「言っただろう? 異世界さ」
言い終わらぬうち、青年は扉を開け放った。眩しい白光が視界を満たし、かこん、と小気味よい音がした。
扉ではなかった、引き戸だ、木製の……。
「僕はユースケ。以後、お見知りおきを」
光の中で奴が振り返り、ざりっと土を踏んだ。
草履だ。奴が履いている靴、いや、靴ではないか、
「ユースケ……?」
光に目をそばめながら、俺は男――ユースケ――の爽やかな笑顔の内に、わずかに諦観の色を見た。
外は早朝なのか、扉の方から吹いてくる風がひやりと頬を撫でた。「おはよう」「これから暑くなるわよ」と女性の声がする。
よろよろ立ち上がり、ふらふらと門戸をくぐった。
「ユースケさん、おはよう。あれ、今日は遅いわねえ」
「そろそろだと思います。奥さんが早起きなさったんでしょう」
「あらそう?」
ユースケとつつがなく会話しているのは彼と同じく和服を着こんだ中年女性だ。赤と茶をまぜこぜにしたような色の花柄の浴衣を纏っている。
「その鳶色の襦袢、良い具合に馴染んできたではありませんか」
「そうなのよ。ようやく着慣れてきたわ」
見渡す限り、江戸の街並みだった。道沿いに切れ目なく続く家々には暖簾や古びた看板――読みにくいのは右から左へ書いてあるからだ――が並んでいた。理髪店、喫茶店、銭湯……。
通りの先に小ぶりな城らしい建造物があり、逆方向には黄緑色の草原が見える――田畑だろうか。
なにもかもがドラマで見飽きた江戸の景色そのものだった。
何だ、どういうことだ。
快円町は何処へ行った!
俺は悠長に世間話を続行しているユースケにつかみかかった。中年女性が「きゃあ」と耳障りな悲鳴を上げた。
「おいあんた、いい加減にしてくれ。ここは何という町だ。どうして俺はこんなところにいる。……犯人はあんたか。どうやって俺をここに連れてきた!」
至近距離でユースケと対峙すると、なぜだか強い既視感に襲われた。彼の髭面が誰かの顔と重なり、ぼやける。
ユースケはどう言ったものかと考えるように頭を掻くと、余裕の笑みを浮かべ、
「雷さ」と言った。「君は雷に打たれたのであろう?」
またあの鼻につく喋り方だ。
「そうだけど、それが今この状況と何の関係がある!」
「その原因が雷だと僕は考えている。僕らは同じ運命をたどり、こんなたわけた色の空のもとに投げ出された同士というわけだ」
「空?」
すい、と視線を上にやり、俺はそのまま凍り付いた。「……!」
――緑‼
ショウリョウバッタが大群で押し寄せてきたか、もしくはプラネタリウムを乗っ取ったかのような薄緑の霧が俺達の頭上に余すところなくかかり、渦を巻いていた。右手には富士山ほどもあろうかという巨大な山の裾野が広がっている。
「霧じゃない。寝ても覚めてもこの色だ。白い雲は見られるがね」見透かすようにユースケが言う。
唖然として固まった体とは裏腹に、頭には思考と情報が駆け巡りパニックに陥っていた。
な、な なんだこの空は、俺の知る空じゃない、ここはどこだ江戸時代か、違うユースケは多少変だが標準語を話していた、ここは現代だ、ならば何なのだこの町は! 空は! 服装は!
姉ちゃん父さん母さん、どこかにいるなら出てきてくれ、「全部映画のセットだったのさ、よくできてるだろう」とでも言ってくれ!!
完全木造の家、江戸の街並みときたら今度は緑色の空か、クソッ、何もかも理解できない、夢なら覚めろ、さっさと覚めろ!
