種ウマになりたくて   作:ウボ山

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 スピカのトレーナーに勝手に名前を設定してます。


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 まだ日が長いとは言えない季節、ナマエワマダナイが一通りの支度を終えて帰ろうという頃には、東の空の端にはすでに夜が覗いていた。陽は随分と低くなっていて、そこの電燈の影が、だいだい色に染まった校舎の壁に這い登るように長く伸びている。

 

 そんな景色の中を歩くナマエワマダナイの胸中は、あるひとつの事柄でいっぱいだった。

 

 さっさと帰って寝たい。

 

 言うまでもなく、走るのは疲れる。2400mなんて距離を駆けたあととなると、もう1歩たりとも動きたくない。すぐそこのベンチに身体を横たえて眠ってしまいたくさえある。にも関わらずそうしないのは、彼の人間らしい思考、と言うよりも、家に帰るまで我慢すればもっといい寝床があるのだ、という現実的な思考の結果でしかなかった。

 

 そんな状態であったから、校門で自分を待ち構えていた人間の姿にナマエワマダナイが気付かなかったのは、仕方の無い事だったと言える。

 

「よう、お疲れ」

 

 横から掛けられた声に反射的にそちらを向く。まず目に入ったのは刈り上げられた左側頭部で、それだけで相手が誰なのかは判断がついた。

 

「ああ、痴漢の……」

 

 ナマエワマダナイがそう言うと、男はバツが悪そうに笑った。

 

「あの時は悪かった。いい脚を見るとつい、な」

 

「いえ、職業病だと理解はしますよ。ただ、あれ、女子にもやってるんですか?」

 

「それで度々蹴られてる。ま、職業傷だな」

 

「それ、労災おりるんですか?」

 

 ナマエワマダナイは目の前の男の姿を改めて観察した。立ち姿は自販機と同じくらいの長身で、体つきはぱっと見は細身であるが、シャツの襟から垣間見える首の筋肉の付き方から察するによく鍛えられているように思える。

 

 顔の造りは鼻筋が通っていて、俳優か何かだと言われても疑うことはないだろう。顎には剃り残しの髭が目立ち、頭は寝癖であろう乱れが直されることもなく放置されていて、あまりしっかりした性格には見えない。目元の印象がどこか柔和で、無邪気そうな感じを受けた。そのせいか、とても若く見える。何となく、夏が好きそうな人だ、と思った。 

 

「それで、何か用ですか」

 

 観察もそこそこに、ナマエワマダナイは話を進めた。それを聞いて男は自らの襟元を正して本題に入る。

 

「まず、自己紹介からさせてもらおう。俺はスピカというチームでトレーナーをやらせてもらってる、沖野というものだ」

 

「スピカ……おとめ座のアルファですか」

 

「いい名前だろう?」

 

「ええ、すごく」

 

「ま、俺が付けたわけでも無いんだけどな」

 

 沖野はそう言って人懐っこそうな笑みを見せたが、やがて真面目な顔になって続けた。

 

「俺がここで待っていたのは、お前を勧誘するためだ」

 

「新聞ですか? 洗剤ですか? テレビなら、うちにはありませんよ」

 

「俺のチームに入って欲しい」

 

 ナマエワマダナイの冗談に応えることも無く、沖野は真剣な顔をして言った。

 

 日がだんだんと暮れるにつれて、地表に占める影の面積は拡大し、空気を構成する暗闇の割合は増大していく。それにつれて、ナマエワマダナイの胸中も憂鬱に満たされつつあった。

 

「……レースを見たんですか」

 

「ああ。大健闘だったな」

 

「……でも、こっぴどく負けましたよ、俺」

 

 あの負けはナマエワマダナイの心に少なからず影を落とした。結果は3位とそれほど悪いものではなかったが、負けは負けだ。今までの人生で他人と競って負けたという経験がなかった彼には、調子に乗るなと打ちのめされたような気持ちだった。

 

 沖野は何かを考えるような素振りを見せたあと、口を開く。

 

「今回のレース、敗因は何だったと思う?」

 

「敗因……ですか」

 

 負けた理由。いくつか思い浮かんだが、その中でも1番簡単な答えは――

 

「エルコンドルパサーが良すぎた、じゃないですか」

 

 身も蓋もない答えではあったが、沖野は頷いた。

 

「それはあるな。エルコンドルパサーには楽をさせ過ぎた。あのレースは完全にあいつのペースだったからな……でも、俺が訊きたいのはそんなことじゃない」

 

 沖野はナマエワマダナイの目を見据えて訊いた。

 

「どうしてお前はスペシャルウィークに負けたと思う?」

 

 どきりとした。

 

