それは狂わせた。   作:こよみ

8 / 8
安寧の至宝

 ゆるり、とカーテンが揺れる。真っ白いカーテン。誰かは確か薄いピンク色をしたカーテンだと言っていたけれど、残念ながら色を失って久しいわたしの視界に映るのは白黒の世界だけだった。真っ白いベッドの上で上体を起こし、窓の外を眺める。

 いっそこのまま誰かが現れて魔法でも放ってくれやしないだろうか。もちろんそんな都合の良い救いは現れはしないのだけれども。いつまでもわたしはこの白い病室に囚われていた。今までも、これからも、きっと死ぬまで。

 それでも良いか、と思えるようになったのは本当に最近になってからだ。時間の感覚などやはり失って久しいものだけれども。前はずっともがいて苦しんでいたような気がする。今すぐこの命を終わらせなければわたしはわたしを赦せなかった。そうだったはずだ。

 ホグワーツでの戦いが終わってすぐに、わたしはこの病室に監禁された。当然だろう。いつ暴走するかすら分からない危険なオブスキュリアルを野放しにする理由がどこにも見つからない。すぐに杖を奪って自分にアバダ・ケダブラしようとするわたしを皆が拘束し、何度も説得された。

 それでもわたしは諦められず、どこかに残っているだろう『わたし』を探した。けれど顔を潰した少女はもうわたしには従わず、七変化の女性はあの戦いで暴走していて、黒髪赤目の幼女は『わたし』ですらなかった。そして他は残されてすらいなかった。わたしは楽に死ぬ手段を失った。

 首をくくってみた。舌を噛んでみた。手首を切り裂いてみた。首を掻き切ってみた。窓から飛び降りてみた。窓ガラスで心臓を抉り出そうとしてみた。ありとあらゆる方法を試したが死ぬ前に必ず止められてしまった。わたしは苦しんで死ぬ手段すら失った。

 もがいても、あがいても、誰もわたしを死なせてくれない。殺してくれない。罰してくれない。責めてくれない。傷付けてくれない。犯してくれない。痛め付けてくれない。苦しめてくれない。わたしは苦しめられる権利すら失った。

 わたしに一体何を求めているのだろう。大切な名前ももう焼き切れてしまった。大切な人がいた気がする。守りたかったものがあった気がする。けれどもわたしは大勢の人を殺した。負の感情を暴走させ、オブスキュラスを大いに解き放って快感を得てすらいたはずだ。それをどうして誰も問わないのだろう。わたしは大切な人の名を失った。

 ああ、今日も一人。ベッドの隣に金色の髪がなびく。

「シェイラ……」

 泣いている。そのうつくしい月桂樹のような瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちている。真珠でも見ているかのような気分だ。よく知っている人のはずなのに。わたしはぴくりとも動けない。慰めることすら出来やしない。わたしがどう動いても傷付けることしか出来ないと知っている。

 氷のように硬直した身体。動かそうと思っても口は一切開かない。喉が震えることもない。音が発されることもない。ただか細く呼吸だけが規則正しく続いていて、わたしを生かしてしまっている。わたしは自身の身体にさえ裏切られている。自立行動すらわたしは出来なくなってしまっている。

 ひとしきり泣いた月桂樹の女性はわたしを抱き締めて、そして「また来るわ」と言い残して去っていった。もう来ないで、と言えるほどに声が出れば良かったのに、わたしはそれすらも出来なくなってしまった。わたしはどこにも行けない。動けない。

 どれくらい時間が経ったのか。朝かもしれないし昼かもしれない。はたまた夜なのかもしれないし深夜なのかもしれない。常に明かりの灯ったこの部屋でそれを知ることは出来そうにない。知れるほどに感覚が鋭いわけでもない。

 銀髪の青年が黒い髪の女性と赤子を連れてきたこともある。多分。色が分からないから推測でしかないけれど。青年は痛ましい顔でわたしを見てそれっきり。いつか伝えたかった言葉はもう白にとけて消えた。赤子は命に満ちていて、わたしの手を振り払って泣いた。月桂樹の瞳からぽろりと涙がこぼれる。わたしにはその涙を拭ってやる権利すらない。

 皆が入れ替わり立ち替わりするけれど、わたしは誰にも何も言えなくて。殺してと泣くことすら出来なくて。心ばかりが死んでいく。わたしは死ねば楽になれるのに。もう痛くもなりたくなくなってしまったから、死んでしまいたいのに。

