それは狂わせた。   作:こよみ

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牢獄の囚人

 三年目。夏休みで少し落ち着いた頃に少し背が伸び一応女らしくもなったわけだがお嬢様は一段とパグ犬である。どうやら昔マグル生まれに呪われて、一族にはパグ犬化する呪いがかけられたらしいのだ。

 そのマグル生まれの呪うには、どうかあいつから素晴らしい顔を消してくれ。なんて自己中心的な呪い。なんて憐れなお嬢様。純血の姫でもその呪いを解く方法はない。真に姫のことだけを思う王子さまなんていない。姫にはいろんな柵が絡み付いている。

 ただし本人にはそうは見えないらしく、化粧したパグ犬顔で満足げに微笑んでいる。うまく化粧は出来たらしい。まったくわたしには分からないけれど。知らぬ顔でお世話を続ければ、ぐいと引っ張られて座らされた。

「あの、お嬢様……?」

「いいから、いいから。座ってなさい」

 上機嫌なお嬢様。それならそれで良いことだ。いつでもあなたの人形娘はお側に仕えておりますよ、わんわん。しつこいくらいにスコージファイ。その後何故か化粧され、髪は何故か結い上げられ、最後の仕上げは服だった。

「そ、そんな良い服なんて着せていただくわけには……!」

「黙りなさい。あんたにはこれから仕事があるんだから」

 にやにや笑うお嬢様の隣で美しく着飾らされたその女はわたしだった。中身だけが貧相なまま、外面だけが取り繕わされる。そこにいるのはまるで母のようなわたしだった。そして付き添い姿眩ましで飛ばされて、辿り着いた先には見知らぬ男。

 激痛、激痛、激痛、激痛。せっかく着飾らせていただいた衣装は台無しで、涙と汗とそれ以外の液体にまみれてぐっちゃぐちゃ。そのままオブスキューロ。そしてインカーセラス。死ぬかと思うほどの激痛と、何とも言えない解放感。激痛を快楽へと変換させないと、気が狂ってしまいそうだ。

「良かったな、あと二十七回じゃなくて」

 嘲るように言われた言葉。これが、この気の狂いそうなのが、あと何回だって? ぞんざいにスコージファイされて、また別のところへ飛ばされて、同じことの繰り返し。痛みと痛みと痛みと痛みとほんの少しの快楽が、まだ成人もしていないわたしの身体を襲う。一度? 二度? 四度? それとも? 最早回数なんて、覚えちゃいない。

 そうやって夏休みの間にわたしはすっかり変わってしまった。疲れ果て、ようやくお嬢様のところへ戻れた時にはもうそこに、元のわたしはいなかった。

 ホグワーツ特急でクスクスクスクス笑われて。今年の任務を言い渡されて、もののついでのように噂話。どうやら凶悪犯のシリウス・ブラックが、アズカバンから逃げ出したらしい。それはそれは、都合の良い。

 組分け、任務、授業の合間。まずは授業。同時に任務。こっそり休憩、そして私情。二足のわらじとどこぞの諺が言うけれど、わたしがはいたのは四足のわらじ。任務と授業。休憩と私情。その四つを並行させて、目が回りそうなほどの毎日を過ごす。

 今年度のどっきりびっくり闇の魔術に対する防衛術は、何とリーマス・ルーピン殿のお出ましだ。そして最初に扱うものはといえば、皆のトラウマ抉る魔法生物。大人でもうまくあしらえないこともあるという、ボガートなる生き物だった。

 重苦しい沈黙の中、一人、一人と恐怖を晒す。両親の怒声ならばまだ可愛いもので、闇の道具がわんさか見れる。中にはのっぺらぼうのような男も多くいて、それが尚更空気を重くした。リディクラス、リディクラス。誰もが馬鹿馬鹿しいなんて唱えられない。

 わたしがそれの前に立ったとき、不意にゆらりと立ち上がる。同じ顔の女が杖を――

「……っ、リディクラス!」

 見せられない。見せられるわけがない。見せて良いわけがない。わたしが恐怖しているものは、皆とは少し性質が違うから。闇の帝王が怖い? 闇の魔法の道具が怖い? 否、否、否。わたしが見た恐怖は、エメラルドグリーンの光を発している。

