日本で最初に近代競バのレースがあったのが1870年で、この世界の桐生院はその主催に尽力したことをトレーナーの名門としての端緒と自認していることによります。なので一応純日本人の家柄としては最古なのだ。
当時から兵部省のお偉方だったので、家そのものの歴史はもっと古いよ(純度100%の独自設定)。
ボク――トウカイテイオーの夢は、無敗の三冠ウマ娘、だった。
でも、それはもう叶った。
叶えてもらったんだ、誰よりボクのことを考えてくれて、ボクの夢を一緒に追いかけてくれる……大好きな、トレーナーに。
カイチョーに憧れてトレセンに入った時……二日目にはもう、ボクの前に今のトレーナーがいた。
入学の後、一番最初の選抜レースすらまだの時だった。フシンシャ扱いしなかったのは、その人がカイチョーのトレーナーだと知っていたから。
『ルドルフが、君のことを話してくれてな。以前からマークしていたんだ』
嬉しかった。
カイチョーが無敗の二冠を達成した時、ボクはインタビューを受けている所に割って入って、話を聞いてもらったんだ。
――そのことを覚えててくれたばかりか、自分のトレーナーに推薦までしてくれてた。もう嬉しすぎてどうにかなっちゃいそうだった。
一緒に、自信もついた。
まあ、元々ボクってば天才だったけど? そのウラヅケが得られたからね。なんせボクのトレーナーは、ボクにふさわしい……ううん、ボクよりよっぽどすごい天才だった。
マルゼンスキー。シンボリルドルフ。アグネスタキオン。ミホノブルボン。あとゴルシ。
皆強かったし、皆トレーナーがスカウトして来たんだって聞いてた。ってことは、スカウトされたボクにもカイチョー達と同じくらいの才能があるって、トレーナーが認めてくれたってことになる。
ボクもその一員になれるんだって、そりゃあもう喜んだっけ。
……好きになったきっかけは、多分トレーニングの方針で喧嘩した時だ。
いつまでも基礎トレとか身体づくりばっかりさせようとするから、ボクが我慢できなくなって走りまくってたんだよね。
そしたらトレーナーにバレて、普段ヘラヘラしてるのがウソみたいに怒られた。後で聞いた話だけど、ミホノブルボンがボク以上の練習バカだったから見張るのが上手くなってたみたいだ。
後はもう言い合いで、トレーナーが熱くなった拍子にポロっと、ボクの脚に怪我のリスクがあることを言っちゃった。
才能が
……実は、心当たりはあったんだ。思いっきり走った日は、なんかこう、足の関節がもやもやする時があった。
だから自然と、本気で走る……コンディションが最高の時はぴょこぴょこ動いて"準備"するようになった。『テイオーステップだー』とか言われてすっかり持ちネタだったけど、あれは多分そういうことだったんだよね。
トレーナーは、ボクよりボクの体のことに詳しかった。……それが嬉しかったんだ。自分で思っててなんだけど、ちょっとヘンな意味に聞こえるね。
まあ、その時のボクはバカだったから、結局トレーナーの言うこと聞かずにこっそり走って――菊花賞の後にガタが来た。
いざ骨折を診断された時不思議だった。「走れなくなるかも」よりも、「今度の有馬記念どうしよう」よりも、これからトレーナーに怒られるのが……ううん、トレーナーに見放されるのが怖かった。
だってもう、ボクが目標にしてた無敗のクラシック三冠は達成してたから。そのまま引退になってもまあ、ちょっと残念だったねくらいの感じで収まっちゃうんだ。
ボクが言うのもなんだけど、言う事聞かずに壊れちゃったボクなんかほっといて、次の子を育成したほうが効率いいもん。
それに気づいて、ボクは、ボクが「用済み」になるのが……トレーナーに捨てられるのが怖くて怖くてたまらなかった。
それで、多分酷い顔してたんだと思う、トレーナーのほうを恐る恐る向いてみたら。
『そんなにビビることないぞ。リハビリすればまた走れるさ』
いつもと違う、自信たっぷりの笑顔で頭を撫でてくれて。
『まあ? テイオーが満足だって言うならそれでも――』
『……走る』
