…………ビイイ――――――イイイ――――――イイイイ………………。
後を引く耳障りなブザーの音が、天からの福音にさえ聞こえた。それを耳にしたナマエワマダナイは1つ長い息を吐くと、傍らに置いてあったタオルを手に取り汗を拭った。
「名無し!」
背後から自分を呼ぶ声に振り向くと、目前まで何かが飛んで迫っていた。咄嗟に両手で受け止めると、それは給水用のボトルだった。そうと分かると、ナマエワマダナイはすぐに水を喉へと流し込む。スポンジが水を含むように、乾いた肉体に水分が行き渡る感覚。要は、水が美味かった。
「今の動きは良かったぞ! ただ、もっと体重移動をスムーズに行うことを意識しろ。脚を出すんじゃなくて、腰から動くイメージだ」
こちらにボトルを投げて寄こした男、沖野は身振りを交えながら指導をした。それは確かに的を得ていて、分かりやすいものではあったが、それを聞くナマエワマダナイの表情は明るいものではなかった。
「あと、終盤にリズムが崩れてた。疲れて動きが遅くなるのは仕方の無いことだが、最後までリズムは保つんだ、いいか?」
「……あの」
「更に言うなら、左右のコンビネーションをもっと速く正確に――」
「あの!」
ナマエワマダナイが声を張って言葉を遮ると、沖野は不思議そうな顔をした。
「どうかしたか? 何か俺の指導で気になることがあったか?」
「いや、指導自体はいいんですけど――」
ナマエワマダナイは後ろを振り返り、先程まで自分と相対していたものを見た。
天井から真っ黒いソーセージみたいな物体がチェーンで吊り下げられている。ゆっくりと揺れる様子からはその重量が感じられ、ぎしぎしと天井が軋む音さえ聞こえる気がした。その表面の合皮は随分と使い込まれているらしく、所々が剥がれていたりひび割れていたりして、どこか悲哀を感じさせる。その傷を付けた一因はナマエワマダナイにもある。彼はこれまで休憩を挟みつつではあるが30分以上もの間、それを殴り続けたのだ。
「――何で俺は競走の練習でサンドバッグを叩かされているんですか!?」
「言っただろ? お前はパワーを付ける必要があるんだって」
「いや、パワーって絶対そういう意味じゃないでしょう!? ダートとか坂路とかじゃないですか、普通!」
「あ、次のラウンド終わったら、瓦割って貰うからな」
「あの、その次は熊を殺して来いとか言い出しませんよね?」
……ビイイイ…………イイ…………イイイ…………。
そのブザーは、ナマエワマダナイには黙示録のラッパの音に等しく感じられた。
「ほら、最終ラウンドだ! 行け!」
沖野がナマエワマダナイの肩を掴み、サンドバッグの方へと向かせる。そしてついでと言わんばかりに、その背中にばちんと平手を入れて押し出した。
「……ちくしょーっ!」
ナマエワマダナイはそう叫びながらサンドバッグへと向かうと、突っ込んだ勢いそのままにその左脇を下から抉るように殴り付けた。
ぼこん。
凄まじい音ともにサンドバッグがふわりと重力を感じさせず浮き上がり、次の瞬間には落下する。その衝撃を受け止めた鎖が、頭上でじゃらじゃらと悲鳴をあげた。
ウェイトシフトをしっかりと。
どすん。
リズム良く。
ずがん。ぼかん。
コンビネーションを速く、正確に。
べこん。ぼこん。どかん。
ナマエワマダナイはサンドバッグを叩きながら考えた。自分が戦うのは環状のコースでなく、四角いジャングルの上だったのだろうか。東京競馬場でなく、後楽園ホールだったのだろうか。
ぼかん。
なぜ、こんなことになったのだろう。その答えを求めて、ナマエワマダナイはついこの前の出来事を振り返っていた。
◆
「名無しが取るべき作戦は、ふたつ考えられる」
お前の走りを教えてやる。そう言った沖野は、そのように話を切り出した。そして指を2本立て、それをナマエワマダナイの鼻先へと突き出す。
「ひとつは、前に行くことだ」
