種ウマになりたくて   作:ウボ山

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 4万字を超えてやっとレースのシーンがあるウマ娘の小説があるらしい。


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 ゲートの中、スペシャルウィークは先刻の顛末を思い返していた。

 

「種ウマになりたくて」

 

 そう言った後のナマエワマダナイの様子が、スペシャルウィークに強く印象を残していた。その時の彼の表情の変化は僅かなものだった。だが彼の耳は、まるで逃げ場を求めるようにぐるぐると回っていた。

 

 短い期間ではあるがナマエワマダナイと行動を共にしてきたスペシャルウィークは、ナマエワマダナイの様子から彼が考えていることを読み取ることが出来るようになっていた。

 

 どうしよう、やっちまった、だ。

 

 冷静ぶっているくせに、こうした仕草にすぐに感情の動きが現れる。スペシャルウィークは彼のそういうところが嫌いではなかった。

 

 少しの間グラウンドの一角は沈黙に包まれたが、やがてテストの参加者の一人であるエルコンドルパサーがその静寂を破った。

 

「あの、種ウマって何デスか?」

 

 その言葉こそが、そこにいたほとんどの者の総意だった。

 

 それを聞いたナマエワマダナイの表情には、僅かに安堵の色が浮かんだように見えた。同時に、彼の耳はへたりと両脇を向く。その意味するところは緊張の緩和。

 

 助かった、だ。

 

「あー、えーと、つまり……」

 

 何か考え事をする時、彼はこめかみの辺りに手をやり、トントンと、何かをふるい落とすように指で叩く。彼のこうしたちょっとした仕草が、何故かは分からないがスペシャルウィークの記憶に強く残るのだ。

 

「……偉大な父親になりたいってことです」

 

 ふと思いついたように口に出された彼のその答えは周囲から一応の納得を得られたようで、点呼は次の参加者の順番へと移っていった。

 

 しかしスペシャルウィークにとっては違う。

 

 種ウマ。

 

 その言葉がスペシャルウィークの頭から離れない。

 

 そこそこ酪農に明るいスペシャルウィークは、種牛と呼ばれる牛がいることを知っていた。優れた肉質や気質などの性質を持つため、品種改良や繁殖のために飼われるオスの牛。種ウマとは、それになぞらえた表現だったのではないか。

 

 偉大な父親。オス。そして、繁殖。

 

 彼が言いたかったのはつまり――

 

 ガタン。 

 

「え?」

 

 突如として鳴り響いた音に、スペシャルウィークの意識は思考の渦から現実へと引き戻された。それに続いて、腹の底に染み入るような低い音の連続が轟く。それはウマ娘たちが一斉にターフを蹴る音だった。

 

 ゲートの中、スペシャルウィークだけが取り残されていた。

 

 

 目の前のゲートが開いてから一呼吸遅れてナマエワマダナイは飛び出した。ゲートから発走した経験などないのだから仕方ない、と失敗から思考を切り替え、彼は前方へと視線を向けた。彼の前には5人ものウマ娘が走っている。しかも、その差は少しずつ離れつつあるようだった。

 

 これは自分が遅いのか、それとも周りが速すぎるのか。2400mという距離を走ったことはあるが、このように多くのウマ娘と競って走ったことの無いナマエワマダナイには、レースの展開の判断というものがつかなかった。

 

 最終的に周りのペースが速いのだと結論づけ、後方からのレースをすることにした。離されすぎない程度のペースで最初の直線を行く。足元の芝の感覚が慣れない。蹴る力を効率よく推進力に変える走法を探りながら彼は走った。

 

 そのまま最初のコーナーに差し掛かった。前に5人いるという状況は変わらない。ゲートに入ったのは8人だったから、自分の後ろにはあと2人いるということだ。ちらりと振り返り見てみると、後方20mくらいのところに見覚えのある姿がある。スペシャルウィークだ。スタートで相当出遅れたらしい。その奥にもうひとりピンク色の髪のウマ娘がいるのが見えた。

 

 丁寧にコーナーの最内を回り、バックストレッチに入る。ここで少し詰めなければ後が辛いだろうが、幸い前との距離はそこまで離れていない。ナマエワマダナイはひとつギアを上げ、前を走る背中に迫った。

 

 凄まじい速度で景色が後方に流れていく。前方から吹き付ける風が耳元でびゅうびゅうと音を鳴らした。とても自分の脚で走っているとは思えない、その感覚こそが、彼が走るのが嫌いではない理由だった。

 

 少しずつ前方との差が縮まり始める。後ろを振り返ると、スペシャルウィークも差を縮めてきていた。ピンクのウマ娘の姿が、さらに後ろにぽつんとあるのが見えた。

 