『そうか。じゃあリハビリ頑張らないとだな』
そうやって発破をかけてくれた。
きっとトレーナーは、ボクが走れなくなるのを怖がってると思ったんだ。
違うんだけど……でも、トレーナーが何かと気を使ってくれるのが嬉しくて、すぐどうでもよくなっちゃった。
ボクはカイチョーの無敗三冠をなぞることばかり考えてたから、いざ骨折して暫く休んだのは、次の目標を決めるのにはいい機会だったのかもね。……いや、やっぱり悔しいから今のナシ。
それから、なんとなくリハビリを始めた。今更走る以外の事を始める気にもならなかったし。
――言われた通りにトレーニングするようにしたら、ビックリするくらい調子が良くなって行った。骨折自体が軽めだったから、お医者さんの「半年」っていう見立てより早い5か月ちょっと後、大阪杯にギリギリ間に合った。
一度レースを離れたからかな。目標に突っ走らなくなったからかも。その頃にはなんとなーく、周りが見えるようになってて。
初めの方は「アンタレスにいるなら勝って当然」みたいな、期待の高さだと思ってた。
周りのボクを見る目は、強いウマ娘を尊敬するっていうのも確かにあったけど。
怪我から帰ってきた時に分かっちゃった。大体三分の一位の同期の子たちが、目でボクに言うんだ。
≪何で帰ってきたんだ≫
≪これ以上何を望むんだ≫
ボクの勝ちは、周りにはあんまり歓迎されてないんだなって。
ボクが落ち込んでるのを気にしたトレーナーが「新しい目標を持ってみたらどうだ」と提案してきた。
ちょっと考えてみて――ボクは、やっと気づいたんだ。
『ねえトレーナー。ボクが勝ったら、トレーナーはよろこんでくれる?』
『おうとも。そんで好きなだけ褒めてやるよ』
いるじゃん。ボクの勝ちを、ボクを、誰より見ていてくれる人。
――ボクは、カイチョーの七冠を超えたいって言った。
確かに、勝ちたかったのは本当だけど。
無敗のままカイチョーを超えるっていう新しい夢の頭には、「トレーナーのために」っていう言葉がついてた。
まあ結局、2回失敗して7冠止まりだったんだけどさ。
トレーナーは「惜しかったな」って言ってくれて、残念会だーってあちこち連れ回してくれたけど。
ボクはずーっと、楽しかったんだ。
だってボクの夢は、とっくに叶ってたんだもん。
「トレーナー」
だから、ダメだよトレーナー。
「今の。本当?」
トレーナーが居なくなっちゃったら、ボクはこれから何のために
「テイオー、どうして、ここに」
「答えてよッ!!」
全部全部、トレーナーのためだったのに。
トレーナーが褒めてくれるから頑張れたんだよ。
なんだかんだ言って、いつもはちみつドリンク買って来てくれるから。
居て欲しい時は一緒にいてくれるから。
研究明けの時、無精ひげをさわって遊んでも怒らないから。
……いつも他の女といる所だけは、イヤだけど。
「嘘だよね、ね。はやくそう言ってよ。トレーナー」
でもボク…………すっごいイヤだけど我慢できるよ。トレーナーがボクの傍にいてくれるなら。
「いいか、テイオー。落ち着いて聞くんだ」
だからやめてよ。そんなマジメそうな顔しないでよ。
ゴルシと一緒に「ウソでーす!!」って言ってよ。
それで、怒った……フリをしてるボクがポカポカ殴って、トレーナーが笑いながら悪かったって言ってさ、ボクが賠償を要求するーとか言ってはちみつドリンクねだって、それで終わり。それでいいじゃん。ねえ。
「俺は、トレーナーを」
「聞きたくないッ!!」
今ボク、どんな顔してるんだろう。
「嘘って言ってよ!! 残るって!! それ以外聞かない!!」
「テイオー……」
トレーナーが悲しそうにこっちを見てる。
「やだ、やだよぉ……なんでいなくなっちゃうのさぁ……」
「……すまん。もう、決めたことなんだ」
答えになってない。
「やだ……やだ! やだやだやだ!! 行かないでよトレーナー!!」
首を振って、叫ぶ。
「ボク、頑張るから!! トレーナーのためにもっと、ちゃんとするから」
そうだ、トレーナーのバッシングを何とかすれば。
どうしたらいい。
