輝けなかったウマ娘トレーナーは芽吹く新芽に何を思うか 作:にらたま定食
6月に入り、天気が崩れる事も多くなってきた。
ぽつぽつと降るくらいならいつもの練習に支障はないが、バケツをひっくり返したような豪雨となった日には、大半の場合は練習場で走ることはない。
しかし、本番のレースは「やる」と言われれば、バ場の状態がいくら酷かろうとも走り、その上で勝つ必要がある。
だから少しでも雨がやめば、練習場で走る者が出てくる。
特にダートは「こっちの方が走りやすい」という声もあり、雨の日は芝よりダートの方が賑わっている。
ゴルシにしてやられてから2週間。
サルガスの走り込みメニューはダートやウッドチップ、室内での練習が多くなったとは言え、芝でのトレーニングは定期的に行われ、オグリキャップを筆頭とするチームメンバー達も、日々のトレーニングをこなす日が続く。
そして着替えやタオル、他にも水をたくさん吸った運動靴といった後片付けが面倒な物は全て、トレーナーであるアダマスマッシュが引き受けていた。
翌日にはパリッと乾いたシャツ、適度な手触りのタオル、どれだけ汚れても綺麗になってもどってくる靴。まるでクリーニングしたかのような仕上がりには同室や友人から羨ましいと口々に言われているそうだ。
気分屋な天候が続く中、珍しく快晴が続いた。
まだ緩さが残っている場所もあるが概ね良好。梅雨の季節においては今日は絶好のトレーニング日和、次のレースを控えた生徒達が我先にと外を駆けている。
その一方で、サルガスのチームハウスには4人のウマ娘が居た。サクラバクシンオー、オグリキャップ、ゴールドシップ、そしてトレーナーのアダマスマッシュである。
宝塚記念まで残り2週間。今日はサクラバクシンオーのテストの日、のはずなのだが……サクラバクシンオーはなぜ鏡張りの室内に呼び出されているのかまだピンと来ていなかった。
「あの、トレーナーさん。なぜ私達は室内なのでしょうか?」
それもそのはず。芝の状態の良く、天気予報でも宝塚記念当日の天候は晴れと出ている。
事実、重バ場を想定して予約していた芝のコースの一区画は、ライスシャワーの補助の下、メイクデビューを控えたダイワスカーレットとメジロマックイーンが走っている。
でも、レースに出るとするならば、このテストを通過してもらわなければ困る。
「そりゃライブの曲を通しで踊れるかどうか確かめるためよ。」
そう、ライブである。
しかも宝塚記念のライブは出走者全員が舞台に上がるうえ、1着から4着は振り付けが少々異なるため、覚えないといけない振り付けが普段より多くなる事は必然である。
本当ならタイムを測る予定だったのだが、ノートを見る限り、彼女は
今の彼女なら、目標タイムを超え得ることは容易に判断できた。
だから今日はその確認をする前に、『あの』ファインモーション殿下と2人でラーメンを食べに行く約束を取り付ける、という取引の下、わざわざゴールドシップにも出てもらっている。
「なるほど!確かに大せ、つ……」
バクシンオーの顔がみるみる青ざめていく。
なんというか、そんな事があるんじゃあないかと薄々感づいてはいた。
「……じゃあ行くわよ。」
さて、どこから教えればいいのだろうか。そんなことを考えながらCDプレーヤーの再生ボタンを押した。
ちなみにゴルシとの約束については、まあ……殿下の優しい人柄に救われた、とだけ言っておく。
私の世間からの印象についても再認識しなければならないとも感じた。
それと殿下の言っていたなんだか呪文のようなラーメンの事は後でオグリキャップに聞くとして、今回は宝塚記念の出走経験がある、という事だけでゴルシに声を掛けたが、次から彼女に頼み事をするときは気をつけるとしよう。
……話を戻そう。
結論を言うと、バクちゃんは文句なしの不合格。そしてオグリちゃんは合格ラインではあるのだが、なんだか注意散漫と言った感じだった。
休憩中、ぽーっとしているオグリちゃんの後ろから色々と話しかけてみるが、こちらを見ることもなく、ああ、うん、と生返事しか返ってこなかった。
バクちゃんのライブ練習は今日から始めるとして、私はひとまず二人に基礎練習をこなすように指示を出して、その日は一旦解散とした。
少し心配ではあるが、今週はマックイーン、来週はスカーレットのデビュー戦が控えている。
彼女だけを構う余裕はない。何か良い手はないものか……。
私は胸に嫌な予感を抱えながら練習場にいる三人のもとに向かった。
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宝塚記念を1週間後に控えた土曜日の早朝。
