季節は春の手前。
冷たい空気が肌を刺し、吐く息も白い冬の色。
一刻館はいつもと変わらずに時を刻み続けていた。
五代君が“しいの実保育園”で働き始めてから約1年半になる。
響子さんは管理人の業務と家事に連日追われている。
五代君と響子さんは結婚してまだ1年足らずの新婚さんである。共に待ち望んでいる愛の結晶である子供はまだ出来ていない。
まだまだ恋人気分の抜けないアツアツの夫婦で未だに周囲には冷やかされてしまう。
そんな二人は相変わらず一刻館の管理人室に住んでいた。
[こんちわー!誰かいますか~!]
日差しの眩しい日の午後、一刻館の玄関先に一人の男性の声が響く。
“パタパタパタ”
[はい~、今行きます~!]
響子さんが管理人室から玄関口まで慌てて出て来た。
[あら?二階堂さんじゃありませんか!]
[ど~も、お久し振りです。]
[うわー、相変わらずお綺麗ですね~、管理人さん。]
何と現われた人物は二階堂君だった。
[今日は会社の用事でこっちの方まで来たから、折角なんでついでに寄ってみました。]
社会に出て、自宅に戻りそこから通勤している二階堂君。
この一刻館で過ごした季節(とき)を彼はどう感じていたのだろうか?
[嫌だわ,二階堂さんたら。おばさんを捕まえて。]
照れる響子さん。
[さあさあ、上がってくださいな。今お茶でも淹れますから。]
懐かしい元住人の訪問に思わず笑みがこぼれた。
[じゃあお言葉に甘えて。]
と、上がりこんだ二階堂君。
[あ、ここは・・・。]
二階堂君の足が懐かしい場所の前で止まった。
[懐かしいですか?2号室。二階堂さんが出られた後、学生さんが一時期入居してましたけど今は空き部屋です。]
[そうですか、ちょっと中見てもいいですか?]
[ええ、どうぞ。今鍵をお持ちしますから。]
部屋を久し振りに見たいと言う二階堂君。
それを聞き2号室の鍵を取りに響子さんは管理人室へと戻った。
“ガチャ”
2号室が開いた。
[うわあ、何も変わってないな~本当に。]
懐かしい思いにふける二階堂君。
それを黙って後ろから見つめる響子さん。
[さあ、お茶が冷めますのでどうぞ。]
[あ、ハイ、すいません、すぐに行きます。]
満足したのか嬉しそうな顔で管理人室に入る二階堂君。
[お二人の結婚式以来ですね。管理人さんにお会いするの。]
[もうそんなになりますか。早いですわね、月日が流れるのは。]
取り留めのない会話。
ゆったりとした時が管理人室を包む。
[あ、五代さん・・・と言うか、ご主人さんはお元気ですか?]
ご主人と言う言葉にちょっと抵抗を感じた二階堂君。
[やだ、改まってご主人さんだなんて。ええ、元気ですわよ。相変わらずで。]
それは響子さんも同じだった。
[ところでお子さんはまだですか?管理人さん?そろそろ30歳近いですよね。]
と、突然二階堂君が突拍子もなく言い出す。
二階堂パワーの本領発揮だ!
“人が気にしてることをいけシァアシャアと、この子はもうしょうがないわね”
少し顔がひきつるも・・・。
[え、ええ、まあそのうちに・・・。]
そこは大人の女性であるから適当に流す響子さん。
“ガチャ”
そこへ・・・。
[お邪魔するよ。]
[あー!一の瀬さん。お久し振りです!]
突然一の瀬さんが管理人室に入って来た。
[二階堂君、心配しなさるな。大丈夫、そのうちに・・五代君と二人で一生懸命頑張ってるから・・・ぼ~んとお腹を膨らませちゃってさぁ。]
一の瀬さんはニタニタしながら響子さんを見ている。
それが何を意味しているのか気付いた響子さんは顔をみるみる真っ赤に染め上げてしまって・・・。
[いっ、一の瀬さん、な・・何を変な事言ってるんですか!]
[おやおや、ムキになって可愛いねえ。管理人さんは。]
一の瀬さんの方が一枚上手だ。
3人でしばし雑談。
そして話題は最近の一刻館の事になった。
[今ここは誰が住んでるんですか?]
[今は・・・一の瀬さんと四谷さんだけですわ。]
今は2部屋分の入居者しかいないと言う響子さん。
[まあ近所に綺麗な賃貸物件たくさんあるしね。]
一の瀬さんがしみじみと言う。
[建て替えないんですか?]
二階堂君の素朴な疑問。
[ええ、それも頭をよぎったりする事はするんですけど・・・。]
[もう少し・・・このままで。思い出がたくさん詰まってる一刻館ですから。]
建物に手を付けるには思い出がたくさんありすぎる。
響子さんはそう思っているのだろうか、建て替えに対しては消極的なようだ。
[そうですよね。やっぱり。]
その思いが伝わったのか、響子さんの言葉にそう答えた二階堂君だった。
[まあでも、そろそろ改修くらいはしてもらわないと。]
[もの干し台は腐ってるし、時折雨漏りもするしね。]
チクリと一の瀬さんが釘をさす。
[すいません・・・。わがまま言って。出来る所は修繕しますから。]
[いいんだよ。管理人さん、ちょっと言ってみただけだからさ。]
少なからず、一刻館は老朽化が深刻化してるのは間違いないようだ。
[じゃあ僕、帰りますね。]
[あら?もうお帰りですか。二階堂さん。]
二階堂君はお茶を飲み、ほんの少し管理人質にお邪魔しただけで帰ると言う。
[いや、実は仕事をちょっとサボってここへ来たもんだから・・・。]
[あら、それはいけませんわ、二階堂さん。]
[そんな訳で失礼します。]
仕事の合間を縫って来た二階堂は慌てて帰り支度を始めた。
玄関先で見送る響子さんと一の瀬さん。
[それじゃあ皆さんお元気で!]
“バウ!バウ!”
惣一郎が吼える。
[じゃあな惣一郎さん。]
惣一郎に声を掛け、二階堂は坂を下って行った。
[あいつもイッパシの社会人になったじゃないか。]
二階堂の後ろ姿を眺めて一の瀬さんは言った。
[そう・・・ですわね。]
学生から社会人へと成長していく二階堂の背中。
それは二人には、一刻館にいた時よりも逞しく見えたのだろう。
一刻館はもうそろそろ限界に来ている。
改築、又は取り壊し等を含め、抜本的に手を打たないと住めなくなりつつあるのは誰の目にも明らかだ。
だけど管理人の響子さんは頑固に今のままでいいと周囲の人達に言う。
本当に深い思い入れのある一刻館。
何事もない穏やかな一日。しかし、これは嵐の前の静けさとでも言うのだろうか・・・。
(続く)