 閃光を泡に変え、それを何とか隠しきった。しかしルーピンは、顔をひきつらせてこちらを見ている。どうやら見てしまったらしい。授業の終わりに部屋へと呼び出され、大きなマグカップにホットチョコレートを用意された。

 馬鹿なルーピン。わたしがこれに口をつけると思ったか。

「その……さっきのは」

「先生には何ら関係のないことでしょう。あなたがあの人に何も関係しようとしなかったように」

 ならず者どもの日和見主義者。お前が見棄てたもの達は、一体どれ程の苦しみを背負ったか知るが良い。あれらの手綱を握れるからこそ監督生になれたのであって、お前自身の価値がそれに相応しいなどと思うな。

 わたしの冷たい言葉を聞いて、ルーピン殿は凍りついた。

「エバネスコ」

 わざわざマグカップを傾けてやって、中身を有言呪文で消してやる。お前のことは毛の一筋たりとも信用してなどやるものか。動揺、慚愧、それらの感情が瞳に揺らぐ。知ったことか。苦しみ抜いて、消えるが良い。

 言葉を探してどうするのか。お前に言えることなどない。

「さて、用がそれだけならば失礼します。ここにいる時間が惜しいので」

「いや……君は、まさか、ソーウェルの……」

「その名はあなたが気安く呼んで良いものですか?」

 無礼になろうが構うものか。わざわざ無言でマグカップを洗ってやって、わたしは部屋から抜け出した。先程のは教師としての話ではないようで、咎めも追い縋りもしてこない。どうでも良い。下らぬ感傷で憐れまれても苛立つだけだ。

 その日から視線を感じ続ける。鬱陶しいことこの上ない。しかし所詮はただの教師で、寮内にまでは干渉はない。だから彼は気付かない。わたしのはいた、四足のわらじに。彼の友を追い詰め死を与えるために、どれほどわたしが尽力しているか知らないのだ。

 学びと、苦痛と、安らぎを乗り越えて。向かう先は禁じられた森。最近ここから視線を感じ、そして毎度のことながら――

「バウッ!」

 こうして黒犬が襲い掛かってくるわけだ。理由は全く分からないが、雑に呪文で攻撃してやる。何となく後が面倒になりそうなので、任務で使う呪文は封印だ。エクスペリアームス、エクスペリアームス。しかし黒犬は意にも介さず執拗に噛みついてくる。

 森を探索しながら犬と戯れ周囲をキョロキョロ、どこにいる? シリウス・ブラック、出ておいで。もちろん出たら殺してやろう。今なら正当防衛成立だ。ダンブルドアなら追放してくるかもしれないが、それならそれで構わない。お嬢様に仕えることは至上命題ではないからだ。

 今日も門限。明日も同じ苦しみに満ちた日々が始まるだろう。苦痛と苦痛と苦痛と苦痛。それらからは逃げられない。それはシャノン・ソーウェルの存在意義であるからだ。シェイラ・スワンの皮を被ったシャノン・ソーウェルの。

 深夜も苦痛は終わらない。むしろ夜こそ彼らはやりたがる。インカーセラスとオブスキューロ。苦痛を快楽へと変換させて、にやにや、嘲笑、激痛。夜明けの前に力尽きる。それがわたしの日課です。どうぞ皆様お使いください。わたしはスリザリンの下僕です。

 くるくるくるり、わらじの魔法。ゆっくり眠れ、明日も同じだ。夜明け前に起きてまたくるり。眠り足りないくるくるり。疲れが取れるまでゆっくり眠ってさあ今日が始まるぞ。

 そんな日々が続いたある日、寮監に呼び止められた。

「スワン、来たまえ」

「はい先生」

 もちろん従いますとも、わたしはスリザリンの下僕です。とはいえ先生も使うのだろうか、スリザリンの純血様方のように。それはそれで気になるものの、口にして問うのは憚られる。

 しかしそれは杞憂のようで、部屋で紅茶を差し出された。

「……お前が寮内でどうなっているのかは知っている。我輩にはそれを追及をする権利は残念ながらない。ないが……本当に、お前はそれで良いのか」

「わたしの意思など尊重されるべきものではないでしょう?」

 それは彼にとっては答えだったようで、痛ましげに顔を歪めてきた。別に先生には関係のないことで、それに何を口出しされても意味のないことだから。そんな顔をされても困るだけなのだ。ああ、でも、多分――母はそれを、望まない。