基礎練習を終えたオグリキャップはあまり汚れていないジャージを着たまま、ひとり学園近くの河川敷の草の上で大の字になっていた。
ゴールドシップの宝塚記念出走回避の知らせを受けたオグリキャップは、レース前の調整期間になっても、どこか集中力を欠いたままだった。
「…………。」
先週に引き続き、今週もトレーナーは居ない。
先週、メイクデビューを1着で制したマックイーンは「スイーツ解禁です!」と耳をピコピコさせてはしゃいでいた。
サクラバクシンオーとダイワスカーレットはトレーナーと京都へ行っている。ダイワスカーレットはメイクデビュー、サクラバクシンオーはその付き添いという名目でライブ曲の特訓だそうだ。
ライスシャワーは同室の友達と買い物、あまり邪魔するのは良くない。
ゴールドシップは……分からない。朝早くに外から大声がして目が覚めた。
そしてその時には、タマも既に居なかった。
先程トレーニングが終わったとトレーナーに電話をすると、おつかれさまの挨拶と共にお土産について聞かれた。
息が荒かったから何かあったのかと慌てたが、一人でトレーニングしていただけらしい。
トレーナーのこういうストイックな所は尊敬できる。過去に真似しようとしたのだが止められた。発育途中の私達には負荷が大き過ぎる、と言っていた。内容をざっと聞いてみたが、なるほど、私達には負荷も量も多い。
遅れてバクシンオーの「ファーーーー‼︎」という悲鳴が聞こえた。
聞けば50kmのランニングだそうだ。バクシンオーが勝手に付いてきたから適度に休憩を挟んでいるみたいだ。
お土産については少しだけ考えて、たくさんの美味しいお菓子を一つずつと、その中でも特に美味しそうなものをもう3つずつ。そしてレースの写真が欲しい。と言うと、トレーナーは快く返事をくれた。
少しだけ、間があった。
そして、構ってあげられなくてごめんなさい、と謝られた。
何も言えずにいると、トレーナーが思い出したように『練習場が開く時間だから気が向いたらタイム測っておいて』と言われた。
気分は乗らないが、分かったとだけ返して電話を切った。
その後すぐに、もう一度トレーナーに電話しようかと携帯電話を開いたが、私はそのままパタンと閉じてポケットにしまった。
芝とはまた違った雑草の青臭い匂いと黒土の匂いを混ぜ込んだ空気が、鼻腔を通じて体の中に入ってゆく。
このままここに留まれば、この河川敷の一部になれてしまいそうだ。
それにしても身が入らない。
私が出られなかった日本ダービーが終わり、ゴールドシップとの対決のために出走を控えた安田記念も終わった。
1600mは私の得意とする距離。ファンのみんなには少し悪い事をしただろうか。
そして、そのゴールドシップは宝塚記念を回避した。願わくば、あの脚で追い込まれたかった。
マークしていた相手が居なくなって、私はどうやって走ればいいのか分からなくなっていた。
あれだけ好きだった食事も、今はただ漫然と口に運ぶばかりであまり味がせず、気づけば食べ過ぎてトレーナーを悩ませてしまっている。
「オグリ〜、こないなトコで何しとんのや。ホンマ探したで。」
上の方からタマによく似た雲が流れてきた。
よく似過ぎているからか、声が聞こえる気がする。
「あら、返事せぇへんな……おーーーい、オグリ〜ぃ!聞こえとるんか〜?ぼやっとせんと返事せぇや〜!」
それにしても、随分と忙しなく動く雲だな。本当にタマみたいだ。
薄い求肥から透けて見えるほどぎっしり詰まった餡子、ほっぺの黄色はきなこ、赤の飾りは苺味、青色のは……ラムネ味か?ラムネ味の大福は美味しいのだろうか。
「オグリ!!」
「はっ……本物か。」
「ウチに本物も偽物もあるk…
目の前に現れた
起き上がってもう一度空を見上げてみたが、さっきのおかしな雲は無くなっていた。
「なんだか大福が食べたくなってきたな。」
「誰のほっぺたが大福やねん!……って、まぁそんな事はどーでもええわ。オグリ、今時間あるやろ?ちょい付き合ってーな。」
「つきあう?大福じゃなくて餅を作るのか?」
「ええ加減食い物から離れや……あと、さっきから鳴りっぱなしのデカい腹の虫も静かにさしといてくれぇ。」
希望の物にありつけなかったからか、くうくうと泣き喚いていたオグリキャップの腹の虫は、最後に一度だけ大きな声を出して拗ねてしまった。
今日の朝ご飯は何を食べようかと考えながらタマに着いて行くと、向かった先は誰も走っていない練習場。
今の時期と時間にしては誰かしら居るはずなのだが、気配すら無いのはかなり珍しいと思った。
タマの方を見ると、何かを待っているようにも思えたのだが、それが何なのかさっぱり思いつかなかった。
首を傾げた私を見て、彼女はまたため息をついた。
疲れているのだろうか?
