輝けなかったウマ娘トレーナーは芽吹く新芽に何を思うか 作:にらたま定食
「ここでさっきの精製物を……あ!」
ボンッ———
長い過程を経て得られた精製物が薬品に触れた途端、過剰に反応し始めて大きな白煙が上がった。
先程までフラスコを通して見えていた景色が、一切合切塗り潰されてしまった。
言わずもがな失敗である。
「……はぁ、ここまで失敗が続くとは。とりあえず換気でもしておこうかね。」
「おはようタキオ、ン"ッ!湿布くさ!何だこれ!」
「おや、おはようトレーナーくん。今においの強い薬品を使っているんだ、お弁当なら冷蔵庫に入れておいてくれたまえ。折角のお弁当に臭いが移ってしまったら勿体ないからねぇ。それと早く扉を閉めたまえ、今太陽光が入ると色々と不都合なんだ。ほら、分かったら早くお弁当を冷蔵庫に入れて出てってくれ。残りの薬品までダメになってしまったらそれこそお釈迦になってしまう。」
ガスマスクを被ったアグネスタキオンに急かされ、彼女のトレーナーは薄暗い実験室の中、発光している自身の体を懐中電灯がわりに手製の弁当を冷蔵庫にしまってそそくさと実験室を出る。
数十分後、分厚い黒カーテンが次々に開けられてゆき、最後に実験室の引き戸が開けられる。
「さあ朝食の時間だ、今日も存分に腕を奮ってくれたまえ!」
まだ湿布臭いアグネスタキオンが、ふぅンと鼻息を荒くして自身のトレーナーを部屋に引き込んだ。
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「ご馳走様。それではいつも通り教室まで運んでくれたまえ。鞄を忘れるなよ?アレがないとただでさえ退屈な授業が余計に長く感じてしまうからねぇ。」
「なぁ、タキオン。あのトレーナーについてなんだが、もうやめないか?あのままじゃ彼女は君の言う通り潰れてしまう。」
「……彼女とは実にビジネスライクな関係だと何度も言っているだろう?代価を貰っている以上、こちらとしてはやるしかない。そ・れ・に、少々面倒ではあったが君にも了承を得た筈だ。」
「それは、そうだけど……。」
確かにそうだ。しかし初めて会った時は既にタキオンとの契約完了の寸前だった。
しかし、あの
そんな気持ちが通じたのか、それとも顔に出ていたのか……彼女は仕方のなさそうにため息をついた。
「……君の気遣いに、私は心底感謝している。しかし彼女なら心配は要らない。表には出さないが、彼女はある意味で私以上の完璧主義者だからね。大元の薬品の保管場所はここじゃないし、彼女もその点はカバーしてくれている。それでいてこんな興味深い実験を被験体とともに提供してくれるなんて、まさにネギを背負った鴨!またと無い機会じゃないか!」
……もしかして最後が一番の本音ではなかろうか。
邪推はともかく、彼女達の関係に俺の入る隙間はない。願わくば何事も無く終わってくれと毎日願うばかりである。
「……分かったよ、君がそこまで言うなら。でも本当に危なくなったら君の安全を最優先にさせてもらう。」
「おやおや、随分とアツい事を言ってくれるじゃないか。まぁ彼女に限って言えば、少なくともその心配は無いとは思うが……もしもの時は頼りにするとしよう。ほら、早く教室に向かってくれ。授業に遅れてしまう。」
機嫌を戻した彼女を、今日も俺はお姫様抱っこで教室に送るのだ。
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最近———特に春の天皇賞を過ぎたあたりから、夢を見る回数が増えた。
今までこんな事なかったのに。とは思ったが、チームを抱える前と後では生活リズムがてんで違うから当たり前なのかもしれない。