 とはいえ今更拒めやしない。未だわたしを使わぬ貴族に庇護を求めようにも無理がある。お嬢様は黙認。ブルストロード様も黙認。マルフォイ様も黙認。黙認、黙認、黙認だらけ。誰が敵で、誰が味方になり得るかなんてもう分かるはずもないのに。

 やっと分かった。二十七回じゃなくて良かったな、とは。聖二十八一族のことか。ならばそこから庇護者を探さねば。母を悲しませたくはない。母の望みはわたしの望み。叶えてやらねば生きる意味もなし。

 論外なのは、マルフォイ、クラッブ、ゴイル。フリント、パーキンソンに、ブルストロード。ノットもきっと、無理だろう。カロー、グリーングラス、一考の余地あり。ウィーズリー、ロングボトム、マクミラン、アボットなぞ庇護を求めようもなし。

 得るものは多くない。だが、失うものは多い。柵などない人形娘のはずなのに、失うものが多すぎる。ハイリスクローリターン。お嬢様を、スワンを、全てを捨てられるか。試されるのは本当にそれだけか。

 ぐるぐるぐるり、思考も回る。どうしてどうすればどうやって。そんな迷いが表に出たか、ある休日ホグズミードに連れ出された。誰も近づかぬ叫びの屋敷。つまりそれは格好の――

 スワン、スワン、あなたがわたしを連れ出したのは。本当にこうするためなのか。虚ろな瞳でクルーシオ。母の痛みよりもまだ軽い。クルーシオ、クルーシオ、クルーシオ。痛みなんてどこにもない。なのにどこか、心が痛い。

 まさかのここでも、オブスキューロ、インカーセラス。スワン、あなたもなのか。苦痛を与えられているのはこちらなのに、わたし以上に歪む顔。涙と汗とそれ以外のものでぐっちゃぐちゃ。

「シャノン、シャノン――ッ!」

 解放。それはどんな時よりも痛く、辛く、苦しく、そして快楽へと変換させやすい。だというのにスワンはそれを変換させずにむせび泣く。いやいやと首を振る。生理的嫌悪によだつ肌。やめて欲しい、そうありたいのはわたしの方だ。

「違う……違う、僕は、こんなことをするために――ッ!」

 解放。解放。解放。流れる涙は不思議な程に温かく、するりと胸に落ちてきた。

 

 ああ――そうか、スワン。あなたは、多分、いやきっと。母のことを――

 

 エメラルドグリーン。それは目隠しごしに禍々しく閃いて、わたしを苦しみから解放する。そして、スワンも。余韻が消えぬうちに激痛、解放、激痛、激痛。呼吸を変えて、落ち着かせて。いつものどんな任務より、心が痛む音がする。

 術者が死んで、解き放たれた腕をそっと痛みに添える。形は変わってしまったけれど、すぐに元に戻るだろう。わたしはそういうイキモノだから。ゆっくり萎んで、痛みは消えた。生暖かいナマモノはすぐに連れ去られてひとりぼっち。

 死んだスワンはもういない。瓶に雫を掬い取り、零れぬようにきつく閉める。そうして屋敷をスコージファイ。臭いまで消して、身嗜みを整えて。これで何もなかったことになる。だから、どうして、流れる涙は瓶に当たって消えていく。

 落ち着く頃にはもう門限。重い腰を上げて寮へ戻る。深夜こっそり抜け出して、禁じられた森に瓶を埋葬した。きっと彼は弔われない。報われない。だから、わたしだけでも――埋めてやる。小さく墓石を作り出し、さらに小さく刻んでやる。『R.I.P』、続いて悩んで『Simon Swan』。安らかに眠れ、サイモン・スワン。

 ベッドに戻って、もう決めた。これを宿命というものあらば、そんなものなど叩き壊してやる。人が死なねば決められぬ。軟弱、惰弱と自身を罵りそれでももう決めた。こんなことは終わりにしよう。

 授業を受けて、くるくるり。オブスキューロとインカーセラス。しかしわたしはそれを受け入れない。しかめっ面にステューピファイ。そして慎重にオブリビエイト。まずは一人。さあ次だ。くるりくるくる、繰り返し。

 何度も何度も繰り返す。ステューピファイに、オブリビエイト。次第に回数は減っていって、残りは一人。さあ終わらせよう、くるくるり。最後の一人も呆気なく、その事実を――

