1969年8月13日。
大ゲルマン帝国では総統暗殺未遂事件が発生。
これに対し、アドルフ・ヒトラー総統は後継者として虐殺者のラインハルト・ハイドリヒを指名。
これにより、ドイツ各地で反政府組織が活発化。
特にウルリッヒ・ウェグナー大佐率いるベルゼルケル自由同盟軍による攻撃が深刻であり、ポンメルンに展開している武装親衛隊の被害は増える一方であった。
これに対し、ハイドリヒはブルグントのヒムラーへ支援を要請。
ポーランドでは大日本帝国の支援を受けたパルチザン組織が活動を開始。
日本製の小銃を装備したパルチザンはワルシャワのSSに深刻な被害を与えた。
しかし、脅威は内だけでなく、外からも迫っていた。
シチリア島から発進したイタリア軍偵察機が高高度でドイツ領オーストリアに侵入。
Ho229がスクランブル発進し、これを撃墜したが、大ゲルマン帝国は掘られた墓穴に一歩近づいたようだ。
その頃、中国大陸では貴州国と雲南国が合併。
西南国が成立した。
これに対し、この地域の軍事顧問である畑俊六は西南国の国家元首である盧漢を訪ね、会談を行った。
その結果、西南国の日本軍駐留部隊の削減と中華民国陸軍駐留部隊の増加が決まった。
その頃、アフリカではモーリタニアとスペイン領北アフリカ国の間で国境紛争が始まった。
これに対し、アザワド国、カイ政府が援軍を派遣。
さらに、ニジェール共和国、西アフリカ連合、アザワド国、カイ政府、カメルーン連邦国が新陣営<西アフリカ防衛統一機構>を結成。
その2ヶ月後、スペイン領北アフリカ国が国境紛争で敗北。
南西サハラ共和国、ティンドーフ共和国が緩衝国として独立した。
その頃、南アフリカではボツワナ州にてアルバート・ヘルツォーグ率いるボーア共和国が蜂起。
これに対し、ドイツ植民地所属の機甲師団が南アフリカ国境を越え、侵攻を開始。
南アフリカ戦争が勃発した。
これを受け、大日本帝国が南アフリカ側で義勇軍を派遣。
当時の日本の新聞
南アフリカでの紛争が拡大する中、現地のジャーナリストによると、ドイツ植民地所属の機甲師団が南アフリカ国境を越え、侵攻を開始しているようだ。
ボーア共和国との戦闘で戦線が伸び切っていた南アフリカ軍はポートサイドまで後退せざるを得なくなっている。
10年近く、