ボクには何ができる。
「トレーナーが困ってることにも、きっと何か手伝うから! きっと役にたつからぁ」
「ボクを捨てないでよぉ……何でもするからぁ……うぅ、ぐすっ、行っちゃやだぁ……」
なんで。
なんで。
なんで。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、何も考えがまとまらない。
ただ、胸のあたりがぎゅっとして、痛くて、吐き気がする。
「……分かってくれとは言わない。恨んでくれていい。これが最善なんだよ」
トレーナーはボクを抱きしめて、頭を撫でながら諭すように言う。
「……あぁ、あったかいなぁ、えぐっ、うぅ……」
"これ"が、もうもらえなくなっちゃう。
イヤだ。
イヤだ。
じゃあ、どうしたらいい。
スッ、と。思考が冷えていくような感覚が。いや、熱すぎるものに触ると逆に冷たいような気もする、あの感じがして――
――気づいたら、トレーナーを突き飛ばしていた。
多分、力加減が出来てない。トレーナーはすごい勢いで倒れて、背中がコンクリの床に叩きつけられて、口から空気が吐き出される音がした。
ボクはウマ乗りの体勢になっている。
「がっ……は、て、いおー……」
眼下に、トレーナーがいる。抵抗はない。
いや、できないんだ。
「……男の人って、こんなに弱いんだ。そっか」
ボクは何を言ってるんだろう。でも、ウマ娘のボクじゃなくて、生き物のボクが、こうしろと言ってる気がするんだ。
――トレーナーを、ボクのものにしろって。
「ボクは、ただトレーナーが一緒に居てくれれば、それでいいのに」
ボクは何をやってるんだろう。
このまま、ボクのものにすればいい。
だってボクは、強いんだから。
「ボクはトレーナーが好きだった。ううん、今も大好き」
首に手を掛ける。トレーナーの黒目が、少し縮んだ。
「ねえ。ボクと一緒に居よう」
これは、脅迫だ。
何でもいい。トレーナーさえ居てくれれば。
「別に、トレセンじゃなくてもいいんだ。二人でさ、何処かに行ってもいいよ」
ほんのちょっとだけ、手に力を込める。
面白いくらいビクンと体が震えた。
「ぁは、いいアイデアじゃない、これ? 大丈夫だよ、ボクなんでもするから。トレーナーはただ、居てくれればいいんだよ」
あぁ、何やってんだろ、ボク。
「ねぇ、だから……ウンって言ってよ、居なくならないでよお……一緒にいてよぉ」
どうせ、これ以上力を入れることなんてできやしないのに。
「……テイオー」
頭に、いつもの手の感触。
涙で良く見えないけど……撫でてくれてる。こんな、ボクを。
「
そんなこと、言わないでよ。
また、力が緩んじゃう。
そしたらトレーナーが、抜け出して行っちゃう……。
「そんで、ごめんな。テイオーの気持ちには、応えられない」
「やだ、やだぁ……」
しばらく、そのまま抱き合って……トレーナーの、携帯が鳴った。
あれ、トレーナーっていつもマナーモード――
「はい、もしもし――っ!? スズカが!?」
トレーナーがすごい勢いで携帯を取って、みるみる顔が青くなってる。
「トレー、ナー?」
「すまんテイオー、話はあとだ! スズカが病室から」
携帯もしまわずに立ち上がり、ボクを押しのけて走って行こうとするトレーナーを見て。
なんとなく、もう二度と会えなくなるように思って、咄嗟に腕を掴んだ。
「待って!」
「っ、離してくれ、緊急事態なんだ」
「でも、だって――」
このままじゃ、結局トレーナーはボクの前から――
「いい加減にしろ!!」
「ひっ!」
今までにないくらい、切羽詰まった、苛立った声。
多分、ボクがこっそりトレーニングしてた時よりも、ずっと。
「ぁ、ぅあ……」
「っ、……すまん!」
離した手を近づけたり遠ざけたりしているボクに一言だけ声をかけて、トレーナーは走って行った。
分かってる。スズカに何かあったんだ。
トレーナー優しいもん。でもさ……
「っ……ぐしゅっ、えぐ、ひぅっ……うぇぇっ」
これじゃあ、ボクが拒絶されて……スズカが優先されたみたいにしか、思えないよ。