「お前はただそうあれば良かったのにね」

 嘲るように裂かれた口が、失敗したことを告げてきた。杖は捨てられ、クルーシオ。クルーシオ、インペリオ、クルーシオ、クルーシオ、インペリオ、インペリオ。意思が保てない。ふわふわ幸福、はい喜んで。

 目までおかしくなってきた。そこにいるのは一人? 二人? 男? 女? 全てが全て壊れていく。痛み、苦しみ、全てを快楽へと変換させて。手が四本、口が二つ。

「ヘスティア、甘やかさない方が良いわよ」

「でも、フローラ。この子を飼うの、楽しくない?」

 呼び名で分かった。そうか、この二人は。ひとつ年下のカロー姉妹か。その思考も快楽で消えていく。右でカリカリ、左でペロリ。正常な思考が帰ってこない。登り詰めても戻ってこられない。

 好き放題になぶられて、気が済むまで何時間経ったか。二人はクスクス笑って印を刻んだ。これ見よがしに、残虐な笑みを浮かべて。白いみぞおちの上に絡み合う青い蛇。髑髏はない。ゆるりと杖が振られれば、そこに甘い痺れが広がった。

「これは合図よ奴隷娘。こうなったら、すぐにここにいらっしゃい」

「遅いとおしおきしちゃうから、あんまり待たせない方が良いかもね」

 クスクス、クスクス。飼い主が変わった。どうすれば良い。この二人から逃げ出すには。部屋に戻って、しばらく経って。わたしのお嬢様はパンジー・パーキンソンでなくヘスティアとフローラ・カローになった。いつになれば逃げ出せるのか、全くもって見通しが立たない。

 くるりくるくる、繰り返し。逃げ出す術が見つからない。何度も何度もトライ&エラー。捕まる度にどこかが壊れ、逃げ出す気力が消えていく。任務はもうない。代わりに双子になぶられる。正気は削られ、心が消える。いつしか時間の感覚さえも消え去った。

 二人はどこででも印に火を灯す。授業中でも、深夜でも。朝の寝起きの時間でさえ。授業のためにはもう回さない。双子のためにくるくるり。目的は既にすりかわって、いつでもわたしは双子のためにある。

 誰もいない地下牢教室で。双子の部屋で。任務の部屋で。八階の廊下の先で。震えるものと、生暖かいものと、熱いものとが責め立てて。既にわたしはわたしを認識できなくなっていた。壊れた人形娘はただ双子のためにある。

 そうしてある夜。いつものように双子の姉妹に呼び出され、部屋から抜け出そうとしているところを捕まった。腕を掴むのはダフネ。後の二人は眠りこけている。

「……どこにいくつもりなの?」

「……お答え……っ、あ、っ……でき、ま……せ、ぇっ……んっ……」

 刻まれた印は時間が経つとわたしに快楽を落とし込む。すっかり快楽へと変換させてしまったあの苦痛は、時間が経つごとに大きくなる。離して欲しい、切実に。他ならぬダフネにこんな状態のわたしを見られたくは――ないのに。

「インカーセラス」

「なっ……いやっ」

 急な呪文にとっさのフィニートも出ない。口は既に閉じられて、集中できずに解呪も出来ない。もごもご言うのが耳障りなのか、マフリアートにシレンシオ。ベッドに転がされ毛布をかけられ寝ているように偽装されて。そのままダフネは部屋から消えて。そして朝まで帰ってこなかった。

 苦痛が、苦痛が、増幅されて。にっちもさっちもいかない状態になって。追い詰められても何も出来ず。わたしは人形娘のはずなのに、涙がぽろぽろぽろぽろ零れていく。嫌だ、嫌だ、ダフネにだけは。布団はもぞもぞ動いていただろう。音が消されていることに感謝した。

 朝になって隣の二人は喜び勇んで出掛けていく。マフリアートが切れたのか、漏れて聞こえる楽しげな声。ホグズミードで乾杯だとか。どうやらイースター休暇だったらしい。そんなことすら気付かずに、わたしはずっと、時間の狭間を生きていた。

 部屋に戻ったダフネは言った。

「破れぬ誓いを結ばせたわ。あの二人はもう貴女に何も出来やしない」

「ど、うして……」

 零れる言葉。理解が出来ない。どうして、どうして、それしか言葉が見つからない。温かい。どうして、どうして。どうしてその白磁の腕は。月桂樹の瞳は。透き通るような金の髪は。わたしに向けられているのだろう。