 直線の半分を過ぎたあたりで、5位のすぐ後ろに付くことができた。ここから先頭までの距離は凡そ40mと言ったところ。捲れる距離なのかどうかは、よく分からなかった。どこで仕掛けるべきなのかも、分からない。結局、何も分からないということだ。分からないのなら、分からないなりのやり方がある。とりあえずやってみるのだ。

 

 そんなことを考えているうちに、第3コーナー手前の坂が始まった。ここならば必ず前のスピードは落ちる。抜くには絶好の場所なのではないか。そう思いついたナマエワマダナイは、坂を登りながら脚の回転を速めていった。

 

 坂の途中で目の前にいた5位に並び、そのまま抜き去った。背後から「む〜り〜」と言う元5位(現6位)の声が聞こえる。その嘆きを置き去りに、ナマエワマダナイはさらに走り続ける。

 

 続く下りのコーナー。ここからどうするべきか、分からない。分からないなら、やってみるしかない。

 

 何も考えず下り坂を駆け下りる。カーブを曲がりきれず若干外に膨らんだが、どうせ抜く時には外に回らなければならないのだ。細かいことは気にせずにそのままぶん回した。その考えが上手くいったのか、下り坂が終わるまでに2人抜いた。

 

 前方を見ればすぐそこに2位。そして大分前に先頭がいる。これは相当頑張らないと追いつきそうにない。ならば、頑張るしかない。

 

 下り坂でついた勢いをそのままに走り、コーナーの真ん中で2位に並び掛ける。見れば、そこに居るのは知った顔だった。

 

 キングヘイローだ! 自分を冴えないと称した、キングヘイローである! 不思議と、ナマエワマダナイの脚に力が入る。

 

 こちらを振り返りぎょっとしたような表情を浮かべたキングヘイローは、抜かせまいとスピードを上げてきた。こちらも負けじとペースを上げる。並んではいるが、相手がカーブの内側にいる分こちらは余計に走っていることになる。コーナーではとても抜けそうになかった。

 

 そうして2人は競り合いながら最後のコーナーを回った。直線に入ってすぐに、心臓破りの坂。すでに残り500mは切っている。ここからが勝負だ。そう考え、ナマエワマダナイは芝を踏みしめる脚に一層の力を込め、キングヘイローと並んで坂を猛烈な勢いで登る。

 

 先行していた分彼女の方がスタミナを消費しているだろうが、ナマエワマダナイはコーナーの分長い距離を走っている。条件はほとんど対等だった。2人の勝負を分けるものがあるとすれば、それは根性だった。

 

 ナマエワマダナイはとてもではないが、根性という言葉が似合うような男ではない。だが、女に負けたくないという気持ちは人一倍強かった。彼の生まれを考えれば当然だが、彼はこれまでの人生で、ずっと女と比較されてきた。それに対する対抗意識が幼少の頃からずっとナマエワマダナイの中にはあったのだ。それに、自分を冴えないと評したキングヘイローを見返してやりたいという気持ちも、僅かに、ほんの少し、極微量はある。

 

 ともかく、今ナマエワマダナイの尻を叩いているのは、その負けん気という名の鞭に違いなかった。その追い立てる鞭が、ナマエワマダナイの末脚に冴えを与えた。坂の途中にありながら、彼の速度はどんどんと上がっていく。

 

 坂の終わり際、ナマエワマダナイはキングヘイローより身体ひとつ分先んじていた。これで2位。そして、残すは平坦な300m。前を見ると、1位との差は凡そ10m。間に合うかどうかは微妙だった。だが、走り切るしかない。

 

 ひたすらに脚を動かしつつ、ナマエワマダナイは後ろを顧みた。必死の形相のキングヘイロー。名も知らぬウマ娘が3人。ぽつんと1人、ピンク色。

 

 おかしい。後ろに5人しかいない。ここ数日、行動を共にしてきたあの少女がいない。しかし、そんなことはありえない。ナマエワマダナイはその姿を探して、外側へと振り返った。

 

 スペシャルウィークはそこにいた。

 

 ナマエワマダナイの背後すぐそこに、今にも喰らいつかんと迫っていた。

 

 いつの間にここまで迫られたのか。そんなことを考えている暇などない。ナマエワマダナイは前に向き直り、全力で駆けた。

 

 周りの景色が超高速で過ぎ去っていく。

 

 もはやその輪郭は背後に溶けだすように消えていって、漠然とした色しか認識できなくなる。

 

 風は空気の壁となってナマエワマダナイの全身を打つ。

 

 耳朶に打ち付ける空気の音がごうごうと轟いて、その他には何も聞こえない。

 

 それでも、背後から迫る芝を蹴る音は聞こえた気がした。

 

 それを振り切るように、ただ走る。

 

 それでもその音はぴったりとついてきて、その定位はいよいよナマエワマダナイの横に迫りつつあった。

 