分かっているとは思うが、夢と言っても希望やなんやでは無く、寝ている時に見る方の夢である。
蓄積された記憶の処理によって映像化された物、個人それぞれの充足の願望、その他諸々。
そんな感じでメカニズムも深くは解明されていない。
だからその日見た夢の内容で占いをする、なんて無責任な事もできる。
そんな不安定な夢だが、この頃見る夢の内容は決まっている。
それが夢であるという事も自覚している。
つまりは【明晰夢】というやつだ。
……今日も一人きり。
地平線まで広がる草原。
何処を見渡しても山や谷はおろか、建造物のような目印になる物は何一つ無い。
ただ、ちょうど良い深さの芝が眼前に生い茂っているだけなのだ。
時間は明け方、もしくは夕暮れ。方角は判別できない為、それを知る由はない。
試しに芝を抜いてみようとした事があるが、引き抜く直前で目が覚めた。
ちなみにいくら時間が経っても、何度同じ
そんな決まった夢の中、私は何をするでもなく、ただ寝転がって心地よい風に当てられ、夢の中で意識があるまま昼寝をするのだ。
あたりを裸足で歩き回っていると突風に吹かれた。
バランスを崩した私の体を、程よいスプリングのベッドのような芝生がふわりと受け止める。
夢というのは不思議なもので、目を閉じるとまるで映画を見てるかのように自らを俯瞰できる。
しかしそこに顔が映るシーンはない。
簡素な服で寝そべっている栗毛のウマ娘の脚は古傷だらけだ。
髪色、耳の大きさ、そして前髪にある白い巻き毛……私の脚に古傷は無いが、コイツはきっと私なのだろう。
走ろうとすると『夢から覚めてしまう』から、何も無いこの場所で、何もできないまま、何もせず、ほんの一瞬の時間を湯水のように食い潰すしかないのだ。
今回もまた芝の上で惰眠を貪る。
そのつもりだったが、今日は来客があった。
私に近づいてくるのは一人のウマ娘。
その顔を拝んでやろうとも思ったが、こういう時に限って目が開かず、体も動かせず、ただ見ていることしかできない。
まあお約束というやつだ。
何処からか現れたウマ娘は絶えずその姿を変化させている。
毛の色は勿論、髪の長さ、身長、体型……顔は相変わらず黒塗りになっていたが、瞳だけきらりと輝いていた。
私とよく似た、少し横長の瞳孔だ。
でも、あの子達のようにとても澄んだ、まるで宝石のような輝きがある。
私もこんな瞳をしていた時があったのだろうか?
少し考えてみるが、すぐに「もうどうしようもない事だ。」とサッと諦めて思考を放棄してしまう。
だが、どうしてだろう。
彼女のような瞳を見る度に、私の心は締めつけられ、私もこうなりたかったと羨ましく思ってしまう。
所詮私は
しかしどうしても、目の前にあるそれを強く欲してしまう。
こうして一人虚しく思い耽っている間に、来客はしゃがんで、まばたきもせず、その澄み切った瞳で私の顔を覗き込んでいた。
なんだか考えていた事が見透かされたようにも思えてくる。
いまだ姿が定まらないウマ娘は、ホラーのように私に噛み付くわけでもなく、ラブコメのように接吻するでもなく、暗い井戸の底を覗き込むように、ただ私を見つめている。
数時間は経っただろうか。その後も何も起きる事なく、不定形のウマ娘は死んだように眠りこける私の顔を覗き込み続けた。
そろそろこの場所から引き上げる時間になりそうだと考えていると、今までずっと不定形だったウマ娘の形が定まった。しかし同時に瞳と口以外が暗い影に染まった。
『——————?』
何か問いかけられたみたいだが、口が動くだけで内容は聞き取れなかった。
そして来客がふっと笑って視界から外れた。
私は急いで起き上がって来客を———
ガタッ!