 実のところ、レースで1位を取れなかった、ということはそこまでナマエワマダナイは気にはしていなかった。自分があの中で1番優れているなどとは、全く思っていなかったからだ。だが、大きく出遅れていたはずのスペシャルウィークに、最終的にかなりの差を付けられたことがかなりこたえていた。その負け方の意味するところは、彼我の実力に大きな隔たりがあるということだからだ。

 

「……俺の実力が低かった、というのが大きいと思います。けど……」

 

「けど?」

 

「……レース運びがまずかったかな、とも思います」

 

「ほう。例えば、どこら辺だ?」

 

 沖野は興味深そうに訊ねた。ナマエワマダナイはレースの展開を思い出しながら、口を開いた。

 

「第3コーナー手前、坂を目前にして、坂なら抜きやすいんじゃないかと考えてそこから仕掛けました。でも、最終的に伸びが足りなかったことを考えると、仕掛けるのが早かったのかなと後になって思いました」

 

「へえ……後は?」

 

「後は……第4コーナーでキングヘイローと並んだ時、俺は意地になって彼女を抜きにいきましたが、今になって思うと、コーナーでは外側が長く走らされますから、あそこで抜こうとするのはまずかったんじゃないかと。あそこは控えて、直線で抜きに行けばよかったかな、と思いました」

 

「なるほどな……」

 

 沖野はうんうんと頷くと、言った。

 

「それは大間違いだな」

 

「え?」

 

「第3コーナーから仕掛けてなかったらまず前に届いてなかった可能性がある。第4コーナーで緩めていたら、スペシャルウィークに追いつかれるのはもっと手前だったよ。それらの時のお前の判断に、間違いはなかった」

 

「じゃあ……」

 

 それは敗因では無かったのか。そう言おうとするのを、沖野は遮って言った。

 

「でもな、そもそもそんな判断をせざるを得ない状況になったのが敗因だったんだ」

 

「……どういう事ですか?」

 

「はっきり言って、お前の脚には冴えが無いんだ」

 

 なんか今日は色々言われる日だな。ナマエワマダナイは思った。

 

 

 場所を変えようと言う沖野に連れられた先は立ち並ぶプレハブ小屋のひとつだった。若干訝しみつつその扉を開けると、その先には見覚えのある後ろ姿があった。

 

「……スペシャルウィーク?」

 

 そう呼びかけると、スペシャルウィークはこちらを見て、不思議そうな表情をした。

 

「名無しさん?」

 

「大丈夫か? 洗剤とか、イルカの絵とか、映画の前売り券とか買わされてないか?」

 

「い、今のところは大丈夫ですけど……」

 

 ナマエワマダナイは部屋を見渡した。スペシャルウィークの他にはウマ娘が4人。芦毛の長身、栗毛のツインテール、鹿毛の外ハネ、そして最後の一人は見覚えのある栗色の長髪――

 

「……サイレンススズカ?」

 

「さあ、みんな挨拶だ!」

 

 背後の沖野が、そこに居たウマ娘たちへと呼びかけた。

 

「せーの」

 

「ようこそ! チームスピカへ!」

 

 突然の声の揃った挨拶に呆気に取られていると、長身の芦毛のウマ娘が飛び出してきて、俊敏な動きで扉の前へと陣取った。

 

「へへへ……これでお前は籠の中の鳥ってわけだ。さあお前ら! 囲んじまえ!」

 

「あいつの言うことは基本的に無視していいからな。ま、座ってくれ」

 

 沖野に椅子を勧められ、言われるがままに腰掛ける。そのまま流れるように紙コップにジュースらしき液体が注がれた。恐る恐る口を付けてみると野菜ジュース、いや、にんじんジュースだ。

 

「紹介する。サイレンススズカは知ってるだろ。そこの白いのがゴールドシップ。赤いのがダイワスカーレット。あと……茶色いのがウオッカだ」

 

「茶色って……なんかカッコ悪くないか……?」

 

 肩を落とすウオッカを気にせず、沖野は言った。

 

「お前もみんなに自己紹介してくれ」

 

「えーと、ナマエワマダナイです。名無しとでも呼んでください」

 

「だ、そうだ。はい、みんな拍手!」

 

 ぱちぱちとまだらな拍手がなされる。そのひとつはサイレンススズカによるものだ。それを聞いているうちにナマエワマダナイに疑問が生まれる。

 

「確かサイレンススズカって、あのリギルとかってチームに所属してたんじゃ……」

 

「スズカは今日付けで、リギルからうちに移籍したんだよ、な?」

 

「ええ」

 

 答えたのはゴールドシップと呼ばれたウマ娘で、サイレンススズカがそれに肯定を返した。

 

 リギルはこの学園で最強のチームだと聞いていたが、そこから移籍してきたらしい。何か向こうでやらかしたか、それともこのスピカというチームにそれほどの魅力があったのか。

 

「スペシャルウィークは?」

 