 ナマエワマダナイは加速する。だが、スペシャルウィークはそれ以上の脚で飛んでくる。

 

 もう、必死で走るしかなかった。

 

 ナマエワマダナイはコーナーで外側を走ってきた。スペシャルウィークも出遅れた分、途中多少無理をしてきただろう。

 

 条件はほとんど対等だった。

 

 2人の勝負を分けるものがあるとすれば、それは根性だった。

 

「む――」

 

 やがてスペシャルウィークがナマエワマダナイに並び掛けた時、彼の口は何かの言葉を紡ぐ形に動いた。

 

「――む〜り〜」

 

 ナマエワマダナイは、根性という言葉が似合うような男ではなかった。

 

 

 スペシャルウィークに1秒弱遅れて、ナマエワマダナイはゴール板の前を駆け抜けた。結果は3位。そこそこいい順位であるし、自分でもいい走りができたとは思うが、このテストの合格の枠は1つだけなので不合格となる。

 

 振り返ると、ヘロヘロになってキングヘイローがゴールした。ナマエワマダナイは肩で息をして立ち止まる彼女のもとへ向かった。

 

「よう。お疲れ」

 

「……ちょっと……距離が……長かったわ……」

 

「歩いた方がいい。ほら」

 

 ナマエワマダナイはキングヘイローに自分の肩を差し出した。キングヘイローは少し躊躇したあと、肩に掴まって体重を預けてきた。そうしてしばらくふたりは並んでゆっくりと歩いた。

 

 少し先でスペシャルウィークが呆然と何かを見ているのが見えた。その視線の先には1等賞の旗を掲げるエルコンドルパサーがいた。

 

「スペシャルウィーク!」

 

 そう呼びかけると彼女はこちらに気が付いて、慌てた様子でぱたぱたと走り寄ってきた。

 

「キングさん、大丈夫ですか!?」 

 

 確かにキングヘイローが肩を借りて歩く様子は、怪我をしているようにも見えたかもしれない。

 

「大丈夫、ちょっと、疲れただけだから……」

 

 キングヘイローは息を整えながら言った。それを聞いてスペシャルウィークは胸を撫で下ろしていた。

 

「スペシャルウィークもお疲れ。凄かったな最後」

 

「ありがとうございます! でも……」

 

 スペシャルウィークはちらりとエルコンドルパサーの方を見た。リギルのトレーナーと何かを話しているようだ。恐らく合格の通知を受けているのだろう。

 

「あいつも凄かったな。最初から最後まで先頭だったろ。最後の直線に入る前に、大分差をつけられてた」

 

 はっきり言って、追いつける気がしなかった。実際、最後のスパートでもほとんど差は縮まっていなかっただろう。

 

「私も頑張ったんですけど、届きませんでした……あと200mあれば……」

 

(勘弁してくれ。もうあれ以上走りたくない)

 

 ナマエワマダナイが内心そう思ったところで、肩に掴まっているキングヘイローが身じろぎするのを感じた。

 

「落ち着いたか?」

 

「ええ、もういいわ。ありがとう」

 

 そう言ってキングヘイローは離れた。そしてこちらを向いて、何かを口ごもる。何か言いたいことがあるらしい。ナマエワマダナイが待っていると、やがて彼女は意を決したようにはっきりと口を開いた。

 

「あなたのこと、冴えないって言ったのを取り消すわ」

 

 何を言い淀んでいたのかと思えば、そんなことか。

 

「取り消さなくていいよ。レースには負けたし……お前には勝ったけど」

 

「……」

 

「お前には勝ったけど」

 

「何で今2回言ったの!?」

 

 そのツッコミを聞いてキングヘイローが本調子に戻っていることが分かって安心しつつ、ナマエワマダナイは言った。

 

「ともかく、取り消さなくていいよ。冴えない顔なのは事実だし、気にしてないし、自覚もしてるし、気にしてないし」

 

 ナマエワマダナイが言うとキングヘイローは納得いかないといった表情を浮かべたが、しばらくして長い息をひとつ吐いて言った。

 

「そう……でも、あなたの末脚は間違いなく冴えていたわ」

 

「お前もな」

 

 そう言ってナマエワマダナイが手を差し出すと、キングヘイローはそれを力強く握った。少女らしく、小さくて柔らく温かな手だった。その手の感触を堪能したあと、ナマエワマダナイは手を離して言った。

 

「それにしても、坂道でのお前はすごい顔をしてたよ」

 

「なっ……!?」

 

「やっぱ冴えてるやつの顔は違うわ」

 

「……やっぱりめちゃくちゃ根に持ってるでしょ、あなた……」

 

 こうしてナマエワマダナイの初出走は、8人中3位という結果に終わったのであった。

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