それは狂わせた。 作:こよみ
苦痛。それはわたしにとっては快楽と同義だった。けれどそれはわたしに限ったことではなかったらしい。もうオブスキューロはされないけれど、逃げ出すこともまた出来やしない。もう戻ることは出来ない。どんな場所にも――ここが、わたしの場所だから。
幾度にもわたる任務にももう慣れきってしまって、けれども極度の疲労からかわたしはもう動くことすらままならなかった。指一本動かすことですら億劫なのだ。そんな人形娘を今日も彼らは使っていった。
そんなある日のこと。好奇心からかマルフォイがわたしに与えられた部屋へやって来た。
「なっ……ふっ、服ぐらい着ろ!」
「……マルフォイ……様? どうせ……無駄になるものを、どうして……着る必要が?」
まだこういうことに耐性がないのか――いや、そういえば前回の任務にも参加はしていなかったか。だからここまで真っ赤になって狼狽える。ホグワーツで晒していた姿とほとんど同じだというのに、純情な少年だ。
ゆっくりと呼吸を整え、ちらりとマルフォイを見る。何故か制服だ。
「……どうしてそんな格好なので?」
「何でって……今日から始業だからだろう。その前に任務を言い渡されてきたんだ」
何の、とは彼は言わなかった。ただ任務とさえ言えばこちらが分かるとでも言いたげだ。そしてそれは自明の理であり、わたしには彼が何のためにここに押し込まれたのか分かってしまった。つまり、今からわたしは――
「……済みませんが、起き上がるだけの体力がなくて。近付いていただけますか」
「あ、ああ。いやでも身体は隠せよ」
彼は実に紳士だった。ゆっくり近付き、わたしの横たわるベッドの横に立った彼をわたしはそのままベッドに引きずり込んだ。
「なっ……お、おい! 何して……んむっ」
水の音。わたしはマルフォイの言葉ごと全てを飲み込ませた。それだけでわたしには彼が普通の男の子だと分かってしまう。
「……これが、任務です。任務の終わりには……連れていってくださいね。わたしではないわたしを」
わたしはうまく笑えただろうか。彼はひどく苦しい顔をしてそれを受け入れる。苦痛。彼に絡み付いてそれを出来るだけ早く終わらせてやらなければと思う。わたしはもう通えないけれど、マルフォイはホグワーツへ行かねばならないのだから。
彼は我慢強かった。本能で分かっていたからだろうか。けれども悲しいことにわたしは百戦錬磨なのだ。文字通り。いつもの誰かよりは遅かったが、確かにわたしは彼から受け取った。そして激痛。それを見てマルフォイの顔が歪む。
「スワン――!」
「誰もっ……呼ばないで、マルフォイ様……っ、これも、任務、なんです……うっ」
ひゅうひゅうと死にそうな呼吸。急激に膨れたそこから産み出されるそれ。それはすぐに幼い少女の形を取り、十一歳くらいに見えるようになった。
「なっ、何なんだ……何なんだこれは!」
「……ふぅ……っ、ん、はぁー……っ、ふぅ、それは『わたし』です」
そう定義付けてやれば、すぐにその『わたし』は同じ姿になった。マルフォイの懐からわたしの杖を探り出し、それを振るってスリザリンの生徒となる。
「おぞましい、でしょう……?」
虚しく響くその言葉。事実だろう。誰にとっても。けれどマルフォイはかすれた声で哀れみを示す。
「……お前、任務って……ずっとこんなことを?」
「軽蔑しましたか?」
その言葉に様々な色をマルフォイは浮かべた。そこにはただの思慮深いやさしい少年がいた。
「……いや。このこと……アストリアには言うのか」
「『わたし』がそれを明かすことは禁じられています。でも……全ての罪は償わなければなりません」
それは遠回しの肯定だ。いずれアストリアにも言わねばならないだろう。お嬢様と呼ぶことすらもう出来ない繊細なあの方に、聞かせたくないことでも。知りたいと望まれるのならば伝えなくてはならない。
「そうか……」
そこに浮かんだのは哀れみだろうか。わたしは哀れまれるべき人間ではないのに。彼はそのまま『わたし』を連れていき、またわたしはここでひとりぼっち。けれども今までとは違ってきちんとした食事が差し入れられるようになった。
いつものように苦痛が始まる。
「……悪いが、解放はしてやれん。利用させてもらうぞ、
彼はその名でわたしを呼んだことはなかったはずで、だからこそ印象付けられた。幾度となく彼はわたしと任務をこなし、苦しげな顔で去っていく。悪名高い彼であっても良心は痛むのだろうか。わたしはそれを黙っていた。