突然足を踏み外したような感覚に驚いて、膝が机に当たって大きな音が出た。
部屋には私以外誰も居ないが、どうも小恥ずかしくなって尻尾が揺れてしまう。
どうやら今日の個人メニューを練りながら居眠りしてしまったみたいだ。
昨日の筋肉痛が少しだけ遅れてやってくる。
夢を見たような気がするが、いつもとは違ったような……そうでもないような。
胸のザワつきに気分を害されながら、現在時刻を確認する。
12時半。既に昼休憩に入っている。
外に行くにはもう遅いため学内のカフェで摂ろう。
肉、魚……いや、野菜。そもそも何が残っているだろう。
そんな事を考えながら、貴重品やタブレットが入ったミニバッグを携えて部屋を出る。
天気は曇り。湿度が高くなり始め、いよいよ梅雨に入ろうという風が鼻をくすぐる。
青臭さの混じった黒土の匂い。
ああ、そうだ。と、私はさっき見た夢を思い出した。
思い出しはしたのだが、結局あのウマ娘が誰なのかは全く見当がつかない。
結局悶々としている間に食堂に着いた。
この時間になると売り切れの文字もいくつか見える。居眠りしてしまった自分のせいではあるが、食事のバランスを取るのが難しくなってしまう。
仕方ない。とりあえず空腹を満たして、夜に調整するとしよう。
「日替わりのBを…あ、はい。主菜とご飯は5人前でお願いします。」
私が大食らいなのは職員には既に知られている為、「今日は少なめですね。」なんて心配されてしまった。
愛想笑いで適当に返してトレーを二つ取り、受取口に向かう。
すると今度は「遅かったじゃない。」と顔馴染みのお母さんが少し驚いた顔をしていた。
「まぁちょっとね、色々忙しくて。」
「トレーナーってやっぱり忙しいのねぇ。それと、アンタ少しやつれたんじゃないの?お肌の調子もここのところ良くないみたいだし、あんまり無理しちゃダメよ?」
「ふふ、ありがとうお母さん。気をつけるわ。」
「あら?小鉢は頼まなかったの?ちょっと待ってなさい!」
「あ!今日は時間ないから大丈夫だって、はぁ……。」
奥の厨房に入っていってしまったお母さんはしばらくすると、注文の定食とは別の大きめの丼をトレーに乗せた。
「もずくとめかぶと梅と黒酢、あと納豆の小鉢よ。余ってた物で作ったモンだけど、これも食べなさい!」
「え、悪いよお母さん。」
断ろうとするも「いいから!」の一点張りで、洗い物が待っている事を理由に小鉢(丼)押し付けられてしまった。
時間が惜しい。
このまま戻すのも気が進まないからさっさと席を探すとしよう。
垂れた耳と山盛りの定食をひょいと持ち上げ、窓際の席に着いた。
バッグからタブレットを取り出し、昨日取ったデータを解析用のフォルダに放り込む。あとは部屋のパソコンがデータを取り込んで解析を始めるはずだ。
その間に目の前の食べ物を片付けるとしよう。
「いただきます。」
それにしてもマックイーンの食べた物がすぐに貯蔵される体質はどうしたものか。
最初はただ脂肪がつきやすく、落ちにくいだけだと思っていたが、そういうわけでもなさそうな気がしてきた。
しかし量を減らしても彼女の走りにさほど影響は出ていない。食べた分というよりは、摂取カロリーが体重の増減に関わっている気がしてならない。
吸収効率が高いことは悪い事ではない。むしろ良い点であり、彼女の目指す長距離に対して、燃費の良いエンジンは大きな強みとなるだろう。
問題なのは消費する側の能力。そちらが平均的であるが故に、同じ食事量で同じ運動をしても残りのカロリーに大きな違いが生まれる。
そこにマックイーンの甘い物好きが拍車をかけ、体重の増加に繋がってしまうのだろう。
…とは考えてみたものの、これも推論止まりである。確定させるにしろ証拠が少ない。
タイムのブレが大きすぎる内は、安心してデビューさせる事ができない。
マックイーンも御家柄の名に恥じぬよう日々邁進している身、あのタイプは積み上げてきた結果がその時のコンディションに響く。
そのためデビューまでの調整に失敗は許されない。
いっその事メジロ家にコンタクトを取ってみようか、とも考えてしまう。
「ん、意外とイケるわね。」
お母さんがサービスしてくれた海藻と納豆の梅黒酢和えだが、黒酢のおかげで余計な粘り気が抑えられている。