「ま、ちゃっちゃとやろか。あんま時間も無いし。」
「やる?何をするんだ?」
「ええから付き合いや。ゴールはこことして……せやなぁ。」
タマは羽織っていたジャージをラチに軽く縛り、柵を飛び越えながらコースの反対側まで真っ直ぐ突っ切っていった。
『おーい、オグリもこっち来んかーい!』
私も柵をくぐりながら、タマのいる反対側に向かった。
芝の香り、木の香り、土の匂い。
いつもの感触、ふかふかな踏み心地、数年前まで当たり前だった懐かしい感触。
特になんて事はない。理由もなく匂いを嗅ぎ、コースの地面を踏みしめながらタマの前に立つ。
すると、タマは無言で手のひらを差し出した。お腹が空いているのだろうか。
ジャージのポケットにひとつだけ残っていたカロリーバーを出して、タマの手に乗せた。
「すまない、今はこれしか持ち合わせていないんだ。」
「そうそう!ウチ今めっちゃお腹空いてたんや〜って……お前コレ全然おもんないで?」
いつものみたいに楽しそうな顔をしたと思えば、目つきが鋭くなり、赤いメンコがキュッと後ろに向いた。
何か悪い事をしてしまったのだろうか。
「オグリ、お前ホンマどないしてもうたんや!ここんとこず〜〜〜っとうわの空やんけ!」
どうした……そう聞かれても私はどうもしていない。
肩をゆするタマに「いつも通りだ。」と返したが、胸の奥にもやもやした物が、すごく嫌な気分にさせる。
それを聞いたタマも同じ気持ちなのか、私に何か伝えようと歯を食いしばっていたが———
いつも通りならさっきの状況でおやつなんか出さへんわ、タマは俯きながら小声で呟くと、小さく息をついて顔を上げた。
「そか……まぁええからほら、はよジャージの上ぇ貸し。」
オグリキャップのジャージを半ば強引に剥ぎ取ったタマモクロスは、何も口に出さないままオグリキャップのジャージをラチに縛りつけた。
「これでよし。オグリ、ウチと併しぃ。」
「あわし……。」
タマはそう言うと軽く屈伸をして、ハーフパンツのポケットから見覚えのあるコインを取り出した。
「ま、別にやる気ないっちゅーなら適当でええ……あ、言っとくけどこれチョコやないで、オグリんトコのトレーナーに借りたんや。」
タマは笑っていたが、どこか無理していたと思う。
失礼な、それくらいは分かっている、と一言くらい言い返してやろうとしてタマの顔を見ると、彼女はニッと白い歯を見せた。
なんだ、私と走りたかったのなら、最初からそう言ってくれれば良かったのに。タマの言う冗談は本気かどうか見分けるのが難しいんだ。
でも少しだけ、いつもの私に戻れた気がする。だから、お礼をしなくちゃいけないな。
体をブルブルッと大袈裟に震わせたオグリキャップがもう一度顔を上げると、少しだけ、周りの空気がヒリついた。
「その
いつかのレース程ではないにしろ、オグリキャップは昂っていた。
そして、その気に当てられたタマモクロスもまた、久々の感覚に奮い立たずにはいられなかった。
「やるぞ、タマ。」
「へっ!勘違いすんなやオグリ、今日胸貸したるんわウチの方や。」
「ああ、よろしく頼む。」
「ゴールはさっきのところ、スタートの合図はコインでええな?ほな、行くで。」
「タマ、ありがとう。」
「……やかましいわ。」
感謝の言葉は自然に口から出ていた。
高く弾かれたコインが芝に吸い込まれると、私達は同時に駆け出した。
結果はタマの圧勝。最後まで私がハナに立つ事はなく、3バ身のおまけも付けられた。
でも、不思議と悪い気分ではなかった。
その後もオグリキャップから申し出て、二人はもう何本か走ったが、オグリキャップがタマモクロスを追い越すことは叶わなかった。
「オグリ、ホンマ宝塚どないするんや。自慢の末脚まで
「やっぱり、そうなんだろうか。」
併走を終えたオグリキャップとタマモクロスはストレッチをした後、サルガスのチームハウスに寄って休憩を取ることにした。