いつしか食事を持ってくるメイドも『わたし』に変わり。いつしか見た目だけ装った『わたし』がマルフォイの家に溢れていた。たまにやって来るヴォルデモートがそれに気付いた様子はどこにもない。
不思議なことに、ヴォルデモートとだけはどれだけ頑張っても任務を果たすことが出来なかった。まるで運命か何かが邪魔をしているようだ。欲だけはあるだろうに、それではやはり足りないらしい。
苦痛の途中に夢を見る。きちんとした意識を持たされている『わたし』は色んな所にいた。今日の夕食はスープが良いと思えばそれが反映され、アストリアを助けたいと思えば自然と助けていた。そして一人の少女と出会う。
「あんた、変だ」
「あなたにだけは言われたくないのですが?」
直球でそんなことを言う彼女の方が控えめに言って変だった。蕪の耳飾りにコルクのネックレス。夢見がちな少女の瞳は焦点が合っていないようで、『わたし』ではなくわたしに焦点が合わされている気がしてならない。
「うん、あたし、よくルーニーって呼ばれる。だから変なのは認めるよ」
「……済みません、言い過ぎました」
今日も今日とて夢を見る。ホグワーツではピンク色のカエルが蔓延って。大人しく従順な生徒達を管理したがっていた。グリフィンドールがそれに従うわけがないのに。とはいえ『わたし』も手伝う立場だ。アンブリッジとかいう権力に飢えた女は好き放題使える『わたし』を自由に扱った。
「夢だったのよね。貴女をこうして扱えるのは上流階級のステイタスだもの」
まるで無邪気な童女のように杖を振るう。クルーシオ、クルーシオ。苦しんでいる振りをしてやる。喜ぶアンブリッジ。まるでごっこ遊びのよう。いつしかわたしは『わたし』のせいで、それに耐性がついてしまった。十何年越しかの成果である。
時には融通の聞かない『わたし』にインペリオ。ふわふわ心地はもう消えた。何度も何度もかけられて、こちらも既に効かなくなっている。こうなるまでに何回喰らったことだろう。数回? 十数回? 数十回? あるいは数百回? 既に数字に意味はない。
がつりと衝撃、引き戻されて苦痛にあえぐ。何度そうされたところであなたと任務は果たせないのに、どうしてそこまで拘るのか。理解が出来ない。不気味な笑みが恐ろしい。何かの確信を抱いてはいるようだが、それが何なのかわたしには分からない。
同じ部屋で暮らしていても、ダフネはもう『わたし』と目も合わさない。気付かれているのだろう。けれども彼女は誰にもそれを言いはしない。言う意味がないからなのか、それとも何か考えているのか。それすらももう感じられなくなっていた。
「そんなこと、いつまでだって続かないよ、シェイラ」
「分かってるわ、ルーナ」
狡猾な当主マルフォイはもう自分以外を逃がし終えている。後は次期当主と自分だけのはず。なのに彼は逃げようともしていない。理由が全く分からない。
いつしか人が増えていて、見知らぬ女がやって来た。
「ふん、出来損ないが。せっかくあの方の寵愛を戴いているっていうのに……!」
どこかマルフォイ夫人に似た彼女は思う存分わたしでその憤懣を解消した。他の誰より強力なクルーシオ。どこぞのカエルなぞより倍は強力だ。それでも耐える。耐えられる。何故ならもうそんな感情は消え去ってしまったから。
苦痛の中で、また夢を見る。あまり自我のない量産型の『わたし』はぼんやり歩いて薄暗い場所へ。小さな水晶が並ぶその部屋で、気付かれぬようするりと一つ、手に取った。
『大いなる狡猾な蛇のつがいはいずれ滅びるだろう。破壊と絶望の扉は開かれる。最後に残るものはなく、つがいは跡形もなく消え去るだろう』
ああ。もちろん。跡形もなく消え去るだろう。何故ならそこにいる『わたし』は死ぬためにそこにいる。絶望の果てに破壊をもたらすためにそこにいる。かつてスリザリンに連なる純血の子を大量に残すべく産み出されたホムンクルスの子孫が何故滅びないと思うのか。
待ち構える死喰い人ども。そこに向かうポッター達。そして罠にかかったポッター達は、ポッターの予言を手にして囲まれた。
「やっぱりお前はそっち側なんだな、スワン!」
吠えるポッター。しかし『わたし』は反応することすら出来ないのだ。何故ならそこにいる『わたし』には自律行動出来るだけの知性はないのだから。
代わりに夢見がちな声が歌うように告げる。
「違うよ、ポッター。それはシェイラじゃなくてソーウェルだし、でもやっぱりどこかスワンなんだ」