ご飯と混ぜても小さなカリカリ梅の酸味とめかぶの食感で飽きがこない。
お母さんが居る時は、また同じ物を頼んでみるとしよう。
「ごちそうさまでした。」
時計を見ると昼の休憩は残り5分。
確か高等部の化学の授業で薬品を扱う連絡が来ていたはずだから、それまでに資料の整理くらいは済ませておくとしよう。
少し出たお腹は、徐々に腹圧をかけて絞る。
空腹は十分満たされた。
授業が始まる5分前だというのにカフェテリアはまだ生徒達の談笑で賑わっている。
私はそれを諌める事もなく、トレーを返却口に置いて足早にカフェテリアを去る。
部屋に帰り、事務作業に手をつけようとするとメールが届いた。
一つは昨日出したゴールドシップの出走拒否が受理された事の連絡。
そしてもう一つのメール。
それは宝塚記念、ゴルシが出走拒否した事と出走ウマ娘候補者担当への連絡。その一覧の中であの子の名前は一番上にあった。
「……本当に、後一歩だったのね。」
少しだけ頭の中で思いを巡らせて、私は受信ボックスに戻った。
この知らせを彼女が聞いたら、いったいどんな顔をするのだろうか。
繰り上げで選ばれたのでは意味が無い、なにより走る前から負けたような気がして我慢ならない。どうせ走るなら、完膚なきまでに叩きのめしてから勝つ。
もはや願うことすら許されない愚者の妄想だが、私ならそう考えてしまう。
ゴミ箱に移動させようとも思ったが、それよりも先に私はとあるファイルを開いた。
サクラバクシンオー、彼女の長距離走破へのスケジュールである。
残りは約半年。日々の基礎トレーニングとスタミナ重視のメニューのおかげで、なんとか2000mまでは安定してきたのだが、そのラインを超えた途端にタイムのブレが凄まじくなる。
「流石にそこまで甘くはないか。」
このまま無策で突っ込めるほど彼女の走りは熟しておらず、その理由は至って単純だ。
走り方が昔からまるで変わっていない。
今の
その為にも、この事については彼女と直接相談する必要がある。
白紙にプランを書いては投げ、書いては投げを繰り返し、何十個目の没案を投げた時、私はいつかの併走を思い出した。
「……書き出してみようかしら。」
いつの間にか築かれた没案の山が崩れ、光明が見えて再びペンを取った途端に内線が鳴る。
これから良いところだったとに、と大きなため息をついて内線に出る。相手は学園の女性職員だった。
『アダマスマッシュさんですか?もうすぐ授業なのですが…』
「へ?ぅわ、嘘でしょ。申し訳ありません、到着まで実験の概要説明をお願いします。すぐに向かいます!」
時刻はもう間もなくヘルプの時間。
ヘアゴムで髪を束ね、白衣を肩に掛けて薬品のリストを確認しながら実験準備室に向かう。
3分遅れで到着したが、この日は前回の抜き打ちテストの解説をしていたみたいだ。
少しホッとしつつ、白衣、マスク、ゴム手袋、ゴーグルを着け、ドラフトチャンバーをオンにして薬品や器具の準備を始める。
「希釈や器具の組み立ても授業の一環」とは聞いているが、流石に溢したり肌についたりしたらマズい物はこちらでやっておく。
勿論ではあるが、授業で用意される器具を使って寸分狂わぬ定量ができるはずもなく、必要な量より少し多めに用意して、準備ができた物からバットに乗せていく。
ただ混ぜるだけで出来上がるならば誰も苦労はしない。
ゴム手袋を捨てて、薬品や器具を運ぶ為に通路を確保する。そのためにドアを開けた途端、生徒達から物凄い目で見られた。
「あぁ、失礼しました。」
半透明のゴーグルと防毒マスクをした怪しさ満点のウマ娘が完璧なタイミングで黒板横のドアから現れたのだ。
ちなみに、ゴーグルとマスクを外すと何人かがまた別の表情を見せた。
なぜここに居るのか。そんな顔を見せたのはいつしか私にしつこく迫ってきた生徒達だった。
気づいたからと言って何をするわけでもなく、用意した薬品と器具を実験室に持ち込む。
それは彼女達も同じで、実験は滞りなく終わった。
授業が終わり、廃液の処理や薬品使用量の確認、その他事務処理を片付けてトレーナー室に戻ろうとする頃には放課後になっていた。
改めてバクシンオーのスケジュールを頭の中で書き出すが、宝塚記念をどうするかでペンが止まった。
(あれ?カギ……かけ忘れた?)