 やがて人が減って、機械的にわたしを生かす看護士がいるだけになって。皆が痛みを忘れていく。わたしもまたそれは例外ではない。あれほどまでに鮮明に焼き付けたはずの死体の群れがもう遠い。あれに償わなくてはならないのに。赦されてはならないのに。死ななくては償えないのに。死ねない。

 強制的に栄養を取らされる。生かされる。何故。死なせて。暴走したくない。誰ももう殺したくない。どうか、どうか、お願いだから死なせて――

「君のそれは逃げだよ、スワン」

「ムーニー……」

「僕らは逃げない。だから、君も逃げずに向き合うんだ」

 いつの間にかいた擦りきれた男はそう言って、看護士に絶対にわたしを死なせるなと懇願していた。どうして。わたしは赦されるべきではない。逃げずに向き合うんだ、なんていわれても何と向き合うべきかすらもう分からない。

「貴女が向き合うべきはその罪ではありませんよ。貴女自身です」

 老女がそう言って、消えていく。わたし? わたしに向き合うべき? 意味がやっぱり分からない。向き合うべきわたしなんてどこにもいない。だって、そんなものは最初から存在していないから。

 やがて誰もがわたしを忘れていく。その穢らわしい罪だけを残して。

「分かります。貴女は死にたいと思っている。皆身勝手なことばかり押し付けていく……けれど、もう赦されても構わないのですよ」

「……あたし達は進みます。どうか、幸せになって、お婆様」

 ああ。どうか、幸せになって。心が抉り取られていく。あなた達が幸せになることをわたしは心から望んでいる。けれどわたしは救われるべき人間ではない。人間ですらない。ただの道具なのだから、幸せになる権利すらない。

 あの日のあの地下室で、わたしは死んでいるべきだったのだ。そうすればこんなにも誰かを殺さなくて済んだのに。とぐろを巻いた黒い感情がぐるぐるぐるぐる渦巻いていく。けれどもわたしはそれを意思で押さえつけ、縛り上げてまた身体の中へと導いた。

「ロルフ、出来る?」

「出来るわけないだろ、ルーナ……これは、僕らの手に負えるようなものじゃない。お祖父様にだって無理さ……」

 誰かの声が聞こえる。けれども彼らもまたわたしに何もしてくれない。出来ないと明言されたのは初めてだ。どうか生きてと、死ぬなと、幸せになれと身勝手に願っていく中で。彼らだけははっきりと出来ない、無理だと言ってくれた。

 ああ、どうして。それでも彼らは何もせずに消えていくのか。またわたしはこの白い牢獄でひとり。何も出来ず祈り届かぬままに。どうか。どうか――どうか。

 しばらくまた時間が経って、不意に枷が外された。反射的に杖を取ろうとしたが、異様に身体が重い。寒い。この感覚はどこかで覚えている。けれどもそれがいつのことだったのか、あるいは本当にあったことですらないのか。わたしには分からない。

 目の前に黒い塊が。希望が奪い去られていく。そうしてそれと同じになれると思ったのに、何故かそいつはガラガラとわたしの魂を吸い上げるのをやめてしまった。むしろ吐き出した。何故だ。そこまで希望が欲しくなかったのか。

 そこに女性が飛び込んできて、叫んだ。

「エクスペクト・パトローナム! 守護霊よ来たれ!」

 何だろう。この懐かしい暖かさは。けれども見たことのないこの光景は。白銀の猫がそれを追い払っていく。それを尻目に抱き付く柔らかな感触。髪の長い女性。ああ、これは――

「……だ、ふね……?」

 久しく仕事をした声帯が割けかけて血の味が――ああ、味がする。目の前で鮮やかに色づいたダフネは随分大きくなっていて、もう立派なうつくしい大人の女性だった。

「シェイラ……シェイラ!」

 反射的にエピスキー。加減はなんとか調整した。久しぶりの感覚。ああ、わたしは……どうしてこうも穢いのか。包まれている暖かな身体が嬉しいだなんて。どうかしている。だのにわたしはそれを振り払うことすら出来ないのだ。

「どうして……」

「聞いて、シェイラ。判決が出たわ。全部決まった。誰も貴女を罰することはもう出来ない。身元は私が引き受けた。だから……だから、一緒に行きましょう」

 どこへ? なんて聞かなくたって構わない。だってわたしに行くつもりがないから。わたしはどこにも行けない。もうそんな体力は残っていない。限界を超えて孕み続けた代償は、極端なまでの衰弱だ。そのまま死なせて欲しかったのに、どうして皆は生きろというのか。

