六か月前というと僕のような十代の学生にとっては顧みることもない大昔だが、その時起こった出来事は今後の僕の一生に忘れがたい爪痕を残すほど鮮烈かつ刺激的なものだった。
平和で平凡な日常に突如空いた風穴。そこから始まった冒険はやたらと非現実的な代物で、終わった今となっては本当に現実のものだったのか疑いたくなる。
しかしあの異世界での冒険は確かに存在したのだと、この手に残る古傷が証明している。
それはある男との望まぬ出会いから始まった――
「ああ、やっと見つけた。僕を覚えているかい?」
パリッとした紺のスーツを着た痩せ型の男がほっと息を吐き、頬を緩め俺に近づいてきた。
俺は怯えていた。
その男には一度も会ったことが無かった。学生時代の親友に十年ぶりに再会したかのような馴れ馴れしさで肩を叩かれる理由は十七年の人生のどの記憶を探しても皆無だった。
今朝、いつも通りの時刻に家を出た直後のことだ。ホームルームに遅れる心配のない余裕を持った登校を友人に自慢してやろうと笑いを漏らしながら角を曲がると、その男が待ち伏せしていたのである。
紺色のスーツ。痩せ型。無駄に良い容貌。
近頃ここらをうろついている不審者。この男だ。俺は確信した。昨晩わざわざうちに出向いてきた警察官が伝えた特徴をそのまま具現化したような風貌をしている。
「し、知らねぇよ」
どもりつつ、俺はなんとか口にした。
「おいおい、あまりとぼけてくれるな。今日は6月15日。長旅はもう終わったのではないか?」
男の喋り方は不自然だった。現代には不釣り合いなほど古風で偉そうな言い回し。
逃げなければ。
「まさか移動のショックで僕を忘れたなんて言いやしないだろうね。上谷翔太クン」
俺は青ざめ、息を呑んだ。それはまさしく俺の名に相違なかった。
思い出す。信じたくなかった、不審者のもう一つの特徴。
「上谷翔太という人物について嗅ぎまわっているようです」
怪しげな人物に声をかけられたら迷わず大声を出し通報するように、と警察官は忠告した。目撃情報によれば武器は所持していないそうだが、万が一のこともある。
「あの竜のいる世界を、忘れてしまったのか。山より高くそびえていたあの竜を」
竜? 何を言っている? 竜は架空の動物だ。架空の動物のいる世界は架空の世界に他ならない。そんな世界は存在しないのだから、行くことも叶わない。当たり前だろうが。
忘れるなんて冗談きついぜという顔で男はへらりと笑う。
こいつ狂ってるんだ。
「竜なんていない」俺は絞り出す。委縮してしまう体を打って、出せる限りの大声で。
「それに、今日は6月14日だ。15日は明日だよ、この不審者が!」
初めて男は動揺を見せた。致命的なミスを犯したという顔で額を押さえる。「……そうじゃないか。考えてみれば、今日は14日……勘違いをしていた」
「警察を呼ぶ」俺は後ずさりしながら、「妄言をばらまくなら警察署にするんだな」
スーツの男はあからさまにたじろいでから、ふっと口元を緩めた。
「……まだ君は向こうに行く前だったのか。悪かった。ならば一つ啓示を授けよう、……余計に混乱させてしまうだけかもしれないがね。『雨』と『塩』には気を付けたまえよ。間違っても、死ぬことのないように」
そう言い残すと、男は化け物のような瞬発力で俺の横をすり抜け、あっという間に学校とは逆方向の道を彼方へ走り去った。通る場所につむじ風を起こしそうな、陸上選手も腰を抜かす俊足だ。
「なんて野郎だ……」スマホを握ったままの手に汗が滲んでいた。
死なないように。これは殺害予告か?