「どうして、ですって? 友達を助けるのに理由が必要?」

 衝撃だった。ダフネはわたしを友と呼ぶ。わたしはダフネを友だと思ったことはないというのに。ダフネは仕えるべき純血で、けれど他とは違って慈愛に満ちている。そのくらいの認識。毛色の違う美しいひとだ。

 起き上がるには酷く力が必要だったけど、それでも向き合わなくては失礼だ。

「ダフネ……様」

「良く頑張ったわ。貴女は頑張った。言われた任務はとっくの昔に果たせているの」

 強張った。まさか、知られているなんて。知らないはずだと愚かに思い込んでいた。任務は、任務はお嬢様方の誰にも知られたく――いや、知られて当然か。パンジー様は、とても口が軽くていらっしゃる。

 心配げに下げられた柳眉はすぐに寄せられ目蓋がその瞳を隠している。すぐに開いてわたしは壁に追い詰められた。

「ひっ……や、ダフネ……さまぁっ……」

 みぞおちに杖。触れる杖先が痛みではなく快楽を流し込む。それだけは、それだけは嫌だ。ダフネにだけは、されたくない。ダフネにだけは、して欲しくない。わたしはそのために生まれてきたはずなのに、それだけは果たしたくなかった。

「やめて……嫌、です……っ、ダフネ、さま……」

「……悪辣な子達。ごめんね、シェイラ。もう少しだけ……我慢していて」

 口を押さえた。両手は塞がり、目の前は涙で塞がって。刻まれた印が一つずつ、時間をかけて剥がされる。ごめんなさい、ごめんなさい。こんなわたしでごめんなさい。どうか軽蔑してください。

 最後までぺりっと剥がれたとき、わたしはもう我慢なんて出来なかった。

「来る……ッ、く、るぅ!」

 視界が消えて、意識が飛んで。壁に背を持たせかけたままずるずる滑る。乱れた呼吸を必死に整えて、貪るように冷たすぎる空気を吸って。頭が冷静になってきて、どうしようもなく無理だった。こんなの、こんなの――もう、無理だ。

「あ……あ、っ」

 認めてしまえば早かった。母が何故ああしたのか良く分かる。心が耐えきれなかったから。ぶるぶるぶるぶる震える寒々しい心では耐えられなかった。だからこうして杖を自身に向けて、震える声で唱えたの。

「アバダ・ケダブラ」

 息絶えよ。息絶えよ。けれど意識は消えなくて。手には既に杖がない。凍えるように寒い中、酷く遠くから声がした。

「……っ! だから、嫌だったのよ……吸魂鬼なんて! エクスペクト・パトローナム、エクスペクト・パトローナム! どうか……どうか照らして、私の心を、シェイラの心を!」

 ゆるりと温かい空気が揺らいで滑り込んでくる。白銀の美しいもやがわたしを包み込む。それと同時に柔らかい身体も。ガチガチ震える身体を抱き締めて、ダフネは窓から湖の上を睨み付けた。誰も助けに来てくれない。

 だけど、その代わり白銀の鹿が駆け付けた。ダフネとわたしの隣に降りたって、窓の外を駆け巡る。少し空気が軽くなり、ようやくそこで気付けたこと。どうやら正常な思考が出来なかったらしい。

 ゆっくり、凍えるような寒さが消えて。ついでに熱も消えて、冷静に。

「……あ、の」

「何も話さなくて良いわ。私が話すから」

 そしてダフネは言った。カロー姉妹はもうわたしに手を出さない。その代償はダフネが支払って、それで全てがもう手打ち。どうしてそんなことを、と問うことすらダフネは許してくれなかった。