「悪いけどルーナ、黙っててくれ」
ポッターにバッサリ言葉を切られていたけれど、それは確かに真実だった。
「予言を渡せ、ポッター。さもなくば魔法省を破壊する」
「誰が渡すものか!」
そして呪文の応酬、応酬。『わたし』は何も出来ずに立ち尽くし、その異質な状態に目を付けた茶髪のふわふわが皆を『わたし』の身体を盾にして撤退させ始めた。なるほど賢い方法だ。何故なら彼らはその時まで『わたし』を殺せやしないのだから。
闇祓い達も駆け付けてきて、魔法省の地下で派手な戦闘が始まった。呪文の嵐。『わたし』はその中でただひとりぼうっと立ち尽くしている。何故ならまだ出番ではないから。だから気付いた。ニヤリと笑うあの女。名前は確かベラトリックスとか言っただろうか。彼女が呪文を発して、それを無意識に追いかけて――
そして、憎い男を抱えて投げ捨てる。
「……生きて苦しんで。ならず者どもの罪はいつまでだって禊げない。早く逃げて」
「なっ――」
「裏切ったな、ソーウェル!」
激昂するベラトリックス。しかし『わたし』はもう反応しない。ブラックに反応できたのは彼が憎いから。あのままアーチに突入すれば呆気なく死ぬと分かっていたから。だから投げ捨てた。呆気なく死なれたくはなかったから。
「クルーシオ!」
ベラトリックスの怒りのクルーシオは限界を超えそうなほどの苦しみを『わたし』に与え。その直前で止まって崩れ落ちる。そこに現れたのはヴォルデモート。彼がそれを止めたのだ。しかしもう『わたし』の運命は決まっている。
「ポッター、予言を渡すのだ」
「ふ、ふん、もうあんなもの壊した!」
グダグダ言っている暇があるなら逃げるが良い。これこそがわたしの任務の真髄。ありとあらゆる意味で間違った使い方。意志薄弱ながらも残酷に虐待され続けることによって発生してしまう、最低にして最悪の――
「なっ――」
「うっ……ああああああああっ!」
叫び。白い身体の中から沸き立つ黒き靄。ひきつる顔で逃げ出す子供達。死喰い人は今の隙にと呪文を放って。身体が震え、『わたし』の視界が閉ざされて――そして。
魔法省が、崩壊した。
死者は魔法族の割に多く出て、魔法省はその機能を停止した。それを発生させたものを、ダンブルドアは『オブスキュリアル』と呼んだ。抑圧された魔法使いに『オブスキュラス』と呼ばれるものが宿り、暴走した結果があれだと言ったのだ。かのグリンデルバルドが利用したものらしいがわたしにはさっぱりだ。
学校の『わたし』はすぐさまポッターに糾弾され、アンブリッジの手によってあわや大惨事となりかけたところをダンブルドアが止めに入った。そのまま眠らされて監禁され、二度と起こされることはないだろう。そう言っているのが聞こえた。
しかし忘れてやいないだろうかとわたしは思うわけで。
「……そういう理由なら、下手に監禁しない方が良いと思いますが」
「お主……起きておった、いや……?」
探るような目でこちらを見てくるダンブルドア。見るだけならば良いが開心術は喰らってやれない。何故ならそこにいるのは『わたし』でわたしではないから。
「流石、察しがよくて助かります、先生」
「ミス・スワン……いや、シェイラと呼んでも良いかのう?」
「愛着が湧くと切り捨てにくくなるので止めておいた方が良いかと。改めて解説が必要ですか?」
きらきらと輝く青い瞳がそれに答えた。
「うむ、そう言われると聞きたくなるのが性というやつじゃな」
実に鬱陶しい答えだ。しかし言ってしまったからには伝えねばならない。おぞましい、スリザリンに伝わる伝統を。
「さて、先生はわたしが何のためにあの逆転時計を使っていたかご存知ですか?」
「カルカロフから聞いておる。スリザリンの全ての純血の小間使いとして働くために必要であったと」
それはまさに綺麗事で塗り固められた本当のことだった。
「飾らず言えば純血製造機ですね」
「それを是とは言わさぬよ。お主もわしの可愛い生徒じゃからの」
「止められもしないくせにそんなことを言われても……まあ、それは置いておきましょうか」
何か言いたげにこちらを見てくるが、わたしはそれを無視してやった。その問答に意味などないのだから。終わったことは変えられない。変えるつもりもないのだから。産み出したものの責任はきちんと取らねばならない。
「では、『スリザリンのS』のことは?」