「トレーナーさん、授業お疲れ様です。」
「!!?」
トレーナー室のドアを開けると、いつになく真剣な顔をしたサクラバクシンオーがずいっと目の前に現れた。
予想だにしてなかった彼女の登場に驚いて後ろの壁まで思いっきり飛び退いてしまったが、彼女は背筋と耳をピンと伸ばしたまま、尻尾も揺らさずにジッと私を見つめていた。
茜色の静かな放課後の廊下に、宙に放り出されたゴーグルがカランと大きな音を立てる。
何故ここに居るのか問おうとしたが、今彼女が私の元に来る理由なんて一つしかなかった。
「まったく、耳が早いこと。」
「学級委員長ですので。」
どうぞ。と、バクシンオーが落とし物のゴーグルを拾い上げて持ち主に返す。
二人がトレーナー室に入ると、廊下には再び静寂が訪れた。
聞こえてくるのは、今この時も研鑽を積み上げるウマ娘達の声のみである。
ギィ…と椅子に深く腰かける。サクラバクシンオーは部屋の隅からパイプ椅子を用意して、対面にしゃんと座った。
すごく、走る気満々の顔をしている。
「さて、じゃあまずは今度の宝塚記n「出ます。」……。」
まぁ、想定通りの嫌な答えが返ってきて、私はどこから話したものかと迷っていた。
まだ半分も組み上がっていない本番での作戦、軌道修正を加えた今後のスケジュール、どっちつかずの特訓メニュー……そもそも出走する事を控えてくれないだろうか、とか。
最後のはたった今拒否されたも同然にしろ、とりあえず彼女が訪ねてきた理由を探る事にした。
「バクちゃん、貴女は何から聞きたい事はない?」
「それでは、えっと…あ、日々私達を指導をしていただきつつ……ふむふむ、同時にご自身の鍛錬も怠らないトレーナーさんに、かねてより聞きたかったことがあります。」
「……そう。」
さっきとは打って変わって目をあちこちに泳がす彼女の耳元を目を凝らしてよ〜〜〜く見ると、彼女と同じ髪色に塗装されたイヤホンのコードらしき線が見えた。
サクラバクシンオーは既に何かをやり遂げた様に胸を張っていたが、本来の目的を思い出したのか、私に聞きたかった事を……いや、そこまで覚えきれなかったらしい。
ポケットから取り出したノートの切れ端に予め用意していたみたいだが、手のひらに隠れてしまうほどの大きさではさほど多くのことを書いていないのだろう。
いつものバクシンバクシンと『前進あるのみ』を体現したような彼女だが、今日は何というか……ゴルシが絡んでる分調子が狂いそうになる。
普段盲目的に突き進む彼女がふと立ち止まって我に返り、己の丈を再確認しようとする時、その口から飛んでくる質問はいつも狙いすましたように私の急所を突いてくるのだが、今回はどうやら違ったみたいだ。
視線が重なると、彼女の瞳の奥で何かが煌めき、私の背筋は凍りついた。
「トレーナーさんの考える一番速いウマ娘って、どんなウマ娘なんでしょうか。」
今を生きるウマ娘が、過去似たような障害を歩んできた先達に対する素朴な疑問。
常人からすれば、そんな何気ない質問にしか聞こえないだろう。
そんな質問が、私を学園内の数少ない
これは意図的に仕組んでいるのか、それとも単純な質問だろうか。
前者とするなら、かなり質の悪いイタズラだが……この状況を完成させたのはその質問の切先を私に向けるまでに一切その気を見せ無かった彼女であり、ここまで手の込んだ事は仮に彼女自身で考えたとしても無理というものだろう。
ゴルシはイタズラのため、バクシンオーは宝塚出走のため……なるほど、利害は一致している様に思える。
余計なマネを───
数分前まで、静かに、規則正しく、一定のリズムを刻んでいた心臓の鼓動が徐々に大きく、乱れていく。
さっきまで暑かった頭と心臓から熱が抜けていく。たまらず椅子の背もたれに体を預け、悟られぬように目を逸らして頬杖をついた。
ひとまずは気を紛らわすことにしよう。