オグリキャップは冷蔵庫から羊羹を一本取り出して、タマモクロスに紙コップ一杯の水を渡した。
タマモクロスは「おおきに」とはにかんでそれを受け取り、一息で飲み干した。
「なんや悩み事でもあるんやったらウチに話してみ。ひとりで抱え込んでもええことないで?」
さっきまでオグリキャップのライバルとして目をギラつかせていたタマモクロスだったが、今は一変して、自然と耳が垂れてしまっている程に気を病んでしまった相方を気にかけ、寄り添う不安そうな顔をしていた。
しばらく沈黙が続いたあと、オグリキャップの固い口が開いた。
「タマ……最近、私は誰の為に走っているのか分からなくなってきたんだ。」
「何言うとんねん、笠松んトコとか、ファンの為に走っとるんやなかったんか?」
「……少し前まではそうだったんだ。でもタマ達が走れなくなると実感し始めてから、こう……それだけじゃ何か足りないんだ。タマ、私は一体どうすれば……タマ?」
故郷のトメさんやシゲさん達の為に走るのはもちろんだ。でも今は『なにか』が足りないのだ。
一段とトーンの低い声で吐露したオグリキャップ、顔を上げた彼女の瞳に映っていたのは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたタマモクロスだった。
「はぁ〜〜〜……アホらし。なんやもっとヤバい事かと思たら、はぁ……なんや、そんな事かいな。心配して損したわ。」
「タマ!これは深刻な問題だ!皆
「あんなぁ、
「本当か?!」
「あー!わかった!分かったから羊羹直持ちした手でベタベタ触るなー!」
………。
「……てな訳で、ウチがいま目指しとるんはドリーム・シリーズに出走することや。名前くらい聞いたことあるやろ?」
「ああ、名前だけなら。」
ホンマに名前しか知らんのかい。タマモクロスはため息混じりにツッコミを入れて肩を落とした。
ドリーム・シリーズ―――参加条件がどんなものなのか誰も知らない、選ばれたウマ娘のみ参加できるレース。それ以上の情報がないから、私は気にもとめていなかった。
「私も、タマとレースで走りたい。」
オグリキャップの口は、ついに考えていることを止められなくなってしまった。
それを皮切りに、ブツブツと文句を垂れるオグリキャップの額に———ビシッ。
「痛っ…た、タマ!何をするんだ!」
オグリキャップが見上げると、仁王立ちしたタマモクロスが手を腰に当て、心底つまらなそうに口を尖らせて親友を見下ろしていた。
「あのなぁオグリ、ウチの事好いてくれるんわええんやけど、アンタが今目ぇ付けとくんはウチ以外にもっとおるやろ。アンタのトコやとゴルシもそうやけど……せやなぁ、今やとサクラとか、な?」
「バクシンオーか……彼女は速いが、ただそれだけだ。」
「そらそうかも知らんけどアイツかて……はぁ。」
タマモクロスはなにか言いかけたが何故かそこで止めてしまい、もう何度目か分からないため息は、部屋の中でふわりとした存在感を保って部屋の中を漂い、消えた。
サクラバクシンオー、確かに彼女は速い。トレーナーの指導のもと、2000mまでは走れるようになった。
でも、それ止まりだ。
短距離なら兎も角、2000mの距離で彼女に追いつけなくなる私の姿は、正直想像がつかない。
「言いたい事はえっとあるけど……ま、とりあえずオグリが今やらなあかん事は、自分がどんなトコに立っとるんか見直す事やな。せやないと足元すくわれんで?」
足元をすくわれる、か……トレーナーもノートに同じ事を書いていた。
第一私の何が不満というのか、それならそうと言ってくれればいい。
オグリキャップの心のモヤは、いつの間にか彼女自身に不快感を与え、その矛先をトレーナーに向けていた。
「あ〜、なんなら振り返ってみてもええかも知れへんな。」
「振り返る?」
