置に関する論文が主になったと、TVのニュースで流れて来る新技術が教えてくれる。
残りの2人は、あの日を境にぱったりと連絡が取れなくなった。
あれから3年。彼女はとっくに一人になって、それでも走り続けている。
彼女には――ミホノブルボンには、それしかなかったからだ。
「はぁ、はぁ……ミッション、コンプリート」
呟きに応えるものは、もういない。
ほとんど真夜中と呼んでいいような時間になってようやく、彼女は自身の課したトレーニングメニューから解放された。
「っげほ、う゛ぇ……っ!」
襲ってきた吐き気を気合いで抑え込んで、しかし産まれたての子鹿のようになった脚では踏ん張りが効かずその場にへたり込む。
「水分、補給が、必、要……っ」
朦朧とする意識と身体に鞭打って、近くに準備しているスポーツドリンクを取り、戻さないように注意しながら口に含む。
日に日に少しずつ、しかし確実に、トレーニングを完遂するのにかかる時間が増えている。結果として後ろ倒しになった睡眠時間では前日の疲れがとり切れなくなってきた。
そんな状態になっても彼女は、粛々とトレーニングをこなし、栄養管理の徹底された食事をして、そして最低限の睡眠をとる。
およそ人間味のある生活ではない。早晩彼女は壊れるだろうと、トレセンの全員が確信していた。当のブルボン本人さえも。
それでも彼女は、その緩やかな自殺のような生活を止めなかった。
今ブルボンが行っているトレーニングメニューは、彼女が本格化してすぐの頃の……トレーナーが見ていた時点のブルボンに最適化されたものだ。
それも、当時の体力を基準に限界ギリギリまで詰め込まれた、超名門の野球部が裸足で逃げ出すような坂道漬けのスパルタメニュー。
本来はその日のコンディションなどを加味しながら逐一微調整するもので、何年も同じものを続けるようには出来ていない。今の彼女は明確なオーバーワークだった。
名義貸しという契約のはずの現トレーナーからも(ブルボン自身は彼をトレーナーとは認めていないが)、流石に見かねたか何度も指摘されている。それでも彼女は、頑として今のやり方を変えようとはしなかった。
このメニューは、元トレーナーが最後に残してくれたもので、それを変えてしまったら、彼とのつながりが全て失われてしまう気がした。恐らく本人は、単に言いつけを守っているだけのつもりだろうが。
『私に「マスターを待つ」という行動を、許可してください』
あの時からずっと、ブルボンは待ち続けている。
彼の最後の命令……トレーナーのことを忘れて、新しい進路を見つけろ、という彼の願いを、ブルボンはどうしても達成することができなかった。
彼女は元来、情緒が幼い所のあるウマ娘だ。トレーナーが離れた時点で、まだまだ成長途中で、これから、周りに支えられながら大人になっていくはずだった。
だが彼女は一人になった。あれ以来、ブルボンの中の時間は止まってしまっている。
(身体への負荷、想定される稼働限界を突破。意識の途絶より早く、寮に戻、らなく、て、は――)
関節がギシギシと悲鳴を上げている。筋肉が痙攣し、何処が痛いか良く分からない痛みが全身を覆っている。それでもほとんど執念だけで立ち上がり、真っ暗になった宿舎への道を行こうとして――
そこに、あり得ない筈の姿を見た。
「……トレー、ナー?」
思わず声を上げる。
ついに幻覚が見えるようになったのか。
「ブルボン、迎えにきたぞ」
もう、見捨てられたと思っていた。
心のどこかでは、トレーナーは戻ってなど来ないと分かっていた。彼はもう現役を退いて、どこかに隠棲しているはずだから。
頬をつねる。痛みはもう、良く分からないけれど。ヒリヒリした感覚が肌を捕らえ、きっと夢ではないのだと理解できる。
自分でも気づかないうちに、トレーナーに抱き着いていた。感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて、自分を制御できない。
「っぐ、うぇ、トレ、ナ……」
思ったように声が出ない。この視界の霞みは、疲れではなかった。
それでようやく、自分が泣いているのだと気づいた。
言いたいことはいくらでもあったのに、何一つ口をついて出ることはなく。
ただ、「トレーナーは自分を見捨てたわけではなかった」と、彼は無事だったのだと、それだけが頭を満たしていた。
「ごめん、ブルボン。……3年もかかっちまった」
「ぐしゅ……何を、ですか?」
ようやく落ち着いて来た頃、トレーナーがポツポツと喋り出す。
トレーナーの腕に抱かれて、声をかけてもらえるだけで今のブルボンにはこれ以上ない幸福だったが、ともかく「マスター」が聞いてほしそうなので、彼女は聞くことにした。
この数年、URAを騒がせていた名門同士の抗争に参戦していたこと。
理事長や仲間たちの協力を得て、URAが潰れない形で騒動に決着を付け、そして最低限の復興を済ませるのに今までかかったこと。
その間、公に行方不明である彼は、表舞台に出ることができなかったこと。
「俺は……最低な奴だ。ブルボンを3年もほったらかして、他の奴等だってもう何をしているのか把握できない。桐生院だって」
「マスター」
つらつらと続くトレーナーの懺悔を、ブルボンは――
「
かつてトレーナーに貰った檄で、切って捨てた。
無粋にも見える。強引にも見える。それでも、
「俺を、またトレーナーにしてくれるのか……?」
それでもある意味でブルボンらしいその言葉は、間違いなくトレーナーにとって救いだった。
「謝って済むことじゃないのは分かってる。でも……なあ、ブルボン」
――もう一度、俺を君のトレーナーにしてくれるか?