「私は、その……誘拐されて……」

 

「勧誘、な」

 

 ゴールドシップが訂正したが、どうやらスペシャルウィークも自分と同じような状況らしい。この沖野という男、自分とスペシャルウィークに対して二正面作戦を行っていたらしい。中々食えない男である。

 

「今から名無しとスペシャルウィークの反省会をする。暇ならお前らも一緒に聞いとけ」

 

 そう言うと沖野は目の前のモニターの電源を付け、手元のスマートフォンを操作した。するとディスプレイに映像が映し出される。どうやらそれは先程のレースらしかった。ゲートの中にウマ娘達が入っていく映像が流れている。自分がゲートに入る場面を見ていると、ナマエワマダナイは何故か小っ恥ずかしい気持ちになった。

 

「まず、スタートだが……」

 

 映像の中のゲートが開き、一斉にウマ娘達が飛び出す。それから1秒近く遅れてスペシャルウィークが走り出した。

 

「スペシャルウィークのこの出遅れは頂けないが、まあ初めてのレースだったんだ、仕方ない」

 

「す、すみません……」

 

「名無しもまあ、褒められたものじゃないな。精進しろよ」

 

「はあ……」

 

 いつの間にか始まった品評会にナマエワマダナイが呆気に取られる中、映像は進んでいき、段々とナマエワマダナイが先頭集団から離されていく様子が映し出される。そこで沖野は声を発した。

 

「ここだ」

 

「離されてますね」

 

 ナマエワマダナイが言うと、沖野はそれに頷いた。

 

「そうだ。けど、そこは大した問題じゃない。名無し。どうして、ここで控えた?」

 

 沖野はきいた。確かに、ここでナマエワマダナイは一度前を追うのを止めて、ペースを保って走ることにした。それは何故だったか。

 

「……前が速いから、後ろからやろうと思ったんです」

 

「その判断自体はそうおかしなものじゃない。けどな、その走り方はお前には全く合っていなかった。それが今回の敗因だ」

 

 沖野はそう言うとビデオを早送りし、第3コーナー手前まで進めた。

 

「ここから名無しは仕掛けたんだな?」

 

「ええ」

 

 坂の中腹で1人抜く。

 

「前が坂で遅くなって抜けた」

 

 沖野が言った。何だか、含みがある言い方だった。

 

 坂を登り切り、下り坂に入る。その勢いで外から2人抜く。

 

「坂で勢いに乗って抜けた」

 

 第4コーナーをキングヘイローと競り合いながら抜け、坂の終わり際に抜く。

 

「坂が終わる頃には、キングヘイローは疲れきっていた。この時の彼女は思っただろうよ。こいつはここからまだ伸びるのか、ってな」

 

 キングヘイローの言葉を思い出す。「あなたの末脚は冴えていたわ」。

 

 そして最後の平坦な直線。ラストスパートを掛けるナマエワマダナイの背後からスペシャルウィークが迫ってくる。

 

「ここから、スペシャルウィークに追われて加速する」

 

 加速する。加速する。段々と加速する。しかし、それでも後ろから飛んでくるスペシャルウィークに追いつかれつつある。

 

「加速し続ける」

 

 やがてスペシャルウィークに並ばれて、ナマエワマダナイは力を抜いた。

 

「ここで流したのはよくないが、まあ後ろとは差があったし、ここから差し返すのは難しかった。スペシャルウィークの末脚は凄かったよ。この上がり3ハロンは33秒8。立派な時計だ」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 スペシャルウィークが控えめな礼を言うのを聞きながら、ナマエワマダナイは映像をじっと見つめていた。映像の中のスペシャルウィークはナマエワマダナイを抜いたそのままの速度で、ゴールまで駆けていく。その後1秒弱遅れてナマエワマダナイがゴールを通り過ぎていった。

 

「分かったか?」

 

 映像を止め、沖野が訊いた。

 

「……たぶん」

 

「言ってみな」

 

「……たぶんですよ?」

 

「それでいいから」

 

 沖野が促すままに、ナマエワマダナイは自分の考えを述べた。

 

「……直線に入ってすぐ、スペシャルウィークは最高速に達しているように見えました。それに対して、俺は加速している最中だったように思います」

 

 沖野はその答えを聞いて、満足気に頷いた。

 

「そうだ。体重がある分、お前は加速に難がある。最高速に達するまで時間がかかりすぎるんだ。最後の直線、坂が終わったあとの1ハロンと半分、お前は最後まで加速しきれなかった。お前の脚には切れ味というものがないんだ。後ろから行くのは、お前の脚には合ってない」

 

 沖野はそこまで言って、ナマエワマダナイの肩に手をかけ、正面から目を見据えて続けた。

 

「俺がお前に、お前の走りというものを教えてやる」

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