1972年8月2日。
ドイツ内戦はハイドリヒ派の勝利で終わった。
ドイツ国外及び国内のメディアは「ゲルマン民族にとって決定的な瞬間」を捉えたようだ。
「国賓の正式訪問」という形で訪れたブルグント騎士団総長であるハインリッヒ・ヒムラーを忠実な親衛隊の大群が取り囲んで進む中、廃墟のゲルマニアに入城したラインハルト・ハイドリヒはドイツのメディアの前で立派なナチス式敬礼をしてみせた。親衛隊と党の党歌がけたたましく鳴り響く中、自身が演壇に立つため、フォルクスハレの正面を警備するよう、ハイドリヒは自らの軍団に命じた。
続く演説の中でプラハの虐殺者ことハイドリヒは自らの打ち立てし新秩序が『いかにアーリアの血を蘇らせるか』、そして『いかに我々を最も強くしたかつての我が国の理想を取り戻すか』を強調した。
まもなくして、ハインリヒ・ヒムラーが演壇に立つとドイツ・ブルグント間の関係が「退廃を根絶するという目的の同盟のもと、修復された。」と宣言した。
そして、3ヶ月の準備期間の後、新たなドイツは周辺国への侵攻を開始するのであった。
まず、侵攻対象となったのはエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いるドイツ国防軍によって統治されているモスコヴィーン国防軍軍政地域と、現地のコサックやロシア人、反ナチスのドイツ人により統治されているカフカース自由国であった。
対モスコヴィーン国防軍軍政地域作戦はマンシュタイン元帥の巧みな戦術により、親衛隊機甲師団1個師団が壊滅するなど大きな被害を受けたが、圧倒的な戦力差を前にマンシュタイン元帥の部隊は後退を続け、1973年5月5日にモスコヴィーン国防軍軍政地域は降伏。
エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥は即日に逮捕され、処刑された。
その2日後の1973年5月7日にカフカース自由国に侵攻を開始。
こちらはほとんどのモスコヴィーン国防軍軍政地域のドイツ国防軍部隊も逃げ込んでおり、トルコの支援を受けていた。
トルコ軍の兵器を装備したカフカース民兵は武装親衛隊に対し、ゲリラ戦を敢行。
武装親衛隊の部隊を一部半壊させた。
しかし、圧倒的な戦力差を前にズルズルと後退していき、1973年9月4日にカフカース自由国は降伏した。
カフカース自由国の指導者であったアライク・ ハルチュニャンは即日処刑された。
その頃、中東で多数の紛争が発生。
この影響で石油危機が発生した。
石油危機の影響は極東の超大国である大日本帝国にも広がった。
特に大日本帝国は安田危機の影響もあり、財閥は掘られた墓穴に近づいた。