「せや、自分を自分で再評価して、足りんトコ、伸ばすトコを見極めるんや。勿論、オグリが今悩んどる『目標』もその中に入っとる。分かったか?」
他でもない親友の提案だ。いつもなら二つ返事で試していただろう。
でも今の私は、それが出来ないほどに何か迷っている。
この正体が分からないのが、心底気持ちが悪い。
タマモクロスは、そんな小さく鳴くオグリキャップの背中をバシン!と叩いた。
「心配すんなぁ!オマエは芦毛の怪物『オグリキャップ』や!こないな所で潰れてまうタマやない!ウチが保証したる!」
「……で、でも。」
「でもやない!!」
ビリッとした空気が、背中の熱を刺激する。
ギッとしたタマモクロスに、オグリキャップは怯んだ。
そして彼女はそれ以上何も言わないまま立ち去ろうとしたが、部屋の出口で立ち止まった。
「ほな、ウチは飯食ったらトレーナーと打ち合わせやさかい、先、戻るわ。あんま遅うなんなや?オグリのデカい腹ン音を昼まで聞くんは御免やからな。」
タマモクロスは振り返ることなく部屋を出ると、走って行ってしまった。
少し俯いて、無理に明るく振る舞う親友に、私は何も言えなかった。
そこからやっと、外は土砂降りの雨模様になっている事に気づいた。
私は、一体どうしたらいいんだ。
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急な雨に見舞われ、息も絶え絶えなバクちゃんをおぶって急いでホテルに戻り、部屋まで送って、シャワー浴びせたりなんなりをして、自室でようやく一息つけると思った頃に電話が鳴った。
非通知だったが、私は迷わず電話に出た。
相手はタマモクロスさんだった。
時折標準語が混じる関西弁で、今朝あった事を細かく伝えてくれた。
やはり、オグリキャップの調子は芳しくなかった。
「そう、ですか……あの子がそんな事を。」
『重症も重症。あんなん駄々こねよる子どもと同じや、ははは。』
彼女も彼女なりに『もとのオグリキャップ』に戻そうと手を尽くしたのだろう。
乾いた笑いの中で、彼女もまた、悩んでいた。
元はと言えば、こちらから併走だけでも、と彼女のトレーナーにお願いしたのだが、彼女は気前良く付き合ってくれている。
同室、いやそれ以上に―――近い時期に
私も地方から来た身だが、やはり年が近い方が頼りやすいのだろうか。
トレーナーとしての自身の未熟さを歯痒く思う。
今朝の話が終わると、私では見えない部分を共有してくれた。
聞けば聞くほど、事態の深刻さがより濃く、鮮明になってゆく。後半はもう、頭を抱えることしかできなかった。
一体どうしたら……そんな事を考え出した時に、タマモクロスさんが私の名を呼んだ。
『そこでなんやけど、ウチからアンタにやって欲しい……いや、やってもらわなあかん事がある。』
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宝塚記念、当日。
予報通り、雨は昨晩のうちに止んだ。
午前中は太陽が顔を覗かせていたが、今の阪神レース場は薄い雲に覆われていた。
天気は晴れ、バ場は良、とのことだった。
午前の間に乾き切らなかった湿気が25度を超える気温と相まって、日本らしい夏の到来を感じさせる蒸し暑さだった。
そしてオグリキャップはひとり、少しひんやりとしている控室で鏡に映る自分と向き合っていた。
「……。」
最近、こうして自分の顔をまじまじと見る事がなかったかもしれない。
少し下がり気味の口角と眉、俯き気味の顔、そして気怠そうな目。
全くと言っていい程に気迫がない今の私の顔は、ハツラツとは程遠い。
———ほんと、酷い顔よね。あなたも私も。
バッと後ろを振り返ると、出入り口に寄りかかったトレーナーがはらはらと手を振った。
「ノックくらい———」
「大声で呼んでも気づかないんだもの。」