奴は手ぶらだった。つまり武器は持っていなかったが、危険人物であることに変わりはない。
しかし、雨と塩に気をつけろ、とは何のつもりだろう。
俺の住む街である快円町は山に囲まれた土地柄で、何でも昔は塩山開発の拠点としてたいそう繁栄を極めた、と歴史の授業で習った。町民の間では常識だが、それと何か関係があるのか。
いや、考えるのはよそう。相手は狂人だ。一般人に理解できる思考回路じゃないさ。
「お、まだいた。遅れるぞ、翔太」
振り返ると姉がサンダルをつっかけて出てくるところだった。朝の散歩に出かけるのだろう、ぶかぶかのシャツにショートパンツという軽装だ。右手にビニール袋を下げ、それを俺に投げてよこす。
「それゴム長靴。昼から豪雨らしいから持ってけって母さんが」
「えぇ……」
「雷で死にたくなけりゃ持っていきな」
「……はい」
渋々リュックに長靴を入れ、男勝りな姉に手を振られ高校へ向かった。
我らが地元、快円町の土壌には塩山から流れ出した塩分がしみこんでいるため、降雨時には塩分を含んだ水溜まりが至る所に発生する。そして塩水は電気を通すため、毎年雷の被害が出るのだ。その被害は十数人に上り、雷による死者数では全国屈指の多さを誇る。
山には避雷針が設置されているが、雨水に溶けた塩分は水蒸気に溶けたまま空中に飛散する(*)ためどうしても雷は地表に届いてしまい、つまるところほとんど用をなしていない。町民は常にゴム製の手袋や合羽を携帯し、雷雨は柱に巣食う白アリより嫌われている。
そして雷雨の日には決まって行方不明者が出る。
一説によると年あたりの行方不明者も他地区とは比べ物にならないほど多いとか。一晩の間に村が消滅したなんておかしな都市伝説もあるし。なんだ、ただのホラー映画の舞台じゃないか。
なぜこんなところに生まれてしまったのか――などと嘆いているのは俺くらいのもので、皆にはそれが当たり前の日常なのである。ネットで半端な知識をつけてしまった俺の方がむしろ憐れむべき存在なのかもしれない。
周りを気にしつつ警察署に一報を入れる最中も、不審者が言い残した「塩」の臭いが鼻をつくのだった。
(やれやれ、嫌な土地柄だ)
閑話休題、とモノローグにけりをつけ、もたもたと学校を目指す。
不審者もじきに捕まるだろう。日本の警察は優秀だ。
「歩くの遅いなー、翔太」
コンビニ帰りの姉とすれ違った。がさがさと鳴るビニール袋の中にアイスの箱を発見し、帰ったら真っ先に冷凍庫をのぞこうと決心する。
電線でちゅんちゅんとさえずる小鳥をぼけっと眺めながら燦々と太陽光線に照らされ、歩いた。
平和だ。そこだけは平和を取り戻した、変わりない日常の一コマだった。
だからだろうか。
――そんな一景を走馬灯に見たのは。
思ってもみなかった。まさか自分が雷に打たれるなんて。毎年数人被害者が出るとはいっても、快円町の人口は少なく見積もっても一万人は下らないからと、なんとなく他人事のような気がしていた。
それはまさしく一瞬の出来事だった。
梅雨の季節に温暖化を配合したような熱帯特有のはずの局地スコール的豪雨の中での下校を余儀なくされていた。スニーカーをゴム長靴に履き替えゴム製合羽を上下ともに着込んでの完全防備状態だった。
荒ぶる豪雨は「道路=水溜まり」の等式を既に完成させており、水溜まりは濁流と化し、そうか実は道路とは川なのかと奇妙な悟りを開きながらの下校だった。
突然視界が白く染まった。頭に衝撃がある。
これが俗に言うホワイトアウト? いや、あれは雪だったか。最初に考えたのはそんなことだった。
雷鳴の残響が耳を支配する。背筋の冷える轟音がみるみる遠のいていく。
そうか、俺は、
映像が脳裏を駆け巡った。
生温かい陽光、突然話しかけてきた不審者、雨と塩、ハンサムな驚愕顔、姉の微笑、今朝の母の手料理、この町の都市伝説、新聞を読んでいた父、だだっ広い草原、雷雨の中そびえたつ竜、ゴム長靴、響く雷鳴。
一瞬き、時間にすれば0コンマ数秒のうちに数えきれない記憶の断片がよぎり、ぶつかり、混濁し、
痛みを感じる前に、俺の意識は雷雨の彼方に飛び去った。
………
……
…
――ここはどこだ? 病院か? 俺は……ああ、生きている。
……一体どのくらいの期間眠っていたんだろう。雷に打たれてなお生還とは、
やれやれ、危うく今年の被害者の一人になるところだった。
体を起こした。眼を開けて最初に見た太い梁がまぶたの裏にこびりついている。
……梁?