「大丈夫さ、じきに慣れる。住めば都というやつでね」暢気にそんなことを言いやがる。
「ふざけるな。 何も知らないくせに! 戻り方を教えろ、早く、一刻も早く!」
「それはまだ考えている最中だ。気長に待つか、一緒に考えてくれたまえ」
「何だとこの野郎!」
「やめてください!」
激昂しユースケに殴りかかった俺に誰かが横から体当たりをかました。突然のことで俺は完全にバランスを崩し無様に、土剝き出しの地面に転がる。「ぐあっ」
「…この、なにしやが、……っ」悪態をつこうとして俺は息をのんだ。
「佑輔さん、この物騒な輩はどなたですか。よもや佑輔さんの知り合いなどではないでしょうね」
鼻息荒く叫び気味に少女はユースケを問いただす。着物をまとい帯を締め、身長ほどもあるなぎなたをこちらに一直線に向けていた。
やめてください、と甲高い声音が頭の中で繰り返された。
複雑に結った豊かな髪を頭上でまとめ、額に青筋が浮くほど物凄い形相をしているが、容姿自体は利発さとあどけなさが共存していて若々しい。二十にも満たない、もしかすると同年代かもしれない。
「まさか。こいつも天から降ってきたのさ」
「またその冗談ですか。どうせ竜慈丘の彼方からやってきた浪人なのでしょう?」
「そんなところだ」
長く太く、相当の重量であろうなぎなたを一部の隙もなく構えつつ、後ろで飄々と腕を組む優男と会話をする余裕がある。俺が立ち上がろうものなら躊躇なく腹か胸かを突くつもりだろう。
剣道も柔道も習ったことはないが、彼女は相当の熟達者に違いない、と根拠もなく思った。
畜生。
緑に渦巻く空を背負い、女は怜悧な視線を俺に照射している。「動いたら殺す」と切れ長の目が雄弁に語っていた。
「あら、意外と若いのね」
驚きより侮蔑を前面に押し出した呟き。「おいくつ?」少女は酷薄な笑みでもって尋ねた。
「……十七」
「まあそんなに。長男ですか?」
「……ああ」
それがどうした。何の問答か。とは思っても、状況の主導権は彼女にあるのだ。地面に尻をつき、なぎなたを向けられ、対抗する武器も持たない俺が何を言ったところで詮無いことだ。
「家業の手伝いなどはされていらっしゃるのかしら」
「……してない」
「道理で子供じみているわけだわ。先程の狂気じみた言動行動、まるで赤子のよう」
「なんだとテメェ…!」
「動かないで」
ぴしゃりと放たれた一言で、俺は反射的に動きを止めてしまう。彼女に逆らってはいけないと肌がビンビン察知していた。
「みっともないことですわね。女である私ごときにやられて恥ずかしくはありませんの? 男、それも長男ならゆくゆくは家業を継ぐと相場は決まっておりますのに。貴方の代で血筋を途絶えさせぬようせいぜい精進することですね。……竜慈丘の彼方からはるばる逃げてきた輩に何を言っても無駄でしょうが」
罵詈雑言を並べ立てていく少女。時代錯誤な感じはいかにも昔、江戸時代を彷彿とさせる。
こんな場所、来たくて来たわけじゃない。何が血筋だ畜生。まずリュウジキュウがどこだ。俺は今どこにいる。……帰りたい。一体どこにいるんだよ母さん父さん、姉ちゃん。
悔しいのか悲しいのか、知らず、涙が浮かんでいた。
「ふっ、泣いているのですか。旅の者ならまだしも、盗人になるしか道がないような人に貸す宿はありません。早くこの町から出ていきなさい。そして竜にでも食われてしまえばいい」
「やめておけ」ユースケが後ろから言った。
「で、でも、佑輔さん……」
にわかに少女の態度が軟化する。ははーんこの女ユースケに気があるな、などと思っている余裕はなかった。動こうとしても、体に力が入らなかった。
「この子もいきなり丘に投げ出されて混乱しているんだ。許してやってくれ」
「う……、分かりました。他ならぬ佑輔さんの頼みですから」
「ついでにこいつを君の宿屋に止めてやってほしいんだが」
「はぁ⁉」
「頼むよ春ちゃん、俺の顔に免じて」
「むぅ……、……それでは、お代はどなたが支払うのですか」
「こいつが働く」とユースケは俺を指さした。「珍しい服装だから立っているだけでも客引きくらいにはなるはずだ」
「……」
