1974年8月6日。
ブラックリーグは東ロシア労働者連合への侵攻を開始。
ブラックリーグは電撃戦により、イルクーツクを制圧。
さらに、北部のミールヌイで東ロシア軍6個師団を包囲。
日本から購入した富嶽3型3機を用いてミールヌイへの爆撃を開始した。
この爆撃により、包囲された6個師団は壊滅。
さらに南部において、ウラン・ウデが占領されると、東ロシア軍はレナ川までの撤退を開始。
その2日後、東ロシア労働者連合は降伏。
ロシア再統一が成された。
そして、ドミトリー・ヤゾフは日本の支援を受け、ペルーン計画を実行。
これはTHE GREAT TRIALに向け、大量破壊兵器を開発する計画である。
その頃、日本ではYSK右派の賀屋興宣によって賀屋内閣が成立。
民族主義的な側面を強めていった。
これに対し、一部地域では学生たちが暴動を起こした。
所謂、大学紛争である。
これを受け、賀屋内閣は<大学の運営に関する臨時措置法>を制定。
大学紛争に参加している者を全員逮捕するというものであった。
しかし、大学の運営に関する臨時措置法成立から1ヶ月後には20の自治体が協定を締結。
「大学の運営に関する臨時措置法に関連する逮捕命令に従わない」という内容である。
そして、この混乱に乗じ、YSK国家派の岸信介が武装蜂起を画策。
これは事前に察知されたが、一連の出来事により、賀屋内閣は3ヶ月で崩壊することとなる。
その後、YSK改革派の田中角栄が田中内閣を成立させた。
彼がまず着手したのは財閥の処理であった。
この世界の日本はGHQがなかったため、財閥が残っており、日本経済はほとんど財閥に牛耳られていた。
田中内閣は財閥の国有化を開始。
結果的にこの政策は成功し、事実上、財閥は解体された。
しかし、安田危機の爪痕は深く、未だに不況であった。
次に田中内閣が取り掛かったのは安田危機の解決であった。
田中内閣は公共事業による巻き直し政策を実施。
この政策も結果的に成功し、特に被害を受けていたベトナム、中国は無事に立ち直った。
アフリカでは親独的なサン・ペドロ軍事政府が西アフリカ防衛統一機構に降伏。
アフリカからドイツ勢力は完全に追い出された。
一方、オーストラリアではタスマニア自由戦線によるテロが発生。
これに対し、大日本帝国陸海軍はタスマニア島制圧作戦を開始。
あくまで民兵組織であったタスマニア自由戦線は大日本帝国軍、中華民国軍、インド連邦軍、満州国軍の総攻撃を受け、3日ほどで壊滅。
タスマニア島制圧作戦はあっさりと終結した。