「かつてサラザール・スリザリンの造り出した純血のためのホムンクルスじゃろう? それがどうし……まさか」
自分で言っておいてようやく理解できたらしい。そう、スリザリンのSこと『シャノン・ソーウェル』は、彼の生きた時代から脈々と続くホムンクルスの群れなのだ。途切れかけた純血の血を保存し、次代へと繋ぐためのシステム。それが、わたし。
「そうです。わたしが、母が、祖母が、そのまた先までいくら遡ろうとも。シャノン・ソーウェルは純血のためにあります」
「……いや、もしそうであってもミス・スワン。お主はお主じゃ」
どこまでもおめでたい頭をしている。いや、推測できようはずもないのだからそれがわたしにかけるに相応しい言葉だと思ったのだろう。だが、違う。ここにいるのは『わたし』でわたしではないのだから。
「純血の子をいくら孕もうが、次代のシャノン・ソーウェルを名乗れるのはたったひとり。わたしもそうで、母もそうであったのです」
「と、いうと……」
「あなたはこれを愛だと呼ぶでしょう。父の髪と瞳の色を受け継いだ者のみがシャノン・ソーウェルを名乗れるのです。そして、受け継ぐ条件は相思相愛であることです。そうでなければこのように、白い髪と赤い瞳の娘ばかりが産まれますから」
白い髪と赤い瞳。ダンブルドアの目の前にいる『わたし』は瞳だけを誤魔化している。それを解いた。そしてわたしの瞳はシルバーグレイ。とある人物と同じものだ。髪はとうの昔に色を失ったが、そうなる前は黒かった。
驚愕に目を見開く彼にわたしは告げる。
「わたしからシャノン・ソーウェルが産まれたならば。わたしは彼女がホグワーツに通う前に死ぬでしょう。そして呪いが効力を発揮します。いつかどこかで同じ名のシャノン・ソーウェルと出会っていても違和感を覚えないようになる。母の名を継いでいることに疑問など感じないのです」
それはわたしという意味の喪失にも似て。シャノン・ソーウェルを知ったダンブルドアは激しく嫌悪を露にした。
「そんなものは……愛とは呼ばぬよ」
「そうですか」
沈黙。けれどずっとこれを続けるわけにもいかない。きちんと彼には言わなくては。
「なら……お願いします。わたしを、シャノン・ソーウェルを名乗れない数多の娘達を。どうか、皆々鏖殺してください」
「そ、れは……」
「誰の発案かは知りませんが、ほとんど全員が魔法省を破壊した『わたし』のようなオブスキュラスを秘めています。一昨年はそれを量産するのが任務でしたから」
がたりと音を立ててダンブルドアが身体を乗り出した。そんな馬鹿なあれはグリンデルバルドがなどとぶつぶつ呟いて、それら全てが答えにならないままに消えていく。
戦慄く唇が、答えを乞うた。
「それは、何人くらいおるのか……?」
「千人は下らないでしょう。品種改良されたのかわたしは一日あれば全ての行程を終わらせられてしまいますので」
最早それは絶望の数字。改めて思えば狂気の所業でしかない。よくぞここまで壊れずに生きてきたものだと我ながら感心してしまう。それに特化したホムンクルスだからこそ出来ることだ。いつ誰がそのようにシャノン・ソーウェルを改造したかは知らないが、何代も品種改良は進められていたのだから。
父親の胤と自身の卵を掛け合わせ、腹の中で錬成されるホムンクルス。常人より早く育ち、シャノン・ソーウェルでない娘達は父親と同質の遺伝子を保持しながらその姿を変えるのだ。父親の望む姿に。性別すらも越えて。そうしてあるものは奴隷として生き、あるものは中継ぎの当主として血を残す。擬態した娘達の正体を暴く術はない。
最早人間とすら呼びたくないほどのおぞましき生き物。それがシャノン・ソーウェルより産み出されしホムンクルス達だ。彼女らはただ純血のためにある。純血はそれを慰み物にしても構わないし、どんな魔法実験に使っても構わない。
「お主の……本体も、かね」
「もちろん。シャノン・ソーウェルの血を継ぐホムンクルスどもの中でも一番強力なオブスキュラスを宿しているでしょうね。わたしは筋金入りですから」
だからこそいつか大きな破壊をもたらすために使われるだろう。たとえば、目の前の疲れはてた老人を殺すために、だとか。
「……では、先生。そろそろ……さようなら。いつかまた会う日まで」
するりと杖を胸に当て、あのときの母のように囁いた。
「アバダ・ケダブラ」
緑の閃光。意識だけが苦痛の中へと戻っていく。いつもよりも強い苦痛を感じながら、虚ろな瞳を天井に向けて。耳障りなクルーシオを聞きながら。