「そ、そうか……。」
「随分と参ってるわね。
「……。」
コツコツと、ヒールの音がゆっくりと私の背中に近づいてくると、両脇から首とお腹へ、腕がするりと絡みついてきた。
絡む腕はあくまで優しく、包むように、きゅぅっと私を締め上げていく。
それと同時に、ゆっくりと打たれる鼓動が私の背を叩く。
「オグリキャップ。今から言う事、忘れてもいいから聞いておいてちょうだい———」
私が今してあげられる事は全てやった。
あんな空っぽな戯言がどう作用するかは分からない。
控室を出た私は、気づくとたこ焼き、焼きそば、お好み焼きや串カツと、大量の食べ物を両手に引っ提げていた。
今日までの数年間に多くの子どもたちを見てきたが、ここまで折り合いがつかないことは初めてだった。
ましてや相手は一度面倒を見たことのある子だ、今までにない不安に動揺しているのだろうか。
時刻を確認すると、パドックでのお披露目は既に終わり、本バ場入場の時間が迫っていた。
両手の食べ物がぐちゃぐちゃにならない程度に急いで観覧席の最前列に向かう。
「あ!トレーナーさ……その食べ物どうしたの!」
既に焼きそばを頬張っているライスちゃんが私に気がつくと、そばにいた他のメンバーもこちらを見た。
みんなへの差し入れ、ということにして差し出すと、彼女たちは互いに少し目配せして、受け取ってくれた。
「……で?どうなんだよ。アイツ、パドックでも調子悪いままだったじゃねえか。」
最後に来たゴールドシップが受け取りざまに小声で尋ねた。
らしくもなくビクッとしたのを誤魔化そうとしたが、アダマスマッシュは「そうね」と力なく返事をする。
彼女もそれ以上詮索してこなかった。
「ま、いいけどよ……あ?これ焼きそばじゃねえか。」
ゴールドシップは、私が落とさないように両手で持っていた焼きそばを掻っ攫っていった。
空になった両手を見たまま、私は立ち尽くしていた。
すると、目の前に見慣れたものが差し出された。
私が仕事中によく咥えている、ジンジャーキャロット味のロリポップだった。
顔を上げると、ゴルシは何の言葉もなしに私を見下ろしていた。
「シケた顔すんなよ。大将がそんなんじゃ不安になるだけだぜ。」
彼女がにっと笑うと、私もつられて口角が上がってしまった。
私がそれを取ろうとすると、飴はひょいと上に上げられた。
「その前に、だ。アイツに気の利いたことの一つくらい言ってこいよ。
「確かに、少し話すくらいの時間を稼ぐなんて造作もないわね。行けばいいんでしょ?」
「そうくると思ってたぜ。」
ゴルシはポケットをゴソゴソと漁り、ヒト用の目出し帽を取り出した。
何故そんな物を持ち歩いているのか疑問に思ったが、私は再びゴルシと目線を交わした。
彼女がウィンクすると、その長いまつげから星が出たように見えた。
私はにぃっと笑い返し、彼女から飴と目出し帽を奪って一目散に走り出した。
それにしても、彼女はどこまで私の秘密を知っているのだろうか。
「けっ、背負い込み過ぎなんだよ。アンタもアイツも。」
「あれ?トレーナーは?」
「控室に忘れモンしたってよ。まったく、世話のかかるヤツだぜ。」
「世話をかけさせているのは貴方の方ではなくて?」
「あ~らマックイーンさん?さてはこの天才ゴルシちゃんの溢れんばかりの愛嬌に憧れてますのね???」
「だ・れ・が!貴方のようなへんちきりんに憧れるものですか!もっと自制なさい!」
「へへっ、マックちゃんはな〜んにも分かってねぇな〜♪」
オグリキャップは、本バ場を目の前にして立ち止まってしまっていた。
「さっき、トレーナーは何て言っていただろうか。」
トレーナーが何を伝えてくれたのか、控室からここに来るまでの間に忘れてしまった。
そして脚が言うことを聞いてくれない。
無意識のうちに「みんなを失望させてしまうかもしれない」という、今まで感じたことのなかった恐怖が、彼女の脚に枷をつけてしまっているのだ。