「いやだよぉ……とれえなあ゛……っ!」
こんなのが、最後の思い出だなんて嫌だ。
でも、今のボクは結局、騒ぎを聞きつけたカイチョーとエアグルーヴさんに介抱されるまで、ただ泣いている事しかできなかった。
……こんなんだから、トレーナーに捨てられちゃうんだよね。
本当にどうしようもないなあ、ボクは。
―――――――――
――――
――
「先輩を……?」
実家に呼び出され、失意の体をひきずって本邸に顔を出してみれば。
お父様――桐生院家・現当主の第一声は、「あのトレーナーをどう思っている?」だった。
「今の彼に敵が多いことは承知しているが、あの才は惜しいと思わないか」
父は相変わらず厳格で、なんでもかんでも理屈で推し量ろうとする人だが……私は、珍しく父に期待を持った。
「それは……もし、彼と交際することになったら、認めていただけると?」
「無論だとも。むしろ、こちらから支援したいくらいだ。恐らく今が最後のチャンスだろうから、直接呼ばせてもらったよ」
そう言って、父は説明を始めた。
桐生院家には、葵と結婚を前提に交際するのであれば、という条件付きで、身内として彼を匿う用意があること。
数年がかりになるだろうが、マスコミへの火消しと世論操作を行い、その後は彼がトレセンに戻ることも可能なこと。
故にその間、彼を当家の顧問として招聘してはどうか、と。
「その、お父様。よろしいのでしょうか。彼はもうトレーナーを辞す上、家格的にも……その」
「何を言う。我々が求めているのは、彼の才覚であって、肩書ではないぞ」
嘘を言っているようには見えなかった。
「第一、彼はいわゆる突然変異。名門なればこそそれを取り込み、血の力を強固にするのも名門の務めの一つだ。これは情からの提案ではなく、利害の一致による、当主としての提案である」
その笑顔の下で、今度はどんなことを企んでいるのだろう。父はそういう人だ。
だが、失意にあった私には、お父様のスタンスが"希望"に見えた。
つまり、私の初恋は終わっておらず、どころか実家の後押しまで得られたと。
――そう見えて、しまったのだ。
「勿論、今は自由恋愛の時代だ。最終的な判断はお前と、彼に任せる。だが、母さんの受け売りになるが、"お見合い相手が初恋の人だった"というのは、中々ロマンチックなものじゃないかね?」
"才能を見込んで肩入れした名家"という評判が欲しくないとは言わんがね、と父は笑う。
「え、ええ、まあ」
関心のないような態度を見せているが……白状しよう。私はそういうのに弱い。
「彼が出て行く直前がチャンスだ。お前も、成否にかかわらず、想いは伝えておいた方があとくされがないと思うぞ」
これはおまえより長生きしている者としてのアドバイスだ、と笑う父を、私は深く考えずに信じてしまったのだ。
都合のいい、"先輩と結婚できるかも"という餌につられて。
150年掛けて築いた技術体系の最高傑作たる葵とハッピーミークは、スズカがいなければG1を6冠+αしていたほどの、言い訳不可能な万全の仕上がりだった。
それで全敗した時点で、彼がいる限り既存のウマ娘育成法ではまぐれ勝ち以外不可能と証明された(と桐生院家は結論づけた)。
もしその才覚が次世代に引き継がれなかったとしても、今後のウマ娘がアンタレスと比べられ続けることは明白。それは現在のレースつまらないだけでなく、長期的な人気低下と名家の存在価値消滅に繋がる。
故に彼らは、風評の収拾と傾いた人気の立て直しで今世代を捨てる羽目になってでも、彼を消し、次世代に彼を超える存在を輩出する必要がある。そのための抱き込み工作とマッチポンプ。
一度評判を落としてから匿うのは、そのままだと家の評判がアンタレスの添え物扱いになって事実上乗っ取られるから。
当然ながら、露見した時点で完全に名声は失墜するので、計画失敗はそのまま死を意味する。
座してコンテンツの死を待つか、乾坤一擲の賭けをするか。彼らは、賭けを選んだ。
なお、テイオーステップの下りは独自設定という名の大嘘だから他所には持ち出さないように。