 白魚のような指がわたしのそれに絡まって、ダフネは最後にぽつりと呟いた。

「……ごめんね、シェイラ。私じゃ、こうしないと貴女を助けられなかった。根回しにこんなに時間がかかるなんて……思いもしなかったの」

「そんなの……そんなの、わたし、でも、ダフネ、さま……わたしは、どうすればそれに報いることが出来るのですか?」

「……っ、そんなこと……いいえ、貴女はそういう子だものね。なら、少しだけ手伝って頂戴」

 喜んで、ダフネ。わたしはあなたのためならば、どんなことでも――

「ちなみにやって欲しいのはネズミの捕獲よ、ウィーズリーの」

「……え?」

「ちょっと悪趣味すぎるあの子達のニーズに応えられそうなのがそれしかなかったのよ。私だってあんまり乗り気じゃないわ。でも、破れないんだもの、仕方ないわね」

 そこからわたしとダフネはネズミと猫を捕まえた。末弟のウィーズリーのペットと、それと仲の良いグレンジャーのオレンジ色の猫だ。それを合わせてカロー姉妹に献上し、それで誓いは果たされた。

「見ない方が良いわよ」

 頭を押さえてダフネは言った。けれどもわたしは目を離せない。ヘスティアとフローラが嬉々として、呪文をかけてネズミを猫に、猫をネズミにしようとした。ネズミは猫にはならなかったので、猫をネズミにしたのだが――

「いえ、でも、あの……だ、グリーングラス様。何かネズミがネズミじゃなくなったのですが」

「……へ?」

 ダフネが振り向く。そこにいたのは禿げ上がった小太りの中年男。フラッシュバック。彼は、彼は、彼は――! いきなり部屋から全員廊下に叩き出され、談話室へと転がり落ちる。

「……ピーター・ペティグリュー!」

 猫にフィニート。オレンジ色は逃げ去っていき、ダフネとわたしで挟み撃ち。手には杖なし、すぐに男はネズミに早変わり。逃げ去ろうとして瓶詰めに。空気穴だけは開けてやる。

「……ピーター・ペティグリューって、シェイラ。確かシリウス・ブラックに殺されたんじゃ……」

「シリウス・ブラックは、ブラックに殉ずる覚悟もないクズです。そして、このネズミはならず者どもに殉ずる覚悟もないクズです。……スネイプ教授に突き出しましょう」

 すぐに二人で教授のもとへ。詳しい説明は出来なくとも、ネズミを出して、目の細かい檻を作る。

「ここで呪文を使う許可は出していないが?」

「先生ならお分かりになるかと思いまして、もう少しだけお許しください」

 ぶるぶるぶるぶる震えるネズミ。しかしそれにかけるのは、アニメーガスを人間に戻す魔法。途端に身体は膨張し、現れたのは先程と同じく中年男。教授の変化は劇的だった。

「……これはこれは……シリウス・ブラックの腰巾着殿ではないか。あれに爆破されたと聞いていたのだが、ペティグリュー? 何故貴様は生きているのだね」

「やっ、ややややあスネイプ。久し振りだね……」

「我輩は貴様のごときネズミに呼ばれるほど落ちぶれてはおらんよ……」

 杖を向ける。誰が見ても教授は激情に囚われていて、逃げ出せない。縋るようにダフネを見、純血の慈悲深さに訴えかける。もちろん彼女は聞きやしない。そこにルーピンと犬が駆け付けひきつる顔。ネズミは二人に命を乞うた。

「くそったれだ」

「十二年だ……お前を殺すためだけに十二年も待った!」

 犬は男に早変わり。現れたのはシリウス・ブラック。目の前で始まるならず者どもの喜劇。最後にネズミはわたしに言った。

「も、もちろん君は逃がしてくれるだろう、ソーウェル。君は僕の娘じゃないか」

 驚く一同。どうやら彼らは知らないらしい。もちろんそれは、事実でない。

「そこの狼人間の言うことを借りますが、くそったれです、このクズが。それにわたしの父はあなたじゃない」

 こんなクズに説明してやるまでもない。ソーウェルの特殊な生態は、彼を父とは認識していない。わたしの父は、間違いのない純血だ。

 逃げ場をなくして蒼白に。すぐにこの場に現れた魔法大臣とダンブルドアが尋問する。ブラックは無実を、ペティグリューは自身の潔白を吐き散らす。何て醜悪なならず者ども。曖昧に笑うルーピンなんて、昔のままで変わっていない。

 娘二人が邪魔なのか、ホグワーツ功労賞だけ与えられて追い返される。そうして後日知ることには、ペティグリューの勲章が剥奪され、代わりにブラックがそれを受け取った。そしてブラックは栄転し、ホグワーツ付きの闇祓いに早変わり。

 激動過ぎる三年目。わたしは『ソーウェル』と『スワン』を喪った。

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