実のところ、私は過去に似たような事で自問自答を繰り返し、一度だけ答えを出したことがある。
レースに於いての【絶対】とは何か。
誰も追いつけない程のスピードか、どこまでも走り続けられるスタミナか、局面をひっくり返す程のパワーか、どんな苦難にも耐え得る根性か、全てを手駒と見てレースを作る賢さか。
長い事考えた末に辿り着いた答えに、それらは一つも含まれていなかった。
でもその答えを出したのは遠い昔の事。それをそのまま彼女に伝えて良いのか、私には分からなかった。
「……私も一時、
「はい。その後中退されるまでの経緯も、おおよそ聞き及んでおります。」
「じゃあその、学園から出ていった頃の答えでもいいかしら?」
少し不安げな顔を見せる彼女に「今ではもう秤にすら掛けられなくなってしまった。」などと幾重にも保険をかけて、一刻も早くこの窮地から脱したい私は彼女に
幸いにも、彼女はゴルシがこの質問を引き出させた意図はわかっていないようだが、無言のまま、その首は縦に振られた。
その返答に私は少しだけホッとしたが、それも束の間。先程から震え出した右脚に加えて、両手も震え始め、頭の中も徐々に回り始めていた。
「ゴール板を一番早く駆け抜ける事ができるウマ娘、それが一番速いウマ娘よ。」
「……そう、ですよね。分かっています。」
幼稚な答えであることは重々承知しているし、これが本当に正しいのか、レースに出られなくなった今となってはもう分からない。
しかし、【アスリート】である限り、この絶対を覆すことはできない。
1,000mで1分を切っても、3,600mを全速力で走破できても、上がり3ハロンを31秒で走り抜けても、大外からトップに捲り上げても、いくら作戦を練り上げても……誰にも見えないところでいくら努力しようと、結局は結果が全てなのだ。
1着でなければ全てが無意味。観客たちがそこに至るまでの過程に興味を示すことはない。
それがレース。
それが勝負。
これが現実。
私はそれに納得がいかなかった。
速さ、スタミナ、脚力、執念、知略、それぞれ全てが、そこに至るまでも過程も含めて全てが私の創り上げた全てであるのに、それが認められない事が耐え難かった。
その結果、何でもかんでも一人で解決しようとして、私はチャンスに見放された。
いつかは自分の中で折り合いをつけなければならない。でも未だに飲み込めない。
だからこうして、今もなお引きずっているのだ。
そして不運な事に、慣れない思考や計算を精一杯したにも関わらず、似たような
おそらく良く理解しているはずだ。
愚直に……いや、それだけでは足りないと気づいてしまった。
彼女の頭の中に映っているのは、おそらく宝塚記念で追いかけられる自身の姿。
勝つ為には、あの
いつも近くにいるが故に、より高く感じてしまう壁。それを超える為に彼女がなすべき事。
それは彼女の唯一と言っても良い取り柄である【逃げ脚】、これを
これは有馬記念に出走する際の最終プランだったのだが、遅かれ早かれ受け入れなければならなかった。
例え捨てたとしても、決して勝率が上がる訳ではない。残された方法がそれしか無かっただけの事。
幸いにも、彼女はその走り方のコツを掴みつつある。最後のひと押しに中々踏ん切りがつかない。
邪魔をしているのは、奇しくも2,000mまで走り切れる様になってしまったという実績。
残りは400m。
確かに残り半年で届くかもしれないと思えてしまいそうな距離ではあるが、今までは伸びしろを埋めてきたに過ぎず、ここからは限界を引き上げる段階に入る。
この場合の400mは並大抵の練習量で届く距離ではない。
そして今にも溢れそうな涙をグッと堪えている子どもが、肩を震わせている。
「分かっています、分かっていますとも。勝つ為には、私は……っ!」
彼女の中でも同じ答えが出てしまっている。
しかしここで意地を張って、宝塚で
このまま走ってゆけるのではないか?