このまま逃げ出してしまおうか。オグリキャップがそんな事を考えていると、ドンと誰かが彼女の背中を強く押した。
俯き気味だったオグリキャップの顔が反射的に上を向き、彼女は振り返る。
「トレーナー?!どうしてこんなところにいるんだ!」
そこには棒付きキャンディを咥えたアダマスマッシュがいた。
地下バ道の真ん中で腕を組んで仁王立ちで構え、大きな耳をピンと立てて尻尾をゆらゆらと揺らしている。
「時間がないわ、そのままよく聞きなさい。」
控室で話してた時の様子が嘘みたいに、いつものようにニンマリと薄ら笑いを浮かべながら、まっすぐに私を見つめている。
ただ、今は目が半目まで開いている。
いつも食べている生姜とにんじん味の飴玉を口から出して、白い歯を見せた。
「まずは、控室で言ったことは忘れなさい。この際作戦なんてどうでもいいわ。自分の走りたいように走りなさい。」
「走りたいようにって……」
トレーナーはポリポリと頭を掻いて「これだから私は向いてないのに」と小声で愚痴を吐くと、ふぅと一息ついた。そして私の体を無理矢理本バ場の方に向け、背中にしっかりと開いた手を当てた。
いつかの日を思い出す。あの時も確か、こうやって押し出してくれたんだっけ。
「
「そのために練習を重ねてきた、だったか。」
「そうそう、そして欲を言うなら―――」
トレーナーは一度大きく深呼吸をして、もう一度大きく息を吸い込んだ。
私も彼女の小さな手に体重を軽く預ける。
そのほうが安全だと知っているからな。
「勝ってこい!!オグリキャップ!!!!」
ジェットコースターのようにグンと押し出された直後、ほんの少しだけふわりと宙に浮いた感覚になる。
ちょっとだけ空を飛んでいるみたいで、私は好きだ。
一番最後になったオグリキャップが飛び出すように本バ場に姿を現すと、観覧席が一斉に沸いた。
キーンと耳鳴りがしそうな程の大歓声を浴びる中、オグリキャップは静かに微笑み、背中に熱を背負って本バ場へ歩みを進めた。
怒号にも近い膨大な熱のこもった彼女の声援は、さっきまで私の中で渦巻いていた気持ち悪いものをすべて振り切った。
ゾワリと背筋が疼く。
「やってやるさ。」
トレーナー。君は本当にわがままな奴だよ。
静かに、しかし力強く、自身を鼓舞したオグリキャップは、胸を張り、顎を引いて、堂々と歩みを進めた。
【オグリキャップ!オグリキャップ伸びない!オグリキャップは伸びない!】
【5番先頭ゴールインッ!!】
【勝ったのは3番人気の5番!大金星!】
【2着にオグリキャップ、2着にオグリキャップです。】
【サクラバクシンオーは下克上ならず!】
この日2着に敗れたオグリキャップ。
数日後に彼女のトレーナーから両脚の故障が発表されたが、軽微であることから、復帰は秋になるとも発表された。
「
誰もが、そう
しかしここから半年もの間、彼女はもがき苦しみ続けることになる。
この時、そんな予想を立てている者は誰一人としていなかった。
お久しぶりです。にらたま定食です。
もうアイスが恋しくなるような天気が続きますね。
さて、当小説ですが前回投稿した後にUA数【10,000回】を突破いたしました!
読者の皆様、読んで下さりありがとうございます。
その記念といいますか何といいますか、当小説の登場人物であるアダマスマッシュの設定画のようなものを描きたいと思っております。
……正直絵が上手いわけでもないのですが、頭の中のイメージを目に見える形に残しておきたいというのが目的です。
いつになるか分かりませんが、完成した際には報告させていただきます。
(Twitterもpixivも、稼働していませんがアカウントだけは作っています)
そして今年中には、オグリ達3年組の話に区切りをつけれるように頑張ります。
それでは、また次回。