そう言って、沖野は指を1本折った。先程、序盤から控えてしまったのがナマエワマダナイの敗因だと彼は言っていた。前に行く、とはつまり、序盤に控えてはいけない、ということだろう。
「そして、もう1つが……」
「もう1つが……?」
ごくり。そこにいる誰もが固唾を呑んで、その続きを待ち構えた。
「……後ろから行くことだ」
沖野の指が全て折られ、しばし部屋の中は沈黙に包まれた。
「……そりゃそうでしょうが!」
ダイワスカーレットが腕を取る。
「真面目にやれ!」
ウオッカが脚を極める。
「てかさっき後ろから行くのは向いてないって言ってただろ!」
ゴールドシップがキャメルクラッチ。
「ぎゃあああっ! 労災! 労災っ!」
沖野、たまらずタップ。3人が離れると、そこにはボロ雑巾のようになって沖野がいた。
「あの……大丈夫ですか?」
心配そうにスペシャルウィークが尋ねると、頷いたのか痙攣したのか見分けがつかない動きで沖野は反応した。
「大丈夫だ……慣れてるから……」
ウマ娘のトレーナーになるのが難関であるというのも頷けるものだ。沖野はゆっくりと立ち上がると、ズボンの尻を叩いて埃を払った。ウマ娘は超人的な力を持っているわけだが、この人も大概ではないか?
「さっきは加速力が無いから後ろからは向かないって言ったわけだが、加速する時間が十分にあるならトップスピードまで持っていくことも出来るだろう」
「ロングスパート、ですか」
サイレンススズカが言うと、沖野は「その通りだ」とナマエワマダナイに向き直った。
「いわゆるまくりだが、これが成功するかどうかはレース場のコースや馬場状態に左右される部分が大きい。今回のコースなんかじゃ、最後のコーナーを抜けた後に坂があったわけだからな。あれでまくって勝てるのは……」
沖野はゴールドシップの方をちらりと見た。その視線を受けて、ゴールドシップは少し胸を張った。
「ま、このゴルシ様ならしっかりまくり切ってただろうな!」
「……こいつくらいなもんだろうが、やっぱりムラがある作戦だ。俺としてはあまりおすすめしない」
「じゃあ、やっぱり先行策?」
ダイワスカーレットの言葉に沖野は頷いた。
「そうなるな。それに、その方が名無しのいいところを活かせる」
「俺のいいところ?」
ナマエワマダナイのオウム返しに沖野は頷いて、言った。
「胸が大きい」
沖野がそう言った瞬間、部屋中の視線がナマエワマダナイの胸に集まった。続いて、それらは何故かダイワスカーレットの胸元へと移動する。
「ちょっ、何でこっち見るのよ!」
ダイワスカーレットが手で胸を隠しながら叫んだ。
「まあ、なあ……」
どこか哀愁の籠った目でそう言って、ウオッカはハッと思い出したように続けた。
「……あ、トレーナー! またふざけたことを言いやがったな?」
拳をぱきぱきと鳴らして歩み寄るウオッカに、沖野は慌てた様子で、
「いやいや、ふざけてる訳じゃない! この続きを見れば分かる!」
沖野はそう言って、ビデオの続きを再生する。しかし、もうすでにナマエワマダナイはゴールした後で、これ以上見るべきところがあるとは思えないが。
「どうだ? 分かるか?」
「と言われても……」
ビデオに映っているのはナマエワマダナイがキングヘイローに肩を貸しているところくらいだ。
「スペシャルウィークはどう思う? こいつのいいところ」
「えーと……優しいところ、ですか?」
「……アホ」
ナマエワマダナイがぼそりと言ったのを聞きとがめて、スペシャルウィークは不満そうな顔をした。沖野は苦笑を浮かべて、
「うん、まあ、そうだな……ヘロヘロになったキングヘイローを助けに行ってる。かなり余裕のある行動だ。2400mを走った後だとは思えない」
「まあ、最後流してましたからね」
「それでも2秒足らずの間だ。それだけでここまで息が入っているのは、凄いことだ。心臓と肺がかなり強い」