そんな淡い夢を見せてしまったのは、皮肉にも夢に破れた私である。引き連れてきてしまったのなら、私にはこの子を救う責任がある。
真っ白な病室でテレビをつけて、画面の向こう側に居るはずだった自分を、一人寂しく
しかし、私がどう足掻こうと彼女の根源が変わるわけではない。
一度出した結論に向かって、ただひたすら進む事しかできないのだ。
どうしても受け入れたくない現実が喉元から更に押し上げられて、大粒の涙になって溢れ出ている。
それが彼女にとって最も辛い物であろうと、いつかは乗り越えなくてはならない。
答えを待っている今の私を傍から見れば、教え子の心が折れるのを、頬杖をついて待っている、さぞ冷たいトレーナーに見えるのだろう。
事実、それも正解。教え子が目の前でこんなにも苦しんでいるというのに、私は彼女を見て酷く嫉妬している。
素直な気持ちで自身のトレーナーに甘えられたら、当時の私がどれだけ楽だったか……と、つい考えてしまうのだ。
「……。」
でもやっぱり、夢を見てしまう。ターフの上で鎬を削る彼女の姿を。
今なら、あの人の気持ちがよく分かる。
「期日を決めるわ。」
「へ?き、期日ですか?」
「宝塚記念まで残り2週間になったら、テストを受けてもらう。そこで基準を満たせば、宝塚でも今まで通り走りなさい。」
「……もし、そのテストに合格できなかったら、どうなるんでしょうか。」
「作戦を変える。それが嫌なら宝塚記念は諦めなさい。」
「……分かりました、受けます。」
「それと、練習メニューの負荷は今以上にかけない事。」
「なっ!?それではトレーナーさんのテストに間に合わないじゃないですか!」
「勘違いしないで、テストはあくまでテスト。」
2200mを全力で走っている彼女を見たい。そこで生まれる熱を側で感じ取りたい。
しかし、ここで縦に首を振れば間違いなく彼女の脚にガタがくる。
ケガなんてすれば長距離なんて夢のまた夢。
血反吐を吐きながら地道に積み上げてきた努力も、0に戻るのはいつだって些細な事がきっかけで、まばたきする間に全部を掻っ攫っていくのだ。
「隠れてトレーニングするのは勝手だけど、ただでさえオーバーワーク気味なんだから……少しは自分を労りなさい。」
「っ……では新しいトレーニングを。」
「効果と負荷の強さは?それでケガをしないという保証は?」
「そ、それは……うぅ。」
その後の後悔と虚しさを彼女は知らないし、知らない方がいいに決まっている。
だから私はこうして、身を削っている。
あの恐怖を知っているからこそリスクを軽減させたいのだ。
「……焦るのは分かるし、隠れてトレーニングするのも私は止めない。貴女達がレースに勝つ為なら、私は幾らでもこの身を削るつもりよ。」
一方的な感情であることも理解しているつもりだ。
「でもね、準備の為に身を削る愚かな行為はよしなさい。削る為の気力までも無くなってしまったら、待っているのは中途半端に色の抜けた日常だけよ。」
「……トレーナーさんに何が分かるというのですか。」
その言葉を耳にした瞬間、頭が蒸発した感覚と共に心の中で黒いモノが噴き出した。
「お前こそ私の何が分かる!!」
いつまでも悪あがきを続ける彼女に、思わず立ち上がって声を張り上げてしまった。
はっとして顔を上げると、バクシンオーと目が合った。
まるで親から突然平手打ちされた子どもような顔に息が詰まる。
ビリッと震えて動かなくなった空気が、血の気の引いた私の体を椅子へ抑えようとする。
その重みに耐えられず、右膝がカクンと折れて、私の体は半ば崩れるように再び椅子に押し込まれた。
遠くの方から、嵐が近づいてくる音が聞こえる。ゴォォォ、と音が大きくなるにつれて鼓動は速く、呼吸は浅くなってゆく。
深呼吸をして息を整えようとするも、身体がだんだんと呼吸の仕方を忘れ始める。
どうしようもない障壁を前にした彼女の姿が、過去の私と重なってしまう。