 ほら、この一歩すらも。ぐらりと視界が揺れてへたりこむ。

「シェイラ!」

「……っ、ふぅ……っ」

 生きたくない。けれどきっと、ここにいては止められるから。だからわたしは姿くらまし。もう痛みなんて感じられない。暗い、あの地下室へ。久しぶりの色の暴力が目を痛め付けてくる。あの時のまま、何も変わっていない。

「……っ、たて、ない……」

 ずっと使われなかった足はもう役目を果たしていなかった。仕方なく近くの絨毯にウィンガーディアム・レヴィオーサ。ふわふわ漂いわたしはその真ん中へとやっと帰ってきた。ここがわたしの終着点だ。

 蹲って、転がって、そして。目蓋が自然と降りてくる。どうか閃いて、あの時のように。

「死ね、化け物め! お前さえ、お前さえ産まれてこなければ良かったのに! アバダ・ケダブラ――」

「やめなさい! そんなことをしたって貴方の家族が帰ってくることなんてないんだから――!」

 ダメだ。そこにダフネがいたら、そんなのは、そんなのは――!

 

 奇跡のようにわたしの身体はそこに滑り込んだ。

 


 

「それで、お母様。その人はどうなったの?」

「さあ、どうなったのかしらね。ほら、お話はおしまいよ。早く準備なさいな」

「はぁい」

 ある夏の日に、金色の少年が駆けていく。愛しい息子。大人になってそれなりの相手と結ばれて。そして産んだ子だ。酷く優秀で手も焼かされなくてまるで理想の息子のようだった。裏で少しやんちゃをしていることくらいは知っているが。

 ああ、今日も、泣き声が聞こえる。生前であればほとんど聞かなかったその声はいつだって耳元で囁いている。救えなかった。贖罪が出来なかった。どうしてどうしてどうすれば良かったの。そんなことで泣く必要はないのに。

 本当にあの子は頑固だった。

「お母様ーっ、行きましょう! ダイアゴン横丁へ!」

「ちょっ、気が早いわよ! もう……」

 煙突飛行粉ですぐにダイアゴン横丁へ。横丁は今日も賑わっていた。あの痛ましい戦争なんてなかったかのように。代わりにもう見慣れてしまった銀色の光が静かにそれを見守っている。危険なことが起きたらすぐに対処できるように。

 あれからすぐにイギリス魔法界に現れたこの銀色の光を、魔法省はすぐに調査した。ニュート・スキャマンダーをはじめとする魔法動物学者にも依頼が飛んだ。徹底的な実験が始まった。けれどもすぐにそれが魔法族にとって危険なものでないことが分かった。

 何も危害を加えることがなかったのだ。どんな実験にも素直に従うという時点で色々疑うべきだとは思うのだが、とにかく何をやられても従順だった。動きを見せるのは誰かが危険な目に遭いそうな時だけ。そんなときだけそれはふわりと飛んで庇うような動きを見せる。

 特に、死の呪文に対する抵抗力は凄まじいことになっていた。全く原理の分からぬことに、当たると何故か増えるのである。光の方がだ。誰もがその近くで暮らしていさえすれば死の呪文に怯えなくても良くなったのだ。もうおいそれと唱えるような輩はイギリスには残されていなかったのだが。

 とにかく無害だということで、その光は放置されることになった。そして新種の魔法動物として登録された。命名したのはニュートの孫ロルフの妻となったルーナであったという。

 ずっと、その光はダフネを見守ってくれていた。そしてダフネにだけ聞かせてくれた。その悔いる声を。嘆きを。聞きたくないとはもう思わない。二度と聞けない真の友の声を聞けるのは、この時しかないのだから。

「お母様、僕……ちゃんとホグワーツに行けるでしょうか。寮に入れるでしょうか」

「大丈夫よ。どんな寮に入っても、私は貴女を愛しているわ」

 息子を抱き締め、銀色の光に触れる。戸惑ったように揺れるそれに慈しむように触れ、その手を息子の手に触れさせた。後ろは見ない。先に進まねばならない。振り返ることは、出来ないから。

 光はいつか消えるだろう。けれどそれはきっと、誰かの救いの導となるだろう。スリザリンのつがいなどではなく――名もなき人達への救いとなれるだろう。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。