「マスターは、一つ勘違いをしています」
「っ、そう、だよな」
「私は、貴方との契約解除を了承していません」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、しかし得意げに宣言するブルボン。
「最後のオーダーを放棄して、私は、あなたの帰還をずっと待っていました。あなたに貰ったトレーニングメニューで、今まで無敗を貫きました」
遺してくれたトレーニングメニューで勝ち続ける限り、トレーナーの正しさは証明され続ける。
それは彼女にとって、誇りであり、意地だった。
「私は"悪い子"です、マスター。あなたのお導きが無ければ、更生は不可能でしょうね」
そう言ってほほ笑むブルボンは、この三年間でしっかりと成長していた。
◆◆◆
俺がブルボンのトレーナーに復帰して、そろそろ1ヵ月。
あの後最初に出した命令は、病院での精密検査だった。
聞けばブルボンは、現役当時のあのハードトレーニングをこの3年欠かさず続けて、その合間に出たレースを総なめにしていたらしい。タキオンが聞いたら卒倒しそうだ。
いくら我慢強く頑丈な彼女とて、まだ壊れていなかったのは奇跡みたいなもんだ。日に30時間トレーニングしていいのは漫画の登場人物だけで、特にウマ娘は一度の怪我が命に関わることも珍しくない。
精密検査の結果、案の定あちこちに故障一歩手前の症状がみられ、両脚とも疲労骨折寸前の有り様だった。あと一週間止めるのが遅かったら二度と歩けなくなっていたとそれはもう怒られた。
それから検査入院を含めて3週間あまりの休養を命じ、今日が練習復帰一発目だ。
「おはようございます。マスター」
すっかりいつもの調子にもどったブルボンが、そして、トレーナーとして復帰した俺が、ついにトレセンのターフに戻ってきた。
「おう。しかし……改めてみると、成長したな」
ドリームリーグ三年目になったブルボンは、以前よりさらに髪が長くなり、身体が一回り大きくなったように感じられる。
「ええ。ですからマスター、退院してよい機会ですので、折り入って話があります」
「奇遇だな。実は俺もなんだ」
お互い、何を言うかは分かり切っている。
俺が裏に潜ってまで名門と事を構えたのは、あの日のブルボンがあまりにも痛々しかったからだ。
立つ鳥跡を濁さずと言う様に。自分が消えた後、あんな思いをするウマ娘が出るような状態を残したままにしたくはないと思った。
俺は政治なんか分からない寒門の出だが、幸いにして味方してくれるウマ娘と、名家と、有力者がいた。
そして俺が表に戻ってきたのは、戻ってこられたのは、ブルボンの名声が、活躍が、否応なしに世間に認知されるほどのものだったからに他ならない。
でなければURAの立て直しにはもっと時間がかかっただろうし、上手く行ったとしても俺自身が戻ろうとは思わなかっただろう。
「戦友」あるいは「共犯者」となってくれた彼女等に別れを告げて、俺はのうのうと表に戻ってきた。
俺の手は、最早血まみれになってしまった。長い暗闘の間に、いったいどれだけを蹴落とし、どれだけの傷を負ってきたことか。
それでも、彼女に。
ブルボンにもう一度、会いたかったんだ。
俺が一番「トレーナー」をしていた、一番楽しかったあの頃を、ブルボンを通して見ているのかもしれない。
その走りで世論を味方に付け、「絶対王者は死なない」と、対立する名門をある意味で諦めさせたその脚に、恩を感じたからかもしれない。
とにかく俺は、いつしかやり直したくなったんだ。
――頬を赤らめたブルボンが、意を決したようにこちらを向き直る。
午前5時30分。日の出が済んだばかりの、トレーニング前のちょっとした時間。
風情はないけれど、これが俺達には一番合っている。
「マスターに、あの日言えなかった続きを、お伝えします」
ああ、俺は。
これを聞くために、応えるためにここに来たんだ。
それを思えば、血で血を洗う3年間も、そう悪いもんじゃなかったかも知れないな。
これで個別ENDはあと1つ。