沖野はナマエワマダナイの肩をばんばんと叩いて続けた。
「骨格が大きい。それに伴って胸郭も大きくて、そしてその内側の心臓と肺も大きいんだ。大きな肺はひと呼吸でより多くの酸素を取り入れ、強い心臓はより多くの血液と酸素を全身に供給する。走るのにとても有利な身体だ」
そう言って、沖野はナマエワマダナイの肩に手を掛けた。
「この身体の使い方を教える。だから俺のチームに入ってくれないか」
「……こちらこそよろしくお願いします」
自分でも意外だったが、その言葉はあまり悩むことなく口から出た。この沖野という男は、人をその気にさせるのが非常にうまい、と他人事のように思った。そして、それこそがナマエワマダナイが自分の指導者に求めるものでもあった。
ナマエワマダナイの承諾を聞いて沖野は安堵したような表情を浮かべると、スペシャルウィークの方へと向いた。
「スペシャルウィークも、突然誘拐まがいに連れてきて悪かったな。お前の素質もまた素晴らしい。是非ともチームに入って欲しい」
「はい! よろしくお願いします!」
スペシャルウィークもまたあっさりと了承した。
「じゃ、スペシャルウィーク!」
「はい!」
「来週デビュー戦だ! 頑張れよ!」
「……はい?」
呆然として固まるスペシャルウィーク。
「……あの、俺は?」
恐る恐る訊ねるナマエワマダナイ。
「名無しは先行の走り方に慣らすのと、あとフォームを少し矯正したいからもうちょっと後だな」
「そうですか……」
ため息をひとつ。それには安堵と、若干の嫉妬のようなものが混じっていた。いきなりデビューしろとは言われなくて安心したが、やはり自分はスペシャルウィークとは差があるらしい。そういう複雑な気持ちで、ナマエワマダナイはあわあわと狼狽えるスペシャルウィークを眺めていた。
◆
「まさか12ラウンド全力で叩き続けるとはな。やっぱりお前のスタミナは凄いよ」
沖野の声に、ナマエワマダナイの意識は現在に引き戻された。結局、振り返ってはみたが自分がボクシングの練習をしていた理由はよく分からなかった。
「……あの、結局俺は何でサンドバッグを叩いていたんですか?」
「言っただろ、パワーを鍛えるためだ。後は全身持久力と、つま先に体重をかける感覚、ついでに闘争心を養ってもらいたかった」
なるほど、そう言われてみれば中々理にかなっているトレーニングだったようにも思える。では、今自分の目の前にある「これ」にはどのような意味があるのだろう。
湾曲した四角形の塊。それがコンクリートブロックの上を跨ぐように乗せられ、さらにその上に同じものが塔のように積み重なっている。そのひとつひとつがよく焼き固められているようで、ほとんど石のような質感だ。軽く手で叩いてみると、返ってくるのはカンカン、とかではなく、ゴッゴッ、という重い音。間違っても拳で割るものでは無い。これは屋根に載せておくものだ。
「……これにもなんか意味はあるんですよね?」
あるはずだ、いや、あってくれ、と懇願するようにナマエワマダナイはきいた。沖野は満面の笑みを浮かべて言った。
「パワーだよ」
「だからこのパワーは違うでしょう!? ていうか瓦割りってパフォーマンスであって、トレーニングじゃないですよね!?」
「いやー割れたらすごいなーと思って」
残酷な真実に絶望的な表情を浮かべるナマエワマダナイ。いや、まさかそんなはずはない。必ず何かしらの意味はあるはずだ。いやでも、流石にこれは、どう考えても競走とは関係無いんじゃ……。そんな彼の思いを他所に沖野は背中をばちんと叩いた。
「ほら、行け!」
「……ちくしょー!」
そう叫んで思いっきり拳を振りかぶり、下方向に叩き付ける。
ばりばりばりん。
もしかすると、自分はとんでもないトレーナーに捕まってしまったのかもしれない。拳を瓦の山に深く呑まれながら、ナマエワマダナイは思った。