春ちゃんと呼ばれた少女はなぎなたを下ろし渋面を作ると、横目でギロリと俺を一睨みし、ヘラヘラしている優男に向き直って、
「いいでしょう」と言い、もう一度俺を睨んだ。「しゃかりきに働いてもらいますからね」
ユースケに対してだけは物分かりの良い娘だった。
「はい……」
と答えて俺は一安心する。勝手に俺の住居と職場が決められてしまったようだが、何はともあれ町に留まれそうでよかった。森林や草原に放り出されて、狩猟採集生活を営む勇気はない。
おそらく怒り以外の理由でも頬を染めつつ、少女は「文百二泊一」と書かれた看板の店内に消えた。
看板の文字を逆から読むと「一泊二百文」。安そうだなあと思いつつ、脱力し、ため息をつく。
「はあ……」
なんで俺はこんなところに来ちまったんだ……。
「悪いことしたな」
ユースケが俺の横にしゃがみ、肩に触れる。「やんちゃな女の子なんだ」
「はは……」
ひとしきり文句をぶちまけたかったが、あの超がいくつも付くおてんば娘がどこで聞いているかも知れないため、苦笑いをするにとどめた。
「変な格好のよそ者が突然現れて彼女も混乱してるんだ。君と同じようにね。許してやってほしい」
「分かってますよ」
江戸時代なんだ。ここの人々は俺の着てるような現代の衣服なんて夢にも見たことはないのだろう。自分の店の前でヒッピー野郎が騒いでたら当惑もするというものだ。
それでも嫌がらせの一つくらいはしてやりたい。
あの娘あんたのことが好きみたいですよ良かったですね、と言おうとした――その時。
大地が揺れた。
砂埃が舞う。小石が飛ぶ。視界にあるすべてが振動し始めた。
「……来たわね」
先程の凶行シーンでまるっきり野次馬を演じていた中年女性は驚くのでもなく、むしろ安心したような表情を浮かべた。「これがないと一日が始まらないのよね」
この規模の地震が日常茶飯事なのか?
よっぽど変な顔をしていたのだろう、鳶色浴衣のおばさんは俺に流し目をくれると、
「あら、坊や。これは初めてかしら?」
微笑み交じりに聞かれる。冷や汗をたらたら流しつつ二度三度と頷いた。
「すぐ慣れるわ」もう少し救いのある事を言ってくれよ!
揺れが激しくなる。もうおばさんが何を言っているかもわからない。
膝ががくがく震え、立っていられない。ユースケもおばさんも直立しているのに。恐怖に押しつぶされ、地面にうずくまってしまう。怖い。死んでしまう。
……誰か。だれか。
助けて!
絵に描いたように恐れおののいている俺の両肩を大きな手が包んだ。ユースケ。しっとりとした声音だ。
「……いくつも衝撃が重なってさぞ混乱していることだろう。僕も九年前はそうだった。僕は完全に一人で孤独だったからね。……でも、君には僕がいる。僕は君の思いを知っている。大丈夫さ、保証しよう、」
振動音に紛れて、ユースケが何を言っているか理解できない。かろうじて聞き取れたのは最後の一言だけだった。それはやけに鮮明に鼓膜を震わした…
「上だ。――次の衝撃に備えてくれ」
衝撃……? 上?
見上げると緑空は晴れ渡っていて、視界の半分を占める黒々とした、
竜だ。
心の余裕に数値があるなら、まさに今、ゼロになった。
竜だ、ああ、竜だ竜だ竜だ。
不審者が言っていた――容姿の整った瘦身の男――ドラゴンだ。
う、ユースケ、た、助け、
これ以上刺激を受ければ瞬時に泡を吹きそうな不安定な意識で、救いを求め後ろを、ユースケのいる方を振り返った。
あの不審者がいた。無精ひげを生やしていたから気づかなかったのだ。
「どうした? 翔太君」ユースケという名の狂人が、にっと笑う。
最後の拠り所が消えた。目の前が真っ暗になる。
その時だった。
破壊的重低音が轟いた。
心臓をわしづかみにして握りつぶすような、耳をつんざく轟音。
俺を、舗装もされていない通りを、緑色に開けた大空を、貫く。
竜が雄叫びを上げたのだ。
それがとどめだった。
両目から涙が飛び出す。定められた運命を拒むように、叫んだ。喉の奥、体の底から。
地響きも自分の悲鳴も一緒くたに暗闇の淵へと墜ちていく。
ああ、喉が渇いたな、と思う頃には既に気を失っている。
知らず知らずのうちにさまよいこんだ竜の国。
記念すべき一日目は俺のノックアウトで幕を閉じた。