「一日だけ、考えさせて下さい。」
わたしは、
逃げ出すように部屋を出て行ったサクラバクシンオー。それを引き留めるだけの余力は、今のアダマスマッシュに無かった。
彼女達の望む夢を、できるなら全て叶えさせてやりたい。
色んな感情が混ぜこぜになって、視界も思考もぐちゃぐちゃになって、やがてトプンという水滴音と共に真っ暗闇へ引きずり込まれる。
サクラバクシンオーは、トレーナー室の扉の前に座り込んでしまっていた。
出ていった部屋の中には、設立からひと月でGIタイトルを勝ち取ったチーム「サルガス」を率いる頼れるトレーナーの姿は無い。
聞こえてくるのは、紙が宙に舞う音とカップが割れる音、そして啜り泣きながら呻く女性の声のみ。
おそらく自身では経験したことのない程のトラウマに日々苛まれ、髪をぐしゃぐしゃに乱して惨めに悶え苦しむウマ娘が暴れている。
脚が震えて立てなくなってしまったサクラバクシンオーは縮こまるしかなかった。
無意識に小石を蹴ったような、そんな些細なきっかけから突然狂いだした自身のトレーナーが壊れていく様を、自身の視界から外すことしかできなかった。
しばらく経って徐々に落ち着きを取り戻したのか、散らかした部屋を簡単に整理する音が聞こえてきた。
───おい!まだ終わんねえのかよ!
存在を忘れていたイヤホンから聞こえてきたゴールドシップの声が、サクラバクシンオーは目を覚まし、目尻に貯まったままの涙を拭いた。
少しバランスを崩してトレーナー室のドアに手が触れた途端、手のひらがドアから離れなくなり、まるでレーザー光線を照射されたかのように、鋭く、焼けるような感覚を覚えた。
手のひらに感じた熱は、蛇に睨まれた蛙の如く身動きが取れなくなったサクラバクシンオーを探るようにじわじわと上がって、やがて眉間にたどり着いて、止まった。
『……2週間後のテストは厳しく見るから、今日はもう帰りなさい。』
ドアの向こう側から、静かだけど重みのあるいつものトレーナーの声が聞こえてくると、サクラバクシンオーは束縛から解放された。
「私は……諦めませんから。いつか必ず!!絶対に!!長距離も先頭で走り抜けてみせますから!!」
啖呵を切ったサクラバクシンオーの胸の奥底から込み上げてきた得体のしれないモノは、次第にサクラバクシンオーの口をムニュムニュと綻ばせ、彼女は高らかに笑い飛ばしてこう続けた。
『トレーナーさんこそ!再来週のテストで腰を抜かさない様に精々お気をつけてお過ごし下さい!それでは!!私にはやらなければならない事がありますので、これにて失礼します!!ハーーッハッハッハッハ!!!』
ドア越しに届いた明るい声に、僅かに整ってきた呼吸がまた乱れそうになって、苦しくなる胸のあたりをぎゅうっと握りしめた。
もう、誰にも止められない。
私が錯乱している間に、彼女が何を考えていたのか。私がそれを知る由はない。
しかし、彼女の目に私がどんな風に映ろうとも、今はただ彼女を信じるしかない。
ガサついた喉に唾液を流し込んで、私は無理矢理ほくそ笑む。
「それでいい。やれる事をやるだけ……あなたはいつだってそうしてきたじゃない。」
サクラバクシンオーに後に会った者曰く、彼女は実に晴れやかな顔をしていたという。
多少無理やり笑っていたように見えたみたいだが、それは彼女なりの割り切り方。
彼女は一体、どんな答えを出したのだろう。
あけましておめでとうございます。(大遅刻)
ということで、おはこんばんちゃ。
忘れた頃に更新するにらたま定食です。
人生で初めて「プロット」なるものを作り始めました。
今更感はすごいですが、長丁場になるし、備忘録としても書いていこうと思います。
キャラクターも描きたいのですが、経験値が圧倒的に少なく、頭で思い浮かんでいてもアウトプットできない悲しい人になっています。
皆様にはきちんとどこかで、何かの節にお披露目したいと思っております。
それではまた。