天井に視線を移す。梁である。視線を下ろす。柱である。それも完全なる木の。
「え……え?」
壁も、屋根も、柱も、すべてが剥き出しの木の色をしていた。所々ささくれだった無数の木目が俺を囲んでいる。パッと目に付くのは壁をくりぬいただけの窓枠や出しっぱなしのちゃぶ台くらいのものだ。壁紙も窓ガラスも電灯もない。昔ながらの日本家屋でももう少し何かあるだろう。
にわかに頭が混乱してきた。
一体、ここはどこなん「やあ、気が付いたかい」だ…?「早かったね」
思考を遮ったのは若い男の声だった。
誰だ? 雷で気絶した俺をここに担ぎ込んでくれた人だろうか。だったらお礼の一つでも言っておかねば……。
がらりと扉を開け入ってきた声の主。その細身の男を見た途端、頭頂部に「?」が三つほど鈴なりになった。
着物?
何度瞬きしても間違いない、その男は縦じまの入った着流しに帯を締めた和服スタイルだった。なぜだか右袖に「H」とファンシーなアルファベットが刺繍してある。
男は整った目鼻立ち――あれ、どこかで見たような――をしていた。あご髭の反り方が中途半端なせいでやつれて見える。30代くらいだろうか。
「上谷翔太君だったか」
「あ、そうです」
「いい天気だね」
「?」
「たまげたものだったよ。雨が止んで丘に登ったら生きた人間が倒れていたんだから。死体ならばまだしも」
男は物騒なことを飄々と喋り出した。
「あの丘に飛ばされてくるのは死体ばかりだ。それも焼け焦げ、しばしば八つ裂きでね。雷とは恐ろしいものだ。ここ10年で生きてあの地を踏んだのは十中八九僕と君だけ」
「ところで君は何年から来たんだい? 僕はそちらに興味がある。2012年なら僕と一緒だ。僕がこの世界に飛ばされて9年がたっているから、……2021年辺りかな?」
益々混乱してきた。聞きたいことは山ほどあるのだ。滔々とマシンガンのように言葉を繰り出す男を俺は両手で制して、
「ちょっと待って」
「よし、待とう」
「俺に質問をさせてほしい」
「分かった」
以外に聞き分けの良い男性だった。俺は居住まいを正し、
「ええと……ここはどこの病院ですか?」
「知り合いの薬屋の家さ。この時代……いや、この世界に病院と名のつくものは存在しない」
男は真顔でそんな事を言った。
存在しない……?
「……?? 病院がない? この現代に? 今時どこの片田舎でもさすがに診療所くらいは」
「ないんだ」にわかに彼の表情が翳る。「あるのは江戸の文化と医療技術だけだ」
「江戸? ……江戸時代? なんで?」
「わからない。ただ一つ確信をもって言えるのは、ここが君の良く知る現代とは全く異質な世界だということだけだ」
言っている意味がさっぱり分からない。江戸? 異世界? 質の悪い冗談だ。
順を追って考えよう。俺は豪雨の中、快円町の町中を歩いていたはずだ。そこで雷に打たれた。そして目を覚ましてみればこれだ。白茶けた前時代的な家屋で現代らしくもない服装をした男と突拍子もない会話をしている。何が起こったのだ? 何かの演出じゃないのか。
「外へ出てみないか」男は手招きし、「面白いものを見せよう。話はそれからでも遅くない」
「いやいや待て待て。ここがどこかくらいは教えてくれてもいいだろ」
俺が抗議する頃には彼は既に門戸に手をかけている。そのままの姿勢で振り返ると俺に向けてゆったりと笑顔を作り、
「言っただろう? 異世界さ」
言い終わらぬうち、青年は扉を開け放った。眩しい白光が視界を満たし、かこん、と小気味よい音がした。